キャップストーン・ペーパー

 

Rushmore University

Global Distant DBA

大國

 

ラシュモア大学のDBAコースに入学を許可されてから早くも2年が過ぎようとしています。2年間のまとめとして主要プロジェクトも完成させましたので、最終コーナーを曲がりきったところまで差し掛かったと言ってよいでしょう。キャップストーン・ペーパーでは私がラシュモアで何を学んだか、そして私が今後の人生をどのような生きていこうと考えるにいたったかをご説明しましょう。

 

ラシュモアで何を学んだか

入学時に作成したプロフィールには様々なことが書かれています。過去については今更変えようがありませんが、入学後のことについては、プロフィールとはかなり違ったことを学んだような気がします。

ラシュモアで学ばれている多くの方と同様、私もサラリーマンです。しかも、不惑の歳を過ぎています。新しい学問体系を学ぼうと思っても、時間が取れない、頭が固くなっている、など様々な障害がありました。

ジャーナルの執筆においては、学問的に高度な内容と新規性が求められます。当初は内容と新規性の両立が難しく、ジャーナル一本を書くのに難渋したことを思い出します。文献を調べれば、いくらでも高度な振りをした論文は書けますが、そのようなものには新規性やオリジナリティーはありません。最初のうちはジャーナルを書くことが苦痛とさえいえる状態でした。評価を見るのが恐いような気さえしたものです。

そのような状態の中、私の人生でも最悪の事態が起こりました。失業したのです。幸い失業保険ももらえましたし、時間はあるので、快適な大学院生活が送れるかとも思いました。しかし、失業という精神的負担はかなりのものがあり、ジャーナルは書けない、アイデアは浮かばないというかなり辛い日々を送らざるを得ませんでした。

半年ほど空しく時間を過ごした後、何とか職を見つけることができました。ラシュモアでの専攻テーマであるコンプライアンスを前面に打ち出して就職活動をしていたところ、運良くコンプライアンス担当としてある会社に入社することができたのです。そういう意味では、ラシュモアの看板が役に立ったのかも知れません。

しかし、本当の変化はその後現れてきました。仕事としてコンプライアンスに携わった結果、業務上学ばなくてはならない事柄が、直接研究テーマの学習と結び付くようになりました。それだけでも時間の節約にはなったのでしょうが、ジャーナルなどを書いていく上で最も役に立ったのは、オリジナリティーのあるアイデアがたくさん浮かんできたことです。業務上様々な事柄について深く考えを巡らす必要があります。コンプライアンスに関しては適当な先行例があるわけではありませんから、誰でもどこの会社においても新しく考え出すことが要請されます。従って、アイデアには不足しないようになりました。

実社会においても、学問においてもアイデアだけでは勝負になりません。アイデアを大きく育てるために肥料となる理論やデータの裏付けが必要になります。そこで文献などをひも解くことになります。このとき従来と大きく違うのは、アイデアを展開するために文献を利用するのであって、アイデアを文献の中から探しているのではないということです。なぜなら、基礎となるアイデアは自分の中に既にあるからです。

そのような観点から文献探しをすると、今まで気づかなかったような表現が目に付くようになりました。今までは、著者の言わんとすることを汲み取るために読んでいたものが、自分が必要とする素材(例えば、引用できそうな表現、具体的なデータなど)を探すような読み方に変わったのです。

もちろん、著者の論点を無視して細切れにした表現を引用、著者とは全く異なった思想を表現したりすることは当然許されません。しかし、例えば人口のデータ、ある業界全体のデータなどを基にして、新たな論を展開することは当然許されます。

また、そのような読み方をすると、今までは与えられたデータから抜け出せなかったものが、このような観点から集めたデータが欲しい、この論拠となるデータが欲しい、といったように変わっていきました。私の研究テーマであるコンプライアンスは経営学の中でも比較的数字のデータには縁遠い分野でしょう。しかし、それでも毎日の新聞紙上や文献を通じて、様々なデータを収集、それをジャーナル作成に生かせるようになりました。

情報の集め方には、王道はありません。インターネットの発達した現在ではむしろ、収集した情報をいかに効率よく取捨選択するかが重要になります。インターネットで情報を収集、それを切り張りしてもまともな論文にはなりません。収集した情報からいかにオリジナルな理論を展開できるかが重要になります。その場合にも、基本となるアイデアをしっかり持って情報探しをすると、大変効率よく資料を集めることができるものです。

