CSR: SRIの落とし穴

 大國 亨Ph.D.

 

1. はじめに

昨年,大阪証券取引所が会員企業に富士山清掃を呼びかけたと言うニュースが流れた.大阪証券取引所上場企業の間で「CSRをしたいが何をしたらいいかわからない」という相談が多いため,大阪証券取引所が率先して企業にCSRの機会を提供するのだと言う(NIKKEI NET 20041021http://www.nikkei.cp.jp/news/keizai/20041021AT2D2000P21102004.html (10/22/2004)).大阪証券取引所にけちを付けるつもりはないが,CSRをしたいが何をやったらいいかわからない,と言う企業も実に情けないと思うがいかがであろうか.

しかし,参加した各企業は各社が用意する来年の企業広報資料に,環境活動へ貢献したと書けるのであるから,参加企業にとって損はないのであろう.

本論文は,明確な動機付けがなされないまま言葉だけが流行しているCSRの現状における問題点を指摘するとともに,今後求められるCSRに対する規制を提案するものである.

 2. CSRとは何か

CSRとはCorporate Social Responsibilityの略であり,日本語では「企業の社会的責任」などと訳されることが多いようである.企業の主目的が収益をあげることであるのは間違いのないところであろう.しかし,金儲けのためなら何をしても許される,というものではない.企業は製品やサービスを提供することにより利益をあげ,株主に還元する.それと同時に,社会にとって有用な製品を供給することにより価値を創造し,あるいは雇用を通じて社会の厚生に貢献するのである.企業も社会の一員であり,株主,投資家,金融機関,顧客,取引先,従業員,地域住民,求職者,政府など様々なステイクホルダー(利害関係者)と関係を持っている.そしてそれらの利害が相互に対立することもありうる.企業に求められているのは,利害が対立した場合にそのどちらかを切り捨ててしまうことではなく,その利害の相克を止揚させることによって新しい企業像を創り出すことなのである.今まではどちらかと言うと企業の経済的責任が重視されてきた.これに対し,これからは企業の社会的責任を重視しよう,というのではなく,経済的責任を含んだより高い次元で社会に貢献することが企業に求められているのである.これがCSRであるといえるだろう.

昨今の環境意識の高まりから注目されているSRI(Socially Responsible Investment,社会的責任投資)が消費者側からの企業選別の動きであるのに対し,CSRは企業が自らの責任を明確にし,社会に対して表明していく取り組みであるといえるだろう.ただ,CSRSRIも独立して追及できるものではなく,それら相互の働きかけを通して実現していくものなのである.このような意味合いから,私が提唱している共創社会の理念に合致する経営活動であるといえるだろう.

 2.1 CSR重視の背景

アダム・スミス以来,資本主義社会における経済主体がばらばらに利己心を追求しているように見えても,神の「見えざる手」の導きによって社会全体が調和に発展していくものとされてきた.

個人の欲望を肯定し資本主義の基礎を築いたといわれるアダム・スミスも,絶対的に手放しで利害関係だけから成り立つ社会を肯定しているのではない.『国富論』以前に書かれた『道徳感情論』ではアダム・スミスは単にそのような社会も存立しうる,としているだけである.

「人間社会の全成員は,相互の援助を必要としているし,同様に相互の侵害にさらされている.その必要な援助が,愛情から,感謝から,友情と尊敬から,相互の提供されるばあいは,その社会は繁栄し,そして幸福である.」

「しかし,必要な援助がそのように寛容で利害関心のない諸動機から提供されないにしても,その社会は,幸福さと快適さは劣るけれども,必然的に解体することはないだろう.社会は,さまざまな人びとのあいだで,さまざまな商人のあいだでのように,それの効用についての感覚から,相互の愛情または愛着がなくても,存立しうる.」

「社会は,しかしながら,互いに害をあたえ侵害しようと,いつでも待ちかまえている人びとのあいだには,存立しえない.」(Smith (1759),『道徳感情論』上巻pp222-223))

アダム・スミスの『道徳感情論』から250年近くを経て今またCSRが重視されるようになったのには,いくつかの要因が指摘できる.

例えば,現代企業は,その企業活動がグローバル化している.その分,ステイクホルダーの種類も数も増大した.企業活動が社会に与えるインパクトも当然増大したのである.

