2008年12月
ビョルン・ロンボルグ 山形浩生訳『地球と一緒に頭も冷やせ』ソフトバンク・クリエイティブ
ロンボルグさんは現在の地球温暖化対策に反対する陣営の第一人者だそうです。ただし、ロンボルグさんは地球温暖化という現象そのものを否定しているわけではありません。また人類による化石燃料の消費が地球温暖化の一翼を担っていることも否定しているわけではありません。では、何を問題にしているのか。
ロンボルグさんの専門は統計学。現在はコペンハーゲンのビジネススクールの准教授だそうです。その専門からも察せられるとおり、地球温暖化の議論における統計の恣意的な運用、そして地球温暖化の費用対効果に疑問を呈しています。
統計学の恣意的運用についてはこんな例を挙げています。2003年の夏、大変な熱波がヨーロッパを襲い、ヨーロッパ全体で3万5千人もの方が亡くなられたと大きな話題になりました。事実です。ところが、暑さによる死者と寒さによる死者を比べると、寒さによる死者のほうがはるかに多いのだそうです。また、疫学的研究によると気温が1度上昇することによる使者の増加より気温が1度低下することによる死者の増加の方がはるかに多いのだそうです。もし温暖化による暑さによる死者が増えるのであれば、寒さの減少による死者の減少の方が勝るはずですが、そのようなことは地球温暖化の議論では忘れ去られています。
ビジネススクールの准教授として費用対効果についても鋭い指摘をしています。下記の表はノーベル賞受賞者を含む世界でも有数の経済学者たちにさまざまな政策の費用対効果を検討してもらった、通称「コペンハーゲン・コンセンサス」と呼ばれる評価の結果です。1ドルを使っても1ドル以下の効果しかえられないものがだめな政策とされています。
|
課題 |
対策 |
とてもよい政策 |
1.感染病 |
HIV / AIDS抑制 |
|
2.栄養失調 |
微量栄養素供給 |
|
3.補助金と貿易 |
貿易自由化 |
|
4.伝染病 |
マラリア抑制 |
よい政策 |
5.栄養失調 |
新農業技術開発 |
|
6.衛生と水 |
生活用小規模水技術 |
|
7衛生と水 |
コミュニティ管理の上下水設備 |
|
8.衛生と水 |
食糧生産の水効率改善研究 |
|
9.政府 |
起業コスト低下 |
まあまあの政策 |
10.移民 |
技術労働者の移民障壁削減 |
|
11.栄養失調 |
乳幼児栄養状態改善 |
|
12.栄養失調 |
誕生時体重不足の改善 |
|
13.伝染病 |
基本的健康サービス改善 |
だめな政策 |
14.移民 |
未熟練労働者の一時受け入れ政策 |
|
15.気候 |
最適炭素税 |
|
16.気候 |
京都議定書 |
|
17.気候 |
バリュー・アット・リスク方式炭素税 |
気候に手をつける前にやることがいっぱいあるんじゃないの、ということです。それでもCO2削減なんてのが大々的に取り上げられるのは、環境対策で儲かる奴の方が声がでかい、ってことでしょう。
個人的に聞いた話ですが、日本のODAで某国に病院を建てることになったときのことです。先方の要請は最新鋭の設備の整った心臓病の専門病院を建ててくれということだったそうです。実際に某国を訪れた医師は、どう考えても心臓病専門病院を建てるより普通の病院をたくさん建てた方がはるかに国民の福利にかなうのではないのか、と考え、実際にそのような提案もしてみたそうですが、先方の要望は変わらなかったそうです。まあ、政府の高官としては立派なものの方がうれしいですからね。懐も潤うし。多分。
なぜ最適な政策が実行されないのか、にはここら辺にも問題がありそうですね。
かの有名な京都議定書を実行したらどのくらい地球温暖化を防げるかの予想(査読論文などで公表されている学術的予測です)も載っています。その数字を見たら皆さんびっくりしますよ。ご一読を。
まず冒頭でレジ袋の問題を取り上げています。レジ袋は元々廃棄物として燃やされていたポリエチレンから作られており、石油資源の有効活用なんだと指摘しています。また、有効な転用先がない限り、単にレジ袋の使用量を減らしただけでは石油資源を有効活用できなくなるだけなのだそうです。また燃やすしかない。
本書でも追記として触れていますが、武田さん指摘に対して環境庁リサイクル推進室は、レジ袋削減の意義は「自らのライフスタイルを見直し、家庭ごみの排出抑制(Reduce)を図る契機とするため」の運動なんだと言っています。あら、そうだったの。
レジ袋を使わないことにより原油使用量を減らせるはずですが、その量は
(レジ袋の量)−{(エコバッグの量)+(専用ゴミ袋の量)}
で表せるとしています。
そして、ではなぜスーパーマーケットまでレジ袋削減に力を入れているのかは
(タダのレジ袋)−{(スーパーが販売するエコバッグの値段)+(専用ゴミ袋の値段)}
で表せるとしています。
なるほど。からくりが見えてきた。
流行のごみの分別とかリサイクルもアルミ缶のリサイクルを除いてほとんどが資源と税金の無駄使いだと断じています。ペットボトルなどキログラムあたり405円もかけて回収、使い道がないので50円で中国に売っているそうです。アルミ缶のリサイクルがうまくいっているのは、再利用が容易かつ経済的にも意味があり、業者が事業として回収してもやっていけるから、無駄な事業を無理やり税金を使って成り立たせているわけではないから、だそうです。金属類は個人が分別などしなくても業者が分別・分離してくれるから混ぜちゃっても大丈夫だそうです。業者がなんでそんな親切なことをしてくれるかというと、そこまでやっても元は取れるから。なるほど。
