2007年12月
ジョン・ロンスン 村上和久訳『実録・アメリカ超能力部隊』文春文庫
本書の帯には「本書は実話です。本当なのです。」と書かれています。つまり、普通の人には冗談としか思えないような作戦を米軍はやっていたってことです。
何をやっていたかというと、「ヴェトナム戦争のトラウマから、「地球に優しい軍隊」を夢想した軍人。その構想は「超能力者を集めた特殊部隊」へと発展する。計画には超能力者(視線だけで山羊を殺す男)や科学者(脳のアルファ波を研究)が参加、訓練は米軍基地の片隅で続けられた。」だそうです。そして、「「ラヴ&ピース」の思想から生まれたはずの構想は、米軍の中で変質し、いまも別のかたちで生き残っている!」ですって。
超能力そのものについては、面白いたとえ話を聞いたことがあります。ガラスの覆いの中に入った鉛筆とかを動かすサイコキネシス(念動)の実験をテレビ何ぞでよくやっていますが、鉛筆を最も効率的に動かすのは覆いを取って手でつかんだ方が簡単ではないか、というものです。サイコキネシスでピラミッドの岩を持ち上げて作った(実はそんな話もあるんですよ)というならともかく、鉛筆をちょこっと動かすだけでは何の意味もないではないか、アホか、というわけです。
確かに、テレパシーだなんだって言いますけど、カードに書かれた丸とか三角とか星とか当てるだけじゃコミュニケーションにならないでしょ。ところがこうやって文字にするだけで皆さんの頭の中にはあの「超能力カード」のイメージが浮かんだでしょ?こっちのほうがよっぽど超能力じゃん。
動物や昆虫の超能力とかもよく取り上げられていますよね。人間にもその痕跡は残っているとか話題になりますが、現在ではその能力は封印されている場合がほとんど。何でかって言うといらないから。そうやって人類は進歩してきたんだと。
まあ、ソ連とか中国とかもものすごく熱心に超能力を研究していたって言いますから、米国だけがやらないって訳には行かなかったんでしょう。しかし、このような考え方は現在も残っていて、なんでも有りの「テロとの戦い」で妙な使い方をされている、ということだと、どうもね。
でもレーガン大統領が占星術に頼って政治的決断を下していたというのは有名な話ですし、最近「地獄に落ちるわよ」とか言ってるインチキ占い師も政財界に金づるを持ってるって話ですからね。やっぱそういうのには惹かれるんですね、みんな。
本書にも傑作なエピソードが載っています。スタッブルバインという将軍がこの超能力作戦を率いていたのですが、その上官のウィッカムという将軍はスタッブルバイン将軍をひどく嫌っていました。スタッブルバイン将軍の魂は魔王に乗っ取られているって。で、ウィッカム将軍が熱心に取り組んでいたのが「大統領祈祷チーム」の一員として神に祈ること。今でもちゃんとサイトが存在してます。アメリカのため大統領のために、例えば「テロとの戦いへの勝利」なんてものに祈りをささげるのです。何しろ「大統領祈祷チーム」は911を契機として生まれたらしいですから。超能力作戦と変わんないじゃんか。そういえば、日本でも戦中、宗教界を総動員して戦勝祈祷させて神風を期待していたみたいですから、似たようなもんかもしれないですけどね。
この超能力部隊が発足したのはヴェトナム戦争が終わり、巷ではニューエイジ運動なんてのがもてはやされていたころです。新しい音楽、サイケ、ヒッピーそして麻薬。特定の周波数の音楽(可聴範囲とは限らない)を聞くことによってリラックスできるとか自己実現が出来るなんてあっちこっちで宣伝していますが、この技術が軍事技術と密接に結びついていたとはね。まあ、CIAは以前から麻薬を使った洗脳作戦を実施していた(オズワルドはCIAに洗脳されていた!とかね)ようですから、伝統の作戦かもしれませんがね。最近では麻薬、周波数、パルス光線(視覚に影響させるわけです)なんぞを組み合わせた拷問技術が開発されているそうです。「地球に優しい軍隊」って訳ですね。
話題があちこちに飛ぶので小説のように読めるわけではありませんが、面白い本であることは間違いありません。ぜひご一読を。
同じ作者の『フェルマーの最終定理』が面白かったので次の作品である本書も読んでみました。面白かった。
暗号そのものの歴史は古く、古代ギリシャ・ローマ時代から記録が残っているそうです。暗号があれば当然それを解読する努力も昔からなされていました。本書は古今東西の暗号にまつわるあれこれ、そして暗号解読技術が用いられた古代文字の解読から現在のインターネットに使われる暗号化技術、さらには量子コンピュータまで広く物語られています。
暗号に関する話の中でも最も劇的なのが、ナチス・ドイツが開発した世界最高の暗号機械とされたエニグマの解読にまつわるお話でしょう。なにしろ世界最高ですから、連合軍が暗号を破った後もナチス・ドイツはエニグマが解読されているなんてちっとも思っていなかったそうです。暗号を作る方もものすごく努力したわけですが、解読する方もやっぱり努力していたんですね。慢心した方が負け。
エニグマは最初にポーランドで解読されました。ドイツによる侵略を恐れていたポーランドは英国やフランスの暗号解読チームが不可能としていたエニグマの解読に成功しました。ところがドイツはポーランド侵攻を数ヵ月後に控える時期、エニグマをバージョンアップしてしまいました。新エニグマを解読する余裕も無く、例え解読できたにせよ軍事的に持ちこたえる保証もなく、ポーランドは同盟国であった英国とフランスにエニグマ解読のノウハウを提供したのです。いやあ、心が広い。そして、深慮遠謀。
今も昔も戦争が技術革新に果たす役割ってのはものすごく大きいものがあります。技術といっても、昔は工学系の技術だったのでしょうが、最近では物理学とか数学とかどちらかと言うと抽象的な対象を取り扱う学問にもその範囲は広がっています。顕著な例としては原爆とかコンピュータとかがあります。で、数学分野の応用例のひとつが暗号というわけです。
昔も今も、学問の世界では尖端的かつ抽象的な対象を研究している学者の方がエライという不文律があります。実学系にはそれにあぶれちゃった人間が行くんだって思ってるわけです。物理学だって数学だって紙と鉛筆で研究してる学者の方が、理論の検証をする実験をしたり、確率論をデリバティブに応用して投資家をだまくらかしてカネを儲けようなんてヤカラよりエライとされているんです。文学の世界だって小林秀雄なんて評論家は「竿の握り方がどうのこうのと講釈を垂れる割には全然魚を釣らないじゃないか」なんて言われちゃうわけです。
ところが戦争になるとそんなことも言っていられなくなるわけです。いざ鎌倉、ってことで第一線バリバリの学者たちも総動員されるわけです。英国におけるエニグマの解読に最も功績があったとされるのは現代のコンピュータの原型であるチューリング・マシンの考案者として著名なアラン・チューリングですが、実際には数学者だけでなく「科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニア」まで集めたそうです。そんな天才・奇才たちが寄ってたかってドイツのエニグマ暗号機械の解読に取り掛かったのです。そういえば、最近エニグマの完動品がeBayのオークションに出品されたという記事を見ました。その時点では落札されていませんでしたがすでに1万2千ドルの値が付いていました。骨董品として安いのか高いのか。
英国の勝利に大きく貢献したと思われるチューリングですが、暗号解読は軍事機密に係わるため経歴として発表することもできませんでした。それどころか同性愛者であることを理由にいじめられ、41歳で亡くなってしまったそうです。これも戦争の悲劇でしょうか。
文句無く面白い本書、ぜひご一読を。
珍しくリベラル派の観点から書かれた軍事に関する本です。モデルガンを持って写っている背表紙の写真が物語るように、林さんは昔から軍事オタクだったそうです(イケメンだとよく言われると書いてありますが、悪い冗談でしょう)。でも、思想傾向はリベラル派のようです。ま、だから朝日新聞系の出版社から本が出せたんでしょうね。
軍事にまつわる話を徴兵された若者のシミュレーションなどを用いて分かりやすく解説しています。まあ、私なぞ(林さんの2歳下)いま徴兵制がしかれてもよもや徴兵されるとは思いませんが、私の子どもたちの世代が徴兵されることはありえないとは言えない状況です。
このような状況を憂いて本書は書かれていますので、ナショナリスティックな言論をリベラルの立場から論破する形を取っています。それにしても、ナショナリスティックな言論というのはどうしてこうも後ろ向きなのでしょうか。戦後レジームからの脱却とか言っても、出てくるのは昔のあそこが悪かった、ここが気に入らないといった話ばかり。こういう話については実に微に入り細をうがった議論がなされていますが、日本の将来をこうしよう、という具体的な話は全然出てこないではありませんか。本当の目的を言っちゃあおしまいだから、隠しているだけか?