また,社会が企業を見る目も大きく変わった.以前であれば企業とクレームをつける個人の力の差は歴然としており,企業活動を是正しようと思っても個人にできることは非常に限られていた.しかし,IT技術の発展により個人の情報発進力は飛躍的に増大した.従来であれば,一個人の訴えが握りつぶされてしまうような状況でも,現在では企業が無視し得ない影響を持つようになった.

さらに,米国流の「株主資本主義」の行き過ぎに対して反省が見られるようになったことも見逃せない.米国流の株主資本主義は株主を最重要のステイクホルダーとし,それ以外の利害は無視して株主の利害に従わなくてはならなかった.儲かれば何をしても良い,のである.しかし,エンロンをはじめ様々な事例が明るみに出ると,さすがに反省する機運が生まれた.無視されていたそれ以外のステイクホルダーが黙ってはいないからである.

以上を一言でいうと,社会が共創化したということである.企業が社会から孤立した存在ではなくなり,社会と様々な関係を持つ,あるいは持たざるをえなくなったのである.

2.2 企業がCSRに取り組む理由

社会的背景を考えれば以上のようになるが,それでは企業にとってCSRとはどのようなものなのであろうか.

昨今コンプライアンスが重視されるようになった.しかし,コンプライアンスの位置付けには多くの企業が苦慮しているようである.コンプライアンスの重要性は承知しているが,コストがかかるしそのベネフィットが何であるのか当事者間できちんとした合意が得られていない.従って社内でもコンプライアンス部門は単に業務の障害となるいちゃもんをつけるコスト・セクターとしか認識されなくなってしまうからである.

CSRについても全く同じである.CSRは企業が得た利益の社会還元である,あるいは社会に対して支払うコストである,と考えていたのでは長く続くはずがない.バブル期にあれほど盛んだったメセナがバブル崩壊とともに消えてなくなったのはその典型であろう.

2002年経済同友会は所属企業と東証1部・2部上場企業に対して「企業の社会的責任」に関するアンケートを行ない,以下のような結果を得ている.

1 CSRの意味

 
出典:経済同友会(2003)「「市場の進化」と社会的責任経営」(複数回答(2つまで)のため合計は100%にはならない)

過半数の企業が「経営の中核に位置付けるべき重要課題である」(50.7)としてCSRを積極的に捉えているのに対し,「利益が出た際の社会に対する利益還元である」(17.5),「社会に存在する企業として,支払うべきコストである」(65.3)と,消極的考えを持っている企業はそれ以上に存在することが分かる.

EUCSRに関する報告書の冒頭で以下のように要約している.「ますます多くのヨーロッパ企業が,さまざまな社会的,環境的そして経済的な圧力に対する回答として企業の社会的責任戦略を推進するようになってきている.企業がかかわりを持つ,従業員,株主,投資家,消費者,当局,あるいはNGOといったさまざまなステイクホルダーに対してシグナルを送ることを意図している.そのようにすることによって,企業は将来に投資しているのであり,企業の自発的取り組みが将来の収益性を増大することを期待しているのである.」(European Communities (2001), p3,大國 亨訳)

また,長期的には,経済的成長は,社会的一体性や環境保護とあいまって持続的成長が実現できるのである.この長期的視点,あるいは持続可能性(sustainability)EUの報告書で強調されている点である.

CSRは将来への投資であり,決して単なるコストではない.また,投資である以上企業が自発的に取り組むものなのである.そのような観点から見ると,冒頭の富士山清掃はいまの日本企業のCSRへの取り組みのレベルの低さを垣間見る気がする.しかし,終身雇用を含む長期的視点に立った企業経営は日本型経営の美徳ではなかったのだろうか.CSRというと企業の外部に向かっての取り組みが連想されるが,EUの上記報告書でも,「社会的責任を負うと言うことは,単に法的要請事項を満たすと言うことではなく,コンプライアンスを超えて,“さらに”人的資源,環境,そしてステイクホルダーとの関係に投資することである」(同前p6,大國 亨訳)としている.ここでは,労働者に生涯学習の機会を提供すること,女性,マイノリティーや長期失業者の雇用プログラム,仕事・家族・余暇のバランスを取ることなどが提唱されている.従業員も企業にとって大事にしなくてはならないステイクホルダーなのである.またこのレポートによれば,リストラを行なった企業も残った従業員のモチベーションや創造性の低下により,コスト削減や生産性向上といった目的を達成したのはわずかに4社に1社に満たなかったという報告があったそうである(同前p9).バブル崩壊を受けて自信まで崩壊してしまった日本企業ではあるが,さまざまな方法で社会に貢献できることを思い起こしていただきたいものである.