武田さんは上記の『地球と一緒に頭も冷やせ』と同じように、環境問題は巨視的に見てどのような解決方法が最も良いのかを検討しなくてはならないと指摘しています。レジ袋を削減しよう、割り箸を追放しよう、という単一の問題提起ではなく、そのことがもたらす影響を広く検討しないと間違った結論に飛びつくことになると指摘しています。単にその方が儲かるからアジってる奴もいるしね。毎年餓死する1500万人を無視して食料を燃料に転用するとかね。
武田さんは本書の冒頭でマスコミの姿勢にも疑問を呈しています。「2007年には伊勢の銘菓「赤福」の賞味期限偽装が話題になりましたが、内容は仔細なことで、少し前なら問題にはならなかったでしょう。赤福は伊勢市にずいぶん貢献してきました。」「しかしどんなに貢献していてもウソの表記や商売は通らない時代になってきました。もし、赤福を非難した新聞が同じ基準で非難されるとしたら、いったいどの新聞が生き残るでしょうか。」マスコミじゃなくて、マスゴミ。
まやかしのエコ・リサイクル運動にだまされないためにもぜひご一読を。
被害者にウンカのごとく付きまとい、「今のお気持ちは」などとテレビカメラやマイクを突きつけている記者たちを見ていやな気持ちになるのは私だけではないと思います。
マスコミは第四の権力とも呼ばれる大きな力を持っています。その使命は他の三権力のお目付け役。であるからこそマスコミは軸足を庶民・国民の側に置き、権力に対して物言うことが求められているはずです。ところが日本の一部マスコミは自らがエリートであることを鼻にかけ、自分たちも権力の側に立って上から目線で愚昧な大衆を啓蒙する使命があるかの錯覚にとらわれているようです。
上杉さんがまず取り上げているのは記者クラブの問題。日本では各省庁、国会、官邸、都道府県庁など主だったニュースソースには記者クラブが存在し、記者会見などは記者クラブ所属の記者に対して行われるのが普通です。フリーの記者などは会見に参加もできない。取材だって、「記者クラブを通じてお願いします」なんて言われてしまう。記者の側もニュースソースには依存していますので、お互いズブズブ。都合の悪いことは聞かない。有名な話ですが、田中金脈問題が文芸春秋に取り上げられたとき、番記者連中はみな、「あんなの知ってるよ」とうそぶいていたそうです。知っていたけど書かなかったと。だから海外メディアからは日本のことは新聞なぞでは見ない、夕刊紙と週刊誌にしか本当のことは書かれていないから、なんて言われちゃうんですよ。相撲の八百長問題なんて週刊誌しか採り上げないじゃないですか。
日本と同じような記者クラブ制度は韓国にしかないそうです。日本統治時代の名残。日本大嫌いの韓国で何でそんなものが残ったかと言うと、その方が都合が良かった人たちが多くいたからでしょ。権力側にもマスコミ側にも。でも、その韓国においてすらインターネットのニュースサービスなどが風穴を開けたおかげで記者クラブ制度は徐々に解体の方向に向かっているそうです。日本では前長野県知事田中康夫さんが記者クラブを廃止したら大騒ぎになってしまいました。やっぱ日本のマスコミはマスゴミだわ。
あ、あとマスコミのいけないところは自分の過ちをまともに認めようとしないところ。犯罪行為などについてはさすがに隠し切れなくなってきましたが、誤報が判明しても、せいぜい後日見つけるのが難しいような小さな訂正記事が載るくらいで、それだって稀なんじゃないですか。あとの大多数は書かれ損の泣き寝入り。やっぱ、反省のできない人間、過ちを認められない人間ってのは人としてクズですよね。クズはゴミ。だからマスコミじゃなくてマスゴミ、ってか。
上杉さんは本書でマスコミの採用事情にも触れています。日本のマスコミは青臭いジャーナリズムなどを齧った学生は嫌うのだそうです。そんなのに限ってサツ回りなんぞやらせるとあまりにも理想とはかけ離れた現実に辟易として辞めちゃう。だもんで、「上位下達、余計なことは考えず、決してルール破りなどしない体育会系優等生が揃うことになる」のだそうです。思考停止の連中を集めてんじゃジャーナリズムは成り立ちませんよね。やっぱ、マスゴミだわ。
まあ、上杉さんが本書で最大限の賛辞を送っているアメリカのマスコミだって、実はものすごい偏向報道をしてますからね。特にアメリカの国益がかかっている対外政策において。
やはり自分の頭で考えて判断しないといけませんね。思考停止にならないためにもご一読を。
テレビなどでもおなじみの精神科医の和田さんがバカについて書いた本です。バカといっても、時と場合によってさまざまな意味があります。昨今テレビでおなじみのおバカタレントから学歴だけは立派なくせにちっとも使えない学歴バカ、アインシュタインみたいな学者バカから自分はアインシュタイン並の学者だと思い上がっているバカ学者などなどさまざまなバカが存在します。
ということで、どんな人でもひとつやふたつは当てはまるバカがあるだろう、というのが和田さんの立場です。何でもかんでも出来る人はいませんし、俺は何でも出来る、なんてうぬぼれているのは単なるバカですよね。
和田さんは「バカは差別語、侮蔑語でなく、むしろ叱責語、激励語であると考えるべきである」としています。ですから、バカと言われても怒るのではなく「自分のバカを治すほうが、「リコウ」の対応である」としています。バカは治さなきゃ。
和田さんは小さい頃、体も小さくスポーツも不得意だったそうです。従って、頭のいいことだけがレゾンデートルだったようです(和田さんは何しろ東大医学部卒)。だから「バカ」と呼ばれること恐怖だったようです。そんなことから本書のようにバカを治す、という発想につながったのでしょうが、私なんかスポーツはだめ、勉強もだめ、何ひとつ取り柄がなかったもんなあ。そういうバカはどうすりゃいいんだ?
