2008年度書評はこちら

200712

ジョン・ロンスン 村上和久訳『実録・アメリカ超能力部隊』文春文庫 

本書の帯には「本書は実話です。本当なのです。」と書かれています。つまり、普通の人には冗談としか思えないような作戦を米軍はやっていたってことです。

何をやっていたかというと、「ヴェトナム戦争のトラウマから、「地球に優しい軍隊」を夢想した軍人。その構想は「超能力者を集めた特殊部隊」へと発展する。計画には超能力者(視線だけで山羊を殺す男)や科学者(脳のアルファ波を研究)が参加、訓練は米軍基地の片隅で続けられた。」だそうです。そして、「「ラヴ&ピース」の思想から生まれたはずの構想は、米軍の中で変質し、いまも別のかたちで生き残っている!」ですって。

超能力そのものについては、面白いたとえ話を聞いたことがあります。ガラスの覆いの中に入った鉛筆とかを動かすサイコキネシス(念動)の実験をテレビ何ぞでよくやっていますが、鉛筆を最も効率的に動かすのは覆いを取って手でつかんだ方が簡単ではないか、というものです。サイコキネシスでピラミッドの岩を持ち上げて作った(実はそんな話もあるんですよ)というならともかく、鉛筆をちょこっと動かすだけでは何の意味もないではないか、アホか、というわけです。

確かに、テレパシーだなんだって言いますけど、カードに書かれた丸とか三角とか星とか当てるだけじゃコミュニケーションにならないでしょ。ところがこうやって文字にするだけで皆さんの頭の中にはあの「超能力カード」のイメージが浮かんだでしょ?こっちのほうがよっぽど超能力じゃん。

動物や昆虫の超能力とかもよく取り上げられていますよね。人間にもその痕跡は残っているとか話題になりますが、現在ではその能力は封印されている場合がほとんど。何でかって言うといらないから。そうやって人類は進歩してきたんだと。

まあ、ソ連とか中国とかもものすごく熱心に超能力を研究していたって言いますから、米国だけがやらないって訳には行かなかったんでしょう。しかし、このような考え方は現在も残っていて、なんでも有りの「テロとの戦い」で妙な使い方をされている、ということだと、どうもね。

でもレーガン大統領が占星術に頼って政治的決断を下していたというのは有名な話ですし、最近「地獄に落ちるわよ」とか言ってるインチキ占い師も政財界に金づるを持ってるって話ですからね。やっぱそういうのには惹かれるんですね、みんな。

本書にも傑作なエピソードが載っています。スタッブルバインという将軍がこの超能力作戦を率いていたのですが、その上官のウィッカムという将軍はスタッブルバイン将軍をひどく嫌っていました。スタッブルバイン将軍の魂は魔王に乗っ取られているって。で、ウィッカム将軍が熱心に取り組んでいたのが「大統領祈祷チームの一員として神に祈ること。今でもちゃんとサイトが存在してます。アメリカのため大統領のために、例えば「テロとの戦いへの勝利」なんてものに祈りをささげるのです。何しろ「大統領祈祷チーム」は911を契機として生まれたらしいですから。超能力作戦と変わんないじゃんか。そういえば、日本でも戦中、宗教界を総動員して戦勝祈祷させて神風を期待していたみたいですから、似たようなもんかもしれないですけどね。

この超能力部隊が発足したのはヴェトナム戦争が終わり、巷ではニューエイジ運動なんてのがもてはやされていたころです。新しい音楽、サイケ、ヒッピーそして麻薬。特定の周波数の音楽(可聴範囲とは限らない)を聞くことによってリラックスできるとか自己実現が出来るなんてあっちこっちで宣伝していますが、この技術が軍事技術と密接に結びついていたとはね。まあ、CIAは以前から麻薬を使った洗脳作戦を実施していた(オズワルドはCIAに洗脳されていた!とかね)ようですから、伝統の作戦かもしれませんがね。最近では麻薬、周波数、パルス光線(視覚に影響させるわけです)なんぞを組み合わせた拷問技術が開発されているそうです。「地球に優しい軍隊」って訳ですね。

話題があちこちに飛ぶので小説のように読めるわけではありませんが、面白い本であることは間違いありません。ぜひご一読を。

サイモン・シン 青木薫訳『暗号解読』上  新潮文庫

同じ作者の『フェルマーの最終定理』が面白かったので次の作品である本書も読んでみました。面白かった。

暗号そのものの歴史は古く、古代ギリシャ・ローマ時代から記録が残っているそうです。暗号があれば当然それを解読する努力も昔からなされていました。本書は古今東西の暗号にまつわるあれこれ、そして暗号解読技術が用いられた古代文字の解読から現在のインターネットに使われる暗号化技術、さらには量子コンピュータまで広く物語られています。

暗号に関する話の中でも最も劇的なのが、ナチス・ドイツが開発した世界最高の暗号機械とされたエニグマの解読にまつわるお話でしょう。なにしろ世界最高ですから、連合軍が暗号を破った後もナチス・ドイツはエニグマが解読されているなんてちっとも思っていなかったそうです。暗号を作る方もものすごく努力したわけですが、解読する方もやっぱり努力していたんですね。慢心した方が負け。

エニグマは最初にポーランドで解読されました。ドイツによる侵略を恐れていたポーランドは英国やフランスの暗号解読チームが不可能としていたエニグマの解読に成功しました。ところがドイツはポーランド侵攻を数ヵ月後に控える時期、エニグマをバージョンアップしてしまいました。新エニグマを解読する余裕も無く、例え解読できたにせよ軍事的に持ちこたえる保証もなく、ポーランドは同盟国であった英国とフランスにエニグマ解読のノウハウを提供したのです。いやあ、心が広い。そして、深慮遠謀。

今も昔も戦争が技術革新に果たす役割ってのはものすごく大きいものがあります。技術といっても、昔は工学系の技術だったのでしょうが、最近では物理学とか数学とかどちらかと言うと抽象的な対象を取り扱う学問にもその範囲は広がっています。顕著な例としては原爆とかコンピュータとかがあります。で、数学分野の応用例のひとつが暗号というわけです。

昔も今も、学問の世界では尖端的かつ抽象的な対象を研究している学者の方がエライという不文律があります。実学系にはそれにあぶれちゃった人間が行くんだって思ってるわけです。物理学だって数学だって紙と鉛筆で研究してる学者の方が、理論の検証をする実験をしたり、確率論をデリバティブに応用して投資家をだまくらかしてカネを儲けようなんてヤカラよりエライとされているんです。文学の世界だって小林秀雄なんて評論家は「竿の握り方がどうのこうのと講釈を垂れる割には全然魚を釣らないじゃないか」なんて言われちゃうわけです。

ところが戦争になるとそんなことも言っていられなくなるわけです。いざ鎌倉、ってことで第一線バリバリの学者たちも総動員されるわけです。英国におけるエニグマの解読に最も功績があったとされるのは現代のコンピュータの原型であるチューリング・マシンの考案者として著名なアラン・チューリングですが、実際には数学者だけでなく「科学者、言語学者、古典学者、チェスの名人、クロスワード・マニア」まで集めたそうです。そんな天才・奇才たちが寄ってたかってドイツのエニグマ暗号機械の解読に取り掛かったのです。そういえば、最近エニグマの完動品がeBayのオークションに出品されたという記事を見ました。その時点では落札されていませんでしたがすでに1万2千ドルの値が付いていました。骨董品として安いのか高いのか。

英国の勝利に大きく貢献したと思われるチューリングですが、暗号解読は軍事機密に係わるため経歴として発表することもできませんでした。それどころか同性愛者であることを理由にいじめられ、41歳で亡くなってしまったそうです。これも戦争の悲劇でしょうか。

文句無く面白い本書、ぜひご一読を。

林信吾反戦軍事学』朝日新書

珍しくリベラル派の観点から書かれた軍事に関する本です。モデルガンを持って写っている背表紙の写真が物語るように、林さんは昔から軍事オタクだったそうです(イケメンだとよく言われると書いてありますが、悪い冗談でしょう)。でも、思想傾向はリベラル派のようです。ま、だから朝日新聞系の出版社から本が出せたんでしょうね。

軍事にまつわる話を徴兵された若者のシミュレーションなどを用いて分かりやすく解説しています。まあ、私なぞ(林さんの2歳下)いま徴兵制がしかれてもよもや徴兵されるとは思いませんが、私の子どもたちの世代が徴兵されることはありえないとは言えない状況です。

このような状況を憂いて本書は書かれていますので、ナショナリスティックな言論をリベラルの立場から論破する形を取っています。それにしても、ナショナリスティックな言論というのはどうしてこうも後ろ向きなのでしょうか。戦後レジームからの脱却とか言っても、出てくるのは昔のあそこが悪かった、ここが気に入らないといった話ばかり。こういう話については実に微に入り細をうがった議論がなされていますが、日本の将来をこうしよう、という具体的な話は全然出てこないではありませんか。本当の目的を言っちゃあおしまいだから、隠しているだけか?

「男女を問わず、今の日本の若い人達は、戦争に直面する危険がある。しかし同時に、若い人達には時間がある。」

「私などは、まあ、できるだけ頑張ってはみるけれど、ヨーロッパを見習って統合されたアジアや、戦争のない地球を見ることは、生きている間はありそうもない。けれど、若い人達には、その可能性がある。」

「それだけに、無駄な時間を過ごさないで欲しい。」

「無内容に戦闘的ナショナリズムを煽り、反中・嫌韓のムードを煽り、やれ自衛軍だ、核武装だということを書き連ねた、漫画や駄本を相手にしないで欲しい。」

「同時に、軍事や戦争という問題から、目をそむけないでもらいたい。軍事問題は決してオタクの世界ではなく、実用的な知識なのだ。」

「軍事問題が理解できれば、国際政治も理解できる。知識を蓄え、情緒的ではなく論理的に、戦争に反対しようではないか。」

私は死ぬ前に統合されたアジアが見たい。そのような未来を実現させる議論をしようではありませんか。  

  手塚治虫「戦争漫画」傑作選』祥伝社 「戦争漫画」傑作選(2)

ご存知日本漫画界の最高峰手塚治虫さんの登場です。本書は手塚さんの長編ではなく読み切り漫画の中から戦争に関わるものを集めたアンソロジーです。

手塚さんは1928年生まれ、終戦当時大阪大学医専に在学中でしたから、ぎりぎりのところで学徒出陣には引っかからなかった戦中派です。この年代の人にとって、戦争というものはそれこそ物心付いたときから常に身近にあったはずです。冒頭の「紙の砦」という作品には、学校で軍事教練の教官にイビリまくられる手塚さんの自画像と思われる学生が出てきます。恐らく手塚さんの年代だと学校における軍事教練はすでに日常風景の一部になっていたはずです。手塚さんは学徒出陣にこそ引っかかりませんでしたが、学徒動員でお国のため働かされていました。そこでも悲しい出来事はいくらでもあったようです。もっとも漫画ではサボって漫画ばかり描いている学生が描かれていますが。半分は本当だったのでしょう。

「紙の砦」のなかに、撃墜されたB29から生き残った乗組員を皆でなぶり殺しにするエピソードが出てきます。手塚さんと思しき学生も恨みを晴らさんとしてぶん殴りに行きますが、なぶりものにされ死にかけた米兵の惨状を見て何もせずにその場を立ち去る下りがあります。そのとき皆は「なんだいあの腰抜け野郎め」と罵声を浴びせかけています。それが悲しいかな時代の風景だったのです。この場面で何をするのが正しかったのでしょう、なんていうセンチメンタルは通用しない戦争の現実が描かれています。

「紙の砦」の終わりで戦争が終わったことを大喜びする学生と、その場から去って行く恋人が描かれています。生き残ったものには未来がありますが、戦争で死んでしまったものには未来は何の意味も無いことを象徴しているのでしょうか。

これだけ悲しい現実を突きつけられても戦争をしたくてしょうがない人たちがいるのはなぜなのでしょう。

本書に掲載されている漫画の初出年度は1968年から1979年、ちょうど手塚さんが40歳から50歳のころです。手塚さんはすでに大家と呼ばれていたころです。日本は戦後の復興期から高度成長期に突入、戦争が遠い過去になりつつある時代です。そのような時代になぜかくも悲惨な漫画を描かせるきっかけは何だったのでしょうか。

今となっては30年から40年も前に描かれた作品ということになります。しかし、描かれた作品は未だに輝きを失っていません。新書版で大変読みやすくなっています。皆さんもぜひご一読下さい。

 

手塚さんの戦争物の長編の傑作といえば『アドルフに告ぐ でしょう。こちらもご紹介しておきます。

 

纐纈厚「聖断」虚構と昭和天皇』新日本出版社 

昭和天皇は平和主義者であったが、当時の軍部に押されて戦争の継続を余儀なくされていた。最終的には昭和天皇の終戦の聖断によって多くの国民の生命財産が救われた、というのが戦後広く流布されたストーリーです。

しかし、史実に現れる昭和天皇はむしろ「国体」の護持に重きを置き、国民の犠牲なぞをかえりみず、「もう一度戦果を挙げてから」と戦争継続に固執したとされています。ただし、このような事実は本書で始めて明かされる、というわけではなく、すでにさまざまな資料によって明らかにされていたようです。結構イケイケの戦争指導をしていたことも明らかになっていますし。

日本の敗色が濃くなる中、戦争継続を唱える軍部と敗戦は受け入れざるを得ないとする宮中・重臣グループが暗闘を続けていました。軍部はいま戦争を止めたのでは、無念の思いを胸に亡くなられた英霊たちに顔向けができない、と釈迦力になって主張していました。何かがうまく行かなかったときにはいつだって今までにやってきたことが無駄になる、という言い訳が使われ、苦痛を伴う決断が先送りされます。冷静に考えれば決断を先送りにするツケの方が大きいんですけどね。もっとも重臣たちも、悪いタイミングで戦争を終わらせちゃうと怒った国民が皇室にも戦争責任を問いかねないので、何度か本土爆撃みたいなことがあって、責任を全部東條におっかぶせちゃえるような状況を待つべきだ、だから今はタイミングではない、なんて議論をしていたんですから、国民のことを考えていない程度は同じですね。重臣たちは敗戦よりも日本で赤色革命が起きることを心配していたらしいですし。

昭和天皇は戦争継続に軸足を置いていましたが、19455月の沖縄戦での敗北、ドイツの降伏などからようやく敗戦やむなしと方向転換したようです。でも、「国体」護持が大事。戦争責任を認めたら「国体」が護持できなくなってしまいますので「聖断」虚構が準備された、というわけです。政治的寝技としては見事なのでしょうが、実際の敗戦まで3ヶ月もかかりました。その間も多くの国民の生命・財産が徒にすり潰されていったのです。原爆だって2発も落とされちゃうし。これって、もしかして国民の敗戦アレルギーを中和するためのできレース?しょうがないって。

昨今も靖国神社におけるA級戦犯合祀に不快感を示したメモが見つかり物議をかもしましたが、東条英機って昭和天皇のお気に入りのはずだったはずですよ。本人が死んじゃった(しかも刑死)後になって文句言われてもねえ。昭和天皇は敗戦直後のニューヨーク・タイムズとの会見でも、真珠湾攻撃は東条英機の判断だったと発言していたそうです。たとえ形式的なものだとしても、最高責任者がそれを言っちゃあいけないでしょう。建前として。

でもそんな批判は米国メディアからも報道されませんでした。なんで?そりゃ占領軍であるアメリカ政府との打ち合わせの上で決まったわけですからね。「国体」は護持してやるけど、日本はアメリカの属国になんなきゃだめよ、ってなワケです。言うこと聞いてりゃ戦争責任とかは全部東條におっかぶせちゃっていいから。お前らには目をつぶっててやるよ。これでOK、って。これぞ戦後レジーム、なんじゃないですか?

まあ、だからこその戦後の繁栄だったわけですが。ここらへんが日本人にとって悩ましいところなんじゃないでしょうか。経済的繁栄を享受していられるのはもちろんのこと、こんなたわ言みたいなウェッブサイトを運営していられるのも、時の政府にケチを付けてものほほんとしていられる自由を得られたのも、ぜーんぶアメリカ様のおかげですからね。ナショナリスティックな主張は日本人の心に響きますが、だからって今の生活を投げ出して特高が幅を利かせる時代に戻る気はない。うーん、アンビヴァレント。

併せて読むと理解が深まるかと思います。『昭和天皇独白録

200711

ビートたけし・竹内薫『コマ大数学科特別集中講座』フジテレビ出版

フジテレビの深夜番組「たけしのコマネチ大学数学科」から生まれた本です。番組ではビートたけしさん、現役東大生2名のチーム、たけし軍団からなるコマネチ大学数学科のチームに分かれて出題された数学の問題を解きます。数学の問題ったって大学の数学科のレベルでしょうきっと。私にはまるっきり歯が立ちませんでした。トホホ。

竹内薫さんはベストセラー『99.9%は仮説』の著者です。そしてビートたけしさんはご存知日本を代表する芸人・映画監督・大学教授、他なんかあったか、ですが、お金がたまって暇になったらもう一度数学の勉強をしてみたいと言うほどの数学好きなのだそうです。

この番組もそうですが、平成教育委員会なんて番組もビートたけしさんのアイデアなのだそうです。いろんなことを考えるのが好きみたいですね。

ところで、本書の中で竹内さん(専門は物理学)が、数学と物理学の違いを小説とノンフィクションに例えています。例えば、ニュートン力学では2体問題という2つの物体がぶつかったときの問題は完全に解けるのだそうですが、3つ以上になると解けなくなるのだそうです。あるいは、振り子の運動なども数学的には簡単には解けないそうです。で、物理学の人は解けないんじゃ困るから近似式とかを使ってなんとか答えを見つけちゃう。ところが数学系の人にとっては解けないものは解けないのであって、近似式なんてのは吐き気がしちゃうんだそうです。

私は高校まではなんとか数学やってましたけど、それ以降の難しい数学は経済学を通して学びました。最近の経済学ってまるっきり数学みたいになってしまっていますからね。でもねえ、経済学って本当は現場の学問じゃないですか。いくら理論的にこの経済政策はこのような効果をもたらすって言われてもそうなんないことや、想定外のネガティブな効果が現れることだってあるでしょうが。ところが学問の現場では数学者が勝っちゃうんだな、理屈としては。なんたって実体経済では結果が出るのはずっと先の話ですからね。

そんなこんなで数学が嫌いになった私ですが、この本は面白く読めました。

 

清水義範・西原理恵子『いやでも楽しめる算数』講談社文庫

清水・西原コンビの「おもしろくても理科、「もっとおもしろくても理科」、「どうころんでも社会科」、「もっとどうころんでも社会科」に続く第5弾お勉強シリーズのエッセイです。その後も「はじめてわかる国語」、「サイエンス言語学」、「飛びすぎる教室」なんてのがシリーズ化されています。

ビートたけしの次は西原理恵子だって訳です。え、サイバラも算数が好きなの?まさか。自慢じゃないけど九九ができないって言ってますよ。

西原さんの「ハカセ次は算数いきましょうや。理科よりも物理よりもワケわかんない流水算、つるかめ算、体積、表面積。箱の中に水入れて、そこに小石入れて、5センチ水面が上がって、その小石の体積がとか、水の中に塩水入れてそのパーセントがとか、小学生の時私が問題を見ただけで目に涙がいっぱいたまった、五時の下校の鐘まで必ずいのこりだった、あの算数をきゃんきゃんゆわしたてやりたいよ」の一言で決まった算数エッセイ。清水さんは「決して算数をきゃんきゃんゆわすためではなく、そこにマンガを描かなきゃいけないサイバラがきゃんきゃんゆっておもしろそうだ」という理由で採り上げたらしいですが。清水さんってドSなのね。

確かに小学生の算数ってのは独特で、教えようとすると頭かかえちゃうような問題が多いですよね。つるかめ算なんて数学4000年の知恵を無視してわざと難しく考えているみたいですよね。先人の知恵に学ばなきゃって、そういう問題ではないか。

もっとも、この連載が小説現代で始まると、編集部には、わからん!おもしろくない!今すぐやめろ!の投書が山積みになったそうです。やはり算数とか数学ってのは嫌いな人はとことん嫌いなんでしょうね。西原さんのマンガも毎回早くこの連載をやめんかいという激烈なものばかりですし。

だいたい文章を担当している清水さんからして数学はそれほど得意と言うわけではないようです。だって、ある科学雑誌のエッセイに、答えもわからずに数学の問題を出しちゃって、しかもそれに対する解答がどっと来て困っちゃったなんてトホホなエピソードが書かれています。だからこの本の担当範囲は数学ではなくって算数までなんだそうです。

でもですね、雑誌とか不特定多数の目に触れる文章に問題を付けるときは本当に細心の注意を払って100%正確に書かなくちゃいけないんですね。私も最近雑誌掲載の記事を書きましたけど、編集の方にずいぶん直されちゃいました。100%正確ってどういう意味か分かります?それは、どんな○○が読んでも一種類の理解の仕方しかできないように書く、ってことなんですね。このくらい分かるだろう、なんてのはだめなんですって。そういう曖昧なところがあると編集部にどっと質問が来ちゃうんだそうです。算数を数式に逃げないで説明することを使命とする本書、書くのに相当苦労したんではないでしょうか。

誰でも分かるようにって言いますけど、算数の文章問題ってのは分かりにくいですよね。わざと分かりにくく書いているみたい。

本書にも「1本のひもがありました。1回目に40cm使い、2回目に残りの1/5を使いました。3回目には1.2cm使い、4回目に1/3使うと80cm残りました。もとのひもの長さは何cmですか。」なんて問題があほな出題例として出ています。

紐なんてものは長めに切って使い、余った分を切り落とすのが生活の知恵ってもんでしょうが。こんなバカなやり方教えてどうすんですか。ひもを1.2cm使いましただって。結べるかそんなもん。バカ(でもこれ1.2mの誤植だろうなあ)。あ、こんなことは決し子どもに言ってはいけませんよ。

でも西原さん本当に九九ができないんでしょうか。最近のマンガ(さいばらりえこの毎日かあさん)には64引く28(だっけ?)ができない子はうちの子じゃなーいとか言いながら息子に算数の特訓をしてるのが出てましたよ。自画像がね。

 

プラディープ・クマール 石垣憲一インド式秒算術』日本実業出版社

西原さんは九九ができないと騒いでいましたので、巷で話題になっているインド式計算術の一冊をご紹介しましょう。いろいろ類似本があり物議をかもしていますね。インド式と言うので、スパイスを効かせた神秘的な計算方法が書かれているのかと思いましたが、非常にオーソドックスな計算方法が解説されています。