 2.3 CSRにおける政府の役割

経済同友会の報告書において,CSRの本質は「CSRは企業と社会の持続的な相乗発展に資する」,「CSRは事業の中核に位置付けるべき「投資」である」の2点とともに,「CSRは自主的取り組みである」ことがあげられている.狭い意味でのコンプライアンスが法令遵守(企業が遵守することは強制されている)を意味するのに対して,CSRはあくまでも自主的取り組みであることが協調されている.

CSRが自主的取り組みであるということは広く受け入れられている原理であり,EUのレポートなどでも繰り返し強調されているところである.

ただ,EUという多国家が統合して出来た組織において国家として環境や社会的規制の取り組みに対して温度差がある場合,例えば環境規制が一番ゆるい国に環境を汚染する工場が集中するといった好ましくない現象が起こりかねない.そこで,EUとして整合性を保つため,法律や規制面での統合が図られている.その一環としてCSRについても企業の自主性を尊重するものの,その内容については統一が図られており,EUにおけるCSRに関するフォーラム(EU Multi-Stakeholder Forum on CSR)の設立を提唱している.このフォーラムは,規制団体ではなくお互いの経験とベストプラクティスを共有することなどによりCSRの取り組みと手段に透明性と統一性もたらすことを目的として200210月設立された.また,そのような活動を通して,SRIを積極的に促進し,持続的な発展(sustainable development)を実現していこうという意図が込められているのである.

 3. CSRSRI

社会的責任に応える企業に対して投資を集中し,社会的に評価できない企業からは投資を引き上げる.そのような投資活動を通じてより良い社会を作っていく,というのがSRIの理念であろう.CSRがきちんと機能し,そのことが投資家に伝わりSRIとなって企業に還流する,いわば車の両輪なのである.そしてこの両輪をつなぐのが企業のディスクロージャーなのである.企業のアカウンタビリティーと言っても良いかもしれない.

CSRにおいて自主的な取り組みが協調されていることは前記のとおりである.しかし,規制を自主的取り組みにだけ任せておいて良いものであろうか.

 3.1 CSRの光と影

CSRは自主的取り組みとして捕らえられている.さまざまな企業活動が法律や規則で縛られているのに対して,CSRに対する検証は必ずしも厳密に行われているわけではない.

経済同友会の報告ではCSRの成功例としてシェル石油が取り上げられている.「今日のCSRの潮流をつくる象徴的事件となったのが,英国のシェル石油のケースである.同社は,1996年に海上油田基地の海洋投棄計画を発表した.これは昨今の不正会計事件や産地偽装事件などとは異なり,投棄計画そのものは合法性を持ったものであった.環境保護団体などから激しい抗議行動が起こり,時を同じくして同社がナイジェリアで引き起こした環境破壊,人権侵害問題が明るみに出たことから,消費者や投資家がボイコット運動を展開した.その結果,海洋投棄計画は中止された.その後,同社はステイクホルダーとの関係を重視したCSRを強力に推進し,今日では,英国の政府関係者をして「CSRで最も成功している企業の一つ」と言わしめるに至っている」(経済同友会(2003)37)そうである.これに真っ向から反対しているのがクリスチャン・エイドの報告(Christian Aid (2004))である.2004年に発表された同報告によれば,ナイジェリアでのふるまいが問題視された後,シェルは確かに地域発展プロジェクトを立案,実施した.しかし,プロジェクトによって施工された施設はどれもこれも役に立たなかった.人々が生活に使う水源が石油に汚染されたため敷設された水道は壊れて水が出ない.建設されたのは一度も婦人のための集会が開かれたことがない婦人センターや一人の患者を治療したこともない病院であった(同前p24)という.経済同友会が報告書を出した2003年とクリスチャン・エイドが報告書を出した2004年の間にシェルの姿勢が大きく変わったとでも言うのであろうか.

その他,クリスチャン・エイドの報告はブリティッシュ・アメリカン・タバコ(BAT)とコカコーラの例が取り上げられている.