和田さんの提唱するバカ攻略法は極端に単純化すると和田さんが灘高時代に学んだ受験テクニックの応用です。幅広く勉強などせず、徹底的に過去問を調べ傾向と対策を調べ、それに合わせた最適な勉強だけをする、というものです。あまりにも功利的で今ひとつ納得できない部分もあります。でも、だから赤い門の大学に入れなかったんだろうなあ。
でも、何ですね、私はこの書評でも何度か反省が出来ないやつはだめだ、そして何より自分で考えないやつはだめだと書いてきました。自分のバカに気付かず「俺の話が分からんやつはバカだ」とふんぞり返っているやつの方が本当のバカなんですね。
たしかに世の中そんなバカが多いなあ。この本読んでバカを治してください。
2008年11月
ナンシーム・ニコラス・タレブ『まぐれ 投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』ダイヤモンド社
「投資は運か実力か?」
「人はどうして、投資で儲かると自分の実力だと思い込み、損をすると運が悪かったと思うのか?」
「トレーダーとしての20年以上にわたる経験と、数学、行動経済学、脳科学、古典文学、哲学等への深い知識と鋭い洞察をもとに、金融市場や日常生活において偶然や運が果たしている隠れた役割と、人間の思考と感情との知られざる関係を鮮やかに描き出す最高の知的読み物!」です。
著者の経歴がすごい。ウォートン・スクールのMBAにしてパリ大学のPh.D。トレーダーとしてロンドン・ニューヨークで20年にわたるキャリアを持ち、マサチューセッツ大学で不確実性科学を教える大学教授でもあります。
タレブさんは本書で凄腕トレーダーと言われる人々が高収益を上げたのは「まぐれ」だと喝破しています。そう言えば森永卓郎先生もおっしゃってました。年収2千万以上の人を何人も知っているけど、よほど運が良かったか悪いことをやってる人ばっかりだって。私の経験からも同意いたします。
高収益を上げてるトレーダー達って本当にタカビーでわがままなんですよ。それこそ宇宙は俺を中心に回ってるってぐらいに思ってる。完全に勘違い。それが、損してクビになって裸一貫で放り出されて初めて自分の実力を思い知るんです。私もその一人でしたから良く分かります。で、何をやるか。悪いことしかないでしょ。
いや、そう言い切ってしまっては語弊があるかもしれません。一番頭が良くて金も持っている奴は胴元になるんです。ギャンブルの胴元には寺銭が落ちるので、ギャンブルをやる人が居る限り儲かるんです。それが出来ない奴は予想屋になるんですね。競馬場とか競輪場とか競艇場とか証券取引所とかの周りに居るでしょ。「あんたにだけ特別に裏情報をこっそり教えてやるから」って言って客の袖を引っ張る奴が。もちろん外れたって金は返してくれませんよ。まあ、もっと悪いことをする人たちもいっぱいいるわけですが。
「社会科学(とくに主流派の経済学)をやっている人たちや投資の世界の人たちを見ていて、こいつらバカじゃないかと思うことがよくある。」「専門家とは、一生ありとあらゆる予測をはずし続け、それでもなお次こそはまちがいないと信じてしまう人たちなのだ。」
本書には、1980年代ディーリングルームであれほど猛威を振るったMBAたちがいなくなってしまったこと、その後1990年代に現れたロケット科学者たちも現実世界ではちっとも賢くない人だということが判明してやはり淘汰されてしまったことが描かれています。
著者お得意のモンテカルロ・シミュレーションで「バカみたいに強気な」トレーダー、「ものすごく弱気な」トレーダー、「用心深い」トレーダーを使ってシミュレーションすると、オプション買い派(衒学的に言うとガンマ・ロングですな)を例外として急騰、急落といった場面で討ち死にしてしまい、殆ど生き残らないそうです。著者はオプション買い派ですから生き残ったと。私も曲がりなりにもトレーディングの世界で15年間生き残りました。今は違うけど。私もただ単に運がよかっただけなのでしょうか。悪いことはしてないし……少なくともそんなには……。
リチャード・ブックステーバー 遠藤真美訳『市場リスク 暴落は必然か』日経BP
本書はサブプライム危機が表面化する直前に出版され、「サブプライム危機を予言した書」としてウォール街で話題になったそうです。まぐれか?