例えば1の位が5の2桁の数字の2乗の計算。25×25=625って簡単に計算する有名な方法があります。どうやるのかと言うと、百の位は10の位の数字(2)と10の位の数字(2)に1を足した数(3)を掛けたもの(6)。10と1の位は必ず25。だから25×25=625になります。35×35だったら1,225。55×55だったら3,025。

この計算方法は1の位の数字を足せば10の場合(22×28とか)に拡張できます。どうなるのかは本書をご覧下さい。簡単な法則なので、すぐに証明できますよ。

そういえばインドでは九九を99×99まで暗記させるとかって話がありましたが、本当なんでしょうか。もしそうだとしたら冒頭の2桁の計算の秒算法が出てくるわけ無いと思いますけど。

西原さんは九九ができないとか言っていますが、私も九九は全部覚えていないですね。というか、言えない。あ、計算ができないってワケじゃないですよ。小学生のころ、6×9と9×6は同じじゃないか、ということに気づいて(オレって天才!?)「ろっくごじゅうし」は覚えたんですけど「くろくごじゅうし」はネグっちゃったです。そうすると覚えるのが半分になるでしょ。未だに8×5とか出てくると「はちご」だから「ごはしじゅう」って考えているんです。あ、あなたも同じでしたか。

さまざまな場合に使える計算方法が満載ですが、平たく言えば数字をばらばらにして(2桁の数字だったら10a+b)計算した結果の式を覚えておいて実際に計算するときにそれぞれの係数を代入していく、というのが基本です。え、神秘的でもなんでもないじゃん、って。そのとおり。

数学の中でも整数だけを扱う数論は最も難しく、かつ最も長きに亘って研究されてきたわけですから、簡単な計算方法があったら知れ渡っていますよ。ゼロを発見した数学の天才インド人を以ってしても、どんな計算でも簡単にできる方法なんて見つけられないんです。いろんなスパイスを混ぜたり、お香を焚くくらいでは計算問題は解けないってことですね。過大な期待はしないようにね。ちゃんちゃん。  

サイモン・シンフェルマーの最終定理』新潮文庫 

ご存知フェルマーの最終定理とは

この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない

というものです。

nが2のとき、有名なピタゴラス(本書ではピュタゴラスと書かれていますね)の定理になるわけです。昔からnが3以上の場合は整数解が見つかっていなかったことは確かですが、本当に整数解がないのか、見つかっていないだけなのかが長らく不明でした。で、フェルマーはnが3以上の場合は整数解が無いから見つからないのだ、と主張したわけです。

最終定理そのものはフェルマーが1637年ごろ発見したと言われていますが、今のように論文にして発表した、というわけではなく、「算術」(著者はディオファントス。紀元3世紀ころのアレクサンドリアに生きたとされています)という本の余白に上記命題を「私はこの命題の真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」というコメントと共に書き記しただけでした。

フェルマーは裕福な皮革商人の息子として生まれ当時としては高い教育を受け、その後は高級役人としての人生を送ったそうです。数学は趣味。それにしてはパスカルと確率論を共同研究、ニュートンの微積分の発見にも貢献したとされています。フェルマー自身は1665年に亡くなっています。フェルマーの死後、息子が書き込みなども含めた「算術」の特別版(解説版でしょうか)を出版、後世に残ることになったそうです。しかし、肝心の証明そのものは失われていました。

命題そのものは中学生でも理解できる簡単なものですが、なぜか証明できない。以後300年以上にわたり数学者を悩ませ続けてきたのです。

この問題を最終的に解いたのがアンドリュー・ワイルズという数学者でした。1994年のことです。実は、1993年に一度証明した、と発表したのですが、証明に欠陥のあることが判明、1年をかけて欠陥を修正、再度世に問うたのです。驚くべき根性ではありませんか。

人はなぜ数学に惹かれるのでしょうか。その一端が本書に示されていました。科学的証明というものは実は絶対的ではありません。ニュートン力学はアインシュタインの一般相対性理論によって取って代わられ、そのアインシュタインもより洗練された理論によって取って代わられるかも知れません。そういうものなのです。ところが、ピタゴラスの定理は我々が慣れ親しんでいる3次元空間においては絶対普遍です。主観的要素は全く含まれない絶対的証明が可能なのです。しがらみや矛盾に取り囲まれた現世とは隔絶した理性主義的なところがたまらない魅力なのではないでしょうか。

絶対普遍?そういえばゲーデルの不完全性定理なんてのもありましたね。

第一不完全性定理

公理的集合論が無矛盾ならば、証明することも反証することもできない定理が存在する。

第二不完全性定理

公理的集合論の無矛盾性を証明する構成的手続きは存在しない。

ゲーデルの定理によれば決定不可能な命題があることになります(すべての命題が決定不能なわけではありません)。フェルマーの定理は正しいと証明されるのでしょうか、それとも間違いだと証明されるのでしょうか、あるいは決定不可能なのでしょうか?ところがもしフェルマーの定理が決定不可能であれば、それはフェルマーの定理が真であることの証明になるのです。あらま。ご興味のある方は本書をお読み下さい。

フェルマーの定理が証明されたとしても、数学界にはまだまだ未解決の命題があるそうです。ひとつ挑戦してみますか?数学に関するエピソード満載の本書。脳トレにはもってこいです。おまけに読み物としてもとても面白く書かれています。数学嫌いの人でも楽しめますよ。

 

ダニエル・タメット 古谷美登里訳『ぼくには数字が風景に見える』講談社

著者のタメットさんは円周率22,500桁を暗唱し(イベントの企画で3ヶ月で覚えた)、10ヶ国語を話せる(アイスランド語はテレビの企画で1週間で覚えた)という天才ですが、実はサヴァン症候群でアスペルガー症候群(タメットさんは自閉症スペクトラムという用語を使っています)を患っています。さらに共感覚といういささか変わった感覚の持ち主でもあります。サヴァン症候群やアスペルガー症候群は稀にある特定の分野に天才的能力を持つ者を誕生させる(映画『レインマン』とか)ことで知られていますが、その他の精神障害を併なうことが多いため、自分の持つ能力や感覚を説明することができない場合が多いようです。そのためこれらの能力は精神科医でもない一般人の目に触れることは稀です。タメットさんの症状には知的障害が伴わなかったため、自らの症状を本としてまとめることができたのです。

彼の目に数字がどのように見えるかというと、

「ぼくが生まれたのは1979年の1月31日、水曜日。水曜日だとわかるのは、ぼくの頭のなかではその日が青い色をしているからだ。水曜日は、数字の9や諍いの声と同じようにいつも青い色をしている。ぼくは自分の誕生日が気に入っている。誕生日に含まれている数字を思い浮かべると、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形があらわれる。滑らかで丸いのは、その数字が素数だから。31,19,197,79,1979はすべて、1とその数字でしか割ることができない。9973までの素数はひとつ残らず。丸い小石のような感触があるので、素数だとすぐにわかる。ぼくのあたまのなかではそうなっている。」

「ある数を別の数で割ると、回りながら次第に大きな輪になって落ちていく螺旋が見える。その螺旋はたわんだり曲がったりする。割る数が違えば、螺旋の大きさも曲がり方も変わる。ぼくは頭のなかで視覚化できるために、13÷97のような計算も小数点以下第100位くらいまで計算できる(0.1340206……)。」

どうです、分かりやすいでしょう……。

そういえば、絶対音感のある人にはそれぞれの音程が完全に別物として聞こえるそうです。私なんか移調しちゃうと全部同じに聞こえますけど。作曲家がどの調で曲を書こうかなんてのも、ちゃんとした理由があるんだそうです。ハ短調は悲劇的な調、ロ短調は受難曲の調、変ホ長調は英雄の調とか。作曲家によっても好みの調が違うみたいです。

以前NHKのピアノのレッスンとか言う番組でまだ小学生ぐらいの女の子がピアノを教わっている場面を見たことがあります。そのとき選ばれていた曲が確かドビュッシーで、ずいぶん難しい曲を選んだんだなと思ったことがあります。そのときの先生が、「ほら、ここの部分は白い雲みたいにふわふわした羊が草原の上で遊んでいるような風景を思い起こして下さい……」なんて言っているのを聞いて、変わった教え方をするなー、と感心しました。この先生は音楽を聞くと風景が見えちゃうんでしょうね。子ども相手に教えるわけですから、技術的にあーだこーだと言う代わりにビジュアライズするというのはありなのかも知れません。

そういえば銀行勤務時代、某赤い門のある大学の数学科を出た知り合いが居ました。何で彼が金融界なんぞに来たかというと、大学時代に数学の天才レベルの同級生に居たからなんだそうです。私の知り合いだって某地方の高校では常にトップ、大した勉強もせずに赤門大学に入っちゃったような奴ですが、その天才君はレベルが違ったらしい。数学科のゼミでは毎週演習問題が何問か配られるそうです。で、みんな図書館にこもって文献とにらめっこしながら問題を解くんだそうです。それでも半分もできれば良い方。ところがその天才君は解答の時間だけ出席して準備もなしにその場で演習問題を片っ端から解いちゃうんだそうです。私の知り合いは、だめだこりゃ、というわけで金融界に進んだんだそうです。天才君の頭の中では問題の見え方が違ったのかもしれませんね。

大学で数学の授業をとったときも教授が似たようなことを言っていました。数学者の中には四次元空間(ミンコフスキー空間とかってやつでしょう)が頭の中でイメージできる人がいるのだそうです。で、そういう数学者が、四次元の立体と立体がこういう風に交わっているんだよ、分かるだろ、なんて言うわけですが、教授にはさっぱり分からないのだそうです。もちろん数学の教授ですから、式を立てれば交わりの部分がどのような数式で表されるか分かるのでしょうが、イメージとして捉えることは無理。

でも頭の中で三次元の図形をイメージできる人間ですら少ないと聞いたことがあります。頭の中で立方体を展開するとか回転させるとかね。何とか症候群なんていうと、あっち側の人、という感じになってしまいますが、普通の人とちょっと違っているだけ。つまり、天才や何とか症候群の人々も程度問題ってことでしょう。最近は医学上の理解も正常と異常の境界線をなだらかにする方向に修正されているそうです。タメットさんも自らを正確に理解し受け入れるようになるまでは、自らの症状そして周囲とのさまざまな軋轢に悩まされたようです。本書では割合あっさりと書かれていますが。

天才の頭の中を覗くことができる本書。ちょっと変わっていますが、面白い一冊でした。

 

200710

橘玲マネーロンダリング入門』幻冬舎新書

マネーロンダリングと言えば、2003年にヤミ金融グループ五菱会の100億円にも上る資金がヤミルートを辿ってスイスの銀行に送金されていたことが明るみに出、その金額の大きさに驚倒させられたものです(何しろそれが利益ですからね)。また、2007年4月からマネーロンダリング情報の管轄が金融庁から警察庁(国家公安委員会)に移動したなどの報道でマネーロンダリングという言葉を耳にした方も多いものと思います。身近なところでは金融機関からどこかの口座に送金するとき、限度額が低くなったり、身分証明書の提示を求められるようになったりしたのでお気づきになられた方もいらっしゃるでしょう。

五菱会の手口は、事件が明るみに出る1年前に橘さんが出版した小説でその手口を詳細に紹介していた割引債を使った古典的な(すでにまともな金融機関だったら取り扱わない)ものだったそうです。摘発されたときの国際金融関係者の反応は「まだそんなことやっていたの?」と言うものだったそうです。知らなかったのは俺だけか!

本書にはそれ以外にも数多くのマネーロンダリングの実例が出てきます。先般ご紹介したグラミン銀行の名前も出て来ます。マネーロンダリングに関連してではなく、同じころパキスタンでイスラム社会に貢献する国際銀行を設立したアガ・ハサン・アベディという人物との対比としてですが。アベディが設立したのが悪名高いBCCIという銀行です。1991年に破綻しましたが、マネーロンダリングなどアンダーグラウンドの顧客(アンダーグラウンド勢力の中には表沙汰には出来ない活動をしている各国機関なんかもあったと言われています)を相手に盛大に取引していたと言われています。本来の趣旨とは外れていること。でも、イスラム世界では英雄として亡くなったそうです。詳しくは本書をどうぞ。

でもねー、この本読むと、100万円の送金にケチつけてもしょうがないような気がするんですがいかがでしょうか。

最後の結びが気に入りました。「いつの時代でも、理想や正義を声高に語る人の後をついていくとろくなことはない。この本に書いたのは、たとえば、そんな単純な真理である。」

 

楡周平陪審法廷』講談社

日本でも2年後には殺人や放火などの重大犯罪の審判に裁判官と共に選任された市民が参加する「裁判員制度」が始まります。国民の大多数が内容も分からないうちにやらせ公聴会を開いたことをアリバイにして決まってしまいました。米国では陪審員制度として長らく実施されています。裁判員制度が始まるとどうなるかを米国の陪審員制度でシミュレーションしているサスペンス小説です。

お話は主人公の少女がグアテマラのスラムで生活する場面から始まります。ひょんなことから米国に密入国した少女は裕福な家庭の養子になりました。ところが養父にレイプされてしまいます。それを知った隣家の日本人少年が養父を射殺、第一級殺人で裁判にかけられることになりました。そこにアメリカ国籍を持つ日本人女性が陪審員として参加して……以下ネタばらしになるので省略という物語です。

市民参加の裁判というのはギリシア・ローマの時代からある由緒ある制度ですし、米国でも民主主義の根本原理として採用されています。陪審員制度は植民地時代から存在するそうですが、これは裁判官を通して行使される本国政府の横暴から市民を守る、という意味合いが強かったのでしょう。そういう意味では日本でも裁判員制度を導入する意味があるかもしれないですね。未だに冤罪事件とか後を絶たないですし。

でも、作者の楡さんが日刊ゲンダイでのインタビューで懸念しておられるとおり、日本の裁判所・検察が真剣に民主主義の実現のため裁判員制度を導入したとは思えない節があります。札幌高等検察庁のホームページにはもちろん,裁判員になる以上は,被告人の人生を左右する立場にあることは否定できませんが,個々の裁判員がたった一人で裁判をするわけではなく,判決内容も,他の裁判官や裁判員とともに議論を重ねた上で決めることになりますし,現状では,死刑判決の宣告を受けた事件については,被告人や弁護人又は検察官が上訴するなどして控訴審(第二審)あるいは上告審(第三審)まで審理が続けられることが多く,第一審の裁判以外の裁判には裁判員制度は採用されておりませんので,深刻になる必要はありません」ですって。一審だけの採用ですので、「どーせ重大事件は控訴されるに決まってんだ、お前らテキトーにやってりゃいいんだよ」って言ってるように聞こえますよね。おまけに、裁判員になる前に根掘り葉掘り思想信条について聞かれ、好ましくないと判断されると罷免されます。ま、このあたりの駆け引きはO.J.シンプソンの事件のときとかでも問題になってましたよね。

でもねー、日本の裁判官ってものすごいタカビーで有名なんですよ。日本のエリートと呼ばれる法曹関係者の中でも司法研修所の成績が上位でないと裁判官にはなれないと言われています。で、同じ法曹関係者でも一番偉いのが裁判官、次が検察官、一番下が弁護士。巷ではエリート中のエリートである弁護士ですら、「ちょっと、そこの君」ってなもんです。薄給でお国のために尽くしている裁判官は自らの姿に酔っちゃってる。で、訳のわかんない訓示を垂れたり判決文を書いたりする。

こないだも袴田事件は無罪だと思った、って発表した元裁判官に、裁判制度の尊厳を損なうだなんだって文句付けてる裁判官がいましたよね。無罪の人間が死刑になってしまうことより裁判の尊厳の方が大事なんでしょうねこの人には。「いまさらごちゃごちゃ文句つけてんじゃねーよ。アホな国民が裁判を信用しなくなっちまうじゃないかよ。在任期間中にそんなこと言ったら即クビだから言えなかったクセしてエラそーにしてんじゃねーよ」って。

こんな裁判官と対等に渡り合える裁判員なんているんですかね。裁判なんて結局法律論ですから、専門家である裁判官がこうだ、って言い切っちゃったら文句言えないでしょ。何でですか、なんて聞くと、裁判官に「このバカドシロートが、分かんないのか。面倒クセーけど説明してやるから良く聞いてんだぞ、このアホ」とか顔に書いてあるような調子で説明されちゃう。ビビッちゃって二度とは聞けないでしょ。結局裁判官の言うとおり、になっちゃうんじゃないですかね。私だって寝ないで1週間くらい考えりゃ気の利いた反論のひとつも思い浮かぶかもしれませんが、そのころには裁判は終わってるって。

本書はサスペンス小説ですので楡さんの意見がああだこうだと書かれているわけではありません。しかし、楽しみながら読み進めるうちに裁判員制度にさまざまな疑問がわいてくるのではないでしょうか。

 

長嶺超輝裁判官の爆笑お言葉集』幻冬舎新書

著者の長峰さんは司法試験に7回挑戦するも願い叶わず、現在はライター業の傍ら裁判傍聴を趣味にしているようです。そういう方なので、裁判官のおバカなお言葉を並べておちょくって、積年のうらみつらみを晴らしてやる、という本なのかと思いましたが、全くそのような軽い本ではありませんでした。

裁判官としては過去の判例と比較して妥当な判決(「量刑相場」と言うのだそうです)を数多く下す方が評価されるのだそうです。当然出世も早い。この本を読むと、無駄な言葉を差し挟む裁判官は、単に量刑相場に従った判決を下すだけでは足りない部分を補っているように感じられます。本書では事件のあらましも記してありますので、裁判官がなぜそのような発言をしたのかが良くわかります。爆笑どころか思わず涙が出ちゃうお言葉もたくさんあります。

まあ、裁判官によって判決内容がころころ変わる、というのでは困ることも確かですが、機械的に過去の判例を当てはめて一件落着、というのでは犯人の更正とか被害者の救済、犯行によって壊れてしまった家族の絆の回復とかに役立つとはとても思えませんよね。ま、日本の司法システム(裁判所だけでなく刑務所とかの更正施設を含めた全体ですね)が犯人の更正を目指している、とはとても思えないのは事実ですがね。どちらかと言うと国の決めた法律を破るようなけしからん奴にはお仕置きしてやる、というのが基本スタンスでしょ。もちろん被害者の救済など関係ないし、犯人の家族なんて犯人を生み出したとんでもない奴らで、できることなら一族郎党もろとも遠島を申し付けたいと思ってるんじゃないですか。まあ、だからこそ小さな反抗ですが本書のような言葉をかける裁判官は少数派なんでしょうね。

ことの性格上、採り上げられているのは殆ど刑事裁判ばかりですが、厳しい言葉をかけられるのは犯人ばかりとは限らず、妻をストレスのはけ口にした結果、妻が子どもを虐待死させるという事件を引き起こしてしまった夫に対しても、「仕事が忙しいのは当たり前でしょう。そんな言い訳が通ると思っているのか。」と厳しい言葉をかけています。

読んで楽しい本ではありませんが、陪審員制度の実施によって一般人も判決を下す側として裁判に係わることになりました。裁判官ですらどのような判決を下すか迷っているのです。本書は判決を下すことの意味をもう一度考えるための参考になるでしょう。

 

村山 治特捜検察vs.金融権力』朝日新聞社

パナマで中国製原料を使ったせき止め薬を服用した100人以上が死亡したとされる事件で、中国政府は、原因はパナマ側にあると逆切れする一方、製薬会社から多額のわいろを受領したかどで逮捕されていた前国家食品薬品監督管理局長に死刑判決を言い渡すことで釣り合いを取ろうとしました。裁判の期間も2週間ほどだったそうです。つまり一罰百戒、安全を内外にアピールするために死刑判決が下された、と見て間違いないでしょう。

これに対し、社会システムの変革が必要なのにトカゲのしっぽきりみたいなことでは失われた中国に対する信頼は回復できないのではないかといった批判がなされています。中国の社会システムは遅れてるって。

しかし、日本でだって国策捜査は当たり前。ムネオハウス事件とかホリエモン事件とか村上ファンド事件なんてどう考えたって国策捜査でしょ。日本の場合一罰百戒というより、政府はこんなに立派なことをやってますよというデモンストレーションの色彩が強いような気がします。大蔵省の過剰接待みたいな不祥事があったとき、政府は何をやっているんだ、という批判が起きないようにガス抜きをしている。で、こういう不正の追求ってのは徹底的にやっちゃうと社会がガタガタになっちゃいますから、適当なところで収めておく、と。

ま、ホリエモンが頂点から奈落の底に突き落とされたのは、バックにいた人々の立場が構造改革の成功を宣伝しなくちゃいけないってのから構造改革が行き過ぎて格差とか問題になっちゃったのを何とかしなくてはいけないってのに変わったからなのですからしょうがないのでしょう。所詮ホリエモンなんてトリックスターじゃないですか。いらなくなりゃ、ポイ。でもねえ、その尻馬に乗って時代の寵児と煽てていたマスコミがいっせいに手のひらを返したのはいただけませんでしたね。マスコミ自身が衆愚になってしまっています。

題名からも伺われるように、本書は検察と大蔵省という2大権力の離合がテーマになっています。バブルの崩壊や過剰接待問題などなどをきっかけに批判を浴びた大蔵省はついに財務省と金融庁に分離させられました。検察にも容赦なく鉄拳を振るわれました。しかし、時を経て手打ちした、というのがストーリーの底流ですが、それではこの後どうなっていくのでしょうか。

戦前の検察というのは「天皇の検察」というイメージだったわけです。特高なんかのイメージとか、「オイ、コラ」時代の警察ともダブりますね。これが敗戦を機に「国民の検察」、「国民の警察」になるはずだったわけですが、日本の統治機構である官僚組織(軍隊を除く)というのは、進駐軍の意向もあって温存されました。そうじゃないと統治機構を一から作らなくちゃなりませんからね。それに、共産主義勢力に付け入られる前に何とかしなくちゃならん、といった要請もあったのでしょう。で、表面的には民主化された警察とか検察にも昔からの気風が残っちゃったわけですね。「国民の…」というよりは「政府の…」になっちゃったわけです。まあ、その程度だったら何とか許せるのかもしれませんが、最近では「警察のための警察」とか「検察のための検察」になってるんではないですかね。この間の全員無罪の選挙違反事件なんて今どき考えられないような大時代的な事件でした。

「本来、国策とは国の政策をいう。検察は国の行政機関である。その検察が国の政策に沿って権限を行使するのは当然のことである」と村上さんは書いています。なるほどごもっとも、とか思っちゃいそうですが、三権分立とか昔習ったことはどこ行っちゃったんでしょうか。