「男女を問わず、今の日本の若い人達は、戦争に直面する危険がある。しかし同時に、若い人達には時間がある。」
「私などは、まあ、できるだけ頑張ってはみるけれど、ヨーロッパを見習って統合されたアジアや、戦争のない地球を見ることは、生きている間はありそうもない。けれど、若い人達には、その可能性がある。」
「それだけに、無駄な時間を過ごさないで欲しい。」
「無内容に戦闘的ナショナリズムを煽り、反中・嫌韓のムードを煽り、やれ自衛軍だ、核武装だということを書き連ねた、漫画や駄本を相手にしないで欲しい。」
「同時に、軍事や戦争という問題から、目をそむけないでもらいたい。軍事問題は決してオタクの世界ではなく、実用的な知識なのだ。」
「軍事問題が理解できれば、国際政治も理解できる。知識を蓄え、情緒的ではなく論理的に、戦争に反対しようではないか。」
私は死ぬ前に統合されたアジアが見たい。そのような未来を実現させる議論をしようではありませんか。
手塚治虫『「戦争漫画」傑作選』祥伝社
ご存知日本漫画界の最高峰手塚治虫さんの登場です。本書は手塚さんの長編ではなく読み切り漫画の中から戦争に関わるものを集めたアンソロジーです。
手塚さんは1928年生まれ、終戦当時大阪大学医専に在学中でしたから、ぎりぎりのところで学徒出陣には引っかからなかった戦中派です。この年代の人にとって、戦争というものはそれこそ物心付いたときから常に身近にあったはずです。冒頭の「紙の砦」という作品には、学校で軍事教練の教官にイビリまくられる手塚さんの自画像と思われる学生が出てきます。恐らく手塚さんの年代だと学校における軍事教練はすでに日常風景の一部になっていたはずです。手塚さんは学徒出陣にこそ引っかかりませんでしたが、学徒動員でお国のため働かされていました。そこでも悲しい出来事はいくらでもあったようです。もっとも漫画ではサボって漫画ばかり描いている学生が描かれていますが。半分は本当だったのでしょう。
「紙の砦」のなかに、撃墜されたB29から生き残った乗組員を皆でなぶり殺しにするエピソードが出てきます。手塚さんと思しき学生も恨みを晴らさんとしてぶん殴りに行きますが、なぶりものにされ死にかけた米兵の惨状を見て何もせずにその場を立ち去る下りがあります。そのとき皆は「なんだいあの腰抜け野郎め」と罵声を浴びせかけています。それが悲しいかな時代の風景だったのです。この場面で何をするのが正しかったのでしょう、なんていうセンチメンタルは通用しない戦争の現実が描かれています。
「紙の砦」の終わりで戦争が終わったことを大喜びする学生と、その場から去って行く恋人が描かれています。生き残ったものには未来がありますが、戦争で死んでしまったものには未来は何の意味も無いことを象徴しているのでしょうか。
これだけ悲しい現実を突きつけられても戦争をしたくてしょうがない人たちがいるのはなぜなのでしょう。
本書に掲載されている漫画の初出年度は1968年から1979年、ちょうど手塚さんが40歳から50歳のころです。手塚さんはすでに大家と呼ばれていたころです。日本は戦後の復興期から高度成長期に突入、戦争が遠い過去になりつつある時代です。そのような時代になぜかくも悲惨な漫画を描かせるきっかけは何だったのでしょうか。
今となっては30年から40年も前に描かれた作品ということになります。しかし、描かれた作品は未だに輝きを失っていません。新書版で大変読みやすくなっています。皆さんもぜひご一読下さい。
手塚さんの戦争物の長編の傑作といえば『アドルフに告ぐ』
でしょう。こちらもご紹介しておきます。
纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』新日本出版社
昭和天皇は平和主義者であったが、当時の軍部に押されて戦争の継続を余儀なくされていた。最終的には昭和天皇の終戦の聖断によって多くの国民の生命財産が救われた、というのが戦後広く流布されたストーリーです。
しかし、史実に現れる昭和天皇はむしろ「国体」の護持に重きを置き、国民の犠牲なぞをかえりみず、「もう一度戦果を挙げてから」と戦争継続に固執したとされています。ただし、このような事実は本書で始めて明かされる、というわけではなく、すでにさまざまな資料によって明らかにされていたようです。結構イケイケの戦争指導をしていたことも明らかになっていますし。
日本の敗色が濃くなる中、戦争継続を唱える軍部と敗戦は受け入れざるを得ないとする宮中・重臣グループが暗闘を続けていました。軍部はいま戦争を止めたのでは、無念の思いを胸に亡くなられた英霊たちに顔向けができない、と釈迦力になって主張していました。何かがうまく行かなかったときにはいつだって今までにやってきたことが無駄になる、という言い訳が使われ、苦痛を伴う決断が先送りされます。冷静に考えれば決断を先送りにするツケの方が大きいんですけどね。もっとも重臣たちも、悪いタイミングで戦争を終わらせちゃうと怒った国民が皇室にも戦争責任を問いかねないので、何度か本土爆撃みたいなことがあって、責任を全部東條におっかぶせちゃえるような状況を待つべきだ、だから今はタイミングではない、なんて議論をしていたんですから、国民のことを考えていない程度は同じですね。重臣たちは敗戦よりも日本で赤色革命が起きることを心配していたらしいですし。
昭和天皇は戦争継続に軸足を置いていましたが、1945年5月の沖縄戦での敗北、ドイツの降伏などからようやく敗戦やむなしと方向転換したようです。でも、「国体」護持が大事。戦争責任を認めたら「国体」が護持できなくなってしまいますので「聖断」虚構が準備された、というわけです。政治的寝技としては見事なのでしょうが、実際の敗戦まで3ヶ月もかかりました。その間も多くの国民の生命・財産が徒にすり潰されていったのです。原爆だって2発も落とされちゃうし。これって、もしかして国民の敗戦アレルギーを中和するためのできレース?しょうがないって。
昨今も靖国神社におけるA級戦犯合祀に不快感を示したメモが見つかり物議をかもしましたが、東条英機って昭和天皇のお気に入りのはずだったはずですよ。本人が死んじゃった(しかも刑死)後になって文句言われてもねえ。昭和天皇は敗戦直後のニューヨーク・タイムズとの会見でも、真珠湾攻撃は東条英機の判断だったと発言していたそうです。たとえ形式的なものだとしても、最高責任者がそれを言っちゃあいけないでしょう。建前として。
でもそんな批判は米国メディアからも報道されませんでした。なんで?そりゃ占領軍であるアメリカ政府との打ち合わせの上で決まったわけですからね。「国体」は護持してやるけど、日本はアメリカの属国になんなきゃだめよ、ってなワケです。言うこと聞いてりゃ戦争責任とかは全部東條におっかぶせちゃっていいから。お前らには目をつぶっててやるよ。これでOK、って。これぞ戦後レジーム、なんじゃないですか?