著者のブックステーバーさんはMITで経済学の博士号を取得しています。どのような分野を専攻していたのかは本人のブログにも触れていませんので良く分かりませんが、博士号取得直後にクオンツとしてウォール街に就職していますから、いわゆる数理経済学ってやつの専門家でしょう。ほとんど数学の専門家です。
現実の経済の変動幅(ボラティリティー、つまりリスク)が減少している(例えば先進国のGDP成長率自体は低くなっていますが、上下幅もきわめて小さくなっています)にもかかわらず、市場の危機や金融の不安定性は増大しています。この原因は金融市場の複雑な構造に起因しているとブックステーバーさんは指摘しています。
ブックステーバーさんはソロモンやロングターム・キャピタル・マネジメントなどブックステーバーさん自身が何らかの関りを持った金融グループの盛衰を描くと共に、スペースシャトルの事故、チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故も取り上げ、これらに共通する原因を複雑性に求めています。「問題は複雑性そのものにある。あらゆる相互作用がもたらすあらゆる大事故の危険性に備えることなどできない。事態は一気に進展していくため、調整をほどこす時間はいっさいない。」
事故は常に想定外なのです。金融業界に課された新しいバーゼルIIと呼ばれる規制では想定外の損失にも備えるエコノミック・キャピタルの考え方が導入されています(私の論文でも簡単に説明されていますので、ご興味があればご覧ください)。問題は想定外の事態が起きた場合ってのは会社の存亡がかかるような事態になってしまうってことでしょうか。
また、ブックステーバーさんは最近の情報公開の強化にも疑問を持っておられるようです。「検証という行為が検証対象の事前現象に影響を与えるのは避けられないため、現象を客観的に理解することはできない」というハイゼンベルグの不確定性原理まで持ち出しています。まあ、不確定性原理はオーバーだとしても、私たちには知らないこと、分からないことがあります。かの有名なるオプションの価格を算出するブラック・ショールズの公式にしても、実は非常に強い仮定の上に成り立っているのです。つまり前提が違えばお値段も違うってことです。ブラック・ショールズの公式も現実世界における森羅万象をカバーしているわけではありません。
そのような場合、どのような行動原理をとるのが利にかなっているのでしょうか。ブックステーバーさんは祖視的な行動原理が最適だとして、ゴキブリを例に挙げています。ゴキブリはこの地球上に3億年も生息していると言われています。本来なら生きた化石とか呼ばれて珍重されてしかるべきですが、永遠の嫌われ者なのはなぜでしょう。それはともかく、ゴキブリの行動原理、リスク・マネジメント構造は極めて単純で、「空気のわずかな揺らぎから離れること、ただそれだけ」なのだそうです。ゴキブリは近づいてきたのが何であれ、そのものから逃げるように行動するのだそうです。決して近づいてきた人間が殺虫剤を持っているかどうか情報開示を求めたりしません。それでも3億年も生き残ってきたんだから偉い!
リスク・マネジャーなんてのをいくら雇ってもリスクそのものが減るわけではありませんし、未知のリスクが明らかになるわけでもありません。むしろ歴史的事例に過剰適応するだけでしょう。
何か事故があるとそれに関する手続きが複雑になり、分厚い規則集などが作られます。でも重要なのはそんなことではなくて常に広く周囲を観察し続けることなのでしょう。この間サソリが出てきた穴ばかり見ていても襲ってくるトラは防げませんからね。
「経済学と聞くと、人は「お金ですべての問題が解決できるとする考え方」とか「社会を弱肉強食化させようとする考え方」というイメージを持つかもしれない。しかし、僕が考える正しい経済学は、それとは正反対のものだ。経済学は、過度の競争が行われない社会や弱肉強食化しない社会のあり方を考えるためにある。あるいは、「お金で全ての問題が解決できるわけではない」ことを学ぶためにこそ、経済学の存在意義がある」として「お金がすべて的経済学とは違った経済学」を提唱しています。
ちゃんと早稲田の大学院を出て上智大学の准教授をなさっている田中さんですから、行動心理学を用いた新しい経済学なんぞを持ち出して過激な経済学不要論を説いているわけではありません。むしろ内容としては、題名に反してオーソドックスな経済学の応用例かと思われます。市場原理主義者たちの論理が違うんではないの、ということを同じ経済学のツールを使って説明しています。選ばれた題材はちょっと変わっていますが、経済学の本としては面白く読めると思います。
田中さんは1990年代以降顕著になってきた日本経済の停滞や経済格差の原因は総需要不足にあることは国内外のほぼ99%のまともな経済学者の同意事項であるとしています。問題は、ではなぜ総需要対策がとられないのか、と言うことなのではないでしょうか。まともな経済学者なんて言っても世の中から全く相手にされていないからなのではないでしょうか。
私は小泉改革の一翼を担った竹中元大臣のことが顔を見るのもいやなくらいに嫌いではありますが、竹中さんは経済学者としては珍しく政治の表舞台に立った人でした。だから批判もされる。田中さんの議論を読んでいると(自分は違うと思っておられるようですが)、どうも経済学ってのは仲間内でマスターベーションの自慢をしているオタクの集まりだっていう私の持論が正しいような気がしてきますがいかがでしょうか。
ご存知、新しく日銀総裁になられた白川さんの最新の著作です。生粋の日銀マンとして活躍してこられた白川さんが、日銀時代の集大成として著したものでしょう。
すったもんだの末の日銀総裁就任に合わせるかのように出版されましたので、税込みで6,300円もする本書がビジネス街の書店では平積みされていました。それも結構短期間で売切れてしまったようです。
本書は金融政策の専門家だけに向けて書かれた学術書ではなく、金融実務に実際に携わっている実務家や金融政策を学ぶ学生も視野に入れて書かれています。従って、狭いテーマについて白川さんの理論を掘り下げる、というよりは現代の金融政策一般について幅広く理解が得られるように書かれています。で、私も読んでみた、と。
最も興味深かったのは、日米欧の各国中央銀行でも、その目指すところはある程度統一されていますが、そのスタンスや具体的な政策などにはかなりバラつきがあることです。巷では中央銀行の理想像とも思われているFRBも、グリーンスパン時代とバーナンキ時代で報道発表のスタイルなどかなり変わったことが話題になっています。
ここら辺の事情について元FRB副議長であるアラン・ブラインダーの発言が本書で引用されています。「皮肉なものである。中央銀行が選挙で選ばれた政治家たちから独立性を与えられているのは、おそらく、政治プロセスが近視眼的になりがちだからだろう。それがわかっているから、政治家たちは賢明にも、金融政策を巡る日常的な権限を独立した中央銀行に快く委譲し、インフレ監視を続けるように命じた。しかし、中央銀行がマーケットの持つ極端な短期的視野を暗黙のうちに採用してしまう可能性が高い。これでは『自分の尾を追う犬』のような危険な状態に陥りかねない。」
また、第Y部において近年の日銀の政策を総括しています。白川さんはバリバリの当事者であったわけですから、日銀の政策運営が適切ではなかった、などという結論が出てくるとはとても思えませんが、バブルの崩壊とその後の政策運営を振り返り、どのようにすれば良かったのか、といった議論には興味をそそられました。
サブ・プライム問題をきっかけにアメリカでは過剰な信用創造が逆転、大規模な信用バブルの崩壊が起きつつあるようです。FRBは日本におけるバブル崩壊を研究、バブル崩壊後には積極的な金融緩和を行うべきであるとの結論を得たようです。白川さんはそのような見解には否定的なようです。FRBはどのような政策を採り、そしてアメリカ経済はどうなるのでしょうか。大変興味あるところです。
かつて最良の方針として採られた施策がいつでもどこでも最良であるとは限りません。やはり人間、思考停止に陥ってはいけませんね。もっとも、中央銀行の例ではいつ何時でもインフレ・ファイターとしてのスタンスを崩さず信頼を得ていたブンデスバンクの例もありますが。
思考停止の最たるものであるたすきがけ人事をぶっ壊して日銀総裁になった白川さん。その手腕に注目!