「検察は、国民の利益のために犯罪を訴追することを求められている。時の政権と国民の利益が一致しないことはあり得る。仮に、政権が捜査の範囲を限定していたとしても、その捜査を通じてより大きな構造的な犯罪の疑いが浮上した場合は、積極的にそれを解明しなければならない」とも書かれています。理想はそうでしょうが、本当にそんなことしてんのかね。国民の利益ったって、人によりいろいろでしょ。いちいち聞くわけにもいかんし。で、重要なのがチェック・アンド・バランスのシステムなのではないでしょうか。三権分立もそうだし、マスコミの役割もそう。でも、日本では一部のエリートが「これが国民の利益だ」って言って強引にリードして行っちゃうんですね。ま、他の国だって同じようなもんだろうけど。アメリカとか。この本にもマスコミ=日本のエリート=オレには国益の何たるかが見えている、って自負というか自信というか鼻持ちならないエリート臭がしますね。ひがみでしょうか。本書を読んでも、あ、これで枕を高くしてなられる、とは全然思えないことが問題でしょう。

最近も朝鮮総連の中央本部売却を巡る事件で、元公安調査庁長官が詐欺容疑で逮捕されるという事件がありました。これに対して検事などの職についた者は退職後もこのような行為に手を染めるべきではない、といった論調がありましたが、私はいささか違和感を感じました。検事にしろ裁判官にしろ、その公正さを担保するのは個人的な資質のみではないはずです。公正さを担保するシステムが必要なはずです。そしてその担保する仕組みが第三者によるチェック・アンド・バランスなのではないでしょうか。日本はどうもこのシステムがうまく働かない。だから冤罪もなくならない。元公安調査庁長官が詐欺容疑で逮捕されたとき、国民の検察への信頼が損なわれる、なんてヘボなコメントをしている検察関係者がいました。だったら冤罪事件を起こした検事なんぞクビにしろって。なんで誰もはっきり言わないんだ、そんな奴クビにしろって。そう言えば警察とか検察って取調べの可視化にも頑なに反対し続けていますよね。

あ、日本のエリートに共通する特質があります。それは絶対に非を認めないことです。何かに失敗があっても全部人のせい。そんな強大な権力を握る金融権力(旧大蔵省と日銀)が特捜と手を結ぶとろくなことが無いように思うんですが。思い過ごしでしょうか。

小林秀之裁かれる三菱自動車』日本評論社

2002年1月、2人の幼子を連れた母親の命は背後から激突した、走行中の大型車からはずれた巨大なタイヤによって奪われました。そもそも三菱自動車では2000年に大規模なリコール隠しが発覚、再建途上にありました。そのような状況にありながら再度発覚した構造上の欠陥がありながらリコールもせず放置したことにより引き起こされたと思われる事件でした。

本書は被害者の母親が起こした損害賠償請求訴訟を辿ったドキュメントです。本書は一審判決が出る前に出版されていますので、その後の経緯について加筆しておきます。損害賠償請求そのものは被害者の夫が事故を起こしたトレーラーの運転手に対して起こした損害賠償請求とは別に、トレーラーの運転手、トレーラーを所有する有限会社、三菱自動車、国に対して起こされました。このうち運転手に対する訴えは2004年5月に取り下げ、有限会社とは2005年2月に和解が成立しています。最後まで争った三菱自動車に対して2006年4月、550万円の支払いを求める判決が下されました。なお国に対する請求は棄却されています。この訴訟では米国では認められている1億円の懲罰的慰謝料(懲罰的賠償金)を請求したことからも注目されましたが、認められませんでした。三菱自動車からも和解の申し出はありましたが、交渉はまとまりませんでした。なぜ交渉が決裂したか、その顛末は本書をお読み下さい。

当初『事故の原因は使用者の整備不良』としていた三菱自動車ですが、2004年3月にハブの構造的欠陥を認めリコールを行いました。事故からは2年も経っていました。

著者の小林さんは一橋大学大学院教授ですが、法曹資格を持っており、実際にこの裁判にも関わられたことがあるようです。その経歴のしからしむるところなのか分かりませんが、本書の内容はかなり法律論及び裁判の経緯の説明に割かれています。そして、三菱自動車の姿勢を「三菱は、とにかく裁判に勝つことだけを考えていた。民事事件も刑事事件も、徹底的に争って勝てばよいと考えていたのだろう」としています。また、「単に裁判で勝つことだけを目的にするのではなく、裁判の外に目を向けて、広い視野から企業にとって何が本当に利益になるのかを考えるのも経営者の大きな役割である」とも書かれています。法律的に正しけりゃ、裁判に勝ちさえすりゃいいんだ、ってのはだめだよってことでしょう。

本書の中では2005年3月に発表された「最終報告書」を掲載、三菱自動車の姿勢を批判しています。私の書評では本書出版後の2006年4月に発表された「お知らせ:2002年1月ふそう大型トラックタイヤ脱落事故に係わる民事訴訟について」の内容をご紹介しておきましょう。

このお知らせの中で、トレーラーの運転手と遺族(被害者の夫と子ども)との間で2003年9月に和解が成立、トレーラーの運転手等に対しては2005年9月に補償金を支払ったので事故に関する損害賠償関係はすでに解決済みであるとしています。

詳しい経緯は本書をお読みいただきたいと思いますが、トレーラーの運転手は死亡事故を招いた運行上の過失は否定しましたが、「不可抗力以外の事故は賠償しなければならないとする自賠償法の規定や被害者ほごの観点から和解に応じた」のです。そして三菱自動車が欠陥を認めたことにより和解金の保証を求め、2005年9月になって支払ったのです。また、運転手と一緒に訴えられた有限会社も2005年2月ほとんど無過失と言える状況でしたが200万円を支払って和解しています。運転手等に対して補償金を払ったと言っていますので、三菱自動車は有限会社にも補償金を支払ったのでしょう。この補償金の支払い(三菱自動車が直接被害者遺族に支払ったものではありません)を以って損害賠償関係は終わっていると主張しているのです。さぞかし頭の良い弁護士がついていたのでしょう。

一連のすったもんだの結果、2000年以来のダイムラー・クライスラー(今じゃダイムラーだけ?)との提携はご破算、ダイムラーはトラックやバスを作っている三菱ふそうだけをもらって乗用車部門の三菱自動車はポイしちゃった。最近ダイムラーはクライスラーもポイしちゃったけど大丈夫なんでしょうか。

そういや無理やり被害者の墓参りをさせられて頭にきて二度と謝罪に出向かなかった、ダイムラーから派遣されていたヴィルフリート・ポートとかって社長もいましたね。どっかの総理大臣じゃないけど、現職が現在の企業なり政府なりを代表して不祥事の責任を取るってのは当たり前のことでしょう。めでたく三菱ふそうを手に入れられたのでご栄転かしら。

世界最古の自動車会社ダイムラー。世界で最も尊敬されている自動車会社ダイムラー。ほんとに大丈夫なの?

田原総一正義の罠』小学館

ご存知TVジャーナリストの田原さんがリクルート事件を国策捜査、冤罪ではないかと追及しています。副題にあるとおり、リクルート事件からもう20年も経ってしまったのですね。リクルート事件の後にも前にも、ムネオハウス事件とかライブドア事件、古くはロッキード事件などが国策捜査であると語られています。検察に睨まれると怖いからこっそりとね。睨まれて実刑まで食らっちゃって今や怖いもん無しの鈴木宗男さんとか佐藤優さんなんかは大声でしゃべってますけど。

リクルート事件は近々上場予定の未公開株を政財界その他の著名人、平たく言えば江副さんのお友達(もしくは江副さんがお友達になりたかった各界のセレブ)にばら撒いたことが発端となりました。でも、このような行為は当時の証券業界では普通に行われていたのだそうです。ま、昔からお金持ちはますますお金持ちになるように出来ていたんですね。各界のセレブ達ですから、いろいろとリクルートの仕事に係わっている方々もいらっしゃったと。私企業の方々はともかく、政官界の方々の場合は、これはまずいだろうと。で、マスコミが提灯持って火をつけて大騒ぎになったと。

でもねえ、いくらみんなやってたからって、ファイナンスつきで株を買わせて濡れ手に粟を演出してあげるってのは、庶民の立場からは理解されませんよねえ。でも、やるんだったらリクルートだけじゃなくって他の新規上場も徹底的に洗えばいいのに。でも、検察はそこまではやらないんですよね。やっぱり国策捜査なんでしょうか。

ところで、上記国策捜査を演出した検察は何を目指していたのでしょうか。場合によっては時の権力を引き摺り下ろす役回りまで演じています。その割にはその後の政治の行方には不思議と関与していませんし、その後の政治・社会情勢が良くなったとも感じられません。一罰百戒のつもりかもしれませんが、傍から見ると他にも似たような悪いことやってる奴はいっぱいいるのに、目立った奴だけが運悪く引っ掛かったみたい。検察官の単なるマスターベーションなんでしょうか。それとも国策捜査の目的は邪魔者の排除だけなのでしょうか。もしそうだとしたら黒幕は誰?

国策捜査なんていうと、ご大層に聞こえますが、スケープゴートを使って目くらましをする、ってのは組織防衛の初歩の初歩。責任なんて誰かに押し付けちゃえ、ってか?

最近のモンゴル出身横綱に対するイジメなんかもそんな感じがしますね。ナントカ審議会とかナントカ協会だって度重なる八百長疑惑、ナントカ団との黒い交際疑惑、新弟子をいびり殺しちゃったリンチ疑惑とか全部ほっかむりじゃないですか。相撲は国技だとか言いながらやってることは無理ヘンにゲンコツ。旧態依然の興行をやって人気がなくなっちゃったのは誰の責任だって。小錦とか曙なんて相撲活性化のため色々提案したのに無視されて頭来てハワイに帰っちゃったって言うじゃないですか。今じゃハワイ出身力士はいないんじゃないですか。サモア出身の力士もトラブルでみんないなくなっちゃったし。今度はモンゴル?トラブル起こしたらポイ捨てにするなら連れて来るなって。そもそもいつから相撲が国技になったんだ?がんばれドルジ!相撲がだめならK1だ!話が脱線した。

検察の目的はやはり邪魔者の排除なんでしょうか。

 

2007年9月

網野善彦、宮田登『歴史の中で語られてこなかったこと』洋泉社

網野さんは「日本社会の歴史でも著名な歴史学者ですが、それまであまり注目されていなかった人たち(漂泊民とか)に焦点を当てた独特の歴史観「網野史観」を切り開きました。ってことは天皇を頂点とする大和民族そして農耕民族中心歴史観を持つ従来路線の歴史学者たちにケチを付けたことになりますので、学会では評判が良くなかったようです。

共著者の宮本さんは民俗学者。網野さんと宮田さんは共に神奈川大学の教授として籍を置かれていたことがあります。残念ながら私は読んだことがありませんが、著作に「老人と子供の民俗学なんてのがあります。網野さんとは馬が合ったのでしょう。本書は対談集ですが、まことに楽しそうに丁々発止の議論のやり取りをされています。

こういう関係はまことにうらやましい。日本では「それは違う」なんて言われようものならすぐカッとなって手が出ちゃう人がいますからね。私も議論好きですので、気をつけないと。ってか、つい最近も失敗したばっかり。議論のやり方も知らない奴と議論するときは安全な距離を取らなくてはいけない、という教訓ですね。とっても痛い教訓でしたけど。

それはさておき、本書で注目されているのは女性の役割です。従来の農業の捉え方では養蚕は農業経営の一部として行われていたと考えられて来ましたが、実は一般的な農業(男性が行っている)とは別に女性が経営していたのではないか、女性は決して男性に寄生していたわけではなく独立した経済活動を行い、財産も持っていたのではないか、と推察しています。また、漁業などでも漁師として海に出る男性だけが漁業者と思われていますが、実は女性は浜に上がった収穫を市に持っていって売りさばく流通関係を仕切っていたのではないか、とも指摘しています。

いずれにしても従来は歴史の脇役でしかなかった女性の役割が、実はそんなものではなかったことを物語っています。興味深いのは織物と女性の関係は日本ばかりではなく世界的に共通のイメージなのだそうです。七夕の織姫とか。お姫様が機織りをしていますね。決して悪いイメージではない。また、ギリシア、南米などにも見られるそうです。

そういえば自動車のシートも今じゃ革張りが高級車ですが、戦前のリムジンでは運転手(馬車で言えば御者)のシートは丈夫で耐久性のある革張り、客室のシートは繊細な布張りが本当だったんだそうです。革は実用品、布は高級品。高級品を生産するほうが当然儲かる。古来女性はそういう地位にあった、ということですね。

最近女性の貞操義務だナンだって言って、離婚後300日以内に生まれた子を一律に前夫の子とする民法772条の規定を見直そうという議員立法がつぶされちゃいました。法律婚にDNA鑑定という生物学的なものを持ち込むことは、法制度自体をくつがえしかねないし、ひいては家族制度の崩壊をもたらす、と言うわけです。でも、すでに崩壊した婚姻関係だけを法律で保護し、生まれてきた子供を保護しないってのはどんなもんでしょうか。そういや、少子化対策に成功したフランスにはこういう規定はないそうです。現在の民法上の貞操義務ってのは男女双方が責任を負っているはずですが、ここで言われている貞操義務ってのは女性だけが求められているものでしょう。

こういう男性中心的な社会ってのは日本の伝統でもなんでもなくて、明治からこっちのみんなが武士になろうとした武張った時代の産物なんじゃないでしょうか。伝統的家族制度とかって言ってますけど、1883年の日本の離婚率(その年の離婚数/結婚数)は何と37.6%にも達していたのだそうです。これが大正・昭和と減少傾向にあったものの高度成長とともに上向き、2002年度の離婚率は再び約38%に復活したそうです。これが数字の上の日本の伝統。歴史だ伝統だって言って結局自分に都合の良い話ばっかり持ってきている訳ですね。我田引水。あ、こりゃ政治家の十八番(おはこ)か。チャンチャン。 

 

桐生操世界で一番おもしろい世界史KKベストセラーズ  

柔らか目の世界史雑学本です。桐生さんがどのような方なのか存知上げませんが、何冊か読んだ限りでは人をいたぶりながら殺すとか、気に入らない召使の首をはねるのを見物しながら食事を食べるといった結構エグイ話がお好きなようです。ま、それぐらいじゃないと歴史には残らない、というか記憶には残らない、のかもしれませんが。その種のエピソードがごっそりと載っています。決して勉強の役には立たないでしょうが、移動中などの暇つぶしには格好の読み物でしょう。私も新幹線の中で読了いたしました。

面白かったエピソードをいくつか。

紀元200年ごろのローマ皇帝ヘリオガルバスは女装が大好き。ついにはアレクサンドリアの医者を呼んで性転換手術をしてしまったとか。本当でしょうか。塩野七生さんのローマ人の物語で調べなくては。調べたけど書いてないや。

中世(といっても結構最近まで)の料理とは、素材が何だか分からなくなるくらい叩き潰してスープ状にしてさらに香辛料をがっぽり入れる、というものだったのだそうです。なぜかというと、腐りかけの素材をごまかすため。冷蔵庫なんてないですからね。で、今でもイタリアのどこだかに行くとこういう料理があるそうです。初めての人にここの名物料理だから、とか何とか言って食べさせちゃう。そうすると、かわいそうにその人、後何も食べられなくなっちゃうくらいおなかいっぱいで気持ち悪くなっちゃうんだそうです。こういう意地悪ガイドを雇ってはいけませんね。

最後に喫茶の習慣の伝播について。ジンギスカンについでモンゴル世界王国を目指したチムール。この人とんでもない人殺しとしても有名ですが、実は喫茶の習慣を広めた人でもあるのだそうです。彼は世界を征服するため遠征のくりかえしでした。このとき、部下に生水を飲むことを禁じ、必ず沸かしてから飲ませたそうです。今にも通ずる衛生知識。で、白湯では味気ないので茶葉など入れて飲むようになった、というわけです。『茶の世界史にも確か書いてなかったエピソードだな。で、このときお茶を飲むようになった人たちの間に広まっているのが中国北方で茶を意味するチャイという発音の言葉。その後ヨーロッパなどに広まったのは中国南方で茶を意味するテという発音の言葉。飲み屋で使える無用な歴史雑学でした。  

 

ボビー・ヘンダーソン 片岡夏実訳『反☆進化論講座』築地書館

保守化するアメリカを紹介する本を何度か取り上げてきましたが、本書はそのような動きに対する痛快なカウンターパンチです。大笑い間違いなし。大傑作。

2005年、アメリカ・カンザス州の教育委員会は、公教育において進化論とインテリジェント・デザイン(知的デザイン)説を同等に教えなければならないという決定を下そうとしていました。インテリジェント・デザイン(以下IDと表記)とは、人類のような複雑な生命体が単なる偶然の産物であるはずが無い、「なんらかの知的存在」がデザインに関与しているはずである、という説です。

「なんらかの知的存在」を神(God)であるとすると、キリスト教の天地創造説になるわけですが、IDではそうは言わず、科学的仮説であると主張しています。進化論だって実際の実験で証明されたわけではなく単なる仮説ではないか、であるならばIDもひとつの仮説として平等に教えろ、と言うわけです。ジョージ・ブッシュ大統領も賛成しているそうです。

このような動きに対してアメリカの科学者たちはさまざまな反対運動を展開します。でも、宗教右派、原理主義者って奴らにはまともな議論は通じませんからね。俺はこう信じている。証明終わり、ってなもんです。面と向かって「お前は間違っている」なんて言ったら、アメリカじゃ銃弾が飛んできちゃいますよ。で、この右派運動をしゃれのめすことによって潰そうとしたのが本書です。

先に述べたように、ID理論では「なんらかの知的存在」が何であるかは意図的に明らかにしていません。それじゃ空飛ぶスパゲッティ・モンスター(Flying Spaghetti Monster、略してFSK)だっていいじゃないか、と言うわけです。で、本書は大真面目に空飛ぶスパゲッティ・モンスターこそが「なんらかの知的存在」であることを証明しています。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教の教義ってのは、「海賊が「選ばれし民」であり、天国にはビール火山とストリッパー工場があり、祈りの際に「ラーメン」と唱える、など」なんだそうです。こりゃ入信するしかないではありませんか。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター教に興味を持たれた方には、同教会のウェブサイトにアクセスしてみてください。空飛ぶスパゲッティ・モンスターの御真影を拝むことが出来ます。さまざまなグッズの購入を通して献金も可能なようです。iPod用の空飛ぶスパゲッティ・モンスターのカバーなんてすげー欲しいぞ、って買っちゃった。

ラーメン

 

フランソワーズ・デポルト 見崎恵子訳『中世のパン』白水ブックス

空飛ぶスパゲッティ・モンスター以外に小麦から作られた偉大な食べ物としてパンがあります。麦の親戚は非常に古くから栽培されていましたので、パンの類が古くから人類に食べられていたことは間違いがありませんが、現在我々がパンと言って思い浮かべるような柔らかいパン(ハイジの白パン!)が一般的に食べられるようになったのはそんなに昔のことではないようです。もっとも最近では全粒粉パンや黒パンなど、昔は白パンに比べると下級品とされていたものが栄養価や風味の面から珍重されていますが。

しかし、そうするとパンと麺類はどちらが先に人類史に現れたのでしょうか?マルコ・ポーロがヨーロッパにもたらしたと言われるパスタですが、実際にはヨーロッパでもそれ以前からパスタが存在していたという記録があるそうです。小麦粉を練って焼くだけでは固くなってしまいますので、細くして茹でちゃう、という調理方法が古くから考え出されていたとしても不思議はありません。また、乾燥パスタも保存食としてアラブ人によって考え出されていたそうです。パスタかパンか。結構難問だなー。やっぱり空飛ぶスパゲッティ・モンスター神が先か?話が脱線した。

それはさておき、私たちの食卓にもパンは普通に見られるようになりました。パン食の普及には戦後の学校給食が大きな役割を果たしたと言われています。米を食べるとバカになる、とか言ってパンを子供たちに食べさせて洗脳したわけです。また話が脱線した。

本書は歴史関係の学術書として書かれていますので、おいしいパンを作るレシピとかが書かれているわけではなく、フランスを中心とする地域でどのような麦がどのような割合で栽培されていたのか、どのような栽培・農耕方法が取られていたのか、どのような技術が用いられたのか、どんなパンが食べられていたのか、価格はいくらだったのか、どのように決められていたのか、パン作りに関わる人々(製粉業者やパン職人)にはどのような規則や制限が設けられていたのかなどパンに関する一切合財がいやと言うほどの史料をもとに書かれています。

人間の基本的欲求である「食」を通して歴史を見る、というアプローチは欧米の歴史学会では結構良く見かけるものなのだそうです。生存の基本である「食」をどのように取り扱っているかを見ることで、その社会の特性を見抜くことが出来る、というわけです(「美味しんぼ」の海原雄山じゃん)。私が言うと網野史学の受け売りみたいですが、権力者の変遷だけが歴史ではないということですね。どっかの国に脅されるとすぐ頭のおかしい牛の肉でも輸入しちゃったり、正しい日本食検定制度を作ろうなんて頓珍漢ばっかりやってるどっかの政府を後世の歴史家はどのように評価するのでしょうか。

そういえば空飛ぶスパゲッティ・モンスター教でも人類を支えるエネルギー源として澱粉食物の重要性が強調されていました。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター神は偉大なり!