まあ、だからこその戦後の繁栄だったわけですが。ここらへんが日本人にとって悩ましいところなんじゃないでしょうか。経済的繁栄を享受していられるのはもちろんのこと、こんなたわ言みたいなウェッブサイトを運営していられるのも、時の政府にケチを付けてものほほんとしていられる自由を得られたのも、ぜーんぶアメリカ様のおかげですからね。ナショナリスティックな主張は日本人の心に響きますが、だからって今の生活を投げ出して特高が幅を利かせる時代に戻る気はない。うーん、アンビヴァレント。
併せて読むと理解が深まるかと思います。『昭和天皇独白録』
2007年11月
ビートたけし・竹内薫『コマ大数学科特別集中講座』フジテレビ出版
フジテレビの深夜番組「たけしのコマネチ大学数学科」から生まれた本です。番組ではビートたけしさん、現役東大生2名のチーム、たけし軍団からなるコマネチ大学数学科のチームに分かれて出題された数学の問題を解きます。数学の問題ったって大学の数学科のレベルでしょうきっと。私にはまるっきり歯が立ちませんでした。トホホ。
竹内薫さんはベストセラー『99.9%は仮説』の著者です。そしてビートたけしさんはご存知日本を代表する芸人・映画監督・大学教授、他なんかあったか、ですが、お金がたまって暇になったらもう一度数学の勉強をしてみたいと言うほどの数学好きなのだそうです。
この番組もそうですが、平成教育委員会なんて番組もビートたけしさんのアイデアなのだそうです。いろんなことを考えるのが好きみたいですね。
ところで、本書の中で竹内さん(専門は物理学)が、数学と物理学の違いを小説とノンフィクションに例えています。例えば、ニュートン力学では2体問題という2つの物体がぶつかったときの問題は完全に解けるのだそうですが、3つ以上になると解けなくなるのだそうです。あるいは、振り子の運動なども数学的には簡単には解けないそうです。で、物理学の人は解けないんじゃ困るから近似式とかを使ってなんとか答えを見つけちゃう。ところが数学系の人にとっては解けないものは解けないのであって、近似式なんてのは吐き気がしちゃうんだそうです。
私は高校まではなんとか数学やってましたけど、それ以降の難しい数学は経済学を通して学びました。最近の経済学ってまるっきり数学みたいになってしまっていますからね。でもねえ、経済学って本当は現場の学問じゃないですか。いくら理論的にこの経済政策はこのような効果をもたらすって言われてもそうなんないことや、想定外のネガティブな効果が現れることだってあるでしょうが。ところが学問の現場では数学者が勝っちゃうんだな、理屈としては。なんたって実体経済では結果が出るのはずっと先の話ですからね。
そんなこんなで数学が嫌いになった私ですが、この本は面白く読めました。
清水義範・西原理恵子『いやでも楽しめる算数』講談社文庫
清水・西原コンビの「おもしろくても理科」、「もっとおもしろくても理科」、「どうころんでも社会科」、「もっとどうころんでも社会科」に続く第5弾お勉強シリーズのエッセイです。その後も「はじめてわかる国語」、「サイエンス言語学」、「飛びすぎる教室」なんてのがシリーズ化されています。
ビートたけしの次は西原理恵子だって訳です。え、サイバラも算数が好きなの?まさか。自慢じゃないけど九九ができないって言ってますよ。
西原さんの「ハカセ次は算数いきましょうや。理科よりも物理よりもワケわかんない流水算、つるかめ算、体積、表面積。箱の中に水入れて、そこに小石入れて、5センチ水面が上がって、その小石の体積がとか、水の中に塩水入れてそのパーセントがとか、小学生の時私が問題を見ただけで目に涙がいっぱいたまった、五時の下校の鐘まで必ずいのこりだった、あの算数をきゃんきゃんゆわしたてやりたいよ」の一言で決まった算数エッセイ。清水さんは「決して算数をきゃんきゃんゆわすためではなく、そこにマンガを描かなきゃいけないサイバラがきゃんきゃんゆっておもしろそうだ」という理由で採り上げたらしいですが。清水さんってドSなのね。
確かに小学生の算数ってのは独特で、教えようとすると頭かかえちゃうような問題が多いですよね。つるかめ算なんて数学4000年の知恵を無視してわざと難しく考えているみたいですよね。先人の知恵に学ばなきゃって、そういう問題ではないか。
もっとも、この連載が小説現代で始まると、編集部には、わからん!おもしろくない!今すぐやめろ!の投書が山積みになったそうです。やはり算数とか数学ってのは嫌いな人はとことん嫌いなんでしょうね。西原さんのマンガも毎回早くこの連載をやめんかいという激烈なものばかりですし。
だいたい文章を担当している清水さんからして数学はそれほど得意と言うわけではないようです。だって、ある科学雑誌のエッセイに、答えもわからずに数学の問題を出しちゃって、しかもそれに対する解答がどっと来て困っちゃったなんてトホホなエピソードが書かれています。だからこの本の担当範囲は数学ではなくって算数までなんだそうです。
でもですね、雑誌とか不特定多数の目に触れる文章に問題を付けるときは本当に細心の注意を払って100%正確に書かなくちゃいけないんですね。私も最近雑誌掲載の記事を書きましたけど、編集の方にずいぶん直されちゃいました。100%正確ってどういう意味か分かります?それは、どんな○○が読んでも一種類の理解の仕方しかできないように書く、ってことなんですね。このくらい分かるだろう、なんてのはだめなんですって。そういう曖昧なところがあると編集部にどっと質問が来ちゃうんだそうです。算数を数式に逃げないで説明することを使命とする本書、書くのに相当苦労したんではないでしょうか。
誰でも分かるようにって言いますけど、算数の文章問題ってのは分かりにくいですよね。わざと分かりにくく書いているみたい。
本書にも「1本のひもがありました。1回目に40cm使い、2回目に残りの1/5を使いました。3回目には1.2cm使い、4回目に1/3使うと80cm残りました。もとのひもの長さは何cmですか。」なんて問題があほな出題例として出ています。
紐なんてものは長めに切って使い、余った分を切り落とすのが生活の知恵ってもんでしょうが。こんなバカなやり方教えてどうすんですか。ひもを1.2cm使いましただって。結べるかそんなもん。バカ(でもこれ1.2mの誤植だろうなあ)。あ、こんなことは決し子どもに言ってはいけませんよ。
でも西原さん本当に九九ができないんでしょうか。最近のマンガ(さいばらりえこの毎日かあさん)には64引く28(だっけ?)ができない子はうちの子じゃなーいとか言いながら息子に算数の特訓をしてるのが出てましたよ。自画像がね。
プラディープ・クマール 石垣憲一訳『インド式秒算術』日本実業出版社
西原さんは九九ができないと騒いでいましたので、巷で話題になっているインド式計算術の一冊をご紹介しましょう。いろいろ類似本があり物議をかもしていますね。インド式と言うので、スパイスを効かせた神秘的な計算方法が書かれているのかと思いましたが、非常にオーソドックスな計算方法が解説されています。
例えば1の位が5の2桁の数字の2乗の計算。25×25=625って簡単に計算する有名な方法があります。どうやるのかと言うと、百の位は10の位の数字(2)と10の位の数字(2)に1を足した数(3)を掛けたもの(6)。10と1の位は必ず25。だから25×25=625になります。35×35だったら1,225。55×55だったら3,025。
この計算方法は1の位の数字を足せば10の場合(22×28とか)に拡張できます。どうなるのかは本書をご覧下さい。簡単な法則なので、すぐに証明できますよ。
そういえばインドでは九九を99×99まで暗記させるとかって話がありましたが、本当なんでしょうか。もしそうだとしたら冒頭の2桁の計算の秒算法が出てくるわけ無いと思いますけど。
西原さんは九九ができないとか言っていますが、私も九九は全部覚えていないですね。というか、言えない。あ、計算ができないってワケじゃないですよ。小学生のころ、6×9と9×6は同じじゃないか、ということに気づいて(オレって天才!?)「ろっくごじゅうし」は覚えたんですけど「くろくごじゅうし」はネグっちゃったです。そうすると覚えるのが半分になるでしょ。未だに8×5とか出てくると「はちご」だから「ごはしじゅう」って考えているんです。あ、あなたも同じでしたか。
さまざまな場合に使える計算方法が満載ですが、平たく言えば数字をばらばらにして(2桁の数字だったら10a+b)計算した結果の式を覚えておいて実際に計算するときにそれぞれの係数を代入していく、というのが基本です。え、神秘的でもなんでもないじゃん、って。そのとおり。
数学の中でも整数だけを扱う数論は最も難しく、かつ最も長きに亘って研究されてきたわけですから、簡単な計算方法があったら知れ渡っていますよ。ゼロを発見した数学の天才インド人を以ってしても、どんな計算でも簡単にできる方法なんて見つけられないんです。いろんなスパイスを混ぜたり、お香を焚くくらいでは計算問題は解けないってことですね。過大な期待はしないようにね。ちゃんちゃん。
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』新潮文庫
ご存知フェルマーの最終定理とは
この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない
というものです。
nが2のとき、有名なピタゴラス(本書ではピュタゴラスと書かれていますね)の定理になるわけです。昔からnが3以上の場合は整数解が見つかっていなかったことは確かですが、本当に整数解がないのか、見つかっていないだけなのかが長らく不明でした。で、フェルマーはnが3以上の場合は整数解が無いから見つからないのだ、と主張したわけです。