『世界秩序の崩壊「自分さえよければ社会」への警鐘』において米国の不動産バブルの崩壊を予言したソロスさんが2008年内にも世界経済が破綻すると予言しています。市場原理主義によって生まれた信用膨張を背景とした「超バブル」がはじけ、「1929年の大恐慌以来最悪の状態が訪れ、ドルを国際基軸通貨として信用膨張の時代が終焉を迎えようとしている」のだそうです。
本書の解説で松藤民輔さんは、本書は「エリートのためのエリートの本」であると言っています。あらま。あたしにゃ関係ないわ。何しろ本書、「ポパーの弟子で哲学者のソロス」を強調する衒学的フレーズに満ち溢れています。私のような浅学の徒には読みにくい本でした。とは言え、アメリカ経済のメルトダウンは始まろうとしています。また、そのことを指摘しているのはソロスさんだけではないようです。
ソロスさんが彼自身の独創的理論として強調しているのが「再帰性」の理論。人間と市場は双方向のフィードバックをする。人間は市場からのフィードバックを受け投資などを行う。が、その結果市場は変化し、もとの市場ではありえない。このフィードバックが延々と繰り返されるので、人間は永遠に市場を理解できないし、理論的な均衡値なんぞには収束しない、と言うことらしいです。なにやら量子力学における不確定性原理にも似ていますが、違うんだそうです。いや、アキレスと亀の寓話かな。どうです、分かりました?私には今ひとつ分かりませんでした。
ま、やたらと衒学的な部分はともかくとして、ソロスさんの言っていることにももっともな点が多々あります。経済学は自然科学ではありえないとか、人間必ずしも合理的に行動するとは限らないし、完全な情報に基づいて経済活動を行うなんてことはありえない、などはそのとおりだと思います。ソロスさんだって例外ではないはずです。でも、儲かっているときのディーラー諸君ってのは自分だけが天才であとはバカだと思っているんですよね。ソロスさんもその口かしら。
今の日本はアメリカ金魚のフンみたいなものですからね。無関心ではいられません。さあ、どうなりますか。
2008年10月
ジョナサン・コット 田中真知訳『転生―古代エジプトから蘇った女考古学者』新潮社
1904年ロンドン郊外に生まれたドロシー・ルイーズ・イーディーは、3歳になった頃自宅の階段を転げ落ち、医師が死亡を確認したにも関わらず、1時間ほどするとなぜか生き返っちゃいました。これだけでも不思議ですが、その頃からドロシーは変な夢を見るようになります。どこだか分からないけれど遠くにある自分の生まれ故郷。
それがどこだかは次第に明らかになっていきます。ドロシーは古代エジプトの写真や出土品に異常なほど反応しました。エジプト大好き少女になったドロシーは英国におけるエジプト学のメッカである大英博物館に通いつめ、異常なスピードでエジプト学を学んで行きました。
霊的体験を通じて自分は古代エジプトの巫女の生まれ変わりだと確信するようになり、しかもこの巫女はセティ一世の愛人で子供をみごもってしまったのだそうです。でも、巫女に純潔が要求されるのは洋の東西を問わないようです。それをファラオ自らが破っちゃうってのはすごいですね。この巫女は金髪、碧眼(当時のエジプトでは少数だったにせよ居ないわけではなかったそうです)だったそうです。セティ一世ってパツキン大好きのエロじじいだったんでしょうか。ま、それやこれやで巫女は自ら命を絶つことを余儀なくされました。これは古代エジプト、前世でのお話。
エジプト人と結婚してエジプトに移り住んだドロシーですが、家事全般が全く苦手で3年で離婚しちゃいました。その後エジプト考古局にデッサン画家として職を得たドロシーはさらにエジプト学を学び続けたのでした。そうこうしているうちにも不思議な体験は続きました。
冥界のセティ一世は数千年の時を経てドロシーの中に愛する巫女を再び見つけたのですが、そのままでは一緒になれません。なぜならば、前世における巫女としての義務をまだ果たしていなかったからです。そこでドロシーはセティ神殿のあるアビドスに住み着き、1981年に亡くなるまでオンム・セティの名で神殿の修復やガイドなどをしながら人生を送りました。遺体はセティ神殿のすぐ近くに葬られたそうです。これで晴れてセティ一世と冥界で永遠に暮らすことができるようになったのでしょう。
数千年を隔てたふたりの人生、さらにはあの世まで股にかけた波乱万丈のラブ・ストーリーはこうして大団円をむかえたのです。本書はノンフィクションではありますが、転生なんぞ信じられない、と言う方も楽しく読めるロマンチックな物語になっています。
ところで、ドロシーはセティ一世との霊的対話(と言ってもセティ一世は時には肉体を伴って顕現したようです)において、スフィンクスやオシレイオンといった建造物はセティ一世より遥か古代に作られたものだと聞いたそうです。アビドスの神殿を作った本人が言うんだから間違いない?ドロシーは正式な教育を受けた考古学者ではありませんでしたが、人生をエジプトに賭けちゃったような人で、考古学の知識は並みの専門家ではとても敵わないほどだったそうです。そんな専門家としてのドロシーもセティ一世の言うことに一理あると思ったようです。また、セティ一世自らが書いた日記と宝物庫がセティ神殿のどこかに眠っているともドロシーは語っています。エジプトにはまだまだいろいろな未発見の事物が眠っているのかもしれませんね。