BATは同社のためにタバコを生産する農民の健康を農薬から守るため必要な訓練や防護服を支給していると主張しているが,同社と契約しているケニアやブラジルの農民たちは,いい加減な訓練を受けただけで,防護服は自前で買わなくてはならないと主張している(同前p34)

コカコーラは天然資源を責任を持って使うことを宣言しているが,インドでは大量の地下水の汲み出しにより周辺村落の井戸を嗄らしてしまったと言われている(同前p44)

いずれの会社もCSRには気を使っており,各社のホームページを調べると,財務諸表などと並んで環境や社会に関する貢献をまとめた報告書が掲載されている.そのどれも,いかに各社が環境保護,社会活動に貢献しているかという話が大々的に取り上げられている.

クリスチャン・エイドが上記3社を報告書で取り上げたのは偶然ではないと思われる.「企業の側からCSRに配慮した企業行動を先駆的にとっていき,それによって競争優位を確立する戦略を取る企業.ブリュッセルに本部を置くCSR Europeは,そうした企業のコンソーシアムの代表例である.ネスレ,ユニリーバ,フォルクスワーゲン,シェル,ブリティッシュ・テレコム(BT)などの欧州企業はもとより,欧州市場を重視するIBM,コカ・コーラ,プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)GMなどの米国企業を含む57社がスポンサーとなって,収益確保と持続的発展を約束する道筋としてのCSR推進を謳っている」(谷本(2003)241)とシェルとコカコーラの名前はCSRを推進している企業として名前が挙がっている.

BATも,2002年,ノッティンガム大学ビジネススクールのCSR専攻MBA講座のスポンサーとなっている.もっとも,国際環境NGOのフレンド・オブ・ジ・アースからは「企業がCSRを推進するのはイメージのためだけで,実質的には何もしない」(Guardian Unlimited, July 9, 2003, http://education.guardian.co.uk/mba/story/0,12010,994640,00.html (01/14/2005))と酷評されている.但し,本論文のもう一つのテーマであるSRIの観点からはBATはあまり関係ないかもしれない.SRIで採用されるスクリーニング(ある一定の基準を設け,該当する企業を投資対象から外す仕組)によって,タバコ企業は排除される例が多いようであるから.

クリスチャン・エイドやフレンド・オブ・ジ・アースは,企業がCSRを推進するのはそうすることが儲けにつながるときだけではないのか,もし倫理など無視したほうが収益が上がるのであれば,企業はそうするのではないか,と疑っている.

CSRとは新手の企業公告なのではないか,との疑念が拭い去れない.

3.2 SRIの投資戦略

最近,コカコーラ社の株価の下落が利益をもたらすファンドが設定されるとの報道があった.

「自称「投資改革主義者」のマックス・ケイサー氏(44)は,企業家の故ジェームズ・ゴールドスミス卿の息子と手を組み,現在40ドル(4080)前後のコカコーラ株を12ヶ月で22ドル(2244)にまで半減させようと狙っている.」「ケイサー氏は,コカコーラがインドの土地を汚染し,コロンビアで人権を蹂躙している主張をしているが,同社はこれを頻繁に,かつ強く否定している.」「ケイサー氏は,コカコーラ製品のボイコット運動の結果,同社株が下落することによって,彼の未だに名前がついていないヘッジファンドに利益をもたらしてくれると期待している.このファンドは,後で安値で買い戻す目的でコーラ株を売るのだ.(20041125日付けロイター電)(エキサイト ニュース http://www.excite.co.jp/News/odd/00081181429953.html (11/26/2004))

環境破壊を起こしたことにより一般消費者の反発を呼び業績が悪化,従って株価は下落する,との予想に基づき投資するのである.

単一の株の株価下落を予想してファンドが組成されるということは,現時点においてもかなり珍しいと言わざるをえないが,企業の環境貢献度を勘案して投資先を選定するエコ・ファンドなどを中心としたSRIは日本においても一般化しつつある.

SRIはもともと宗教法人や特定の職業人をバックにした機関投資家の投資戦略として採用されたといわれている.例えば宗教的信念に基づいてタバコやアルコール,賭博といった業種への投資を避けるといった戦略である.それが徐々に広まり,反戦,人権擁護,環境保護といった時代の要請に応えるためにさまざまなファンドが作られてきた.機関投資家そのものがある投資基準に従って投資先の選択をするのはもちろんであるが,選択に際してさまざまな調査機関の報告をもとにしている.