最終定理そのものはフェルマーが1637年ごろ発見したと言われていますが、今のように論文にして発表した、というわけではなく、「算術」(著者はディオファントス。紀元3世紀ころのアレクサンドリアに生きたとされています)という本の余白に上記命題を「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」というコメントと共に書き記しただけでした。
フェルマーは裕福な皮革商人の息子として生まれ当時としては高い教育を受け、その後は高級役人としての人生を送ったそうです。数学は趣味。それにしてはパスカルと確率論を共同研究、ニュートンの微積分の発見にも貢献したとされています。フェルマー自身は1665年に亡くなっています。フェルマーの死後、息子が書き込みなども含めた「算術」の特別版(解説版でしょうか)を出版、後世に残ることになったそうです。しかし、肝心の証明そのものは失われていました。
命題そのものは中学生でも理解できる簡単なものですが、なぜか証明できない。以後300年以上にわたり数学者を悩ませ続けてきたのです。
この問題を最終的に解いたのがアンドリュー・ワイルズという数学者でした。1994年のことです。実は、1993年に一度証明した、と発表したのですが、証明に欠陥のあることが判明、1年をかけて欠陥を修正、再度世に問うたのです。驚くべき根性ではありませんか。
人はなぜ数学に惹かれるのでしょうか。その一端が本書に示されていました。科学的証明というものは実は絶対的ではありません。ニュートン力学はアインシュタインの一般相対性理論によって取って代わられ、そのアインシュタインもより洗練された理論によって取って代わられるかも知れません。そういうものなのです。ところが、ピタゴラスの定理は我々が慣れ親しんでいる3次元空間においては絶対普遍です。主観的要素は全く含まれない絶対的証明が可能なのです。しがらみや矛盾に取り囲まれた現世とは隔絶した理性主義的なところがたまらない魅力なのではないでしょうか。
絶対普遍?そういえばゲーデルの不完全性定理なんてのもありましたね。
第一不完全性定理
公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。
第二不完全性定理
公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない。
ゲーデルの定理によれば決定不可能な命題があることになります(すべての命題が決定不能なわけではありません)。フェルマーの定理は正しいと証明されるのでしょうか、それとも間違いだと証明されるのでしょうか、あるいは決定不可能なのでしょうか?ところがもしフェルマーの定理が決定不可能であれば、それはフェルマーの定理が真であることの証明になるのです。あらま。ご興味のある方は本書をお読み下さい。
フェルマーの定理が証明されたとしても、数学界にはまだまだ未解決の命題があるそうです。ひとつ挑戦してみますか?数学に関するエピソード満載の本書。脳トレにはもってこいです。おまけに読み物としてもとても面白く書かれています。数学嫌いの人でも楽しめますよ。
ダニエル・タメット 古谷美登里訳『ぼくには数字が風景に見える』講談社
著者のタメットさんは円周率22,500桁を暗唱し(イベントの企画で3ヶ月で覚えた)、10ヶ国語を話せる(アイスランド語はテレビの企画で1週間で覚えた)という天才ですが、実はサヴァン症候群でアスペルガー症候群(タメットさんは自閉症スペクトラムという用語を使っています)を患っています。さらに共感覚といういささか変わった感覚の持ち主でもあります。サヴァン症候群やアスペルガー症候群は稀にある特定の分野に天才的能力を持つ者を誕生させる(映画『レインマン』とか)ことで知られていますが、その他の精神障害を併なうことが多いため、自分の持つ能力や感覚を説明することができない場合が多いようです。そのためこれらの能力は精神科医でもない一般人の目に触れることは稀です。タメットさんの症状には知的障害が伴わなかったため、自らの症状を本としてまとめることができたのです。
彼の目に数字がどのように見えるかというと、
「ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭のなかではその日が青い色をしているからだ。水曜日は、数字の9や諍いの声と同じようにいつも青い色をしている。ぼくは自分の誕生日が気に入っている。誕生日に含まれている数字を思い浮かべると、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形があらわれる。滑らかで丸いのは、その数字が素数だから。31,19,197,79,1979はすべて、1とその数字でしか割ることができない。9973までの素数はひとつ残らず。丸い小石のような感触があるので、素数だとすぐにわかる。ぼくのあたまのなかではそうなっている。」
「ある数を別の数で割ると、回りながら次第に大きな輪になって落ちていく螺旋が見える。その螺旋はたわんだり曲がったりする。割る数が違えば、螺旋の大きさも曲がり方も変わる。ぼくは頭のなかで視覚化できるために、13÷97のような計算も小数点以下第100位くらいまで計算できる(0.1340206……)。」
どうです、分かりやすいでしょう……。
そういえば、絶対音感のある人にはそれぞれの音程が完全に別物として聞こえるそうです。私なんか移調しちゃうと全部同じに聞こえますけど。作曲家がどの調で曲を書こうかなんてのも、ちゃんとした理由があるんだそうです。ハ短調は悲劇的な調、ロ短調は受難曲の調、変ホ長調は英雄の調とか。作曲家によっても好みの調が違うみたいです。
以前NHKのピアノのレッスンとか言う番組でまだ小学生ぐらいの女の子がピアノを教わっている場面を見たことがあります。そのとき選ばれていた曲が確かドビュッシーで、ずいぶん難しい曲を選んだんだなと思ったことがあります。そのときの先生が、「ほら、ここの部分は白い雲みたいにふわふわした羊が草原の上で遊んでいるような風景を思い起こして下さい……」なんて言っているのを聞いて、変わった教え方をするなー、と感心しました。この先生は音楽を聞くと風景が見えちゃうんでしょうね。子ども相手に教えるわけですから、技術的にあーだこーだと言う代わりにビジュアライズするというのはありなのかも知れません。
そういえば銀行勤務時代、某赤い門のある大学の数学科を出た知り合いが居ました。何で彼が金融界なんぞに来たかというと、大学時代に数学の天才レベルの同級生に居たからなんだそうです。私の知り合いだって某地方の高校では常にトップ、大した勉強もせずに赤門大学に入っちゃったような奴ですが、その天才君はレベルが違ったらしい。数学科のゼミでは毎週演習問題が何問か配られるそうです。で、みんな図書館にこもって文献とにらめっこしながら問題を解くんだそうです。それでも半分もできれば良い方。ところがその天才君は解答の時間だけ出席して準備もなしにその場で演習問題を片っ端から解いちゃうんだそうです。私の知り合いは、だめだこりゃ、というわけで金融界に進んだんだそうです。天才君の頭の中では問題の見え方が違ったのかもしれませんね。
大学で数学の授業をとったときも教授が似たようなことを言っていました。数学者の中には四次元空間(ミンコフスキー空間とかってやつでしょう)が頭の中でイメージできる人がいるのだそうです。で、そういう数学者が、四次元の立体と立体がこういう風に交わっているんだよ、分かるだろ、なんて言うわけですが、教授にはさっぱり分からないのだそうです。もちろん数学の教授ですから、式を立てれば交わりの部分がどのような数式で表されるか分かるのでしょうが、イメージとして捉えることは無理。
でも頭の中で三次元の図形をイメージできる人間ですら少ないと聞いたことがあります。頭の中で立方体を展開するとか回転させるとかね。何とか症候群なんていうと、あっち側の人、という感じになってしまいますが、普通の人とちょっと違っているだけ。つまり、天才や何とか症候群の人々も程度問題ってことでしょう。最近は医学上の理解も正常と異常の境界線をなだらかにする方向に修正されているそうです。タメットさんも自らを正確に理解し受け入れるようになるまでは、自らの症状そして周囲とのさまざまな軋轢に悩まされたようです。本書では割合あっさりと書かれていますが。
天才の頭の中を覗くことができる本書。ちょっと変わっていますが、面白い一冊でした。
2007年10月
橘玲『マネーロンダリング入門』幻冬舎新書
マネーロンダリングと言えば、2003年にヤミ金融グループ五菱会の100億円にも上る資金がヤミルートを辿ってスイスの銀行に送金されていたことが明るみに出、その金額の大きさに驚倒させられたものです(何しろそれが利益ですからね)。また、2007年4月からマネーロンダリング情報の管轄が金融庁から警察庁(国家公安委員会)に移動したなどの報道でマネーロンダリングという言葉を耳にした方も多いものと思います。身近なところでは金融機関からどこかの口座に送金するとき、限度額が低くなったり、身分証明書の提示を求められるようになったりしたのでお気づきになられた方もいらっしゃるでしょう。
五菱会の手口は、事件が明るみに出る1年前に橘さんが出版した小説でその手口を詳細に紹介していた割引債を使った古典的な(すでにまともな金融機関だったら取り扱わない)ものだったそうです。摘発されたときの国際金融関係者の反応は「まだそんなことやっていたの?」と言うものだったそうです。知らなかったのは俺だけか!