ラーメン。

ホイチョイ・プロダクションズ気まぐれコンセプトクロニクル』小学館

ご存知ホイチョイプロダクション『気まぐれコンセプト』を時系列的にまとめたものです。『気まぐれコンセプト』のスピリッツ連載は1981年にスタートしたらしいですが、本書では1984年からのものがセレクトされています。これさえあれば過去20年間、何が流行ったのか、さまざまな流行がどのような盛衰を経たのかが手に取るようにわかります。何たってかく言う私もその一員だったわけですからね。

ちなみに1984年のレコード大賞は五木ひろしの「長良川艶歌」、流行語はピーターパン症候群(どういう意味?)。

1989年のレコード大賞はWinkの「淋しい熱帯魚」(どの歌だ)、流行語はトレンディとセクハラ。

1994年のレコード大賞はミスター・チルドレンの「イノセントワールド」(知らねーぞ)、流行語は同情するなら金をくれ(ママになっちゃった)。

どうです、懐かしいでしょう。

主人公は黒スーツ(裸のときもあるけど)と眼鏡がトレードマークの白クマ広告社平社員のヒライさん。連載スタートの1981年ごろ駆け出しだったわけですから、実在の人物であれば今ではどっぷりと中年真っ盛りでしょう。マンガですからあんまり年取ってないですけど。うらやましい。

本書は『バブルへGOって映画の前宣伝をかねて作られたみたいですから、バブルに絡んだマンガが結構目に付きました。まあ、バブル期ってのは日本中が「エライヤッチャ、エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ」って踊り狂ってたわけですからたいへんな時代でした。いや、ジュリ扇持ってジュリアナのお立ち台で踊ってたのかなあ。行ったことないけど。大体そんなに良い思いはしませんでしたよ。私よりもうちょっと上の年代、そう正にヒライさんもその一員の世代が一番オイシイとこを持ってちゃったんじゃあないかな。ホイチョイの方々はアベソーリが同級生だったらしいですから、私よりも若干年長で、団塊の世代よりはちょっと下。団塊の世代が切り開いたハイウェイを初めて若いもんが自分の車ですっ飛ばしてた世代でしょう。ちゃっかり良いとこだけ持って行っちゃった世代。

私めもバブルのころ煽てられて外銀に転職しましたけど、すでにこの世代の方々がメジャーなポストを占めていて、私なんぞにはお鉢が回ってきませんでした。で、気が付いたらバブル崩壊。回ってきたポストはバブルの尻拭い。そんなもん、誰がやったってうまく行かんでしょうが。クソ、自分たちだけイイ思いしやがって。

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2007年8月

ゲッツ板谷タイ怪人紀行』角川文庫

ゲッツ板谷さんが文章、鴨志田穣さんが写真、西原理恵子さんがイラストを担当しています。ゲッツ板谷さんは元暴走族やヤクザの予備軍のフリーライター、鴨志田さんは戦争カメラマン、西原さんは漫画家です。ゲッツ板谷さんと西原さんは美術予備校時代からの知り合い、鴨志田さんと西原さんはご夫婦(その後離婚、復縁したようですが鴨志田さんは最近ご逝去されました。合掌)です。この個性的な男性二人を引き合わせたのが西原さんだそうです。西原さん自体も大変「濃い」方ですが、男性の好みも濃いようです。間違っても私ではお眼鏡にかなわないでしょう。

実際にタイ紀行に参加したのはこのうち男性二人と女性編集者。海外旅行花盛りの昨今、まともなところに行ったのでは読者が満足するわけはありません。ということで行った先は……裏表紙から引用。

「金髪デブ=ゲッツ板谷と、兵隊ヤクザ=鴨志田穣がタイで繰り広げる大騒動!麻薬更正寺での地獄体験、オカマのバレーボーラーとの甘い一夜、インチキ丸出しの心霊治療、片田舎のディスコでダンシングオールナイト、ホモの館での恐怖体験……。」

どうです、脳みそが溶けちゃいそうでしょう。

でも、日本人に良くありがちなアジア人に対しては上からものを言うような感じはしないので、大笑いしながら読めます。というか、鴨志田さんは逆に欧米人にはオートマチックに反感を持つらしいですが。濃いなあ。

私はタイには仕事で2日間ほど滞在したことがあるだけですが、面白いことを聞きました。タイのお金持ちというのはベンツに乗っているのですが、道路を渡るときに決してベンツの前を渡ってはいけないと言われました。なぜ?ベンツに乗っているお金持ちは道を歩いているような貧乏人を轢いても気にしないからだそうです。ぼろいタクシーとかだとちゃんと止まってくれるらしいですけど。本当は優しい人たちなのにお金持ちになるとゴーマンになっちゃう。日本と同じですね。

基本的にはおバカ紀行ですが、ところどころに現在の世界情勢(といっても10年位前ですが)を垣間見るような場面が出てきます。金髪デブのゲッツ板谷さんですが、そういう場面は見逃しません。表紙裏の若いころの凶暴そうな顔写真からは想像もできないやさしい視線が感じられます。戦争はいけませんよね。

ゲッツ板谷ベトナム怪人紀行』角川文庫

ついでにも一冊。この本を書く2年前、猛暑と人々の逞しさと菌とウニのトゲとスリに有り金を盗られてベトナムに完敗したゲッツ板谷。今回は兵隊ヤクザ鴨志田を引きつれリベンジの旅、ってバッカじゃないのゲッツ板谷って。

今回の旅行はゲッツ板谷と鴨志田コンビに通訳兼コーディネーターの鈴木君。ヤローばっか3人の旅。やっぱ前回の旅で女性編集者は危ないってことになったんだろうな、最凶コンビの付き人としては。

どこに行ったのかというと……また裏表紙丸写し。

「不良デブ=ゲッツ板谷と、兵隊ヤクザ=鴨志田穣。最凶コンビの今度のターゲットは「絶対降伏しない国」ベトナム。」

「詐欺師丸出しの“自称”ニッポン人との対決、世界の珍獣「手乗り鹿」&日本犬をビバ完食、“セクシー”アオザイの魅力にノックアウト……。そして最大の敵「ベトナム戦争」という歴史と対峙し――。」

バカ丸出し旅行ですが、ベトナム戦争なんてとんでもないものにまともにぶつかって行ってる。ゲッツ板谷さんの場合、暴走族の勢力争いに見立ててやっと理解したみたいですが。

この旅行のときベトナム戦争から24年経っていたそうですが、枯葉剤の影響か、身体に障害を抱える子どもが生まれ続けていました。いまだに米国は枯葉剤の影響を否定し続けているはずです。イラクでの劣化ウラン弾の影響とともに。

鴨志田さんがオートマチックに嫌悪感を抱くのは「欧米人というか、アメリカ、イギリス、フランス、中国、旧ソ連人が嫌いなんだ」そうです。何でかっていうと、「やつらは心の底ではアジアを見下しているばかりか、その大地でチェスを楽しんでいやがるんだ」なるほど。私も嫌いです。

傑作だったのは、ベトナムにはホントのデブは少ないらしく、床屋の女の子たち(その他でも)がゲッツ板谷さんのおっぱいを珍しがって、揉んだりしちゃうんだそうです。あげくは近くのおばさんまで連れてきても揉ませていたとか。その後そのおばさん合掌して拝んじゃったって。私ももっとデブになってベトナムに行こうかしら。

「絶対降伏しない国」ベトナム。チュンチャク・チュンニー姉妹の反乱の時代から連綿と続く独立を勝ち取るための戦いの歴史。ゲッツ板谷は今回もベトナムに完敗したのでした。

たのしい中央線太田出版  

ゲッツ板谷さんと西原理恵子さんの名前を発見、思わず買ってしまいました。最近なんだか中央線沿線が話題になっているし。ゲッツ板谷さんも西原さんも中央線な人だったんですね。

でもねー、私生まれてこの方40数年(結婚当初の数年間のブランクはありますが)中央線沿線の阿佐ヶ谷に住んでますが、それが何か、って感じです。別に普通でしょ?

この種の本を読んでいると、中央線に染まっている方々でも、子どものときから中央線沿線で育ってきたってのは少ないみたいですよね。今の中央線文化とかなんとかってここら辺に住み着いた田舎モンが勝手に作ったんではないの、ってのは差別的すぎるか。あ、でもリリー・フランキーがうまいこと言ってる。「いや、アーティストっぽいのが東京の人なの。芸術家のつもりなのが田舎モンだよね。」ま、いずれにしても勘違いなんですが。

とは言え私だって小中高大と地元じゃないですし(と言っても中央線からはあんまり離れてないか)、仕事だって地元じゃないですからね。ジモティーとは言えないかも知れませんね。あなたの中央線度チェックで、あなたは東横線の方が似合いますって出たもんね、って自慢になるのかそれ?  

            

ついでに西原理恵子さんのマンガもご紹介しましょう。

西原理恵子毎日かあさん カニ母編

 『毎日かあさん(2(お入学編))

  毎日かあさん(3(背脂編))

   『毎日かあさん(4(出戻り編))』  毎日出版社 

西原理恵子さんが毎日新聞に連載しているものをまとめたものです。若いころはものすごいヤンキーだった西原さんも結婚して子どもができて、丸くなったとかおとなしくなったのではなく、別の方向に噴火しているのが良くわかります。格好だってワンレン・ボディコンじゃなくて割烹着だし。本当にあんな格好してんのかね?

でも、結構面白かったので入院している知り合いに差し入れたら、「あれ、ものすげー面白かった。マジ感動しちゃったよ」と言われました。いや、読んでいると本当に涙を堪えきれない場面が出てきます。新聞に連載しているぐらいですから内容がアブねーと言うのではありませんが、これは子ども向きのマンガではありません。絶対に大人の読み物ですよ。

 

2007年7月

森田実小泉政治全面批判』日本評論社

本書は森田さんが森田総合研究所のホームページに掲載した文章を元に書かれています。題名が如実に示すように小泉政治に対する批判、中でも郵政民営化法案の審議、参議院での郵政法案否決を受けた衆議院解散、911選挙といった2005年後半の時期にスポットを当てて書かれています。紹介の時期を逸してしまった感もありますが、最近も「戦後レジームからの脱却」とか言いながら対米隷属政策の実現に余念の無い政権が続いています。戦後レジームってアメリカ政府による進駐によって始まったんでしょ。そっから脱却するとか言うんなら、なんで未だに沖縄を差し出さなきゃいけないの。何でか?その原点を紹介すべく本書を取り上げてみました。

森田さんは郵政民営化には大反対、911郵政選挙でも民主党を勝たせなくてはいけないという論陣を張りましたが、大マスコミのキャンペーンの前に全く効果なし。ご存知のとおり911選挙では小泉政権大勝利。森田さんのお姿を以前はテレビなどでもよくお見かけしましたが、小泉反対を主張したとたんに干されてしまったそうです。評論家なんて主義主張が発表できなくなったら単にそこらのオヤジがぶつぶつ言ってるのと同じ影響力しかなくなっちゃいますからね。

森田さんが郵政民営化に反対するきっかけとなったのは、関岡英之さんの書かれた『拒否できない日本―アメリカの日本改造が進んでいる』(文春新書)を読んだことだそうです。この本は「年次改革要望書」の存在を明らかにしたことで名高い本です。この文書は日本政府とアメリカ政府がお互いの政府に対して改善して欲しい点をまとめ、毎年交換するものです。しかし植民地政府が本国政府に要望するのと本国政府が植民地政府に要望するのでは重みが違うでしょ。つまりアメリカ政府からの一方的通告。

過去には建築基準法の改正、法科大学院の設置の実現、独占禁止法の強化なんてのがアメリカからの要望書に盛り込まれていたそうです。もちろん全部実現。そして郵政民営化も入ってます。竹中大臣は国会答弁で「年次改革要望書」なんて知らない、なんて言ってましたけど、アメリカ大使館のホームページに日本語訳が堂々と掲載されています(最新のものは2006)。日本からの要望書だって外務省のホームページに掲載されています(同じく最新版は2006)。お互いに要望し合ってんだから、日本政府も堂々とこれこれの要望を出してこれこれの成果がありましたって言えばいいのに。植民地政府には無理なんですかね。

森田さんは日本のマスコミが日本政府に、そしてそのバックにいるアメリカ政府に取り込まれてしまい、民主主義を機能させるためのチェック・アンド・バランス機能を失ってしまったことを嘆いています。でもですね、御用マスコミなんて旧共産圏の専売特許かと思ったらとんでもない。アメリカ(ベンジャミン・フルフォード『9.11テロ捏造 日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』)だってイギリス(グレッグ・ダイク『真相』)だって同じ状況。戦争なんて相手に極悪人のレッテルを貼ってやっつけちゃったほうが勝ち(高木徹『戦争広告代理店』)。これが世界の常識、って言われてもねえ。

最近は地球温暖化問題に積極的に発言しているゴア元副大統領も、マスコミ、特にテレビの影響力について、いくらインターネットが発達したとは言え、ながら視聴が可能なテレビの影響力は絶大であると警鐘を鳴らしていました。テレビが寄ってたかってこの政策が正しい、なんてキャンペーン張ったら判断狂っちゃいますからね、よほど注意しないと。昔も自分に赤紙が来て初めて大変なことになっちゃったと気が付いた、と言います。赤紙が来ちゃったら手遅れですよ。

あ、最近読んだマンガに面白いことが書いてありました。意外に知らない方も多いようですが、日本の大手新聞社って全部テレビ局を持っているんです。で、その系列関係はプログラム欄を見ればすぐに分かるんですって。何でかって言うと、必ず系列局の左側に時間を示す帯があるんです。お手近の新聞で確かめてください。

水谷修夜回り先生のねがい』サンクチュアリ出版

ご存知「夜回り先生」水谷修さんの最新作です。「夜回り先生」シリーズとしては最終作になるのかもしれません。ぜひお読みいただきたいと思い採り上げました。

子どもたちを守るため戦い続けてきた水谷さんですが、あるとき子どもたちを虐待している大人たちもこのぎすぎすした社会で傷つき苦しみながら生きている現実に気づかされたそうです。大人たちも会社で、社会でいじめられている。そのはけ口が子どもたちになっている現実を。強い者にはやさしく弱い者は省みない社会。

昔は良かった、という議論もよく耳にしますが、どうだったのでしょうか。日本帝国軍なんてイジメの権化じゃありませんか。『「甘え」の構造』という本がかつて一世を風靡しましたが、日本って「イジメ」が構造化された国ではなかったんですかね。甘えとイジメとは全く異なった概念のようではありますが、そのいずれもべったりとした相互依存のゆがみから生まれてきているのではないでしょうか。両者は表裏一体の関係にあります。

自分というものを社会の中で確立することを許さない社会。自分は自分だという主張を許さない社会。ひたすら社会の中で軋轢を生まないように生きることを要求する社会。出る杭は打たれる社会。人と違うことを許さない社会。違っている人には不寛容な社会。だから「甘え」が生まれるし「イジメ」も起こる。

自己を確立しないといけない、なんて言うと小泉改革万歳になってしまいそうですが、私たちは本当にこれから何をしたいのか、とことん自分に向き合わなくてはならないのでしょうか。水谷さんも書いています。「今のことはどうでもいいんですよ。これから、あなたが、どうしたいかです。」

ところで、何で水谷さんみたいな人じゃなくてヤンキー先生が教育再生会議の委員なんだ?水谷さんみたいな人が委員になっちゃうと今の政府が思い描いている美しい国が作れなくなっちゃうからでしょうか。水谷さんに大人たちの不正や不義をガンガン指摘されたら困っちゃうからでしょうか。水谷さんは組織として子どもたちに対応するのではなく、水谷さん本人が顔を出して向き合うことを選んだようですので、教育再生会議の委員になってくれと言われても多分断ったのでしょうが。

「私は夜回りを死ぬまで続けるつもりです。

 しかしこの本は、「夜回り先生」の最後の一冊にしたいと思います。」

世の中に傷ついた大人にも子どもにもぜひ手にとってお読みいただきたいと思います。読むときはハンカチを忘れずに。

 

バーバラ・エーレンライク 曽田和子訳『ニッケル・アンド・ダイムド アメリカ下流社会の現実』東洋経済新報社 

本書はコラムニストであるエーレンライクさんがひょんなきっかけから体験ルポを書く羽目になったルポルタージュ作品です。ですから、本人も強調しているとおり、本人の意図とは関係なく事業に失敗してホームレスになっちゃったとか、連帯保証人になって(米国にそんな制度はないと思いますが)夜逃げした友人の代わりに身包みはがされた上たこ部屋で働かされるようになっちゃった、というわけではありません。

ルポルタージュ期間中は周りの労働者と同じように働くようにしていたとはいえ、最後の手段としてクレジットカードやキャッシュカードを持っていたそうですから、アメリカ下流社会の一般的な実像というわけではありません。下流社会層の絶望を体験した、というよりは、ちょこっと覗き見した、というところでしょう。

エーレンライクさんも書いているとおり、彼女は普通の下流社会層よりいくつものアドバンテージがありました。白人で英語を母国語としており、博士号を持つ経歴は隠していたとはいえ、教育もある。小さな子どもを抱えているわけでもなく健康状態も良好でした。もし有色人種で英語は満足に話せず、乳飲み子を抱えていて病気がちだったら?潜入ルポじゃなくて社会面の片隅に「生活保護を打ち切られた母子が餓死」、なんて記事になっちゃったかもしれません。もっとも今どき、そんなつまんないニュース、新聞には載らないかもしれませんけどね。

エーレンライクさんは国内の中規模都市をわたり歩き、安レストランのウェートレス、派遣掃除婦、老人ホームのヘルパー、そしてウォルマートの従業員などを経験しました。彼女自身は炭鉱夫の家に生まれながら博士号を持つアッパー・ミドルへと成り上がったアメリカン・ドリームの体現者ですが、一緒に働いた同僚たちへのまなざしにはとても暖かいものがあります。エーレンライクさんは自ら経験してみてどんな仕事でも相当の記憶力と判断力、忍耐、勤勉さ、協調性などが要求されることにあらためて気づかされます。決して能力がないから、怠惰だから貧困なのではありません。博士号を取得した人間には15分で出来る仕事が無知蒙昧な愚民には3時間もかかる、なんてことは全くありません。むしろ逆。

しかし、そんな仕事では給料は安く、年金や健康保険や子どもの保育設備は一切なし。いくら懸命に働いても、1か月分の敷金(アメリカでも必要なんですね)が必要なまともなアパートに住めるだけのお金は貯まらない。仕方なくモーテルに泊まれば実は割高。キッチンがなければ食事はファースト・フード。それすら食べられない例も出てきます。お金がないから無駄な金を使わされ、あげくの果てに病気になっちゃう。例え病気になろうが会社はお構いなし。生かさず、殺さずどころか、死のうが何だろうが替えはいくらでもいる。使い捨て。いらなくなったらポイ。

「私は、「一生懸命働くこと」が成功の秘訣だと、耳にタコができるほど繰り返し聞かされて育った。」「一生懸命働いても、そんなに働けるとは思っていなかったほど頑張って働いても、それでも貧苦と借金の泥沼にますますはまっていくことがあるなどと、誰も言いはしなかった。」

杉村太蔵議員もブログに書いていらっしゃいます。「最低賃金法で時給1000円になるって本当!?嘘です。私は絶対にありえないと考えています。今の日本じゃこんな奴等が議員様だって。

そんなワーキング・プアと呼ばれる人々に対してどのような対処をすればよいのでしょうか。

「私たちが持つべき正しい感情は恥だ。今では私たち自身が、ほかの人の低賃金労働に「依存している」ことを、恥じる心を持つべきなのだ。誰かが生活できないほどの低賃金で働いているとしたら、たとえば、あなたがもっと安くもっと便利に食べることができるためにその人が飢えているのだとしたら、その人はあなたのために大きな犠牲を払っていることになる。その能力と、健康と、人生の一部をあなたにささげたことになる。「 働く(ワーキング)貧困層(プア)」と呼ばれる彼らはまた、私たちの社会の大いなる博愛主義者たちといえる。他人の子どもの世話をするために、自分の子どもの世話をおろそかにする。自分は標準以下の家に住んで、人さまの家を完璧に磨き上げる。自分は貧苦に耐え、その結果、物価上昇は抑えられ、株価は上がる。」本当の博愛主義者はビル・ゲイツでもなけりゃジョージ・ソロスでもないって。

2月3日付東京新聞の朝刊で田村隆一さんの「恋歌」をとりあげていましたのでご紹介しましょう。全部紹介すると著作権法違反かなあ。

  田村隆一「恋歌」

 

  男奴隷の歌

    恋をしようと思ったって

    ひまがない

    手紙を書くにも字を知らない

    愛をささやく電話もない

    それでも赤ん坊が生まれるから

    不思議な話

    男の子は奴隷の奴隷

    女の子は奴隷を産む機械

    それでも恋がしてみたい

    それでも愛をささやきたい

    言葉なんか無用のもの

    目と目で

    命が誕生するだけさ

 

  女奴隷の歌

    わたしは機械を産めばいい

    いつのまにか

    お腹が大きくなって

    満月の夜に

    わたしは機械を産むの

    男の子だったら機械の機械

    女の子だったら機械を産む小さな機械

 

   仔馬の赤ちゃんだったら

   生まれたとたんにトコトコ走って行くけれど

    人の子って

    ほんとに世話がかかる

    ヨチヨチ歩きまで三百日

    機械になってくれるのが三千日

    奴隷になるのに六千日

    愛って

    ほんとに時間がかかるもの

    それでも

    お腹だけはアッというまに大きくなるわ

 

  コーラス

    奴隷には涙も笑いもいらない

    働いて働いて

    ただ眠るだけ

    鳥や獣や虫がうらやましい

    遊んでばかりいて

    たっぷり眠り

    たっぷり恋をして

    そのくせ

    機械を産まないんだもの

    そのくせ

    機械を産まないんだから

 

男は働く機械、女は機械を生む機械。

最後にエーレンライクさんは書いています。

「さすがの彼らも、報われることのあまりに少ないのにうんざりして、自分たちの価値に見合った当然の報酬を要求する日が、必ずや来ることだろう。その日が来れば、怒りは爆発し、ストライキも破壊行為も広がるだろう。それでも、天が落ちてくることはないし、おかげで、結局は私たちがみんなもっと幸せになれるはずなのである。」

本当にそうなって欲しいと思います。  

ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ 猪熊弘子訳『ムハマド・ユヌス自伝』早川書房

ご存知2006年度ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌスさんの自伝です。ユヌスさんはバングラデシュ出身ですが米国バンダービルド大学で経済学の博士号を取得、その後も米国の大学で教鞭をとっていた経歴を持っています。帰国後も大学で経済学を教えていましたが、バングラデシュの飢饉のありさまを見て経済学が何の役にも立っていないことを痛感、大学の近所の村で貧困の研究を始めました。そして貧困が貧困を生む、一度貧困生活に陥るといくら働いても二度と這い上がれなくなってしまうメカニズムを発見しました。

その結果考え出されたのがそれまでの経済学では考えられなかった貧困層の人々、特に女性に対しごくわずかの自立資金を貸し出すという全く新しいビジネスモデルなのです。この考え方はマイクロ・クレジッドという名前で世界中に広がっているそうです。不明にして私は昨年まで知りませんでした。日本版の本書も1998年に初版が出版され、再販が出たのは2006年でした。

経済学なんて、社会科学という割には厳密な科学性を追い求めるあまり机上の空論に走り社会性を喪失してしまった学問で、経済学者なんて偏屈なオタクばっかりだと思っていましたが、経済学を本当に役に立てるユヌスさんみたいな人がいたんですね。ユヌスさんが設立したグラミン銀行はこの本が書かれた時点で1万2000人以上の行員を抱える巨大銀行で、行員には政府職員と同額の給料が支払われているそうです。つまりビジネスとして成立している。しかも、グラミン銀行で働いているということはキャリア上のステータスになり、職員は引く手あまたでもっと良い給料で引き抜かれていくそうです。で、応募者殺到の人気企業なんだそうです。