それでは,SRIの評価機関はどのような手法で投資対象先の選別をするのであろうか.評価機関によって多少ニュアンスの違いはあるものの,一般的には対象企業が発行する環境レポートなどを参考に,企業に対して評価機関が用意した質問(環境や社会的要因,従業員を含むステイクホルダーとの関係などを含む)に回答を求め,それらを総合的に判断して投資先を選択する,といった手法が取られているようである(谷本(2003)).信用格付会社のアナリストが財務諸表を参考に,さらに財務担当者や経営陣へのインタビューを行ない,企業を評価するのと大きな違いはないように思える.

しかしながら,その評価にはいくつかの問題点がある.どのような調査をしたところで,事件の有無は事後的にしかわからないことである.エンロンの不正経理が明るみに出てから信用格付会社が格付を引き下げたのと同じである.また,CSRに関する情報はほぼ対象企業が提供する情報の分析に限られ,実地調査までは行なっていないようである.確かに,数ある多国籍企業の世界中の工場における環境への影響度を調べる,などということは不可能であろう.よほどの不祥事でも明るみに出ない限り,企業側の言い分を信じるしかない.これは,ある面では企業の作成する財務諸表の分析に頼らざるを得ない財務分析と同じである.

しかし,そこには大きな質的な違いが存在するのである.エンロンやワールドコムの事件で信頼を失ったとはいえ企業の財務諸表というのは法律で作成が義務付けられており(日本では商法第33),一定の基準を超える大会社の場合は外部監査も受けることになっている(日本では商法特例法第2).虚偽記載に対しては罰則も課せられる.一般に株式が売買されている会社の場合,外部監査を受けていると思って間違いないであろう.ところが,環境レポートなどはどうであろうか.実は何の規制もないのである.

もちろん,企業が公表したことはコミットメントであり,必達が要求される.環境報告書にうそが書かれており,それが暴露されれば,企業は当然ダメージを受ける.しかし,通常のIR活動でも企業間で巧拙が話題になる.IR活動がうまく行っていれば株価や信用評価は上がり,社長がアナリストに上手に説明できなければ株価や信用評価は下がる,というのでは信頼性にかけると思われるがいかがであろうか.シェルの事例にしても,シェルはある意味でうそをついているわけではない.確かに社会への取り組みとしてさまざまな施設を提供しているのであるから.問題は先進国にある評価機関のオフィスの中からはその実態が見えにくいことにある.世界中に投資対象となる企業はそれこそ星の数ほどあることであろう.それら全てに対して実地調査を含む評価を期待することは不可能である.とすれば,企業が自分に有利なように脚色した環境報告を作成するインセンティブは充分にあるのではないだろうか.人は,何か行動を取る場合,リスクに対してプロフィットが充分に大きければ,あるいはプロフィットに対してリスクが充分に小さければ,そのような行動を取るのである.なにしろ,クリスチャン・エイドが取り上げた3社にしても,現地の法律を犯して問題になっているわけではないのである.現地政府にとって多国籍巨大企業は大きなお金を落としてくれるお得意さんなのである.企業は肩をすくめてこう言える.どこにでも不満を言う人はいますよ,と.

 3.3 国内法と国外犯処罰

クリスチャン・エイドで取り上げられた3社が現地の法律を犯しているわけではない(少なくとも現地政府は問題にしていない)ことは前述のとおりである.しかし,同じことを本国でも行なったらどうなるであろうか.いずれのケースも本国の何らかの法令に抵触することは間違いのないところであろう.しかし,それらの法令が国外適用されなければ,これらの企業は大手を振って「当社は決して法令違反を犯していません」と主張できるのである.

経済同友会のアンケートでも「法令や社会から求められていないことでも,積極的に取り組んでいる」(29)に対して「法令で求められている事項,社会から要請された事項について取り組んでいる」(59)が多数を占めているのが現状である.

2 CSRに対する取り組みの段階


 
出典:経済同友会(2003)「「市場の進化」と社会的責任経営」

一般的に,法律というものは主権国家がその主権の及ぶ範囲の中で執行する.例えば日本に在住する犯人によって日本国内で引き起こされた犯罪は,日本の法律に基づいて,日本の裁判所で裁かれるのが通例である.