文句なく面白い一冊。ぜひご一読を。
ロンダ・バーン 山川紘矢・山川亜希子・佐野美代子訳『ザ・シークレット』角川書店
「この「秘密」は、代々伝えられる中、人々に熱望され、隠され、失われ、盗まれ、莫大なお金で買われたこともありました。歴史上最も著名な人々は、何世紀も前に存在していたこの「秘密」を理解していたのです。プラトン、ガリレオ、ベートーベン、エディソン、カーネギー、アインシュタイン等の発明家、理論家、科学者、偉大な思想家達です。そして、ついに今日、この「秘密」が世界の人々の前に開示されたのです。 この「秘密」を理解した暁には、あなたは欲しいものを手に入れ、なりたい人物になれ、やりたいことが何でもできるようになるでしょう。また、あなたは、真実の自分を知る事ができます。そして、あなたにはすばらしい人生が待ち受けていることがわかるでしょう。」
すばらしい。私もこれでついに、ムフフフフフと思いながら読んでみました。
お話としてはあなたが心から望めばどんな望みもかなうと言う「引き寄せの法則」ってやつです。ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」なんてのも同類です。白いワイシャツを着てカレーを食べると、はねないようにすごく気にしていたのになぜかジャガイモがスプーンから落ちて、カレーが飛び跳ねる方向にシャツがある。ネガティブなことばかり考えているとなぜか悪いことが起きる。経験あるでしょ。でも、そうするとコンプライアンス・オフィサーが違反がありませんように、なんてちまちま気にしているとコンプライアンス違反が起きるってことになっちゃうなあ。私の仕事柄それは困る。なんたって私コンプライアンス・オフィサーだもんね。
量子物理学の立場からはマインド(創造的思考力)なくしては宇宙は存立し得ないのだそうです。誰も気にしないものは存在しないってことでしょうか。ってことは存在しているものは誰かが気にかけているってことでしょう。やはり一番悪いのは思考停止。考えるのを止めると宇宙がなくなっちゃいますよ!
ところで訳者として名を連ねている山川夫妻、おふたりとも東京大学の卒業生だそうです。東大卒業後ご主人は大蔵省に入省、夫人も外資系コンサルタント会社に勤務するなど絵に描いたようなエリート人生を送っておられましたが、何を思ったかおふたりで独立、現在はスピリチュアル関係の翻訳などをなさっているようです。私も瞑想用のCDを買ったことがあったのでお名前は存じ上げておりました。なんでエリート人生を投げ捨てちゃったのか興味あるなあ。同じ日本人ですからね。
それはともかく、オカルトとかスピリチュアル物ってのは読んでいて実に面白いですねえ。納得しながら読むのもよし、突っ込みながら読むのもよし。考えるのを止めると宇宙がなくなっちゃいますよ!
カレン・ケリー 早野依子訳『ザ・シークレットの真実』PHP
原題は「The Secret of “The Secret”」です。上述のザ・シークレットが何ゆえベストセラー(ただし元々は書籍ではなく映画(DVD)だったようですが)になったか、一体全体本当のことが書いてあるのか検証した、意地悪く言えば「二匹目のドジョウ」本です。
批判の骨子は、同じこと言ってるやつはいっぱいいるし、引用だって適当にはしょっちゃってるじゃないか、と言うことです。売り方がうまかっただけだ、と。
まあ、「ザ・シークレット」が売れたアメリカでは、この手の自己啓発本とかセミナーってのがものすごくポピュラーなんですね。「年間95億ドルを稼ぎ出す」マーケットだそうです。最近では日本でも自己啓発セミナーは大流行です。なんたって受講料は現金前払いですからね。流行れば確実に儲かる。ビジネスとして成り立つ。
今、世界中の出版界は本が売れないことに困惑しています。だもんで、先にDVDを売って本を売り出した「ザ・シークレット」の手法は注目の的になったそうです。新しいビジネス・モデル、宝の山。そんなもんを誰も批判しません。著者のケリーさんもジャーナリストとして長年出版界に携わってきた方ですからね。
そういえば、アメリカのスピリチュアルサイトでも江本勝さんが書いた『水は答えを知っている その結晶に込められたメッセージ』が話題になったそうです(英語版、ドイツ語版、ギリシャ語版、台湾語版、オランダ語版、フランス語版、イタリア語版、ハンガリー語版、セルビア語版、スロベニア語版、スペイン語版、ヘブライ語版、韓国語版があるそうです!)。そりゃ世界中の出版界が文句言うわけないわ。
ということで、本書は「ザ・シークレット」をけちょんけちょんに貶す本ではありません。そのような方向性を控えめに示唆しているだけです
控えめな指摘の中から意識と宇宙の存立についてひとつ。「宇宙の歴史の大半において、人類は存在していなかった。だから、人間の意識が宇宙の歴史や創生に関与していることはありえない」。簡潔かつ明快なご指摘です。
プラスとマイナス、「ザ・シークレット」と「ザ・シークレットの真実」を読めば完璧だ!ってか。それともプラス・マイナス・ゼロか?