グラミン銀行では貧しい人々に強く自立を求めます。施しではないからです。バングラデシュは非常に自然災害の多い国です。当然グラミン銀行からお金を借りている借り手も多く被災者となります。そのときグラミン銀行はどうするか?もちろん災害直後は一般被災者の援助などに当たります。ある程度のめどが付いたらグラミン銀行の借り手たちの対策に乗り出すのですが、その対策とは何と被災者たちへの追加貸し出し。以前のローンの繰り延べは認めますが借金の棒引きもしなけりゃ金利減免などもなし。なんか悪徳高利貸みたいじゃないかと私も最初は思いました。しかしそうではないようです。被災したから金利を免除してくれ、借金を免除してくれ、もっと援助をくれ、とやっていたら、あっという間にそれが習い性になってしまいます。そしてまた貧困にずっぽりと首まで浸かってしまうのです。

「貧困というものは、私たちを押しつぶすための数字のパレードではない。」

「貧困というものは、ナチスが人々を殺すために閉じ込めていた強制収容所のようなものでもない。」

「貧困とは、人々の周りを高い壁で取り囲むようなものなのだ。」

「貧困とは、人間の心と身体を麻痺させてしまう病気なのである。」

現在では世界各国で同様の取り組みがなされています。皆さんにもぜひ本書をお読みいただき、ご理解を深めていただきたいと思います。

 

ジェームス・キング 栗原百代訳『中国が世界をメチャクチャにする』草思社

中国の未来を占う本は、中国が世界の超大国として君臨するバラ色の未来を描くか、内包する矛盾を解決できず崩壊していく暗い未来を暗示するかのいずれかになるようです。本書はどちらかというと後者ということになるのでしょう。著者は元ファイナンシャル・タイムズ北京支局長の肩書きを持つジャーナリストですので、さまざまな情報を織り込みながら読みやすく仕上げています。

今や世界の工場となった中国ですが、それを支えてきたのは安い賃金(社会福祉もヘッタクレもなし。プロレタリア独裁はどこへ行った?)で文句も言わずに長時間働く豊富な労働力(文句言ったらすぐ首!代えはいくらでもいるんだ!)でした。生み出される製品は安かろう悪かろう。これが常識のはずでしたが、中国人はアホではありません。何たって4千年の歴史の国ですから。ちゃんと技術移転を図ってる。それも1年2年じゃなくて50年100年のスパンで考えているんじゃないですか、きっと。何しろ中国との安売り競争に勝てなくなった工場が売りに出るとすぐに買収、施設や設計図の一切合財をノウハウと一緒に中国に持って行っちゃうんだそうです。すご。そんなこんなで市場にあふれる中国製品の品質は飛躍的に向上している、というか、欧米あるいは日本のディスカウント・ストアで売っているものはみんな中国製。同じ設備で作っているんだから肝心の品質も問題なし。

問題は中国がこんな安売り競争をいつまで続けられるか、公害垂れ流しにいつまで耐えられるか、そして中国以外の世界各国がそんな中国にどこまで耐えられるかにかかっているんじゃないですか。肝心の品質も最近の毒入り食品・薬品騒ぎでかなり疑問符がついたし。著者は、中国は実利主義の国ですので、決定的な破局が訪れる前に方針を変えるのではないかと示唆しています。そうじゃないと日本も危ないしなあ。

北京オリンピック、上海万博あたりがヤマ場になるのでしょうか。ちょうど昭和30年から40年の日本にダブりますね。そういえば本書では重慶の発展の様子が19世紀のシカゴの発展に重ね合わされています。シカゴでも1893年に万博が開催されました。果たして新しい方向性を見出すことはできるのでしょうか。

ところで、私、今まで日本政府の酷薄さに文句を言っておりましたが、中国の為政者(今の共産党政府だけではなく中国4千年の歴史を通して)の酷薄さってのは日本の比ではありませんね。怖すぎ。その代わり中国では誰でもが皇帝になれる可能性を持っているんですけどね。

 

ジョセフ・E・スティグリッツ 楡井浩一訳『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』徳間書店

ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツの世界を不幸にしたグローバリズムの正体』、『人間が幸福になる経済とは何か』に続く第3弾。現在の市場万能主義を批判、行き過ぎたグローバリズムに警鐘を鳴らしています。

私たちが一生懸命働くのは幸福を手に入れるためでしょう。ところが現在のグローバリズムの下では一方にますます繁栄する一握りの勝ち組がいる一方で、残りはいくら働いてもじっと我が手を見つめるしかない負け組が生まれることになります。

原書のタイトルは”Making Globalization Work”ですから、著者はグローバリズムそのものが必然的にそのような二極化をもたらすのではなく、現在流布している誤ったグローバリズムがそのような傾向を助長していると考えていることが分かります。経済学の目的は単に経済現象を分析することではなく、みんなが幸せに暮らせる社会を経済の側面から支援することにある、と考えていることが伺われます。例えばGNPの概念にも疑問を投げかけています。地下資源が豊富な国がじゃんじゃん資源を掘り出して輸出すればGNPは増えます。でも有限の資源を売って得られたお金をうまく国内に再投資しないと、その国は長い目で見ると貧しくなっちゃっているんですね。同じことは熱帯雨林を切り倒して材木や紙にしちゃうのも同じです。この場合、人質にされているのは人類の未来。やば。経済学者って日本でもアメリカでも偏った変な人が多いみたいですからね。スティグリッツみたいな考え方をしている人って珍しいはずですよ。確かに、経済学あるいはIMFのような経済運営の観点から見れば、こんなのは異端でしょう。でも、本来こっちの考え方の方が正当なんじゃないですかね。

ところで、ブータン(世界でも数少ない日本びいきの国だそうです)ではGNPではなくGNHGross National Happiness)という指標というか概念を重視しているそうです。みんなが同時にお金持ちになることはできません。お金を持っていない人がいるからお金持ちの意味があるんであって、みんながビル・ゲイツ並みにお金を持っていたら、どってことなくなっちゃいますからね。でも、みんなが同時に幸せになることはできる。幸せってのは分けても減らないでしょ。お金だと減っちゃうけど。もともと、ブータンのジグメ・シンゲ・ワンチュク現国王が「GNPよりもGNHが重要である」と1976年に宣言したのがもとになっているんだそうです。日本の偉い人たちにもぜひとも参考にしていただきたいものですね。

本書でスティグリッツ博士は現在のグローバリズムを是正するためのさまざまな処方箋を提示しています。はたして世界は「正しい」グローバリズムを実現できるのでしょうか。そして、そもそもそんな政策を実施する国があるんでしょうか?

ブータン?ヒマラヤか!

 

2007年6月

岡本太郎自分の中に毒を持て』青春出版社  

ご存知岡本太郎さんのエッセイです。

岡本さんの経歴は、東京・青山の青南小学校に入学の後いくつかの小学校を経て東京・渋谷の慶応幼稚舎に入学、慶應義塾普通部を卒業、東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学、半年で中退。その後ソルボンヌ大学哲学科で哲学・心理学・民俗学を学ぶ、というものです。いかにもエリート、という感じですが、実際には日本の芸術界に反抗し続けた反逆の芸術家でした。小学校を4つも変わったのは、幼いときから常に出る釘だった岡本さんが学校に教師にガキ大将に反抗し続けたからなのだそうです。本書を読むと岡本さんがどのような意図でそのような苦しい、しかし本当の人間らしい選択をしたかが良くわかります。

岡本さんはフランスで見た絵画ですら、たかが絵じゃないか、と切って捨ててしまったりします。また、芸術の三原則として「芸術はきれいであってはいけない。うまくあってはいけない。心地よくあってはいけない」と過激なことを言っています。私が絵を評価するポイントとして、寝室に飾っておいても飽きないこと、いやじゃないこと、というのがあります。岡本さんの絵はどうでしょうか。別にいやじゃないな。きれいでもないし、うまくもない。強烈な色調で心地よくもない。でも、純粋なエネルギーがほとばしっているようで見飽きない。変なエネルギーじゃないからいやじゃない。そういえば、岡本さんの作品は現在でも結構人気があって売れているそうです。すばらしいじゃないですか。

大学時代、私の母校に岡本さんが講演に来られたことがあります。私は出席できませんでしたが、こんなことがあったそうです。講演後の質疑応答の時間に、ある学生が、岡本さん、偉そうなことを言っても実はお金のために芸術やってるんじゃないですかー、なんて失礼な質問をしたそうです。そうしたら岡本さんは鬼のような形相で、そんなことはなーい、と大見得を切ったそうです。それを見た私の友人は、確かにこの人はどんなに貧乏になっても同じことをしているんだろうな、と納得しちゃったそうです。納得させちゃうところがすごいではありませんか。

本書は、ひょっとしたら岡本さんが自分で読むために書いたんじゃないですかね。他人が岡本さんを評価するかどうかなんて興味もないし、まして自分以外に本書に書いてあるとおりに生きる人間がいるなんて全く信じてなかったんじゃないでしょうか。

でも、最初のページからインパクトがありました。

「人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。僕は逆に、積みへらすべきだと思う。財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。」

「今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。」

「日本という国では、オリジナリティーを持つことが許されない。積極的に生きようと思っても、まわり中から足を引っ張られる。」

「でも、失敗したっていいじゃないか。不成功を恐れてはいけない。人間の大部分の人々が成功しないのが普通なんだ。パーセンテージの問題でいえば、その99%以上が成功しないだろう。」

「夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した。それで爽やかだ。」

「ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だな、と思う方を選ぶことにしている。」

以上のフレーズは本書の最初の方で出てきます。その後にもすばらしい警句が山のように出てきます。面白いページの端に折り目をつけていたら、折り目だらけになってしまいました。痛快な一冊でした。ぜひご一読を。  

朽木ゆり子フェルメール全点踏破の旅』集英社文庫ヴィジュアル版

フェルメールの絵画は現在世界中で37点(専門家の間でも完全に一致しているわけではないそうですが)しか確認されていないそうです。当然高価、というか売りに出れば天文学的値段が付くことは間違いないでしょう。

フェルメールは17世紀オランダに生まれた画家ですが、非常に寡作で、専門の画家ではなかったとも言われています。有名な作品は女性を中心とした室内画がほとんどです。最近映画など(「真珠の耳飾りの少女」)にもなっていますので、皆さんにもなじみがあることと思います。この全作品を踏破するという雑誌の企画に応じたルポルタージュを基にして書かれたのが本書です。

フェルメールは光の画家などと呼ばれて、その光の描写が巧みなことで知られています。彼の作品を見ると、ソフトフォーカスの写真のように(彼は構図を決めるのにカメラ・オブスクラという暗箱を使ったとも言われています)ぼわっとしていてものすごく細密に描かれているわけではないのに、布や木材、金属、肌などの質感が巧みに描かれている事に驚かされます。有名な「真珠の耳飾りの少女」(むかし日本に来たときは青いターバンの少女って言ってたような気がする。シーク教徒ではありえないからターバンではないとかいちゃもんがついたのかな)は日本に来たときに見ましたが、その目は本当に澄んでいて、水晶体を通して眼底検査が出来るかと思いました。ところが、うんと近付くと、絵の具で描いたことがはっきりと分かる、意外と大きなタッチが見て取れるのです。でもちょっとでも後ろに下がると眼底検査が出来そう。

ところでこの絵の背景は真っ黒。こういう構図は浮世絵にインスピレーションを得た印象派以降の画家が用いた手法だと読んだ記憶があります。修復の過程でこうなっちゃったのでしょうか?どなたかご存知ではありますまいか。

フェルメールに関するエピソードで傑作なのは贋作事件でしょう。現在残されているフェルメールの絵画は上記のように室内画がほとんどですが、数は少ないものの宗教画、歴史画、風景画もあります。で、いかにもありそうなフェルメールの描いた宗教画の贋作をファン・メーヘレンという画家がでっち上げました。あちこちの美術館にも真作だとして収められたそうですから、立派なもんです。ばれたきっかけは、第二次大戦後、ナチスの略奪美術品の中に彼の描いたフェルメールが含まれていたことです。フェルメールはオランダの国家的至宝ですから、こんなもんをナチスに売り飛ばしたファン・メーヘレンは戦争協力者、売国奴として訴えられたわけです。売国奴として訴えられたのではたまりませんから、贋作を自白したのです。ところが、誰も認めてくれない。しょうがなく、もう一枚贋作を描いて見せて信用してもらったのだそうです。で、ファン・メーヘレンは贋作の罪で1年食らったそうですが、国家的英雄になったそうです。また、贋作を証明するため、レントゲンを使って下絵(昔のキャンバスを用いるため、絵の描かれたキャンバスの上に描いた)を映し出すという新しい試みも行われました。鑑定でレントゲンのような科学的手段が使われた最初の例だそうです。でもねー、それじゃフェルメールの芸術性を評価できた専門家はいないってことじゃないですか。

前衛芸術全盛の時代、古臭い絵を描いていたファン・メーヘレンは全然認められず、その腹いせにやったといわれています。でも、英雄扱いは一時的で、ファン・メーヘレンなんて現在では有名画家ではありませんからね。似たようなことをしたバイオリニストのクライスラーの作品は、誰々の様式によるクライスラー作曲の作品として残ってます。もともと有名だったからこの差が生まれたんですかね。芸術の価値ってのは難しいですね。

そういえば、朽木さんが全点踏破の旅では見られなかった(その後ご覧になったそうですが)「音楽の稽古」という英国王室所蔵の作品、私はバッキンガム宮殿にお呼ばれしたときに拝見いたしました。ギャハハ。ま、10年ほど前、一時的にバッキンガム宮殿が公開されたことがあっただけですが。お土産を買うときに”Donation for Queen”って言ったら係員の人も笑ってました。

あ、フェルメールって女性ばっかり描いた割には裸婦画ってのを描いていません。惜しい!

ジョン・ニュートン 中澤幸夫編訳『「アメージング・グレース」物語』彩流社

ゴスペルの名曲「アメージング・グレース」は日本でも広く知られている曲です。私もさまざまな歌手が歌うアメージング・グレースだけを集めたCDを持っているぐらい好きな曲です。

本書の著者とされているジョン・ニュートン(1725−1807)はアメージング・グレースの作詞者です(メロディーはかなり後になってから付けられました)。彼は幼少期こそ愛情を持った母親の元で育ちましたが母親の死後はいささかぐれてしまい、自分勝手な行いを重ねて行きました。その後貿易船の乗組員になり、遭難しかけたとき神の恵み(グレース)に触れたことによりキリスト教に回心しました。その後もしばらく奴隷貿易に従事しましたが結局船を下り、牧師となりキリスト教の教えを説き、さらに奴隷貿易の廃絶に力を尽くしたという経歴を持っています。本書は彼が奴隷商人を辞めて牧師となった経緯を自ら語った(実際には知人の牧師に当てた手紙の形を取っています)『物語』と、その前後に『物語』の内容をより明らかにするために時代背景やその後の人生の解説を付け加えて構成されています。奴隷廃止を訴えた論文と合わせて著者ジョン・ニュートンが書いたのは本書の半分強ということになります。

「アメージング・グレース」はニュートン牧師が礼拝に際して詠唱するために作られた賛美歌のひとつです。必ずしも初めから有名だったわけではないそうですが、紆余曲折を経てアメリカの第二の国歌と呼ばれるまでになりました。最近私たちがよく耳にするソプラノによるアカペラというスタイルはベトナム反戦運動真っ盛りの1970年ジュディ・コリンズのアルバムに納められたものが爆発的にヒットしたのがきっかけのようです。ただ、「アメージング・グレース」はノリノリのゴスペル調、プレスリーが歌うRB調など、さまざまな歌い方が可能ですし、実際どのように歌われても(器楽でも)感動的です。歌にも曲にもそれだけのパワーがあるということでしょう。

そういえば最近「千の風になって」の日本語版が評判になりました。日本語版がどうのこうのというのではありませんが、私は英語版の「千の風になって」の方がシンプルで好きです。「千の風になって」の原詩の英語も「アメージング・グレース」の原詩の英語も、英語そのものとしてはさして難しいものではありません。日本のCDの良いところは翻訳付きの歌詞カードが入っていることです。これだけでも高い日本版のCDを買う価値があるくらいです。歌詞の意味が大体分かったら、ぜひ皆様もCDを聞きながら英語で口ずさんでみてください。声に出すことによってまた違った味わい方が出来るはずです。「言霊」の力が実感できます。

最後にエピソードをいくつか。原詩が6章節からなるのに対し、現在広く歌われているのは4章節で、3番までがオリジナル、4番は後世付け加えられてものなのだそうです。ただ、その4番はハリエット・ビーチャー・ストウの書いた有名な『アンクル・トムの小屋』に出てくる歌詞なのだそうです。おそらくそのころアメリカでは黒人奴隷たちがそんな風に歌っていたのでしょう。そう聞くと一層味わい深いものがあります。

「アメージング・グレース」のメロディーは先に述べたように後から作られたものです。こちらは作者不明ですが、スコットランド特有の五音階で構成された哀愁を帯びたメロディーが特徴的です。埴生の宿とか「だーれかさんととだーれかさんが麦畑」などスコットランド民謡は日本人に受けが良いことはご存知のとおり。歌詞とこのメロディーの出会いがあったからこそこのような名曲が生まれたのです。

本だけではなく、「アメージング・グレース」のCDも紹介しておきましょう。

   

亡くなられてしまいました

ご存知ナナ・ムスクーリ

 

綾戸智絵ライブ

   

最近すっかり大人になっちゃった

   

文句なしにかっこいいプレスリー 

 

 

英国の若き歌姫。英語版「千の風になって」も収録されています。

 

「千の風になって」天使の歌声

 

住友慎一実力画家たちの忘れられていた日本洋画2』里文出版 

岳父が「住友ミュージアムを開館したことはご報告のとおりです。冬季閉館中の作品入れ替えを経て4月1日から再オープンいたしました。那須方面にお出かけの際はぜひお立ち寄りください。

本書は以前ご紹介した『忘れられていた日本洋画』に続く第二弾です。舶来物崇拝の強い日本では日本人の洋画家の実力は過度に低く見られたり、逆に排外国粋主義により過度にお高く留まったりしているようです。適正レベルがよく分かんないんですね。

本書は103人の日本人洋画家の作品を掲載、個々の作家とその作品に短い解説を加えたものです。はっきり申し上げまして私は聞いたこともない作家が数多く含まれています。画集が出版されるような大家は別として、それ以外の作家の作品は時間とともに忘れ去られてしまう可能性があります。本書でお気に入りの作家を見つけてコレクションを始める、なんてのもありかもしれません。

 

2007年5月

日高義樹ブッシュのあとの世界PHP

NHKワシントン支局長でワシントン・ウォッチャー、アメリカ通として有名な日高さんの著書です。

2006年11月7日に行われた中間選挙で、ブッシュ大統領の率いる共和党は大敗しました。日高さんはこの見方は一面的にすぎると指摘しています。多くの米国人がイラク戦争で明確な成果が上げられないことにいらだってはいますが、だからといってイラクなんかほっぽっといて軍隊を引き上げるべきだと考えているわけではないとしています。

日高さんは敗因として、ブッシュ政権がドル高と自由貿易拡大を急ぎすぎたこと、もう一つは、アメリカに蔓延しはじめた「新しい孤立主義」を挙げています。なるほど。

米国滞在が長すぎて米国かぶれになっちゃったとか言われている日高さんですが、面白い指摘もありました。

例えば、安部政権の就任直後の訪中ですが、日本では靖国問題から膠着常態に陥ってしまった日中関係を改善したとして得点とされています。ところが米国でも特に保守派の人々は、アジアに覇権を確立しようとしている中国の外交的攻勢に屈服した、と思っていると指摘しています。中韓両国は外交上の駆け引きとして靖国問題を取り上げているに過ぎないと。日本は「棚上げ」とか言っていますが、中国が「日本国首相は靖国神社参拝を中国の要請により取りやめた」、なんて宣伝されたらどうするつもりなんだ、ということです。

ベトナム戦争の死者を悼むベトナム・メモリアルに米国大統領が出席したときに、ベトナムから文句が来たら米国はどうするでしょうか。もちろん無視するに決まっています。もっとも、ドイツ首相がヒトラーの墓(どこだか分からないはずです)をお参りしたら話は違うのでしょうが。ま、外交とは武器を使わない戦争である、ってことを地で行っている話ですね。

まあ偉そうなことを言っている米国ですら、イケイケドンドンで始めちゃったイラク戦争で展望ゼロになっちゃって困っているんですから、世の中奇々怪々ってことですかね。

ただし、ブッシュ大統領があと2年で退任することは、米国憲法が改正でもされない限り確実です。ブッシュ大統領は、そして米国はどのような未来を求めて行動するのでしょうか。

日高さんは、米国は常に二方面で戦える戦力を保持し続けることは間違いないが、アジアの覇権国は中国であるとして日本に配備する戦力も削減するであろうと分析しています。米国にとって最重要であるのはイスラエルと中東地域であると断じています。

でも、米国がなぜかくもイスラエルを重要視するのか誰も(いわゆる反ユダヤ系陰謀大好きトンデモ本以外)きちんと説明してくれていないのはなぜなのでしょう。日高さんも当然のこととして書いていますけど、解説はなし。米国人にとっては自明の理なのでしょうか。

で、日本はどうすべきか。ずばり武装強化。これが日高さんの結論です。  

ベンジャミン・フルフォード、適菜収ユダヤ・キリスト教「世界支配」のカラクリ』徳間書店

本書に対して、米国の有力ユダヤ人団体であるサイモン・ウィーゼンタール・センターが反ユダヤ主義をあおるような「ユダヤ陰謀論」を出版するとはトンでもないと出版社に抗議したそうです。読めなくなるといけないのであわてて買い求めましたが、いまだにオンライン書店でも入手可能です。あら。

おまけにイルミナティとか三百人員会とかのユダヤ陰謀論で有名な太田龍さんもブログ適菜はユダヤのこと何にも知らんではないかと批判してます。どっちなんだ?それともどーでもいいってことか?