しかし,それだけでは国際化した犯罪を処罰するには不十分な場合があるので,日本の刑法も,日本国外で犯された犯罪でも日本国内に重大な影響を与える犯罪を犯したもの(2),日本国外で重大犯罪を犯した日本国民(3),日本国外で日本国民に対して重大犯罪を犯したもの(3条の2),日本国外で犯罪を犯した日本国の公務員(4),条約によって犯罪とされる行為を犯したもの(4条の2)には適用されるとされている.従って,外国で殺人を犯した日本人,日本人を国外で殺害した犯人は日本国の刑法でも裁かれる.

国際的な条約に基づいて国外犯を処罰するよう取り決めた例として,OECD外国公務員贈賄防止条約に基づいて,国外における贈賄罪を罰するための法律が各国で制定されたことがあげられる.日本でも不正競争防止法に外国公務員に対する賄賂の申込みや供与は処罰の対象となるという条文が1998年の改正により付け加えられた(11).同様な法律がOECD加盟各国でも制定されている.

企業活動を制限することになる贈賄禁止のような倫理的基準が国際的な条約に基づいて法律として各国で制定されたのは画期的なことであると思われる.もちろん法律で禁止したからといってそのような行為がなくなるわけではないかもしれない.しかし一定の抑止力は期待できるし,違反が行われた場合の処罰も可能になる.逆に言えば,法律で禁止でもしない限り贈賄といった行為を抑制することは不可能であるということを示しているのではないだろうか.

3.4 フリーライダーとインセンティブ

経済学の議論において,「与えられた条件の中で自己の利得が最大になるように行動する」合理的主体が仮定されている.上述のケインズにおける商人のようなものであろう.もちろんケインズはこのような人間を理想としているわけではない.しかし,利潤追求を基本原理とする企業は生身の人間よりはるかにこのような仮定によく当てはまるであろう.

このような金銭的利益を追求する経済的主体のみで社会が構成される場合よく経済学で問題とされるのは,公共財の供給である.警察や消防といった公共財の供給は,社会が金銭的利益を追求する経済的主体のみの場合はフリーライダーが生じて過少供給となってしまう.環境破壊の問題がこれに当たるのであろう.もし経済主体が社会への貢献などの動機に基づいて行動するのであれば,過少供給は解消される.

また,うその情報も問題となる.金銭的利益を追求する経済的主体がうその情報を市場に流し自己の利益を図ろうとする場合,例えその経済的主体がその行為によって利益を得ることがあったとしても,市場全体では意思決定のゆがみを生み,全体として非効率が生じてしまう.エンロンやワールドコムの事例がこれに当たるのであろう.もちろん経済主体が倫理的動機に基づいて行動するのであれば,うその情報など流さないのであろう.

しかし,企業は利潤追及を基本原理として設立された団体である.企業の自主性と市場の規律に任せれば,各企業は当然のごとくCSRに邁進,環境問題や人権問題はあっという間に片付いてしまうのであろうか.とてもそうとは思えない.企業が倫理的行動を取ることを過度に期待するのはいかがなものであろうか.

個人は企業よりはもう少し複雑なインセンティブを持っている.従って,必ずしも金銭的動機(利潤追求)ではなく,利他的・倫理的動機で行動する個人も数多くいる.中越地震やインドネシアの津波被害に募金をした方も多くいらっしゃると思う.ボランティアとして直接被害救済にあたられた方もいることであろう.しかし,そのような募金を目にして金儲けの絶好の獲物だ,と思う悪い奴も必ずいるのである.

それでは,そのような悪い奴が得をすること(フリーライダー,ただ乗り)を排除するためにどのような方策が取られているのであろうか.

例えば,ニセ募金でお金を集めれば,詐欺行為となる.マイナスのインセンティブ(ペナルティー)を与えることによってそのような行動を制限するのである.また,一定の資格を満たした団体への寄付は控除が受けられる仕組になっている.これは,募金をする側に一定のインセンティブを与えるものであろう.アメとムチというわけである.

そのような規制が設けられている目的は,必ずしも倫理的動機に基づいて行動している人々ばかりではない世の中において一定のインセンティブを用いることによって,結果的に人々に倫理的に行動しているのと同じような行動を取らせ,社会的正義を実現するためなのである.