その際偶然にその時に書いているジャーナルとは直接関係がないものの、大変に面白い資料が見つかることがあります。そのような場合でも、余裕を持ってその情報を自分の情報のストックとして取り入れることができるようになりました。それが後々大いに役立ったこともあります。現代社会は情報に溢れているものの、一度失われた情報をもう一度探し出すには大変な労力が必要とされます。情報収集は重要な作業ですが、それに過大な時間が費やされるようでは、本末転倒です。情報はうまく活用してこそ意味があるのです。情報量だけを競うのでは、ラシュモアを選んだ意味がなくなります。

先にも書いたとおり、ラシュモアで学んでいる多くの方は何らかの仕事を持っていらっしゃると思います。ラシュモアは自主的な学習をすることを前提にカリキュラムが組まれています。通学型のMBAコースなどとは異なり、大学側があれを学びなさい、これを読んでおきなさいと手取り足取り教えてくれるようなことはありません。従って、ラシュモアのコースを通じて未知の学問体系を学ぼうとするのは無理とは言いませんが、大変な困難が伴うと思います。

むしろ、自分の職歴なり環境なりを生かすようにした方が、説得力のある成果を生み出せると思います。たかがサラリーマンでも長くやっていれば、それなりに専門性は深まりますし、専門外の社会経験も豊富になります。しかし、普通はそのような経験は雑然と蓄積されていて、有効に利用されていません。データを自分の外部に求めることも重要でしょうが、自分が持っていながら有効に利用されていないデータを再吟味し、体系付けていくことも重要だと思います。

 

今後の抱負

私は今やっと主要プロジェクトを完了したところです。入学時には、博士号を取得すれば何かが変わるかのような幻想を抱いていました。恐らく、私と同様皆さんもラシュモアに入学した動機は何らかの形で自分を変えてくれると思ったからではないでしょうか。MBADBAを取れば何かが変わるに違いないと。しかし、自分を変えることができるのは自分だけなのです。けっして大学院が自分を変えてくれる訳ではありません。

博士号も、長い人生の中では、単なるマイルストーンに過ぎないのです。博士号を取ったからといって、安楽な生活が保証されているわけではありません。

それでは、今でも入学以前と同じような今後の人生設計を考えているのでしょうか。その意味では、大きく変わったと思います。

私はコンプライアンスを研究テーマに選びました。研究を通じて、コンプライアンスはこれからの社会にとって必然であるとの意を強く持ちました。そして、それは社会が今までのような質よりも量、心よりお金という風潮から変質し始めていることを示しているのだと思います。これからはクオリティー・オブ・ライフが問われる時代になっているのではないでしょうか。

今までのように、より高い学歴、より高い収入、より高い地位などをいつまでも追い求めていてもクオリティー・オブ・ライフが高まるわけではありません。他人と比べて競い合っているばかりでは、無間地獄に陥ってしまいます。永遠に心の渇きは満たされません。

ビジネス社会もそのような社会のあり方に合わせて徐々に変わっていくのではないでしょうか。大きければよい、儲かっていれば何をしても許されるというものではありません。顧客の要求に合わせて木目細かく製品仕様を変えていくような場合には、企業規模が大きいことはさしたるメリットももたらしません。むしろ、何かを頼むたびに担当者が替わって、かえって顧客にわずらわしい思いをさせるだけでしょう。

私はコンプライアンスはこれからの社会において必然であると申上げましたが、これからの社会がそのような方向に進んでいくことも必然なのでしょうか。

これから社会が向かって行くであろう社会、お互いに相手が信頼に足る行動を取ることを期待して自らも信頼に足る行動を取るネットワーク社会(私はこれを共創社会と名づけました)は、コンプライアンスがなければ成り立たないでしょう。しかし、世界中の人々が一朝一夕にコンプライアンスを最重要視した社会を築けるのでしょうか。コンプライアンスの実現には、常に自らを律する厳しさが要求されるような感じがします(私は実際にはそうだとは思いません。今までのやり方に固執しているので、そのように感じるだけです)。人々が今までのやり方を変えることを拒絶することも考えられます。それでも共創社会は成り立つのでしょうか。無理でしょう。その場合には、世界は共創社会に移行せず、今と同じ競争社会として存続するのでしょう。その可能性は案外高いのかもしれません。

私としては、共創社会が実現して欲しいと思います。今までの競争社会は残念ながら限界に達していると思います。地球上に未開の大地が広がっている時代ではありません。資源の有限性が重要な問題となる時代なのです。自分達だけの都合で何とでもなると思い上がっている時代は終わらなくてはなりません。

このように考えたとき、今までのようなキャリアプランは大きく変わらざるを得ません。今までのような、上を上を向いたキャリアプランではなく、私の人生をより深めてくれるようなキャリアを積んでいきたいと思います。

既に人生の折り返し地点を通り過ぎる年齢に達しました。第2の人生は、このような私の気づきを広めていけるものにしていきたいと思います。

 

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