それはともかく、オカルトとかスピリチュアル物ってのは読んでいて実に面白いですねえ。納得しながら読むのもよし、突っ込みながら読むのもよし。考えるのを止めると宇宙がなくなっちゃいますよ!
エーリッヒ・ショイルマン編 岡崎照男訳『パパラギ』学研
「はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」という副題が示すようにサモアの酋長であったツイアビさんの演説用の手稿をショイルマンさんが翻訳出版したものです。最初に出版されたのは1920年、第一次世界大戦に負けてガタガタになったドイツ。近代文明に疑問を持った人間が多くいても不思議はないですよね。再出版されたのは1976年。日本語訳は1980年に出ました。私が最初に本書のことを聞いたのは学生時代、『ゲーデル、エッシャー、バッハ あるいは不思議の環』を翻訳された野崎先生が授業中に紹介されたときでした。
私たちの住んでいる社会とは異なるバック・グラウンド、価値観を持つ人間に批評させるというよくあるパターンの本です。「日本人とユダヤ人」とかね(もしかするとツイアビはイザヤ・ベンダサンと同じか?)。最近もインディオの長老に現代文明を語らせるとかいろいろあるでしょ。
確かに、現代文明にどっぷりと首まで浸かってその恩恵に浴している人間があーだのこーだの言っても説得力ありませんからね。ここはひとつそれらしい方に語っていただかないとね。
ということで、ツイアビは物質に支配されたパパラギ(白人ってことだそうです)たちの生活を批判しています。「物は毒を塗った矢だ。胸にささって男は死ぬ。」
しょっぱなにこてんこてんに批判されているのは服装。パパラギたちはカチンカチンに固めた衣服で肉体を隠していると。なぜ輝くばかりに美しい肉体を見せないのか。見せないから見たくなって変な妄想がむくむくと沸き上がるんじゃないか、とヌーディストが聞いたら喜びそうなことを言ってます。まあ、私が裸になっても輝くばかりに美しいとも思えませんが。
でも、服装なんてのは元々は機能に根ざしているんですよね。ツイアビの国も暑いのでしょうが、同じく暑いアラブ圏ではソーブとか呼ばれるオバQみたいな白い長衣をまとっています。あれだって昼間はものすごく乾燥して暑いくせに夜は冷え込み、時には砂嵐などが襲ってくるアラビア地方の気候の下では直射日光を防ぎ、外気温を遮断する空気層を身体の周りに作れるなど実は機能的なんだそうです。だからアラビアのロレンスだって着てた。パパラギの衣装だって、寒冷なヨーロッパでは合理的だったはずです。問題は、機能的ではないにも関らず何々を着るという習慣をどこに行っても何をやっているときにも変えない、ということなのではないでしょうか。服装の面では合理的なはずのアメリカ人なんて住環境そのものを持ち出してますからね。世界中どこに行ってもアメリカと同じ生活環境がないと生きていけないみたいですよね。
やはり問題は思考停止。自分の頭で考えないで今までこうだったからとか、いつもやっているから、と頑として変えない。首尾一貫しているようにも見えますが、実は何も考えていない。人間、考えることを止めちゃうと枯れた葦になっちゃいますよ。
古くて新しい一冊。ぜひご一読を。
2008年9月
中嶋 博行『この国が忘れていた正義』文藝春秋
「犯罪者「福祉」予算2200億円!凶悪犯の人権、いじめっ子の教育権が優遇される原因は「犯罪者福祉型社会」にある。日本が正義を取り戻すために「処罰社会モデル」を提唱。」
と表紙裏に書かれています。簡単に言うと、犯罪を犯した奴を許すな、償いをさせろ!と言うことです。
で、中嶋さんはアメリカの事例を取り上げています。アメリカは日本に先立ち犯罪者厚生プログラムを実施してきました。その結果が芳しくなかったことから昨今は厳罰主義(三振即アウトとか)になっているようです。
中嶋さんはコロンバイン高校銃撃犯とか、日本では少年時代にバットで母親を殴り殺したにもかかわらず短期で退院、成人後マンションの外壁をよじ登り女性の部屋に侵入、姉妹ともどもレイプの上殺すと言う猟奇的事件を起こした男などの事例を取り上げ、犯罪者厚生プログラムなんぞは失敗だと結論しています。また、その他事例としては少年犯罪の再犯者率が50%を超えていることも犯罪者厚生プログラムの失敗の証拠としてあげています。
まあ、酒鬼薔薇事件などを鑑みると、いくらなんでもそこまで手厚く保護してあげる必要があるのか、と言った疑問がふつふつとわき上がってくることは私自身否定はしません。
しかし、中嶋さんの論理構成にはどうも論理の飛躍が目立つことが気になります。もし現行の厚生プログラムが効果を上げていないというのであれば、厚生プログラムの有無によりどのような再犯率に差が生まれているかを検証する必要があります。また、効果の有無と共に厚生プログラムそのものの有効性も検証されなくてはなりません。ところが少数の例を挙げ細かい議論はすっ飛ばして結論に行ってしまいます。
大体、酒鬼薔薇事件のように手厚い厚生プログラムが組まれることはよほど世間の耳目を集める事件に限られています。少年院もそうでしょうが、刑務所なんぞでは厚生プログラムなど存在はしているのでしょうが、予算も人員も限られたお座なりのものだというのが現状なのではないでしょうか。中嶋さんも本書の中でそのことを認めています。