SRIの投資先企業の選択基準は先に概要を述べたとおりであるが,SRIといえども財務的側面(金銭的リターン)を無視して決定されているわけではない.いくら環境問題に貢献している,あるいは人権問題の解決に努力をしている企業であったとしても,業績が悪ければ投資先として選択されない.環境問題にだけ注目して業績が悪くても環境に貢献している企業に投資したり,逆に環境問題を起こした企業を売り叩くといった投資行動は取らない.先に上げたコカコーラ社の株価下落を狙ったファンドなどは例外であろう.

であるとすれば,社会的に貢献したと認められる企業に対しては財務面でもメリットを与え,社会的に不利益をもたらす企業に対しては財務面でもデメリットを与える公的な仕組を作ることでCSRを促進することは可能なのではないだろうか.

CSRが自発的取り組みであるべきであることについて異論はないが,企業の倫理性にのみ基づいた期待をするのは無理がある.がんじがらめの米国GAAPのもとでもワールドコムやエンロンの事件は起こったのである.企業の自主性と金融市場の自律に任せればそれらの事件は防げたとでもいうのであろうか.

 3.5 京都議定書

200411月にロシアが京都議定書を批准したことにより,55カ国以上が締結すること,締結した先進国の二酸化炭素排出量が先進国全体の55%以上という要件を満たしたことから,2005216日に京都議定書が発効した.京都議定書は地球温暖化防止という地球規模の目標達成のために策定されたが,気候変動枠組み条約第3回締約国会議(COP3)から8年目にやっと発効したことになる.ロシアが批准したことにより締結した先進国の1990年における二酸化炭素排出量は先進国全体の61.6%に達した.

京都議定書に従って日本は200812年の二酸化炭素排出量を6%削減しなくてはならないが,2002年時点で逆に7.6%も増加してしまっているという.

先進国で締結していない最大の二酸化炭素排出国は米国(先進国の36.1),次いでオーストラリア(2.3)となっている.また,中国も発展途上国に分類されることから二酸化炭素排出量は世界全体(発展途上国を含む)12.1%に達するが排出量の削減は義務付けられていない.

京都議定書は発効によりただの紙切れから実行のある国際協定へと格上げされたことになる.京都議定書が発効したことにより国内外で地球温暖化対策が実行されるようになるかというと,残念ながらことはそう簡単にはいかないようである.

経団連はことある毎に「国民や企業の活力や自発的な取り組み意欲を殺ぐような施策は決して取るべきではない」(日本経済団体連合会(2005))ことを主張している.当然環境税などにも大反対である.但し,ヨーロッパ各国では炭素税というかたちで環境税を既に実施している.炭素税が有力な候補であるようではあるが日本ではどのような環境税をどのように実施するかはまだ決まっていない.そのような段階であるにもかかわらず,経団連は環境税に強く反対している.

確かに経団連の主張するように日本は省エネの優等生であるといわれており,日本の部門別二酸化炭素排出量で産業部門は1990年比減少(476.1百万トンから468.0百万トン,以下数値は環境庁)している.これに対して家庭部門(129.1百万トンから166.3百万トン)と運輸部門(217.1百万トンから261.5百万トン,約半分が自家用車起源)は大きく増加している.しかし,このことを以って産業界の省エネ努力は限界に達しており,あとは家庭などでの取り組みだけに期待するのはいかがなものであろうか.日本の部門別二酸化炭素排出量には産業部門の他,エネルギー変換部門(発電など,6.6),業務その他部門(ビル冷暖房など,15.6),工業プロセス(セメントなど石灰石消費,3.9),廃棄物(プラスチック焼却など,1.9)などがあり,合計すれば約4分の3がいわゆる産業セクターから放出されていることになる.また,日本は省エネ大国である,と言われているが,国民一人あたりの年間二酸化炭素放出量は米国19.8トンを例外としても,EU8.2トン,ロシアの9.9トンに対して9.4トンである.米国のようなエネルギー浪費型とはいえないかもしれないが,先進各国と比べてさしてすばらしい数値であるとは思えないがいかがであろうか.