本書にはそれ以外にも数多くのマネーロンダリングの実例が出てきます。先般ご紹介したグラミン銀行の名前も出て来ます。マネーロンダリングに関連してではなく、同じころパキスタンでイスラム社会に貢献する国際銀行を設立したアガ・ハサン・アベディという人物との対比としてですが。アベディが設立したのが悪名高いBCCIという銀行です。1991年に破綻しましたが、マネーロンダリングなどアンダーグラウンドの顧客(アンダーグラウンド勢力の中には表沙汰には出来ない活動をしている各国機関なんかもあったと言われています)を相手に盛大に取引していたと言われています。本来の趣旨とは外れていること。でも、イスラム世界では英雄として亡くなったそうです。詳しくは本書をどうぞ。
でもねー、この本読むと、100万円の送金にケチつけてもしょうがないような気がするんですがいかがでしょうか。
最後の結びが気に入りました。「いつの時代でも、理想や正義を声高に語る人の後をついていくとろくなことはない。この本に書いたのは、たとえば、そんな単純な真理である。」
日本でも2年後には殺人や放火などの重大犯罪の審判に裁判官と共に選任された市民が参加する「裁判員制度」が始まります。国民の大多数が内容も分からないうちにやらせ公聴会を開いたことをアリバイにして決まってしまいました。米国では陪審員制度として長らく実施されています。裁判員制度が始まるとどうなるかを米国の陪審員制度でシミュレーションしているサスペンス小説です。
お話は主人公の少女がグアテマラのスラムで生活する場面から始まります。ひょんなことから米国に密入国した少女は裕福な家庭の養子になりました。ところが養父にレイプされてしまいます。それを知った隣家の日本人少年が養父を射殺、第一級殺人で裁判にかけられることになりました。そこにアメリカ国籍を持つ日本人女性が陪審員として参加して……以下ネタばらしになるので省略という物語です。
市民参加の裁判というのはギリシア・ローマの時代からある由緒ある制度ですし、米国でも民主主義の根本原理として採用されています。陪審員制度は植民地時代から存在するそうですが、これは裁判官を通して行使される本国政府の横暴から市民を守る、という意味合いが強かったのでしょう。そういう意味では日本でも裁判員制度を導入する意味があるかもしれないですね。未だに冤罪事件とか後を絶たないですし。
でも、作者の楡さんが日刊ゲンダイでのインタビューで懸念しておられるとおり、日本の裁判所・検察が真剣に民主主義の実現のため裁判員制度を導入したとは思えない節があります。札幌高等検察庁のホームページには「もちろん,裁判員になる以上は,被告人の人生を左右する立場にあることは否定できませんが,個々の裁判員がたった一人で裁判をするわけではなく,判決内容も,他の裁判官や裁判員とともに議論を重ねた上で決めることになりますし,現状では,死刑判決の宣告を受けた事件については,被告人や弁護人又は検察官が上訴するなどして控訴審(第二審)あるいは上告審(第三審)まで審理が続けられることが多く,第一審の裁判以外の裁判には裁判員制度は採用されておりませんので,深刻になる必要はありません」ですって。一審だけの採用ですので、「どーせ重大事件は控訴されるに決まってんだ、お前らテキトーにやってりゃいいんだよ」って言ってるように聞こえますよね。おまけに、裁判員になる前に根掘り葉掘り思想信条について聞かれ、好ましくないと判断されると罷免されます。ま、このあたりの駆け引きはO.J.シンプソンの事件のときとかでも問題になってましたよね。
でもねー、日本の裁判官ってものすごいタカビーで有名なんですよ。日本のエリートと呼ばれる法曹関係者の中でも司法研修所の成績が上位でないと裁判官にはなれないと言われています。で、同じ法曹関係者でも一番偉いのが裁判官、次が検察官、一番下が弁護士。巷ではエリート中のエリートである弁護士ですら、「ちょっと、そこの君」ってなもんです。薄給でお国のために尽くしている裁判官は自らの姿に酔っちゃってる。で、訳のわかんない訓示を垂れたり判決文を書いたりする。
こないだも袴田事件は無罪だと思った、って発表した元裁判官に、裁判制度の尊厳を損なうだなんだって文句付けてる裁判官がいましたよね。無罪の人間が死刑になってしまうことより裁判の尊厳の方が大事なんでしょうねこの人には。「いまさらごちゃごちゃ文句つけてんじゃねーよ。アホな国民が裁判を信用しなくなっちまうじゃないかよ。在任期間中にそんなこと言ったら即クビだから言えなかったクセしてエラそーにしてんじゃねーよ」って。
こんな裁判官と対等に渡り合える裁判員なんているんですかね。裁判なんて結局法律論ですから、専門家である裁判官がこうだ、って言い切っちゃったら文句言えないでしょ。何でですか、なんて聞くと、裁判官に「このバカドシロートが、分かんないのか。面倒クセーけど説明してやるから良く聞いてんだぞ、このアホ」とか顔に書いてあるような調子で説明されちゃう。ビビッちゃって二度とは聞けないでしょ。結局裁判官の言うとおり、になっちゃうんじゃないですかね。私だって寝ないで1週間くらい考えりゃ気の利いた反論のひとつも思い浮かぶかもしれませんが、そのころには裁判は終わってるって。
本書はサスペンス小説ですので楡さんの意見がああだこうだと書かれているわけではありません。しかし、楽しみながら読み進めるうちに裁判員制度にさまざまな疑問がわいてくるのではないでしょうか。
長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』幻冬舎新書
著者の長峰さんは司法試験に7回挑戦するも願い叶わず、現在はライター業の傍ら裁判傍聴を趣味にしているようです。そういう方なので、裁判官のおバカなお言葉を並べておちょくって、積年のうらみつらみを晴らしてやる、という本なのかと思いましたが、全くそのような軽い本ではありませんでした。
裁判官としては過去の判例と比較して妥当な判決(「量刑相場」と言うのだそうです)を数多く下す方が評価されるのだそうです。当然出世も早い。この本を読むと、無駄な言葉を差し挟む裁判官は、単に量刑相場に従った判決を下すだけでは足りない部分を補っているように感じられます。本書では事件のあらましも記してありますので、裁判官がなぜそのような発言をしたのかが良くわかります。爆笑どころか思わず涙が出ちゃうお言葉もたくさんあります。
まあ、裁判官によって判決内容がころころ変わる、というのでは困ることも確かですが、機械的に過去の判例を当てはめて一件落着、というのでは犯人の更正とか被害者の救済、犯行によって壊れてしまった家族の絆の回復とかに役立つとはとても思えませんよね。ま、日本の司法システム(裁判所だけでなく刑務所とかの更正施設を含めた全体ですね)が犯人の更正を目指している、とはとても思えないのは事実ですがね。どちらかと言うと国の決めた法律を破るようなけしからん奴にはお仕置きしてやる、というのが基本スタンスでしょ。もちろん被害者の救済など関係ないし、犯人の家族なんて犯人を生み出したとんでもない奴らで、できることなら一族郎党もろとも遠島を申し付けたいと思ってるんじゃないですか。まあ、だからこそ小さな反抗ですが本書のような言葉をかける裁判官は少数派なんでしょうね。
ことの性格上、採り上げられているのは殆ど刑事裁判ばかりですが、厳しい言葉をかけられるのは犯人ばかりとは限らず、妻をストレスのはけ口にした結果、妻が子どもを虐待死させるという事件を引き起こしてしまった夫に対しても、「仕事が忙しいのは当たり前でしょう。そんな言い訳が通ると思っているのか。」と厳しい言葉をかけています。
読んで楽しい本ではありませんが、陪審員制度の実施によって一般人も判決を下す側として裁判に係わることになりました。裁判官ですらどのような判決を下すか迷っているのです。本書は判決を下すことの意味をもう一度考えるための参考になるでしょう。
村山 治『特捜検察vs.金融権力』朝日新聞社
パナマで中国製原料を使ったせき止め薬を服用した100人以上が死亡したとされる事件で、中国政府は、原因はパナマ側にあると逆切れする一方、製薬会社から多額のわいろを受領したかどで逮捕されていた前国家食品薬品監督管理局長に死刑判決を言い渡すことで釣り合いを取ろうとしました。裁判の期間も2週間ほどだったそうです。つまり一罰百戒、安全を内外にアピールするために死刑判決が下された、と見て間違いないでしょう。
これに対し、社会システムの変革が必要なのにトカゲのしっぽきりみたいなことでは失われた中国に対する信頼は回復できないのではないかといった批判がなされています。中国の社会システムは遅れてるって。
しかし、日本でだって国策捜査は当たり前。ムネオハウス事件とかホリエモン事件とか村上ファンド事件なんてどう考えたって国策捜査でしょ。日本の場合一罰百戒というより、政府はこんなに立派なことをやってますよというデモンストレーションの色彩が強いような気がします。大蔵省の過剰接待みたいな不祥事があったとき、政府は何をやっているんだ、という批判が起きないようにガス抜きをしている。で、こういう不正の追求ってのは徹底的にやっちゃうと社会がガタガタになっちゃいますから、適当なところで収めておく、と。
ま、ホリエモンが頂点から奈落の底に突き落とされたのは、バックにいた人々の立場が構造改革の成功を宣伝しなくちゃいけないってのから構造改革が行き過ぎて格差とか問題になっちゃったのを何とかしなくてはいけないってのに変わったからなのですからしょうがないのでしょう。所詮ホリエモンなんてトリックスターじゃないですか。いらなくなりゃ、ポイ。でもねえ、その尻馬に乗って時代の寵児と煽てていたマスコミがいっせいに手のひらを返したのはいただけませんでしたね。マスコミ自身が衆愚になってしまっています。
題名からも伺われるように、本書は検察と大蔵省という2大権力の離合がテーマになっています。バブルの崩壊や過剰接待問題などなどをきっかけに批判を浴びた大蔵省はついに財務省と金融庁に分離させられました。検察にも容赦なく鉄拳を振るわれました。しかし、時を経て手打ちした、というのがストーリーの底流ですが、それではこの後どうなっていくのでしょうか。