本書は米誌フォーブスの元アジア太平洋支局長だったベンジャミン・フルフォードさんと、ニーチェ研究家適菜収さんの共著です。適菜さんは、ニーチェは明確にユダヤ人差別を否定しているし、本書の中でもユダヤ陰謀論は何度も否定していると書いています。確かにそう書かれています。

じゃ、何を否定しているのか。

「ユダヤ・キリスト教、そしてすべての宗教は「聖なるウソ」に過ぎない。
それは民族支配のためのテクノロジー。

超越的な価値観=イデオロギーを作り出して、
それに従わせようとする試みのすべてにおいて、ニーチェは
「神は死んだ」
と言ったのです。」

ニーチェは宗教ばかりではなく、無批判に受け入れられている「民主主義」などの概念も、人民を支配するためのイデオロギーに過ぎないと喝破しています。なるほど。

ユダヤ教は世界で始めて一神教を導入したが、それは人民支配のためだった。ユダヤ教は血統を重視する閉鎖的な宗教だったために広がらなかった(だからユダヤ教は布教しない)。パウロは人民統治に便利な仕組みだけをうまく利用してキリスト教をでっち上げた、とこう言う訳です。で、最近はユダヤ教徒の一部とキリスト教原理主義者たちが手を結んで9.11とかを引き起こし、人為的にハルマゲドンを起こそうとしていると。

でもねえ、ユダヤ・キリスト教と対立しているイスラム教だって根っこは一つですからねえ。兄弟宗教。それだけユダヤ教の作り出した一神教の教義ってのは独創的かつ効果的だった、ってことでしょうか。

では、救いはどこにあるのか。

それは、民衆の覚醒にかかっているのです。覚醒といっても何も悟りを開けとかチャクラを空けろとかという意味ではありません。従順な羊だった我々一人ひとりが自分の頭で、自分の言葉で考えるようになれ、ということです。

本書の最後にアル・ゴア米国元大統領のウィ・メディア会議のスピーチ原稿が載っています。特に強調されているのは、政府などにコントロールされているマスメディア、特にテレビの危険性です。インターネットがこれだけ普及した今も、動画を同時多数に配信できるテレビの威力は衰えていません。気をつけなくちゃ。

さ、従順な羊のままでいますか、それとも目覚めた羊になりますか?

それにしてもフルフォードさんの本、以前も取り上げたことがありますが、本文の途中に1ページ大のコラムのような読み物が挟まっていて読みにくい。レイアウトの問題ですから、ぜひ何とかして欲しいと思います。  

フランシス・フクヤマ 会田弘継訳『アメリカの終わり』講談社

「歴史の終わり」で近代化を成し遂げた社会では、自由民主主義が普遍的な魅力と正統性を持つとしたフクヤマさんが、9.11以後変容してしまったネオコンに対し決別を表明したのが本書です。あれ、フクヤマさんってネオコンだっけ?と思ったあなた、鋭い。

フクヤマさん自身は自分のことをネオコン(新保守主義者)であると思っていたそうですし、代表的ネオコンの論客でラムズフェルド国防長官(当時)と共にイラク戦争を主導したポール・ウォルフォウィッツ前国防長官に仕えたこともあり、ネオコンの代表的知識人であるウィリアム・クリストルとは大学時代のクラスメートだったそうです。ところが、フクヤマさんの考えるネオコンと、イラクを侵略したネオコンとの食い違いがはっきりしてきました。で、決別宣言をしたと。

今フクヤマさんが目指すのは「現実主義的ウィルソン外交」。本書においてフクシマさんは現実主義的ウィルソン外交が何であるかという定義づけは行っていません。まだその段階ではないのかもしれません。ただ、ソフトパワーの重視など、現在のいわゆるネオコンが無視してきた分野にも気を配っていることが感じられます。ただ、ネオコンが根っこに持っている理想主義、「民主主義を世界に」といった主張は共通しているように感じます。それじゃ、ネオコンさんたちに、「もう少しうまくやんなよ」って言ってるだけにも感じますが。

 

フクヤマさんの「歴史の終わり」も読んだことがありますが、まことに博覧強記で古今東西の文献やら思想やらが縦横無尽に引用されています。そういうものの背景が分かっていないと読んでいてもヨクワカンナーイ。読んでいて疲れる本でした。はい。

 

ジョージ・ソロス 越智道雄訳『世界秩序の崩壊「自分さえよければ社会」への警鐘』ランダムハウス講談社  

ジョージ・ソロスといえばイングランド銀行を破産させた男として有名ですが、実は20世紀最大の哲学者カール・ポッパー(って言われても知らないな)の弟子であり、ポッパーのオープン・ソサエティを実現する活動を実践してきたそうです。哲学者としての著作だもんで、やたらと衒学的に書かれています。読みにくいことはなはだしい。ま、年も取ったことだしゼニの次は名誉だ、ということで慈善活動や政治活動にも力を入れている、というのは意地悪な見方でしょうか。

あまりに衒学的に書かれているので、私の知性ではオープン・ソサエティとは何であるかがいまひとつ理解できなかったのですが、いろいろ調べたところでは、国とかに縛られず、自由かつ自律的に結びついたコミュニティからなる社会らしいです。市場原理とかも超越しているらしいですね。なんと私めが書いた共創社会何ぞとも似ているではありませんか。プチ自慢。

でも、「自分さえよければ社会」ってのはすぐにピンと来るフレーズですね。ソロスさんが何を批判しているかすぐ分かるじゃありませんか。ブッシュとかチェイニーとかラムズフェルドとか。あるいはイラク戦争とか。自分さえよきゃ他がどうなっても知らんもんね、という態度が見え見え。ブッシュとかチェイニーとかラムズフェルドって人相が悪いもんね。とてもいい人には見えない。

ソロスさんはブッシュをこっぴどく批判しています。なにしろ再選反対のキャンペーンを張ったぐらいですから。

「アメリカはすでに、ディック・チェイニー副大統領とドナルド・ラムズフェルド国防長官という極端なイデオローグの手に落ちている。この二人は、真理は操作可能、それも首尾よく操作できると確信しているのだ。二人はすでに、「生まれ変わりキリスト教徒(ボーンアゲイン)」の大統領と「自分さえよければ型」の民衆を首尾よく操作してきた。」

「テロとの戦争を否認しないかぎり、アメリカが正気に戻ったこと見なすことはできない。

「民主主義は武力によっては導入できない。

「海外でテロとの戦争を操り広げることによってアメリカ国内をより安全に保っているというブッシュ大統領の主張は、どこか根本的に間違っている。「九・一一」当時より今の方が、アメリカ人を殺害するのに命を賭けるのも辞さずという人々の数を増やしているのだ。」

あと、米国経済の土地バブル崩壊を示唆しているのが気になりますね。時は2007年、って今年じゃないですか。まあ、2012年のアセンションに向けて地球に大波乱が起きるようですから、土地バブルの崩壊ぐらい当然でしょう。人類には明るい未来が待っているのでしょうか。

 

2007年4月

牛島 信この国は誰のものか』幻冬舎 

企業法務を専門とする弁護士の牛島さんが「月刊ザ・ローヤーズ」という雑誌に2004年から2006年まで連載していたエッセイに加筆・修正のうえまとめたものです。

現在のビジネス活動において法律というものは何はともあれ味方にしておかなくてはなりません。ビジネス戦略を考える上でも、日々の業務を遂行する上でも、“法律違反”は致命的な影響をもたらします。司法制度改革によって弁護士の数も増えることでしょうが、すでに弁護士である方にとってはウハウハでしょう。弁護士は勝ち組。昔からか。

牛島さんは最近のコーポレート・ガバナンスに関する注目すべき判決として野村の損失補填についての判決、次いで大和銀行についての株主代表訴訟判決、そしてUFJと住友信託をめぐる敵対的買収についての決定、あるいはライブドアのニッポン放送に対する敵対的買収をめぐる決定を挙げています。野村證券事件に対する裁判所の判決には、大蔵省の了承の下行われた損失補填ですので今回だけは例外的に認めますが、次からはだめですよ、というメッセーが込められているとしています。次の大和銀行の判決は、すでにウォーニングを出しているのですから、今回からは法律を杓子定規に適応しますよ、というメッセージなのだそうです。そして最後の敵対的買収を巡る裁判所の判断には、ビジネス上の問題だろうがなんだろうが、法的問題に対する最終的な判断を下すのは裁判所ですよ、というメッセージが込められているのだそうです。金融行政だから大蔵省、なんて言う時代ではないのです、と宣言しているのです。だから、裁判所に直接聞けない場合には弁護士に聞くしかないのです。うーん、弁護士が儲かるわけだ。

牛島さんは本書の中でトヨタやキャノンの名前を挙げてコーポレート・ガバナンスの優等生であると最大限に褒めています。「私は常々思っているのである、「トヨタのある日本で、どうしてコーポレート・ガバナンスの議論をするのだろう」と。」コーポレート・ガバナンスの充実のために商法を改正してまで社外取締役とか委員会制度の導入を図っていますが、トヨタとかキャノンには社外取締役も委員会制度もないのにちゃんとやっているじゃないですか、というわけです。へー、そうなんですかね。

ま、形を整えれば中身は付いてくる、というものではありませんが、トヨタとキャノンねえ。両社のトップが日本財界のトップである経団連会長の座を直近勤めた会社。キャノンの御手洗会長といえば、ホワイトカラー・エグゼンプションの旗振り役でしたが、残業代ゼロ法案と叩かれまくってボツになったことを思い出します。御手洗会長は、労働者派遣法についても「三年たったら正社員にしろと硬直的にすると、たちまち日本のコストは硬直的になってしまう」とかも言ってます。要するにそんなことしたら簡単にクビにできなくなるじゃないか、ということですね。トヨタとかキャノンって儲かりまくって笑いすぎて開いた口がふさがらないくらいのはずなのに労働者へのおこぼれは無し。それどころか少しでも安くしようと買い叩いている。

期間工、偽装請負、なんていうキーワードで検索するとたくさんのサイトが引っかかります。日本の大手企業がこういったからくりを使って労働力を買い叩いている様子がよく分かりますよ。ワーキング・プア。じっと自分の手を見ちゃう。ちゃんとトヨタやキャノンも出て来ますって。お試しあれ。 

郷原信郎「法令順守」が日本を滅ぼす』新潮新書 

東京地検特捜部検事を経て現在桐蔭横浜大学法科大学院教授の郷原さんが日本のコンプライアンス体制に警鐘を鳴らしています。その経歴から、日本のコンプライアンス体制はなっていない、もっとしっかりしないと、というものかと思いましたが、全く逆。無理な法令遵守というか法令墨守は百害あって一利なしと説いています。

現在も企業不祥事は後を絶たず、「コンプライアンス体制の充実を図ってまいります」というのが企業の謝罪会見の上等文句になっています。なにしろお上が「こいつはけしからん」とマスコミに情報を流してしまっていて、尻馬に乗った御用マスコミが寄ってたかってピーピー言っているわけですから、改めて「私どもは規定そのものに問題があると思います」なんて言っても誰も信用してくれません。というか、叩かれるのがオチ。

郷原さんは最近発生した公共調達をめぐる談合問題、ライブドア・村上ファンド事件、耐震強度偽装事件などの背景として、何らかの形で法令やその運用が経済実態と乖離している現状があると分析しています。ところが法令遵守だけが大手を振って主張される結果、問題は解決せず余計深刻なものになっているとしています。

先般藤田東吾さんの「月に響く笛 耐震偽装」をご紹介いたしましたが、郷原さんはイーホームズの責任について私とは異なった見解に立っているようです。郷原さんは、建築確認制度そのものが戦後まもなく大至急復興のため建物を建てなくてはいけないときに、建築士が設計を行っているという前提の下行政が最低限のチェックをするために設けられたシステムで、そもそも大きなビルの建築確認なんぞ出来るはずもなかったと喝破しています。建築基準法そのものも数次に渡り改訂されていますが、それ以前に立てられた建物についてはて適用されていません。耐震強度不足の建物は、実は日本には何万、何十万とあるのです。このように形骸化した建築確認システムが存続していたため、提出書類を偽装する、極めて初歩的、露骨な違法行為がまかり通ってしまったのです。では、法律を厳しくしたら耐震強度偽装は防げるのか、というとあまり期待できそうに無いようです。建築確認システムそのものが書類のチェックをするだけで現場でのチェックが無いなど、まだいくらでも抜け道があるからです。こういった行為は建造物の安全性をチェックするシステム全体を見直さなくては到底改善が図られるものではありません。

また、昨今の経済関係の法令は、民間との接点を失い独善化した官僚が米国あたりの法律を翻訳したごときものと化していますので、いっそう混乱に拍車をかけているわけです。文化的・社会的背景が全く異なるものを接木しているわけですから、摩擦が起きるのは当たり前です。でも法令遵守。枝葉末節であろうとも「法律に違反しています」と言われてしまうと文句が言えなくなってしまうんですね。お役人ってのはこういうことは実に得意ですからね。これじゃいくら法律を守っても社会は良くならないですよね。窮屈なだけ。

郷原さんは「法令の背後にある社会的要請に応えていくことこそがコンプライアンスである」と言っています。法令墨守ではないと。私もそう思います。

郷原さんはフルセット・コンプライアンスという理念を提唱しています。

「まず第一に、社会的要請を的確に把握し、その要請に応えていくための組織としての方針を具体的に明らかにすること。第二に、その方針に従いバランスよく応えていくための組織体制を構築すること。第三に、組織全体を方針実現に向けて機能させていくこと。第四に、方針に反する行為が行われた事実が明らかになったりその疑いが生じたりしたときに、原因を究明して再発を防止すること。そして第五に、法令と実態とが乖離しやすい日本で必要なのが、一つの組織だけで社会的要請に応えようとしても困難な事情、つまり組織が活動する環境自体に問題がある場合に、そのような環境を改めていくことです。」

最も大事なのは一番目でしょう。それが肝。

北芝健ニッポン非合法地帯扶桑社 

著者の北芝さんは元警視庁の刑事さんです。在職中の経験を元に『まるごしデカ』などの漫画の原作者となりましたし、最近はクイズ番組でもお顔を拝見しますので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

テレビで拝見する顔は凶悪とも思えませんが、警視総監賞を4回も取っている割には実は相当な不良刑事で、現職中に検挙されたことがなんと3回もあったそうです。本書にも、盗難バイクに乗っていたアンちゃんが怪しいそぶりをしていたというんで、いきなり何発か食らわせて行き先をゲロさせる、なんていう、こんなこと書いちゃっていいのってことも出てきます。

このとき見つかったのは輪姦グループ。計画的に女性を拉致監禁、輪姦の上場合によっては殺害してしまうんだそうです。このときは北芝さんが踏み込んだので命だけは助かったそうですが、強姦などの被害にあって人生を狂わされてしまう女性は多いそうです。快活だった女性も笑顔を忘れ、引きこもりになったり、夜の街に沈んでいってしまう女性も多いそうです。この被害女性もその後ピンサロで働くようになり、その後は不明だそうです。

北芝さんはこんなときも冷酷。北芝さんは自分で警察官はカタギの人間ではなくヤクザと同じクロウト筋のフェロモン系精力絶倫人間であると思っているようですのでそんな女々しいことまで気が回らないのかもしれませんけど。「大量殺人を犯した犯人と、優秀な軍人の脳は似ているとも言われる」ですって。犯罪者は憎んでいるようですが、犯罪被害者のケアなんてのはてんで頭に無いみたい。後の方では外国まで強姦魔を成敗しに行った、なんて話も出てきますが。でも、被害者へのケアはなし。単なる復讐。

ま、最近は警察も犯罪被害者対策室とかNPO法人の犯罪被害者支援センターの設立をしているみたいですが。そもそも警察というのは国家権力の執行機関であって、国民を守るための機関ではないんですね。以前も引用しましたが、「犯罪の捜査及び検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし損害の、回復を目的とするものではなく、(中略)被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は酵素の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである。」(1990年1月20日最高裁判所判決)ですって。犯罪というのは国が決めた法律を守らなかったからいけないのであって、被害者の受けた損害なんて国には関係ないもんね、ってことです。

上品に人生を送ろうと思っている方は読まない方がいいかもしれません。最後にもっと過激なネタもあるんだ、と書いておられますが、私には充分過激でした。最後のほうにはちょこっとイイ話も出てきますよ。

北芝健ニッポン犯罪狂時代』扶桑社  

上記の作品の続編です。本書冒頭で北芝さんは自身がマスコミからいわれの無いバッシングを受けたことを書いておられます。松本サリン事件の河野さんの心境が良くわかったと。で、本書のトーンは前作とはだいぶ異なっています。「警察は常に被害者の側にいるので、どうしても被害者の肩を持ってしまうきらいがないでもない」ですって。だいぶ違うわ。

この話は少年犯罪の話からつながっています。「まずみんなに知ってもらいたいのは、一般刑法犯の実に37.9%(平成16年度)は少年判なのだという事だ。しかも成人一般刑法検挙人員の人口比で比較すると、少年の方が成人よりもかなり高く、近年おおむね5から6倍で推移している。つまり旧チーマーや少年ギャングどもは大人の5、6倍犯罪を犯しやすいということだ。」

「少年の刑法犯検挙人員自体はここ数年横ばいだ。ただこの数字にも注意が必要。出生率の低下に伴い少年の数も減っているので、少年人口比ではこの10年で増えている。」でも、データを読むときには気をつけなきゃ

成年であれば当然極刑がふさわしい事件でも未成年であるというただそれだけの理由で極刑を免れる事例が後を絶ちません。確かに矯正の可能性が云々は分からなくもありませんが、昨年山口県の徳山高等専門学校で女子生徒が殺害された事件では、被害者の氏名・顔写真が公開される一方、犯人は同級生でありながら19歳ということで指名手配されたものの氏名・顔写真が公開されないといったばかばかしい事例がありました。北芝さんならずともおかしいという思いがいたします。

最近ボランティアのパトロールをしていて警察の方から面白い話を聴きました。ボランティアのパトロールですから強制力は全く無いわけですが、無灯火の自転車などがあれば一応注意はいたします。一応「はい」とか何とか答えてくれることが多いのですが、完全に無視する方も多くいらっしゃるのだそうです。もちろん大人。これじゃ若いもんがどうのこうのと文句は言えないではありませんか。北芝さんは警察の不祥事について、多くの真面目な警官がいることを強調しておられます。若者だって同じことでしょう。警察の裏金作りなど、現職の警官が告発するまでになっていますが、警察本体の動きはものすごく鈍い。裏金は捜査にも使われているからいいじゃないか、というのかもしれませんが、もしそうであるならばきちんと理由をつけて請求すべきではありませんか。北芝さんも警察では私服の警官にも制服警官と同じ数の制服や備品が配給されているといった無駄があることを認めています。無駄なら止めればいいのではないでしょうか。

私たちが警察に最も失望しているのは自浄機能の無いことです。臭い物には蓋。前例踏襲。警察命。批判するやつは敵。

前作には警察官がリンチで暴力団幹部を殺してしまったとか、警察官が被害にあった場合にはまどろっこしい手続きを省いて復讐するなどという逸話が自慢げに書かれていました。相手が暴力団だったら何をしても良いのでしょうか?本作ではそこら辺は意識的にカットされたようです。

北芝さんは腕も立つが筆も立つという二刀流の方のようです。被害者の痛みも分かった現在、ぜひその能力を警察の信頼回復、まさにコンプライアンスの向上です、にその能力を使っていただければと思います。

 

2007年3月

ベンジャミン・フルフォード9.11テロ捏造 日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』徳間書店

元「フォーブス」誌アジア太平洋支局長が書いた9.11陰謀説の本です。訓練を受けたジャーナリストらしくきちんと筋道を立てて書かれていますので、一方的思い込みだけで書かれたトンデモ本に比べると大変読みやすく書かれています。ま、書かれていることはすでにあちらこちらで目にしたことですが。

ただし本書では翻訳者の名が書かれていませんし、英語版のクレジットもありません。つまり、本書は日本向けに書かれた本だということです。もちろんこれから英語版が用意されるという可能性はありますが、そもそも米国でこんな本は売れるのでしょうか。こんな本書いたらどっかから弾が飛んでこないとも限らないじゃないですか。あるいは暗殺されちゃうとか。最近イギリスでロシアのスパイだか元スパイだかが暗殺されたとしてマスコミをにぎわしました。本書では、最近欧米で何人ものトップクラスの微生物学者(専門は炭疽菌など生物兵器にも使える細菌。本書では人種を特定して被害を与える生物兵器の研究に関与していたとしています。SARSは中国人の人口削減を狙った生物兵器!)が不審な死を遂げていることを指摘しています。BBCに情報を流したと名指しされ自殺したとされるジョン・ケリー博士もその一人です。でもマスコミも大して騒ぎません。セレブじゃありませんからね。自殺でしたとか事故死でしたとか警察なりの判断が下されてしまえばそれで終わり。ロシアに都合の悪いことは書き立てても、自国に都合の悪いことは報道管制。

本書でも触れられていますが、9.11陰謀説は未だに米国一流メディアではタブーらしく、一流新聞・テレビなどではほとんど触れられていないようです。ネット上では大流行だそうですが。大衆にはスリル・スピード・セックスを与えて余計なことは考えさすなってことですね。

今頃になって9.11とオサマ・ビン・ラディンの繋がりを示す明確な証拠は見つかっていないとFBIも言っているようですが、大スキャンダルとして報道されているわけではないようです。報道ではさらっと触れるだけ。テレビしか見ていない米国国民は、9.11はオサマ・ビン・ラディンどころかフセインがやったと信じこまされているようなものではないでしょうか。その裏には強い意志が感じられますね。悪意が。

もっともさすがに最近では「3月23日のCNNの5万人以上の世論調査で83%が「アメリカ政府は911について嘘をついている」という結果が出た」そうです。じゃ、未だに信じているのは日本人だけか?イラク戦争への参戦は間違っていなかったって言ってますからね。違うって言うと米国政府からお友達じゃないって烙印を押されちゃいますからね。

本書では米国の民主主義が危機的状況になっていることを告発しています。情報源を明かすことを拒んだジャーナリストは逮捕され、情報を漏らした政府職員も逮捕されています。先日日本では情報源の秘匿を認める判決が出ました。何と日本のほうがまだましな状況なのだそうです。日本の憧れ、民主主義の牙城のアメリカはどこへ行ってしまったのでしょう。そのような状況を変えうる国家として著者は日本に期待しています。それに応える日本人はいるのでしょうか。

911のほかにも米国が裏で操っていた陰謀(米国外のみならず米国内のものも含みます)が数多く描かれています。真偽の判断はお任せします。大変面白い本でした。  

ノーマン・G・フィンケルスタイン 立木勝訳『ホロコースト産業』三交社

昨年、イランのアフマディネジャド大統領の提唱によりホロコースト検証会議がテヘランで開催されました。出席者の名前は公表さていません。本国に帰国の際パスポートを押収されてしまう危険があるからだそうです。ことほど左様にホロコーストを議論の対象とすることはデリケートな問題を含んでいるのです。

本書の著者のフィルケンスタインは両親がナチ強制収容所の生還者であり、本人もれっきとしたユダヤ人です。そして、いわゆるリビジョニスト(修正主義者)とは異なり、ホロコーストそのものを否定しているわけではありません。そうではなく、「それがイスラエル国の犯罪的な政策と、その政策へのアメリカの支持を正当化するために使われている」こと、そして「ホロコースト産業の今のキャンペーンは「困窮するホロコースト犠牲者」の名の下にヨーロッパから金をむしりとるためのものであり、彼らの道徳レベルはモンテカルロのカジノの水準にまで低下してしまっている」ことに批判の矛先を向けています。