3.6 環境税

環境税とは,製品やサービスなどの価格に環境に対する負荷に応じた税金を課する制度であり,汚染物質の排出量を削減・抑制することを目的としている.代表的な環境税として,温暖化物質である二酸化炭素の排出削減のためガソリンや重油,石炭等の使用量に応じて課税する「炭素税」があり,北欧各国,ドイツ,オランダなどではすでに導入されている.日本でも自動車税のグリーン化をはじめ導入に向けた検討が進められているが,産業界からの反対が根強いのは前述のとおりである.

環境税の名称,中身,税率などは各国で大きく異なっているが,その中心となるアイデアは同じである.二酸化炭素などの汚染物質を排出する行為に対して課税というディスインセンティブを与え,逆に汚染物質の排出を抑えることにより経費を抑えることができるというインセンティブを与えるのである.

環境汚染に対して直接的に法規制をかける方式(現在の環境規制)ではディスインセンティブを与えることは可能であるが,いったん規制をクリアーしてしまえばそれで終わりであり,それ以上の努力はしなくなる.従って長期的なインセンティブとはならないといった問題がある.

確かに現在の環境税の議論ではテクニカルな議論が先行しており日本や世界の環境問題をどのように解決していくのかといった環境問題のグランド・デザインが議論されていない.しかし,今後環境に関する規制が緩やかになることは考えられないし,二酸化炭素の排出権を買ってくるといった小手先の対策で地球温暖化が緩和されるわけでもない.現在のエネルギー消費社会の変革が必要なのである.全世界の人類がアメリカ人のような暮らしをしたら地球が滅びてしまう.

少数の大企業が大量生産し消費者が大量消費する社会構造に替わって多数の小企業が共存し,必要なものを必要なだけ作り消費していく共創社会に替わっていかなくてはいけないのである.企業の自主努力も重要ではあるが,消費者も含め地球規模での社会の変革が求められているのであるのである.そのような場合には政府,あるいはそれ以上の規模での規制が必要なことは自明ではないだろうか.

4. 結論

一般に政策というものはある目的を実現するために採用される.われわれ人類はより良い社会を築くために毎日の活動を行っている.われわれの中には,個人も企業も社会の一員として含まれている.

SRIの目的は投資を通じて企業のよりよい活動を促し,よりよい世界を築くという消費者あるいは投資家側からの働きかけである.そしてCSRは企業側からのの行動規範として,社会的責任を意識した行動を取ることを社会に対してコミットすることにある.まさに車の左右両輪であり,双方が適正に働いてこそよりよい社会の実現が期待できるのである.問題はCSRなどが企業の倫理観にのみ期待することによって達成できるかどうかである.

企業の歴史を振り返っても,常に倫理的に行動してきたとはお世辞にもいえないことは確かである.企業の目的は利潤を生むことなのであるから.

また,消費者側からの行動であるSRIにしても,企業選定基準には多くの場合絶対的な基準が存在する.つまり,儲かっていない会社には投資しない,ということである.

そのような消費者・投資家と企業にどのようにして倫理的な行動を取らせるかが問題になる.倫理観にのみ訴えるやり方では実効性が薄いことは明白である.むしろ反倫理的(社会的ではない)行動に対して経済的ペナルティーを与える手法の方が実効性も期待できるし,結果として社会的正義を実現する可能性が高い.企業は儲からないことはやらないし,投資家も儲からない企業には投資しないからである.

そのような点から注目されるのが京都議定書である.同議定書は世界141カ国で批准されている.確かに世界第1位と第2位の二酸化炭素排出国(米国と中国)が批准していないなどの欠陥はあるにせよ,それでも世界の多くの国が関わっていることは事実である.

日本はオイルショックの後の歴史においてエネルギー消費を抑制しつつ成長が可能なことを実証した.世界に冠たる公害防止技術も有する.世界経済が大量消費型経済を追い求めることは不可能である.環境庁が提唱する循環型社会,EU各国で提唱される持続的成長を実現するためにも世界各国の政府が連携して世界で共通する社会規範を採用していくことにより社会をリードしていくことが必要であると思われる.

参考文献

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大國 亨(2003)『共創社会におけるコンプライアンス−今なぜコンプライアンスが必要とされるか−』近代文藝社

Smith, Adam (1759), THE THEORY OF MORAL SENTIMENT, (水田洋訳(2003)『道徳感情論』岩波文庫)

谷本 寛治編著(2003)SRI 社会的責任投資入門』日本経済新聞社