戦前の検察というのは「天皇の検察」というイメージだったわけです。特高なんかのイメージとか、「オイ、コラ」時代の警察ともダブりますね。これが敗戦を機に「国民の検察」、「国民の警察」になるはずだったわけですが、日本の統治機構である官僚組織(軍隊を除く)というのは、進駐軍の意向もあって温存されました。そうじゃないと統治機構を一から作らなくちゃなりませんからね。それに、共産主義勢力に付け入られる前に何とかしなくちゃならん、といった要請もあったのでしょう。で、表面的には民主化された警察とか検察にも昔からの気風が残っちゃったわけですね。「国民の…」というよりは「政府の…」になっちゃったわけです。まあ、その程度だったら何とか許せるのかもしれませんが、最近では「警察のための警察」とか「検察のための検察」になってるんではないですかね。この間の全員無罪の選挙違反事件なんて今どき考えられないような大時代的な事件でした。
「本来、国策とは国の政策をいう。検察は国の行政機関である。その検察が国の政策に沿って権限を行使するのは当然のことである」と村上さんは書いています。なるほどごもっとも、とか思っちゃいそうですが、三権分立とか昔習ったことはどこ行っちゃったんでしょうか。
「検察は、国民の利益のために犯罪を訴追することを求められている。時の政権と国民の利益が一致しないことはあり得る。仮に、政権が捜査の範囲を限定していたとしても、その捜査を通じてより大きな構造的な犯罪の疑いが浮上した場合は、積極的にそれを解明しなければならない」とも書かれています。理想はそうでしょうが、本当にそんなことしてんのかね。国民の利益ったって、人によりいろいろでしょ。いちいち聞くわけにもいかんし。で、重要なのがチェック・アンド・バランスのシステムなのではないでしょうか。三権分立もそうだし、マスコミの役割もそう。でも、日本では一部のエリートが「これが国民の利益だ」って言って強引にリードして行っちゃうんですね。ま、他の国だって同じようなもんだろうけど。アメリカとか。この本にもマスコミ=日本のエリート=オレには国益の何たるかが見えている、って自負というか自信というか鼻持ちならないエリート臭がしますね。ひがみでしょうか。本書を読んでも、あ、これで枕を高くしてなられる、とは全然思えないことが問題でしょう。
最近も朝鮮総連の中央本部売却を巡る事件で、元公安調査庁長官が詐欺容疑で逮捕されるという事件がありました。これに対して検事などの職についた者は退職後もこのような行為に手を染めるべきではない、といった論調がありましたが、私はいささか違和感を感じました。検事にしろ裁判官にしろ、その公正さを担保するのは個人的な資質のみではないはずです。公正さを担保するシステムが必要なはずです。そしてその担保する仕組みが第三者によるチェック・アンド・バランスなのではないでしょうか。日本はどうもこのシステムがうまく働かない。だから冤罪もなくならない。元公安調査庁長官が詐欺容疑で逮捕されたとき、国民の検察への信頼が損なわれる、なんてヘボなコメントをしている検察関係者がいました。だったら冤罪事件を起こした検事なんぞクビにしろって。なんで誰もはっきり言わないんだ、そんな奴クビにしろって。そう言えば警察とか検察って取調べの可視化にも頑なに反対し続けていますよね。
あ、日本のエリートに共通する特質があります。それは絶対に非を認めないことです。何かに失敗があっても全部人のせい。そんな強大な権力を握る金融権力(旧大蔵省と日銀)が特捜と手を結ぶとろくなことが無いように思うんですが。思い過ごしでしょうか。
2002年1月、2人の幼子を連れた母親の命は背後から激突した、走行中の大型車からはずれた巨大なタイヤによって奪われました。そもそも三菱自動車では2000年に大規模なリコール隠しが発覚、再建途上にありました。そのような状況にありながら再度発覚した構造上の欠陥がありながらリコールもせず放置したことにより引き起こされたと思われる事件でした。
本書は被害者の母親が起こした損害賠償請求訴訟を辿ったドキュメントです。本書は一審判決が出る前に出版されていますので、その後の経緯について加筆しておきます。損害賠償請求そのものは被害者の夫が事故を起こしたトレーラーの運転手に対して起こした損害賠償請求とは別に、トレーラーの運転手、トレーラーを所有する有限会社、三菱自動車、国に対して起こされました。このうち運転手に対する訴えは2004年5月に取り下げ、有限会社とは2005年2月に和解が成立しています。最後まで争った三菱自動車に対して2006年4月、550万円の支払いを求める判決が下されました。なお国に対する請求は棄却されています。この訴訟では米国では認められている1億円の懲罰的慰謝料(懲罰的賠償金)を請求したことからも注目されましたが、認められませんでした。三菱自動車からも和解の申し出はありましたが、交渉はまとまりませんでした。なぜ交渉が決裂したか、その顛末は本書をお読み下さい。
当初『事故の原因は使用者の整備不良』としていた三菱自動車ですが、2004年3月にハブの構造的欠陥を認めリコールを行いました。事故からは2年も経っていました。
著者の小林さんは一橋大学大学院教授ですが、法曹資格を持っており、実際にこの裁判にも関わられたことがあるようです。その経歴のしからしむるところなのか分かりませんが、本書の内容はかなり法律論及び裁判の経緯の説明に割かれています。そして、三菱自動車の姿勢を「三菱は、とにかく裁判に勝つことだけを考えていた。民事事件も刑事事件も、徹底的に争って勝てばよいと考えていたのだろう」としています。また、「単に裁判で勝つことだけを目的にするのではなく、裁判の外に目を向けて、広い視野から企業にとって何が本当に利益になるのかを考えるのも経営者の大きな役割である」とも書かれています。法律的に正しけりゃ、裁判に勝ちさえすりゃいいんだ、ってのはだめだよってことでしょう。
本書の中では2005年3月に発表された「最終報告書」を掲載、三菱自動車の姿勢を批判しています。私の書評では本書出版後の2006年4月に発表された「お知らせ:2002年1月ふそう大型トラックタイヤ脱落事故に係わる民事訴訟について」の内容をご紹介しておきましょう。
このお知らせの中で、トレーラーの運転手と遺族(被害者の夫と子ども)との間で2003年9月に和解が成立、トレーラーの運転手等に対しては2005年9月に補償金を支払ったので事故に関する損害賠償関係はすでに解決済みであるとしています。
詳しい経緯は本書をお読みいただきたいと思いますが、トレーラーの運転手は死亡事故を招いた運行上の過失は否定しましたが、「不可抗力以外の事故は賠償しなければならないとする自賠償法の規定や被害者ほごの観点から和解に応じた」のです。そして三菱自動車が欠陥を認めたことにより和解金の保証を求め、2005年9月になって支払ったのです。また、運転手と一緒に訴えられた有限会社も2005年2月ほとんど無過失と言える状況でしたが200万円を支払って和解しています。運転手等に対して補償金を払ったと言っていますので、三菱自動車は有限会社にも補償金を支払ったのでしょう。この補償金の支払い(三菱自動車が直接被害者遺族に支払ったものではありません)を以って損害賠償関係は終わっていると主張しているのです。さぞかし頭の良い弁護士がついていたのでしょう。
一連のすったもんだの結果、2000年以来のダイムラー・クライスラー(今じゃダイムラーだけ?)との提携はご破算、ダイムラーはトラックやバスを作っている三菱ふそうだけをもらって乗用車部門の三菱自動車はポイしちゃった。最近ダイムラーはクライスラーもポイしちゃったけど大丈夫なんでしょうか。
そういや無理やり被害者の墓参りをさせられて頭にきて二度と謝罪に出向かなかった、ダイムラーから派遣されていたヴィルフリート・ポートとかって社長もいましたね。どっかの総理大臣じゃないけど、現職が現在の企業なり政府なりを代表して不祥事の責任を取るってのは当たり前のことでしょう。めでたく三菱ふそうを手に入れられたのでご栄転かしら。
世界最古の自動車会社ダイムラー。世界で最も尊敬されている自動車会社ダイムラー。ほんとに大丈夫なの?
ご存知TVジャーナリストの田原さんがリクルート事件を国策捜査、冤罪ではないかと追及しています。副題にあるとおり、リクルート事件からもう20年も経ってしまったのですね。リクルート事件の後にも前にも、ムネオハウス事件とかライブドア事件、古くはロッキード事件などが国策捜査であると語られています。検察に睨まれると怖いからこっそりとね。睨まれて実刑まで食らっちゃって今や怖いもん無しの鈴木宗男さんとか佐藤優さんなんかは大声でしゃべってますけど。
リクルート事件は近々上場予定の未公開株を政財界その他の著名人、平たく言えば江副さんのお友達(もしくは江副さんがお友達になりたかった各界のセレブ)にばら撒いたことが発端となりました。でも、このような行為は当時の証券業界では普通に行われていたのだそうです。ま、昔からお金持ちはますますお金持ちになるように出来ていたんですね。各界のセレブ達ですから、いろいろとリクルートの仕事に係わっている方々もいらっしゃったと。私企業の方々はともかく、政官界の方々の場合は、これはまずいだろうと。で、マスコミが提灯持って火をつけて大騒ぎになったと。
でもねえ、いくらみんなやってたからって、ファイナンスつきで株を買わせて濡れ手に粟を演出してあげるってのは、庶民の立場からは理解されませんよねえ。でも、やるんだったらリクルートだけじゃなくって他の新規上場も徹底的に洗えばいいのに。でも、検察はそこまではやらないんですよね。やっぱり国策捜査なんでしょうか。
ところで、上記国策捜査を演出した検察は何を目指していたのでしょうか。場合によっては時の権力を引き摺り下ろす役回りまで演じています。その割にはその後の政治の行方には不思議と関与していませんし、その後の政治・社会情勢が良くなったとも感じられません。一罰百戒のつもりかもしれませんが、傍から見ると他にも似たような悪いことやってる奴はいっぱいいるのに、目立った奴だけが運悪く引っ掛かったみたい。検察官の単なるマスターベーションなんでしょうか。それとも国策捜査の目的は邪魔者の排除だけなのでしょうか。もしそうだとしたら黒幕は誰?
国策捜査なんていうと、ご大層に聞こえますが、スケープゴートを使って目くらましをする、ってのは組織防衛の初歩の初歩。責任なんて誰かに押し付けちゃえ、ってか?