フィンケルシュタインによれば、米国のユダヤ人たちは戦後ある時期まではナチ・ホロコーストに対してさほどの注意を払わなかったし、建国されたばかりのイスラエルにもさして同情的ではなかったそうです。ところが19676月の第三次中東戦争(6日戦争。著者はアラブ側の呼称である6月戦争を使っています)後、米国はイスラエルを中東地域での代理人という戦略的ポジションを与えることにしました。そのような環境的変化を受け、米国のユダヤ人たちは突然ホロコーストを「思い出した」のです。そして米国政府もそのようなユダヤ人たちの運動の片棒を担いできたのでした。ユダヤ人は米国政界最大の圧力団体ですからね。

その後ホロコーストはヨーロッパなどから金を巻き上げるためのイデオロギーとして利用されるようになったとしています。そのためには犠牲者の数は多ければ多いほど都合がよいわけです。

ホロコーストで殺されたのは実はユダヤ人だけではありません。多くのロマ人(ジプシー)、障害者、同性愛者、共産主義者などが犠牲になっています。しかしホロコーストの唯一性を強調するあまり、ユダヤ人以外の犠牲については多くが語られていません。また、古今東西民族浄化は行われてきましたが、それらとホロコーストは本質的に異なるものとされています。それどころか、そのような主張することそのものが反ユダヤ主義である、と決め付けられてしまうのです。

本文は極めて短い(150ページほど、でも前書きとか後書きは長い)本書ですが、巻末には70ページ以上の脚注が載せられ、引用の出典を明らかにしています。文句があるなら反論してみろ、という意気込みなのでしょう。アメリカではさっぱり売れなかった本らしいですが。

日本は歴史的にユダヤ人とはあまり関わりを持たずにやってきた民族だとされています(日ユ同祖論なんてのもありますが)。ただ、昨今日本でも物を言うと唇が寒くなるような動きがあるような気がしますがいかがでしょうか。

田村秀データの罠 世論はこうしてつくられる』集英社新書

論文を書く場合、あるいは何かの研究発表や講演をする場合、客観的データを挟むと説得力が増すといわれています。この客観的データというのが曲者で、発信する側も受信する側も気をつけないと「データの罠」にはまってしまいます。やらせのタウンミーティングではありませんが、まず結論ありきでデータは結論を補強するために用意される、といった例も見受けられます。本書にはそのような「データの罠」に陥らないためのヒントが散りばめられています。

世論調査など、調査方法、サンプリング方法などによって正反対の結果が出ることも珍しくないといいます。本書では村上ファンドが阪神電鉄を買収しようとしたとき、ライブドアの調査では賛成が73%を占めたにもかかわらず、ファン投票を実施したデイリースポーツでは反対93%、日刊スポーツでは反対55%だった例を挙げています。このうち一つだけを目にしたのであれば、「ああそんなもんなのか」、と思ってしまうところです。よく考えればライブドアの利用者には堀江―村上ファンドのシンパが多く、阪神命のデイリースポーツの読者に阪神シンパが多いのは当たり前のことで、偏った結果が出るのは当然予想できるはずです。情報源は複数持たないといけないようですね。

また、テレビの視聴率調査は1600万世帯中わずか600世帯ほどのデータを基に作成されているといいます。だからあんなもんは無意味だ、というのは統計を知らないばかものということになるでしょうが、30%と29.8%の視聴率を比べて勝った負けたというのも同じようにばかものの仕業だそうです。視聴率の例では、95%の信頼度をとった場合、母集団の視聴率は26.3%から33.7%の収まることになるそうです。29.8%の場合は26.1%から33.5%になるのでしょうか。これだけ重なっていると、有意な差があるとはいえないでしょう。重要なのは、どの程度の誤差があるデータであるかを念頭において判断することです。また、本書ではこのような視聴率調査会社が1社しかないことにも注意することが必要だとしています。以前は2社あったので視聴率の違いが実感できましたが、今ではよほど注意しないとデータに引きずられてしまいます。そういえば、今ではヒットチャートの調査会社も1社しかないんだそうです。ヒットチャートの信頼性に疑問を投げかける記事がある雑誌に掲載されたところ、その著者が訴えられてしまうという事件が最近ありました。あえてリンクはしませんが。データソースが1つというのには問題がありそうです。

いずれにしても、統計数値などを採り上げもっともらしくぺらぺらしゃべっている輩の話には充分注意しなくてはならないということでしょう。

落合信彦ずぶとい国、ずるい国、そしてバカな国』小学館

この本の帯に書かれている文をみて思わず買ってしまいました。「「学級崩壊する」国際社会!「話せばわからない」から世界はこうなった」。世界が学級崩壊とは言い得て妙な表現ではありませんか。

9.11」をきっかけに大きく舵を切った米国。そして米国と並ぶ超大国たらんとする中国。落合さんはポスト9.11の世界の中心はこの2カ国を中心として動き、日本や欧州諸国は否応なくこの動きに巻き込まれていくと予想しています。もはや世界は話し合いが通用しない世界、「自らの主張を自爆テロという暴力をもって訴える国際テロ組織やテロ国家、交渉の陰で核開発を進める国、さらには国際ルールも守れないのに要求だけは声高に叫ぶ国」になってしまっており、「こうした国々はいずれも「話し合い」の“甘さ”を逆手にとって国際社会を跋扈するようになった。これでは、自分の欲望をむき出しで我が儘な行動や言動を繰り返すガキばかりが集まった「学級崩壊の教室」と何も変わらない」としています。女王の教室の真矢みたいな先生が現れないかしら。

実は本書は2003年から2005年にかけてSAPIO誌上に発表された文章を元に2005年10月に出版されました。本書では世界史のページに燦然と輝くであろうとされた2005年1月のパレスチナとイラクの選挙も、今ではいささか色あせたものになってしまいました。北朝鮮では核実験が強行されましたが、現時点では北朝鮮攻撃は行われていません。また、本書執筆時点では万全だったブッシュ政権も、2006年の選挙で共和党が負けてしまったことからレームダック化がささやかれるようになってしまいました。ラムズフェルド国防長官もボルトン国連大使も辞めちゃいましたしね。もっとも、ブッシュ大統領とその一派がこのまま引き下がるとも思えませんが。

私は落合さんのように米国を民主主義の伝道師であるとも思いませんし、民主主義が理想的に機能している国だとも思いません。本書執筆の時点で民主化のすばらしい成果であると評価されているアフガニスタン、パレスチナ、イラクなど、いずれもうまく行っているとは思えません。だいたい米国は例え選挙の結果生まれた政権でも反米的な姿勢を示すとすぐに援助しないだ何だって騒ぎ始めますからね。

ま、落合さんの世界観には共感しないものの、面白いエピソードがたくさんはちりばめられています。彼が訪れた国の国民の印象で面白いものがありました。まず、ロシアでは日本などとは異なる強国志向の国民性を感じたそうです。例えば、プーチン大統領は例え強権政治一辺倒でも強い政治家として今でも大変な人気を誇っています。スターリンとゴルバチョフを比べるときでも、スターリンはソ連を世界の一流国にのし上げた偉大な指導者であり、ゴルバチョフは属国であった東欧諸国を手放しソ連を崩壊させた売国奴、といった評価になるそうです。国を強くしたかどうかが最大の評価ポイント。反対したやつらを殺しぐらいでがたがた言うなってことですね。また、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンといった旧ソ連から分離独立した国々で落合さんが強く感じたのは国民の政治的無関心だそうです。隣の国で戦争をやっていても、だから何、といった感じだそうです。当然自国の政治にも関心が薄く、独裁政権を倒さなくてはいけない、なんて空気は全くなし。いすれも強権政治が長く続いた地域ですね。長いものには巻かれるのが処世の知恵っていうか習い性になっているんでしょうね。

日本人もあまり政治に無関心でおとなしくしているといじめっ子を助長させちゃいますよ。いけないことはちゃんと「そんなことしちゃだめだよ」って注意しなきゃ。まずはおはようの挨拶からでしょうか。

ま、十人十色、国が違えば人も違う。手練手管の限りを尽くして自国の利益を最大限に図るのが外交だという冷徹な理解も必要でしょう。でも、こんなことばかり考えていると日本には未来がなくなってしまいます。日本の将来にも希望を与える本を紹介いたしましょう。  

河村たかしおい河村!おみゃあ、いつになったら総理になるんだKKロングセラーズ

民主党の変人河村たかしさんの著書です。以前テレビで目にしたとき、政治家らしくない信念に基づいた発言をする人だなと思いましたが、この本を読んでますます好きになっちゃいました。やはりこういう人がたくさん政治家にならないと日本もよくなりませんよ。

がんばれ河村!

河村さんは、「国会議員が全員死んでも日本は痛くもかゆくもない」と断言しています。なんで日本の政治がだめになっちゃったかというと、議員が職業になってしまったから。「職業だから、弱い者の味方をせず、強い者たちのために我田引水し、ムダな公共事業で私腹をこやす。職業だからバカ高い年金を手放すこともできず、あげくの果てに税金でこっそりこさえた億ションで優雅に暮らそうとする。職業だからこそ、国(日本経済)にカネがあり余っているというのにさらなる贅沢をしたいがために、「日本は財政危機なので辛抱してください」とうそまでついて増税する。」そーだそーだそのとおりだ。

がんばれ河村!

政治家なんてのは職業ですからね。なっちゃえば勝ち。特別な技能が必要なわけでもないし。「政治家は人生に苦しんでいる人にはおすすめ。選挙は人生一発逆転のギャンブルだ!」「政治家になるというのは、土俵際のうっちゃり、みたいなもの。どうしようもない人間でも選挙に勝てばいいのである。事実、ロクでもない人間がたくさん選挙で勝っていらっしゃるではないか。」だから河村さんはタイゾー先生が出てきたのはよかったといっています。でも、「おい、議員がええ生活を送っているなんてホントのことを言うな。おまえだって党で公認されないと次はないだろ。言うとはずされるぞ」とかなんとか言われた瞬間にシュンとなっちゃったことを嘆いています。「そのままの勢いでいってもらわないと困るのだ。」ま、河村さんも春日一幸から「迷惑になった」といわれて秘書を首になった後とんでもない目にあったそうですが。そのときの教訓が「政治とは理不尽なものである」。

がんばれ河村!

民社党を首になった後、紆余曲折の末日本新党から出馬当選しました。当選の後も紆余曲折。小泉首相(当時)の年金未納問題を追及したら所属していた民主党の菅代表や小沢一郎などの未納まで出てきちゃった。おまけに江角マキコさんまで巻き添えにしちゃった。せっかく国会の特別委員会の委員長になったのに、そんなもんいらんと返上した委員長手当てや委員会交際費も受け取らないと国への寄付となり公職選挙法違反になると言われ、あげくのはてあっさり委員長を首になっちゃった。「国民の利益になることでも、議員の利益にならないことをやり始めると抹殺される。実にわかりやすい話である。」

がんばれ河村!

私も以前菊池さんの著書で紹介させていただきましたが、日本が財政危機だというのは「財務省の陰謀」だとしています。「潰れる、倒産する恐怖のないところに進歩はない。だから潰れることを知らない「税金産業」には不祥事が続発するというわけだ。」「こういう努力をしたことがないくせに税金が足りないとか、年金が足りないとか文句ばっかり言っているのが、財務省と国会議員である。」「どうしても税金だけで国を運営したいと言うなら、「民営化」とか「行政改革」なんてインチキは口にせず、堂々と「社会主義を目指します」と言えばいいのである。」そーだそーだそのとおりだ。

がんばれ河村!

最近河村さんは超豪華議員宿舎に入居拒否をして話題になりました。この議員宿舎の建設費が土地代を入れたら500億。もったいないと訴えて県知事に当選した滋賀県の嘉田知事が注視しようとした栗東新駅の建設費が240億円。駅の建設は地域の発展に役立つかもしれなませんが、豪華な議員宿舎の生産性は僅少でしょう。ゼロじゃないにしても。「自分の頭のなかに確たる国家像がある政治家は、このような身近な不正に気がついてそれをただすことができる。誰とは言わないが、国家のビジョンをもっていない政治家は、政治のイス取りゲームにうつつを抜かし、すぐ政権交代だと騒ぐ。」そーだそーだそのとおりだ。

がんばれ河村!

河村さんは戦争についても面白いことを行っています。「原爆碑文「過ちは繰り返しませぬから」って誰が言ってるのだ。」「これはワシの解釈だが、この原爆碑文は、アメリカが都市無差別爆撃、一般市民の大虐殺という戦争犯罪を、いつの間にか日本人の犯罪にすりかえた動かぬ証拠ではないか。原爆を落とされ何十万という民間人を虐殺されたうえに、「悪かった」と言わされる。日本人というものはここまで辱められたということなのだ。」「だが、日本人はアメリカが悪いとは言わない。そんなにアメリカが怖いのか。」そーだそーだそのとおりだ。

がんばれ河村!

また、昨今の靖国参拝、愛国心についても、「靖国参拝には賛成。ただし、日本国内への謝罪と補償を約束しろ!」日本国民にはエラソーにしている議員も、中国にはペコペコ。逆じゃないんですかね。「ボンボン議員たちが叫ぶ「愛国心」のいかがわしさ」「親から地盤をそっくり譲り受け、他に自分自身の職業もなく、後を継いだ「職業議員」のボンボンが、今になって急に愛国心に目覚め、靖国を奉ります、と宣言するというのはどうにも好かんのである。」そーだそーだそのとおりだ。

がんばれ河村!

あちらこちらと戦ってきた河村さんですが、相手を切りに行くときは自分も腹を切る覚悟をしなくてはならないとしています。河村さんが何かを告発するときはいつもその覚悟ができているようです。私にはまねできない。

民主党の河村さんと自民党の野田聖子さんは次の次ぐらいで総理大臣を争うものと思って注目してきました(なんとお二人はお友達なんだそうです。あれま)。お二人とも最近はご難続きなのが気になります。この二人みたいな政治家が出てこないと日本はよくならないって。

がんばれ河村!

痛快な一冊でした。ぜひご一読を。

 

2007年2月 増補

藤田東吾月に響く笛 耐震偽装imairu.com  講談社  

耐震偽装事件をいち早く発見、告発したイーホームズ社長の藤田東吾ですが、架空増資という耐震偽装事件とは全く無関係な罪で有罪となり、イーホームズもお取りつぶしとなってしまいました。耐震偽装事件の全貌を世に知らしめるべく著したのが本書です。一旦は大手出版社から出版する予定でしたが、どこからかの圧力で結局自費出版と相成りました。ただし、ISBN番号も取得している本ですので書店から取り寄せることは可能ですし、大手書店も取り扱っています。詳しくはimairu.comまで。

本書では耐震偽装に関わった人物の名前を実名で発表しちゃっています(耐震偽装に責任がないと判断された場合は仮名のようです)ので、インパクト大なはずですがどうでしょうか。最近アパ・ホテルの耐震強度不足が判明、使用禁止勧告が出されました。アパグループのことはずっと前から藤田さんがしつこく告発していたんですけど、大手マスコミは徹底して無視。あんまり無視されたので超有名ブログ「きっこの日記」に情報を提供、大きな(一部で?)話題となりました。にもかかわらずマスコミはアパ・ホテルの営業停止のニュースを流すとき藤田さんが告発していたことはきっちり無視。きっと本書の出版も無視。それどころか藤田さんは耐震偽装の首謀者の一人として、いつでも“耐震偽装に絡んで架空増資を行ったイーホームズの社長”という肩書きを付けて報道されています。なんででしょう?

今回の耐震偽装事件でマスコミは姉歯建築士のかつらだとかヒューザーの小嶋社長の悪党面とか面白おかしく取り上げる割には背景となった問題には全く目を向けていません。小物に責任を押し付けて事件の収拾を図ろうとしているのでしょうか。

また国土交通省のお役人や政治化の名前も本書にはたくさん出てきます。多くは藤田さんをつぶそうとする側にいます。なんで告発者をつぶさなくちゃいけないのでしょうか?

藤田さんが執念で出版した本書は、450ページ近くもあり、おまけに全ページが通常より細かいフォントの文字でびっしりと埋まっています。きっこさんも指摘していましたが、藤田さんの文章はいささか読みにくい。おまけにものすごいディテールに拘ってる。読了するのに結構苦労しました。

ただ、読みにくい原因にはもう一つ、藤田さんがイーホームズが行ってきた確認検査業務には全く瑕疵がなかったと主張していることにもあると思います。確認検査業務とは「計画や工事の要所要所をチェックして、法に適合しているか否かを審査するのである」と書かれています。つまり全部をいちいちチェックするわけではないと。また、本書の中で藤田さんはイーホームズを試験現場でカンニングを見つけることができなかった試験官に例えています。試験官が見抜けなかったとしても、どう考えても一番悪いのはカンニングをした生徒(設計事務所、建築主、施工業者)であるはずなのに、生徒もカンニングができる環境を与えた学校(国土交通省)も試験官(イーホームズ)が見逃したのが悪いと攻め立てていると。

では、このような例ではどうでしょうか。粉飾決算を行っていた会社があるとします。巧妙に偽装されていたために会計監査では見抜けなかった。この会計監査をした監査法人は法にのっとった監査を行ったのだから全く責任がないと言い切れるのでしょうか。藤田さんはイーホームズには業界でも最高の人材を集めていたと主張しています。そのような専門家にはより高度な注意義務が課せられていると感じるのは私だけでしょうか。藤田さんはこのように書いています。「民間開放前から、中央区では複数棟の偽装物件が申請され確認済み証を出している。もし、中央区で確認した全棟検査を僕らが実施したら、想像を絶する棟数が偽装判明すると思う。」建築確認書類の偽装というのは昨日今日始まったのではないらしいではないですか。みんなで知らなかった、では済まないのではないでしょうか。「敢えて言及するが、実際に自治体の検査確認のほうがはるかにずさんである。」藤田さんも非難しているではありませんか。

イーホームズに偽装を見逃した結果責任を問うと、民間の検査確認機関ばかりでなく確認検査を行ってきた自治体までも訴訟の対象になることが容易に予想されることからほじくり返さないことにされただけなのではないでしょうか。責任の程度問題や責任の取らせ方(お取りつぶしの選び方とか)の恣意性に問題はあるにせよ、一切責任はない、という主張には違和感を覚えたことを付記しておきます。

ただ、藤田さんの名誉のために付け加えると、この耐震偽装事件はどう考えてもイーホームズ、ヒューザー、姉歯建築士、木村建設といったお取りつぶしになった面々だけの問題ではないことすでには明らかです。実名告発という勇気ある行動をとられた藤田さんに改めて拍手を送りたいと思います。何しろ藤田さんはこの行動によって創業した会社を失ってしまいました。イーホームズでは、この本を出版する以前に偽装が発覚した案件を全て当局に通報しています。訴えると息巻いている会社もあるようですが、20071月末現在、まだ実際に提訴はされていません。失敗・間違いを発見したら隠さずに報告する、というのは仕事の基本ですがなかなかできないものです。初期の段階では隠蔽も可能だったと思いますし、実際そのような働きかけもあったようです。

ところで、私は最近の論文の中で、失敗を告白することによって受けるペナルティーと、失敗を隠蔽、後になって発覚した場合のペナルティーを比較する簡単な算術モデルを発表いたしました。このモデルは当然のことながら隠蔽のリスクの方が高いことを示しています。さて、私のモデルは正しいことが証明されるのでしょうか、それとも間違っていることが証明されるのでしょうか。興味のある方はご一読を。

巨悪を眠らせないためにもぜひ皆さんにも本書お読みいただき、今後の展開を見守っていただきたいと思います。

(追記)

自費出版だった本書、反響のあまりの大きさに講談社から発売されることになりました。うらやましい。リンクを張り替えておきます。

 

2007年2月

デブラ・ハメル 藤川芳朗訳『訴えられた遊女ネアイラ草思社

時は紀元前4世紀のギリシャの都市国家コリントス。捨て子だったネアイラは、奴隷身分ながら、売れっ子の美貌の遊女になりました。世界最古の職業ってやつですね。当時のギリシャでは合法でした。ギリシャの遊女は日本の芸妓とよく似ているとされているようです。総合エンターテイナーというわけですね。その後身請けされ、紆余曲折はあるものの自由身分を得たネアイラは、著名な弁論家ステパノスに見初められ、妻としてアテナイで暮らしはじめました。

ところが、それから30年も経ってから、2人の結婚は違法だとネアイラは法廷へと引きずり出されることになりました。訴えたのはステパノスに何度か法廷で煮え湯を飲まされていたこれも著名で裕福な弁論家のアポロドロス。ネアイラがどうこうというのではなく、単にステパノスへの嫌がらせのためでした。罪状は「ネアイラが、外国人でありながら、アテナイ市民の正式な妻としていっしょに暮らすことで、アテナイの法を犯したからである。」

え、紀元前4世紀のギリシャには裁判があったのかって?あったんですね。それも裁判中毒といわれるほど盛んだったそうです。ただ、今のような公正(本当かどうかはともかく、建前上)な裁判ではなかったみたいです。「アテナイの裁判では、対決する両陣営はいつでも陪審員に不正確な情報を提供し、状況説明は自分たちに都合がよいように誤解させることをめざしており、目的を達するためなら嘘もついていたからである。」ま、正直っちゃ正直ですよね。

で、こういう法廷弁論が書物となって現在まで残されているんだそうです。何のために書かれたかって言うと、民会といわれる市民集会で朗読するためなのだそうです。娯楽として。日本じゃ裁判記録なんて読むのは法曹関係者だけでしょ。それが娯楽とは。

2400年前ですよ。いやあ、人間なんて大して進歩していないってことがよく分かるではありませんか、って言うか、今よりすごい。今でもギリシャ人はすげー理屈っぽくて議論好きだって聞いたことがあります。なるほどね。

で、裁判の結果はどうなったのか。実は現在残されておるのはアポロドロスの弁論のみで、ステパノスの弁護や判決は資料としては残されていないのだそうです。本書の著者は歴史の研究家であり本著も学術論文同様の厳格さで考証されています。従ってアポロドロスの弁論を以って著者は筆を置いています。現在残されているのは罵詈雑言、誹謗中傷を並べ立てたアポロドロスの告発弁論だけ。しかし、そこから垣間見えるのはネアイラが元遊女であることを百も承知で30年間連れ添ったステパノスと、男性と食事をともにすることさえ許されない時代に遊女として生きたネアイラの姿です。

あなたはステパノスがどのような弁護弁論をしたと思いますか?