最近のモンゴル出身横綱に対するイジメなんかもそんな感じがしますね。ナントカ審議会とかナントカ協会だって度重なる八百長疑惑、ナントカ団との黒い交際疑惑、新弟子をいびり殺しちゃったリンチ疑惑とか全部ほっかむりじゃないですか。相撲は国技だとか言いながらやってることは無理ヘンにゲンコツ。旧態依然の興行をやって人気がなくなっちゃったのは誰の責任だって。小錦とか曙なんて相撲活性化のため色々提案したのに無視されて頭来てハワイに帰っちゃったって言うじゃないですか。今じゃハワイ出身力士はいないんじゃないですか。サモア出身の力士もトラブルでみんないなくなっちゃったし。今度はモンゴル?トラブル起こしたらポイ捨てにするなら連れて来るなって。そもそもいつから相撲が国技になったんだ?がんばれドルジ!相撲がだめならK1だ!話が脱線した。
検察の目的はやはり邪魔者の排除なんでしょうか。
2007年9月
網野善彦、宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと』洋泉社
網野さんは「日本社会の歴史」でも著名な歴史学者ですが、それまであまり注目されていなかった人たち(漂泊民とか)に焦点を当てた独特の歴史観「網野史観」を切り開きました。ってことは天皇を頂点とする大和民族そして農耕民族中心歴史観を持つ従来路線の歴史学者たちにケチを付けたことになりますので、学会では評判が良くなかったようです。
共著者の宮本さんは民俗学者。網野さんと宮田さんは共に神奈川大学の教授として籍を置かれていたことがあります。残念ながら私は読んだことがありませんが、著作に「老人と子供の民俗学」なんてのがあります。網野さんとは馬が合ったのでしょう。本書は対談集ですが、まことに楽しそうに丁々発止の議論のやり取りをされています。
こういう関係はまことにうらやましい。日本では「それは違う」なんて言われようものならすぐカッとなって手が出ちゃう人がいますからね。私も議論好きですので、気をつけないと。ってか、つい最近も失敗したばっかり。議論のやり方も知らない奴と議論するときは安全な距離を取らなくてはいけない、という教訓ですね。とっても痛い教訓でしたけど。
それはさておき、本書で注目されているのは女性の役割です。従来の農業の捉え方では養蚕は農業経営の一部として行われていたと考えられて来ましたが、実は一般的な農業(男性が行っている)とは別に女性が経営していたのではないか、女性は決して男性に寄生していたわけではなく独立した経済活動を行い、財産も持っていたのではないか、と推察しています。また、漁業などでも漁師として海に出る男性だけが漁業者と思われていますが、実は女性は浜に上がった収穫を市に持っていって売りさばく流通関係を仕切っていたのではないか、とも指摘しています。
いずれにしても従来は歴史の脇役でしかなかった女性の役割が、実はそんなものではなかったことを物語っています。興味深いのは織物と女性の関係は日本ばかりではなく世界的に共通のイメージなのだそうです。七夕の織姫とか。お姫様が機織りをしていますね。決して悪いイメージではない。また、ギリシア、南米などにも見られるそうです。
そういえば自動車のシートも今じゃ革張りが高級車ですが、戦前のリムジンでは運転手(馬車で言えば御者)のシートは丈夫で耐久性のある革張り、客室のシートは繊細な布張りが本当だったんだそうです。革は実用品、布は高級品。高級品を生産するほうが当然儲かる。古来女性はそういう地位にあった、ということですね。
最近女性の貞操義務だナンだって言って、離婚後300日以内に生まれた子を一律に前夫の子とする民法772条の規定を見直そうという議員立法がつぶされちゃいました。法律婚にDNA鑑定という生物学的なものを持ち込むことは、法制度自体をくつがえしかねないし、ひいては家族制度の崩壊をもたらす、と言うわけです。でも、すでに崩壊した婚姻関係だけを法律で保護し、生まれてきた子供を保護しないってのはどんなもんでしょうか。そういや、少子化対策に成功したフランスにはこういう規定はないそうです。現在の民法上の貞操義務ってのは男女双方が責任を負っているはずですが、ここで言われている貞操義務ってのは女性だけが求められているものでしょう。
こういう男性中心的な社会ってのは日本の伝統でもなんでもなくて、明治からこっちのみんなが武士になろうとした武張った時代の産物なんじゃないでしょうか。伝統的家族制度とかって言ってますけど、1883年の日本の離婚率(その年の離婚数/結婚数)は何と37.6%にも達していたのだそうです。これが大正・昭和と減少傾向にあったものの高度成長とともに上向き、2002年度の離婚率は再び約38%に復活したそうです。これが数字の上の日本の伝統。歴史だ伝統だって言って結局自分に都合の良い話ばっかり持ってきている訳ですね。我田引水。あ、こりゃ政治家の十八番(おはこ)か。チャンチャン。
桐生操『世界で一番おもしろい世界史』KKベストセラーズ
柔らか目の世界史雑学本です。桐生さんがどのような方なのか存知上げませんが、何冊か読んだ限りでは人をいたぶりながら殺すとか、気に入らない召使の首をはねるのを見物しながら食事を食べるといった結構エグイ話がお好きなようです。ま、それぐらいじゃないと歴史には残らない、というか記憶には残らない、のかもしれませんが。その種のエピソードがごっそりと載っています。決して勉強の役には立たないでしょうが、移動中などの暇つぶしには格好の読み物でしょう。私も新幹線の中で読了いたしました。
面白かったエピソードをいくつか。
紀元200年ごろのローマ皇帝ヘリオガルバスは女装が大好き。ついにはアレクサンドリアの医者を呼んで性転換手術をしてしまったとか。本当でしょうか。塩野七生さんのローマ人の物語で調べなくては。調べたけど書いてないや。
中世(といっても結構最近まで)の料理とは、素材が何だか分からなくなるくらい叩き潰してスープ状にしてさらに香辛料をがっぽり入れる、というものだったのだそうです。なぜかというと、腐りかけの素材をごまかすため。冷蔵庫なんてないですからね。で、今でもイタリアのどこだかに行くとこういう料理があるそうです。初めての人にここの名物料理だから、とか何とか言って食べさせちゃう。そうすると、かわいそうにその人、後何も食べられなくなっちゃうくらいおなかいっぱいで気持ち悪くなっちゃうんだそうです。こういう意地悪ガイドを雇ってはいけませんね。
最後に喫茶の習慣の伝播について。ジンギスカンについでモンゴル世界王国を目指したチムール。この人とんでもない人殺しとしても有名ですが、実は喫茶の習慣を広めた人でもあるのだそうです。彼は世界を征服するため遠征のくりかえしでした。このとき、部下に生水を飲むことを禁じ、必ず沸かしてから飲ませたそうです。今にも通ずる衛生知識。で、白湯では味気ないので茶葉など入れて飲むようになった、というわけです。『茶の世界史』にも確か書いてなかったエピソードだな。で、このときお茶を飲むようになった人たちの間に広まっているのが中国北方で茶を意味するチャイという発音の言葉。その後ヨーロッパなどに広まったのは中国南方で茶を意味するテという発音の言葉。飲み屋で使える無用な歴史雑学でした。
ボビー・ヘンダーソン 片岡夏実訳『反☆進化論講座』築地書館
保守化するアメリカを紹介する本を何度か取り上げてきましたが、本書はそのような動きに対する痛快なカウンターパンチです。大笑い間違いなし。大傑作。
2005年、アメリカ・カンザス州の教育委員会は、公教育において進化論とインテリジェント・デザイン(知的デザイン)説を同等に教えなければならないという決定を下そうとしていました。インテリジェント・デザイン(以下IDと表記)とは、人類のような複雑な生命体が単なる偶然の産物であるはずが無い、「なんらかの知的存在」がデザインに関与しているはずである、という説です。
「なんらかの知的存在」を神(God)であるとすると、キリスト教の天地創造説になるわけですが、IDではそうは言わず、科学的仮説であると主張しています。進化論だって実際の実験で証明されたわけではなく単なる仮説ではないか、であるならばIDもひとつの仮説として平等に教えろ、と言うわけです。ジョージ・ブッシュ大統領も賛成しているそうです。
このような動きに対してアメリカの科学者たちはさまざまな反対運動を展開します。でも、宗教右派、原理主義者って奴らにはまともな議論は通じませんからね。俺はこう信じている。証明終わり、ってなもんです。面と向かって「お前は間違っている」なんて言ったら、アメリカじゃ銃弾が飛んできちゃいますよ。で、この右派運動をしゃれのめすことによって潰そうとしたのが本書です。
先に述べたように、ID理論では「なんらかの知的存在」が何であるかは意図的に明らかにしていません。それじゃ空飛ぶスパゲッティ・モンスター(Flying
Spaghetti Monster、略してFSK)だっていいじゃないか、と言うわけです。で、本書は大真面目に空飛ぶスパゲッティ・モンスターこそが「なんらかの知的存在」であることを証明しています。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教義ってのは、「海賊が「選ばれし民」であり、天国にはビール火山とストリッパー工場があり、祈りの際に「ラーメン」と唱える、など」なんだそうです。こりゃ入信するしかないではありませんか。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター教に興味を持たれた方には、同教会のウェブサイトにアクセスしてみてください。空飛ぶスパゲッティ・モンスターの御真影を拝むことが出来ます。さまざまなグッズの購入を通して献金も可能なようです。iPod用の空飛ぶスパゲッティ・モンスターのカバーなんてすげー欲しいぞ、って買っちゃった。