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄 上』草思社    

ヨーロッパ人がアメリカを発見した、というのはヨーロッパ人が人類として最初にアメリカ大陸を発見した、という意味では真実ではないでしょう。何しろアメリカ大陸には人類が住んでいたわけですから。しかし、ヨーロッパ人がアメリカ大陸を征服した、というのは歴史的真実です。なぜヨーロッパ人はアメリカ大陸を征服できたのでしょうか?逆にアメリカ大陸の先住民がヨーロッパを征服するということはありえなかったのでしょうか?

人類は数百万年前にアフリカで発生した、というのが現在の定説のようです。その後、人類は世界各地に移り住むことになります。そして人類が農業を営み食料を自前で生産するようになったのはわずか1万数千年前にすぎません。それからほんのわずかな期間でなぜこのような格差が生まれたのでしょうか?

例えば今から4万年ほど前に人類が上陸したといわれるオーストラリア大陸。その後アボリジニーたちは独自に農業を発展させることもなく、動物を家畜化することもなく狩猟採集民としてつい最近まで行き続けてきました。アボリジニーたちがアホだから人類の進歩に乗り遅れたのでしょうか。本書は人類としての資質の問題ではなく、環境、地理的な問題が決定的だったと結論付けています。つまり、オーストラリア大陸には栽培化に適した植物も家畜化に適した動物もほとんどいなかったため、そのような方向で発展することができなかったのだとしています。現代に至るまでオーストラリア原産の植物で商業的に農業栽培が行われているのはマカダミアナッツだけなのだそうです。

このような人類史の謎を豊富なエピソードと歴史学者とは異なる自然科学者の目を通して掘り起こしていきます。本書の後に書かれた『文明崩壊』とともに人類の発展を検証している本です。とっても面白く読めました。

本書に載っているエピソードをもうひとつ。「ライオンをふくめたアフリカ大陸のすべての動物の中で、毎年、もっとも多く人を殺しているのがカバなのである」そうです。知ってました?ま、もちろん人間を除いた動物の話でしょうが。

 

コリン・ウィルソン 松田和也訳『アトランティスの暗号』学研

最後はちょっとやわらかめの歴史の本、トンデモ本の一冊をご紹介しましょう。実は私この類の本が大好きなんです。読んで面白いでしょ。

現在の正統的な歴史では人類文明はほんの1万年前ほどの歴史しかないことになっています。しかし、コリン・ウィルソンは人類の歴史は10万年前にさかのぼるとしています。そのころの歴史を担っていたのは我々よりはるかに賢いネアンデルタール人だった、んだそうです。ネアンデルタール人って頭でかかったらしいですからねー。頭良かったんでしょ、きっと。ただ、文明の形は現代の物質中心の文明とはずいぶん形が違っていたようですが。現在ではシャーマニズムとして受け継がれているような精神世界を中心に発達していたのだと推測しています。ここら辺までくるとよく分からん。

でも、ネアンデルタール人と日本人の意外な共通点を見つけました。シャーマニズム文化では呪術的な力で獲物を獲得したあと、何らかの形で獲物にお返しをするのだそうです。ちょうど日本ケンタッキー・フライドチキンがブロイラー感謝祭をやるみたいに(日本ケンタッキー・フライドチキンだけの習慣だそうです)。日本神道は論理から生まれた理屈っぽい宗教(教典を持っている、ま、いわゆる世界で主流と言われている宗教です)とは異なり呪術的側面を残しているといわれています(確たる教典もないし)。てことは、日本人はネアンデルタール人の生き残りか?アトランティスの生き残りって方がかっこいいけどな。

ま、信じる信じないはご自由に。でも、地球の歴史ですら40億年以上。恐竜が地球上に繁栄していた期間だって1億5千万年くらいあったはずです。1万年だ10万年だって目くそ鼻くそな話にも思えますがね。

ま、熱くならずにお気軽にお楽しみ下さい。面白い話題が満載です。

でも、こういう本の著者達ってのはちゃんとネットワークを持ってるみたいですね。他人の本の売れ行きもちゃんとモニターしている。本を出す際も、事前に出版社にプレゼンして一番条件のいいところから出すんですって。ベストセラーにするためあらゆる努力をしている。プロの物書きの仕事です。売れ筋の本を出すためのちょっとしたプロジェクト。そんな出版の裏話もチラッと書いてあります。だからこういう本を書く人はお互いに批判はしないんですね。大切なマーケットを壊しちゃうから。もっとも、デニケンはけちょんけちょんに貶されてますが。じいさんだから関係ないって思ったんでしょうかね。

読売新聞社検証 戦争責任 T U』中央公論社 

2005年から2006年にかけて読売新聞に連載されていた「検証 戦争責任」の記事を書籍化したものです。

1931年の満州事変から37年の日中戦争勃発へと戦線をいたずらに拡大させていった原因・理由は何なのか、当時においても勝算のなかったはずの日米戦争(1941−45年)に突入した動機や原因は何なのか、太平洋の戦地で敗色が濃くなった後、なぜ玉砕、特攻といった極端な手段をとらなければならなかったのか、終戦工作が後手にまわったため米軍による原爆投下やソ連の参戦を招いた責任の所在はどこにあるのか、そして、極東国際軍事裁判(東京裁判)の結果をどう評価するべきなのか」を記事のテーマとして展開しています。

戦争責任というと、東京裁判の正当性がどうのとか、侵略行為がどうのといった話になりがちです。しかし、私も以前から申し上げているような、国民を無謀としか言いようのない戦争に駆り立てていき、尚且つ多くの国民を無駄死にさせていった指導者たちの責任、といったものはあまり追及されてきませんでした。あいつが悪い、こいつのせいだ、というのではなく、結果として日本国に甚大な被害をもたらした(平たく言えば失敗の)原因を真摯に反省しないと、また同じ過ちを繰り返すことになりかねません。このような責任追及をきちんと国民自身の手で行わないと、また戦争に駆り立てられ、無駄死にさせられてしまうのではないでしょうか。無駄死にさせられるのは指導者たちではありません。あなたや私のような普通の国民なのです。

責任者出て来い!というばかりでなく、一般国民の雰囲気というものも深く反省しなくてはならない点でしょう。日清日露の勝利で昂ぶった国民の戦意ははっきりと太平洋戦争で敗北を突きつけられるまで消えることはありませんでした。確かに軍部やマスコミが国民を煽った、という側面はあるかもしれませんが、一般国民も喜んでイケイケドンドンの雰囲気に乗ったのです。こどもたちは戦争で死ぬことが名誉だと学校ばかりではなく家庭でも叩き込まれて育っていったのです。お涙頂戴の特攻隊ドラマでは、最後は「おかあさーん」と言って死んでいったとされていますが、あれは嘘だ、そうも言ったかもしれないが、絶対に「天皇陛下万歳」とも言ったはずだ、とどなたかが書いておられるのを読んだことがあります。きっとそうだったのではないでしょうか。そうでなくては100%死ぬことが確実な特攻などまともに実行できないでしょう。

マスコミに関しては櫻井よし子さんが面白いエピソードを紹介していました。戦争も末期のころ、軍の広報もさすがにこの戦争は負ける、というようなことをリークし始めたのだそうです。いきなりポツダム宣言受諾、なんて言えませんからね。ところがマスコミは一億火の玉だとか本土決戦だとか勇ましいことしか報道しなかったそうです。なにしろマスコミ(新聞)は戦争報道、って言うか勇ましい戦勝報道で販売部数を飛躍的に伸ばしたそうですから。自分で自分の言葉に酔っちゃってたんですね。で、いまさら負けるなんて書けなかった。もっとも戦後GHQの指導が始まると喜んで民主主義万歳って書くんですけど。ま、そのおもねる姿勢は変わってない、とも言えますが。

その他、いくつか印象に残ったフレーズを抜書きしてみました。

ジャーナリストの清沢洌は戦時中すでに「大東亜戦争には(1)戦争そのものを目的な人と、(2)これを機会に国内改革をやろうという人と、(3)それによって利益する人とが一緒になっている。そしてその底流には武力が総てを解決するという考え、また一つの戦争不可避の運命感を有している民衆がある」と喝破していたそうです。

「天皇の命令を参謀総長が起案し、天皇に判を押してもらうことで奉勅命令となる。責任は判を押した天皇にあることになるが、天皇は明治憲法では法的責任を問われない。一方、参謀総長も負けた作戦を立案し、実行した責任を負わなくていいようになっている。上がそうだから下もそう。BC級裁判では多くの将校が責任を問われ絞首刑になったが、処刑された参謀はほとんどいない。」恐るべき無責任主義。“赤信号、みんなで渡れば怖くない。”この戦時無責任総動員体制が現在の公とされる分野における無責任体制の原型になっているんですね。この分野では戦後は終わっていないどころか始まってもいないんですよ。

「当時の日本は、軍国主義ですらなかった。本当に軍国主義なら、もう少し軍事的に勝てそうな判断をしただろう。」大笑いではありませんか。本当の軍国主義なら竹やりで飛行機を落とそうとはしないってことですよ。お国のやることに盲従するのが本当の愛国者ではないはずなのに、そんなことをチラとでも言ったら即逮捕。批判は悪。私の大っ嫌いな精神主義ですね。「ある日、首相官邸で国民義勇戦闘隊が突撃のために使用する武器が展示された。一見した当時の鈴木貫太郎首相は、唖然として言った。「これはひどいなぁ」。並んでいたのは、筒先から弾と弾薬を入れる先込銃、竹やり、刺股……だったのである。」あほみたい。

私だって今だからこそこんなこと書けますが、今以上に愛国法とかが制定されたらこのホームページをすぐ消せるように準備しとかなきゃいけませんかね。あー、いやな時代だ。

 

2007年1月

西村淳面白南極料理人』新潮文庫   

西村淳『面白南極料理人 笑う食卓』新潮文庫

二度にわたり南極越冬隊の料理人を務めた西村さん(本当の肩書きはコックさんではなく、海上保安官。本職の和洋中華のコックさんが帯同する場合もあるようです)が越冬隊での思い出を記した本です。抱腹絶倒まちがいなし。

今では観光旅行でも行ける南極ですが、その越冬隊ってのは結構厳しいものがあるでしょう。西村さんは昭和基地と昭和基地からさらに南極点近くにあるドーム基地で越冬を経験したそうですが、最初の本はそのうちドーム基地での思い出を語ったものです。昭和基地から1000キロ彼方のドーム基地は平均気温マイナス57℃、標高3800メートル、最低気温マイナス80℃、お湯だって85℃で沸騰しちゃうようなところだそうです。ウイルスでさえ生存できない。ここは宇宙かって。まさに極限。おまけに居るのはヤローばっかり9人。昭和基地でさえ大都会。そりゃ南極1号が必要だって(最新版は何号だ??)。

日本からの物資は年に一度届くだけ。砂糖が切れた、しょうゆが無くなったって言っても、コンビニはなし、お隣もなし。日本に帰りたいって泣いて叫んでも次の夏まで絶対に帰れない。ほとんど牢獄でしょう。そんな隊員にとって最大の気分転換・楽しみは食べることと飲むこと。とはいえ、ヤローばっかり9人も年がら年中顔を突き合わせているわけです。おまけに隊員になっているのはいずれもその道のエキスパートばかり。何も起きない方がおかしいって。で、やっぱり起きるわけです。何が起こったかは読んでのお楽しみ。

で、頼りのお食事の食材は全部冷凍・乾燥・缶詰食品。それをやりくりして何でも作っちゃう創意工夫となによりもそのバイタリティーには感服いたしました。野菜は持ち込んだ栽培機で作るしビールもビールの元を持っていって作っちゃう。おまけに松坂牛、あわび、伊勢海老、フォアグラといった高級食材やドンペリ、シャトーなんちゃら、高級ウイスキーなんぞも国費でまかなわれちゃって飲み放題。なんだかうらやましい。ま、越冬隊が食糧不足で餓死した、なんていったらしゃれにならない、というか国辱ものですからね。それでも、持って行った食材に偏りが出てしまうのはやむをえないところ。で、足りないものは他でおぎなえってわけで、牛ヒレのハンバーグとか伊勢海老団子の味噌汁とかサーロインの角煮なんていう採算度外視というか豪華なんだかしょぼいんだか分からない食事も作ってしまったそうです。

ところで最初の『面白南極料理人』は電車男ばりに、ウェッブに掲載されていたものが評判になりその後小さな出版社から刊行されたそうです。それがさらにメジャーもメジャー新潮文庫に収録されることになったそうです。うらやましい。

で、1冊目が売れたので書かれたのが『笑う食卓』。1冊目は越冬物語の色彩が強かったので、こちらは2回にわたる越冬期間に生まれた傑作料理の数々を詳しいレシピとともに紹介しています。料理が生まれたエピソードも傑作。お奨めの2冊でした。  

末永蒼生クレヨン先生と子どもたち』ソフトバンク クリエイティブ

末永さんは「子どものアトリエ・アートランド」を主宰する色彩心理学者。毎日新聞の「こころの世紀」にも執筆されていますので、ご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。

アトリエの方針は何も教えず、評価もしないこと。子どもたちは自由に使いたい素材で好きなように遊ぶ。それにより子どもたちが本来の子どもらしさ、人間らしさを取り戻して行く。この本は「子どものアトリエ・アートランド」で出会った中から印象に残った子どもたち(親の含めて)の記録です。

ご本人も認めていますが、末永さんのアートセラピーは万能ではありませんし、実際末永さんのやり方に付いていけず離れていった子ども(親も含めて)は多く居たとのことです。ただ、末永さんの子どもに対する優しさは充分に文章から伝わってきますし、今のぎすぎすした世の中が子どもたちの心に重くのしかかっていることの指摘には共感するとしか言いようがありません。

偽装履修問題が発覚、いじめをめぐる自殺が取りざたされ、さらにタウンミーティングでは金まで払ってやらせ質問を演出していたことがばれたにもかかわらず、教育基本法が「美しい日本」を作るために改正されました。日本人は何か問題があると形を変えようとします。形から入ることが有効かつ重要である場合もあります。しかし、現在起こっている教育の問題の場合、教育の形だけではない社会の形が問題になっているのではないでしょうか。子どもたちの自殺が新聞で大きく取り上げられているので錯覚しがちですが、今最も問題なのは大人たちの自殺のはずです。年間3万人もの大人たちが亡くなっています。平成17年度、男性では20歳から44歳、女性では15歳から34歳で死亡原因トップです。

子供に付いてきた大人たちも、子供たちが絵と戯れている姿を目の当たりにして、自分もいっしょに絵の具だらけ、粘土まみれになって遊びたくなるそうです。何でこんなにたくさんの方々が自らの命を絶たなくてはならないのだ、と思われる方は、是非本書をお読み下さい。読んでいる最中に泣いちゃいますよ、きっと。

水谷修夜回り先生』サンクチュアリ出版

新聞・テレビでも大きく取り上げられましたので、「夜回り先生」水谷さんの名前を聞いた方も多いかもしれません。

昼は講演で全国を駆け回り、夕方から授業、そのあと週に何日かは夜回りや少年らからのメールや電話で対応してきました。

もともとはマスコミに出ることを避けていましたが、自らの命もリンパ腫によって余命が限られていることなどから最近はマスコミなどにも積極的に自分の姿を見せるようになりました。私も最初毎日新聞のウェブサイトを通じてその活動を知りましたが、このような活動を全くボランティアとして行っていることを知り、大変驚いた覚えがあります。何しろ夜回りをボランティアで10年以上やっているんですから。

教育基本法の改正なんぞより夜回り先生の講演を全国の学校で子ども、先生、保護者に対してやったほうがよっぽど効果あるんじゃないですかね。

 「おれ、窃盗やってた」いいんだよ。

「おれ、援助交際やってた」いいんだよ。

「おれ、イジメやってた」いいんだよ。

「わたし、シンナーやってた」いいんだよ。

「おれ、暴走族やってた」いいんだよ。

「わたし、リストカットやってた」いいんだよ。

「おれ、カツアゲやってた」いいんだよ。

「わたし、家に引きこもってた」いいんだよ。

昨日までのことは、みんないいんだよ。

「おれ、死にたい」「わたし、死にたい」

でも、それだけはダメだよ。

まずは今日から、水谷と一緒に考えよう。

水谷さんのすごさってのはこんな風に言い切ってしまえること、そしてそれが嘘ではないことを自分が身を以って実践してきたことにあるのではないでしょうか。

かの有名な「きっこの日記」で知りましたが、官邸の発表した教育改革国民会議の提案は以下のようなものでした。

子どもへの方策として、

 甘えるな

 他人に迷惑をかけるな

 生かされて生きることを自覚せよ

 団地、マンション等に「床の間」を作る

 遠足でバスを使わせない、お寺で3〜5時間座らせる等の「我慢の教育」をする

 有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制

等が挙げられています。

そして行政の取り組みとして、

 子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう

 「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う

 一定レベルの家庭教育がなされていない子どもの就学を保留扱いする

 教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする

などと書かれています。今般の教育基本法の改正の本音が透けて見える、というか丸見えではありませんか。お上のすることにごちゃごちゃ文句をつけるな、屁理屈抜かすな、黙って戦争に行って死んでこい、って。

「美しい国」なんてチャンチャラおかしいって。皆様にもぜひお読みいただきたい一冊です。水谷さんのその他の著作にもリンクを張っておきましょう。

                 

 

みひろゆう連鎖する虐待』新風舎

本書は覆面作家によって書かれたフィクションです。実際の虐待事件を取り上げたものではありません。ただ、実際の虐待事件を広く深く取材して書かれたそうです。

一日で読み終わってしまいましたが、読んだ後ドッと疲れがたまる本でした。感動というよりはこんなことが実際には起こって欲しくない、絶対にあってはいけないと否定しながら読み進まねばならなかったからです。そうでなければ悲しすぎる。虐待の方法が色々と書かれていますが、思い出しただけでへどが出そうです。

この中でハッとさせられたのは、鬼となる母朱美が子供を虐待していると祖父母にとがめられたときの対応です。朱美は父親に向かって「食事の前に手を洗わなかった、食べ物をこぼした、好き嫌いをした、行儀が悪かった……。そんな仔細なことで、あんたは竹刀を持ち出したわよね。」「あんたは酒に酔うたびに、私を殴りつけたわよねぇ。」「それに母さんだって、あのとき、こいつに殴られている私を助けてくれたの?ただ、黙って見ているだけだったんじゃない?」「あんたはこいつの暴力から逃れたり、機嫌をとるために、自分の娘を生贄として差し出したのよ!母親としての責任を放棄したのよ!」抜書きしていていやになってしまいました。

実は朱美も良い母親だったのですが、ちょっとした拍子にひとつ歯車が狂ってしまい虐待のアリ地獄に引き込まれてしまったのです。そして、最初は感じていた罪悪感も、自分も親に虐待されたのだからと自分を正当化してしまうのです。そして虐待は日常化していく。

そしてもっと怖いのはいじめられる側の心理的変化です。人間追い込まれれば、回天にだって万歳といって乗り込んじゃうんです。喜んで。出展は定かには覚えていませんが、特攻攻撃のときに「お母さーん」と言って死んでいったんだというのは嘘だ、絶対に「天皇陛下万歳」とも言っていたはずだ、というのを読んだ記憶があります。多分本当だったんではないでしょうか。もちろん母親の愛情は感じていたでしょう。それと同時にお国のために死んで来い、といったのも母親なのです。

さらに虐待の話と平行して小学校におけるいじめの問題も出てきます。本書ではいじめはサイドストーリーとして出て来るだけですが、現実の問題として考えてみると、虐待と同様の重みを持っている問題です。虐待が虐待を呼び、いじめがいじめを呼ぶ。それは、暴力が暴力を呼ぶ現在の世界情勢とダブってきます。

どのようにしてこの虐待の連鎖をとめればよいのでしょうか。残念ながら私には答えを出せません。でもどうしようかと考えることはできます。ぜひ皆さんも勇気を出して大人の知恵(世渡りの知恵です)に逃げ込むのではなく、真正面から考えてみてください。

この小説には主人公となる若い女性教師、虐待を受ける少女などが出てきます。私は女性教師の敵に見えた教頭先生が最後にはぶち切れ、最後には校長がいない学校を見事に切り盛りする場面が気に入りました。もっともそれだけでは終わらないのが本書の怖さですが。

皆様もぜひお手にとって一読することをお奨めします。

山本譲司累犯障害者−獄の中の不条理』新潮社 

最後に採り上げるのは日本の福祉行政からも見放されてしまった究極の負け組のお話です。

著者の山本さんは国会議員の時に起こした秘書給与流用事件で実刑判決を受け、1年2ヵ月間刑務所暮らしを強いられました。本書はそのときの経験をもとに書かれています。

山本さんは何人もの服役障害者から「俺ね、これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかったと思っているんだよ」といった趣旨の言葉を聴かされたそうです。

障害者の親は子どもが詐欺や性犯罪の餌食にならないように常に気をつけているそうですが、被害者ではなく加害者になってしまうことも実はあるのです。障害者だからといって実刑に服さないとは限りません。そして一旦「触法障害者」になってしまうと、出所後も福祉との縁は切れてしまい勝ちなのだそうです。あとは累犯障害者として刑務所とシャバの往復をするだけ。

私は知りませんでしたが、2001年に浅草で起こった、レッサーパンダ帽子をかぶった男による女子短大生刺殺事件の犯人、2006年1月におこった下関駅放火事件の犯人はいずれも軽度知的障害者だったそうです。障害者が起こした犯罪というのはマスコミ界では一種のタブーらしく、犯人が障害者だと分かった瞬間に報道を自粛してしまうのだそうです。確かに障害者は危ないから隔離してしまえ、といった議論がまかり通るのは好ましくありませんが、報道を自粛してしまうことにより、別の問題の存在が目に付かなくなってしまっているのです。下関駅放火事件の犯人は「刑務所に戻りたかったから、火をつけた」と語ったそうです。障害者にとってはシャバよりも刑務所の方が暮らしやすいのです。いや、シャバのほうが実は「獄」なのです。「山本さん、俺たち障害者はね、生まれたときから罰をうけているようなもんなんだよ。だから罰を受ける場所は、どこだっていいんだ。どうせ帰る場所もないし……。」

「障害者を食い物にする人々」「生きがいはセックス」「閉鎖社会の犯罪」「ろうあ者暴力団」など、刺激的な題名の章が並んでいます。日ごろ語られることの少ない障害者の犯罪という衝撃的な事実が明らかにされています。福祉行政からもこぼれ落ちてしまった弱者たち。最後の章の題名は「行き着く先はどこに」。2005年には障害者切り捨て法とも言われる障害者自立支援法が成立しました。日本の福祉はどこを目指して行くのでしょうか。

 

2006年度の書評はこちら