ラーメン
フランソワーズ・デポルト 見崎恵子訳『中世のパン』白水ブックス
空飛ぶスパゲッティ・モンスター以外に小麦から作られた偉大な食べ物としてパンがあります。麦の親戚は非常に古くから栽培されていましたので、パンの類が古くから人類に食べられていたことは間違いがありませんが、現在我々がパンと言って思い浮かべるような柔らかいパン(ハイジの白パン!)が一般的に食べられるようになったのはそんなに昔のことではないようです。もっとも最近では全粒粉パンや黒パンなど、昔は白パンに比べると下級品とされていたものが栄養価や風味の面から珍重されていますが。
しかし、そうするとパンと麺類はどちらが先に人類史に現れたのでしょうか?マルコ・ポーロがヨーロッパにもたらしたと言われるパスタですが、実際にはヨーロッパでもそれ以前からパスタが存在していたという記録があるそうです。小麦粉を練って焼くだけでは固くなってしまいますので、細くして茹でちゃう、という調理方法が古くから考え出されていたとしても不思議はありません。また、乾燥パスタも保存食としてアラブ人によって考え出されていたそうです。パスタかパンか。結構難問だなー。やっぱり空飛ぶスパゲッティ・モンスター神が先か?話が脱線した。
それはさておき、私たちの食卓にもパンは普通に見られるようになりました。パン食の普及には戦後の学校給食が大きな役割を果たしたと言われています。米を食べるとバカになる、とか言ってパンを子供たちに食べさせて洗脳したわけです。また話が脱線した。
本書は歴史関係の学術書として書かれていますので、おいしいパンを作るレシピとかが書かれているわけではなく、フランスを中心とする地域でどのような麦がどのような割合で栽培されていたのか、どのような栽培・農耕方法が取られていたのか、どのような技術が用いられたのか、どんなパンが食べられていたのか、価格はいくらだったのか、どのように決められていたのか、パン作りに関わる人々(製粉業者やパン職人)にはどのような規則や制限が設けられていたのかなどパンに関する一切合財がいやと言うほどの史料をもとに書かれています。
人間の基本的欲求である「食」を通して歴史を見る、というアプローチは欧米の歴史学会では結構良く見かけるものなのだそうです。生存の基本である「食」をどのように取り扱っているかを見ることで、その社会の特性を見抜くことが出来る、というわけです(「美味しんぼ」の海原雄山じゃん)。私が言うと網野史学の受け売りみたいですが、権力者の変遷だけが歴史ではないということですね。どっかの国に脅されるとすぐ頭のおかしい牛の肉でも輸入しちゃったり、正しい日本食検定制度を作ろうなんて頓珍漢ばっかりやってるどっかの政府を後世の歴史家はどのように評価するのでしょうか。
そういえば空飛ぶスパゲッティ・モンスター教でも人類を支えるエネルギー源として澱粉食物の重要性が強調されていました。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター神は偉大なり!
ラーメン。
ホイチョイ・プロダクションズ『気まぐれコンセプトクロニクル』小学館
ご存知ホイチョイプロダクション『気まぐれコンセプト』を時系列的にまとめたものです。『気まぐれコンセプト』のスピリッツ連載は1981年にスタートしたらしいですが、本書では1984年からのものがセレクトされています。これさえあれば過去20年間、何が流行ったのか、さまざまな流行がどのような盛衰を経たのかが手に取るようにわかります。何たってかく言う私もその一員だったわけですからね。
ちなみに1984年のレコード大賞は五木ひろしの「長良川艶歌」、流行語はピーターパン症候群(どういう意味?)。
1994年のレコード大賞はミスター・チルドレンの「イノセントワールド」(知らねーぞ)、流行語は同情するなら金をくれ(ママになっちゃった)。
どうです、懐かしいでしょう。
主人公は黒スーツ(裸のときもあるけど)と眼鏡がトレードマークの白クマ広告社平社員のヒライさん。連載スタートの1981年ごろ駆け出しだったわけですから、実在の人物であれば今ではどっぷりと中年真っ盛りでしょう。マンガですからあんまり年取ってないですけど。うらやましい。
本書は『バブルへGO』って映画の前宣伝をかねて作られたみたいですから、バブルに絡んだマンガが結構目に付きました。まあ、バブル期ってのは日本中が「エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ」って踊り狂ってたわけですからたいへんな時代でした。いや、ジュリ扇持ってジュリアナのお立ち台で踊ってたのかなあ。行ったことないけど。大体そんなに良い思いはしませんでしたよ。私よりもうちょっと上の年代、そう正にヒライさんもその一員の世代が一番オイシイとこを持ってちゃったんじゃあないかな。ホイチョイの方々はアベソーリが同級生だったらしいですから、私よりも若干年長で、団塊の世代よりはちょっと下。団塊の世代が切り開いたハイウェイを初めて若いもんが自分の車ですっ飛ばしてた世代でしょう。ちゃっかり良いとこだけ持って行っちゃった世代。
私めもバブルのころ煽てられて外銀に転職しましたけど、すでにこの世代の方々がメジャーなポストを占めていて、私なんぞにはお鉢が回ってきませんでした。で、気が付いたらバブル崩壊。回ってきたポストはバブルの尻拭い。そんなもん、誰がやったってうまく行かんでしょうが。クソ、自分たちだけイイ思いしやがって。
バブルへGO!!タイムマシンはドラム式
スペシャル・エディション
2007年8月
ゲッツ板谷さんが文章、鴨志田穣さんが写真、西原理恵子さんがイラストを担当しています。ゲッツ板谷さんは元暴走族やヤクザの予備軍のフリーライター、鴨志田さんは戦争カメラマン、西原さんは漫画家です。ゲッツ板谷さんと西原さんは美術予備校時代からの知り合い、鴨志田さんと西原さんはご夫婦(その後離婚、復縁したようですが鴨志田さんは最近ご逝去されました。合掌)です。この個性的な男性二人を引き合わせたのが西原さんだそうです。西原さん自体も大変「濃い」方ですが、男性の好みも濃いようです。間違っても私ではお眼鏡にかなわないでしょう。
実際にタイ紀行に参加したのはこのうち男性二人と女性編集者。海外旅行花盛りの昨今、まともなところに行ったのでは読者が満足するわけはありません。ということで行った先は……裏表紙から引用。
「金髪デブ=ゲッツ板谷と、兵隊ヤクザ=鴨志田穣がタイで繰り広げる大騒動!麻薬更正寺での地獄体験、オカマのバレーボーラーとの甘い一夜、インチキ丸出しの心霊治療、片田舎のディスコでダンシングオールナイト、ホモの館での恐怖体験……。」
どうです、脳みそが溶けちゃいそうでしょう。
でも、日本人に良くありがちなアジア人に対しては上からものを言うような感じはしないので、大笑いしながら読めます。というか、鴨志田さんは逆に欧米人にはオートマチックに反感を持つらしいですが。濃いなあ。
私はタイには仕事で2日間ほど滞在したことがあるだけですが、面白いことを聞きました。タイのお金持ちというのはベンツに乗っているのですが、道路を渡るときに決してベンツの前を渡ってはいけないと言われました。なぜ?ベンツに乗っているお金持ちは道を歩いているような貧乏人を轢いても気にしないからだそうです。ぼろいタクシーとかだとちゃんと止まってくれるらしいですけど。本当は優しい人たちなのにお金持ちになるとゴーマンになっちゃう。日本と同じですね。
基本的にはおバカ紀行ですが、ところどころに現在の世界情勢(といっても10年位前ですが)を垣間見るような場面が出てきます。金髪デブのゲッツ板谷さんですが、そういう場面は見逃しません。表紙裏の若いころの凶暴そうな顔写真からは想像もできないやさしい視線が感じられます。戦争はいけませんよね。
ついでにも一冊。この本を書く2年前、猛暑と人々の逞しさと菌とウニのトゲとスリに有り金を盗られてベトナムに完敗したゲッツ板谷。今回は兵隊ヤクザ鴨志田を引きつれリベンジの旅、ってバッカじゃないのゲッツ板谷って。
今回の旅行はゲッツ板谷と鴨志田コンビに通訳兼コーディネーターの鈴木君。ヤローばっか3人の旅。やっぱ前回の旅で女性編集者は危ないってことになったんだろうな、最凶コンビの付き人としては。
どこに行ったのかというと……また裏表紙丸写し。
「不良デブ=ゲッツ板谷と、兵隊ヤクザ=鴨志田穣。最凶コンビの今度のターゲットは「絶対降伏しない国」ベトナム。」
「詐欺師丸出しの“自称”ニッポン人との対決、世界の珍獣「手乗り鹿」&日本犬をビバ完食、“セクシー”アオザイの魅力にノックアウト……。そして最大の敵「ベトナム戦争」という歴史と対峙し――。」
バカ丸出し旅行ですが、ベトナム戦争なんてとんでもないものにまともにぶつかって行ってる。ゲッツ板谷さんの場合、暴走族の勢力争いに見立ててやっと理解したみたいですが。