日本は犯罪者「福祉」予算2200億円の無駄遣いだと批判していますが、厳罰主義のアメリカでは犯罪者が増えすぎて刑務所が足りなくなり、刑務所の増設が必要になりやっぱり無駄遣いだと批判されています(本書では何年度の統計かは書かれていませんが、世界中の囚人総数8百万人のうちアメリカの囚人は何と2百万人の囚人もいるそうです。日本は6万6千人)。無駄遣いをしないためには有期刑の囚人は短期で釈放しなくちゃなんない。で、刑務所の民営化なんて話が出てくる。刑務所を民営化するより裁判所とか警察を民営化したほうがいいんじゃないか、なんて疑問もわいてきます。本当に民営化すればすべて解決するんでしょうか。大体アメリカでも民営化はうまく行かなかったと自分でも書いてるじゃないですか。囚人を働かせるったって、ちゃんと働かないから、クビ、出て行けってわけには行かないですしね。
中嶋さんは弁護士ですから、言葉による論理の展開には慣れているはずです。ところが、本書では論理の展開に粗さが目立ちます。最近のガソリン暫定税の存続か撤廃かの議論もそうでした。一体全体ガソリン税は有効に使われているのかという議論をすっ飛ばして存続か撤廃かの二者択一を迫る。
アメリカでの性犯罪者に対する迫害なども同じような問題が感じられます。性犯罪者は確かに許しがたい。しなし、だからといって刑を終えて社会復帰してきた元囚人を無制限に迫害しても良いのでしょうか。彼らは氏名・住所・前歴まで明かされ、コミュニティーからの立ち退きを要求されています。お前の隣に性犯罪者がいてもいいのか、と言われれば誰だっていやでしょう。しかし、まさに戦時中の日本のような“隣組”社会が果たして私たちが目指している社会なのでしょうか。中嶋さんによれば、アメリカが目指しているのは「警察と市民が一体になった「完全無欠の監視社会」」。完全無欠の監視社会って太字で書いてあります。大いに賞賛しているのでしょう。議論の次に待ち受ける問題を明らかにせず、文句の言いようがない論点だけに絞って二者択一を迫る。こんな粗雑な議論で国民を騙そうとしているなんて、国民も舐められたもんじゃないですか。騙されないためにも自分の頭で考えなくてはいけませんね。
本書の冒頭で痴漢冤罪を取り扱った周防正行監督の『それでもボクはやってない』について、中嶋さんは、痴漢はれっきとした犯罪であり、処罰されなければならない、ワイセツ男に同情するとは何たることであるかみたいな論調で書いています。先日私もこの映画を見ましたが、冤罪の怖さ、有罪率99.9%日本の刑事裁判の問題点などが大変よく描かれていると思いました。中嶋さんは本当にこの映画を見たのでしょうか。
リーガルサスペンスの第一人者グリシャムさんは弁護士資格を持ち、実際に弁護士として活躍していた時期もあるそうです。最近は作家活動に専念しているみたいですが。弁護士より作家の方が儲かるんでしょうか。
本作品は、ある冤罪事件を徹底的に検証したグリシャムさんにとって初(本人は最後と言っています)のノンフィクションです。
「1982年―――オクラホマの小さな町で、21歳のウエートレスが強姦され殺された。警察の捜査は行き詰ったかに見えたが、事件から5年後、地元の元野球選手とその友人が唐突に逮捕された。物的証拠は皆無、全米を震撼させた免罪事件のはじまりだった……。」
結局DNA鑑定により冤罪が確定しましたが、犯人に仕立てられた2人はそれまでに12年もの刑務所生活を強いられることになりました。
冤罪が起こったのは、事件の捜査が進展しないことに業を煮やした警察・検察が、思い込みによる強引な捜査で自白を強要、いい加減な鑑定結果や強引に誘導した目撃証言を採用したことにより事件解決をでっち上げたことにより始まります。そしてそれを弁護士も検察も裁判所もさして問題とすることもなくスルーしてしまったことにより完成したのです。事件が起こったのはさして昔のことではありませんが、冤罪の構図は洋の東西、時代を問わず同じだということが分かります。
本書の主人公ロン・ウィリアムスンとデニス・フリッツは曲がりなりにも無実が証明されましたが、同じころ近くで起きた事件の犯人とされたトミー・ウォードとカール・フォンテノットはいまだに収監されたままです。冤罪が疑われますが、DNA鑑定のような手段が取れないため、救いようがないのだそうです。また、あとがきには本書にも登場する検事や捜査官がかかわった冤罪事件が取り上げられています(DNA鑑定で無罪が確定しました)。
冤罪事件でやりきれないのは、結果として犯人を捉える機会を失ってしまうこと、そして何より無実の市民の人生を破壊してしまうことでしょう。
大変分厚い本書ではありますが、ジョン・グリシャムという筆達者が書いていますので、大変読みやすく、一気に読了いたしました。ただ、読了感は大変重苦しいものがありました。
殺人犯として捕らえられ、無実の罪であれ死刑が確定し、長期間収監されたとしたら、あなたは耐えられますか?
いろいろ考えさせられる本書、ぜひご一読ください。
著者の森さんは映画監督でもあります。オウム真理教を題材にしたドキュメンタリー映画の取材で多くのオウム真理教の元幹部たちと接触を持ったことが死刑制度に興味を持つきっかけだったそうです。
「犯罪の捜査及び検察官による公訴権の行使は、国家及び社会の秩序維持という公益を図るために行われるものであって、犯罪の被害者の被侵害利益ないし損害の、回復を目的とするものではなく、(中略)被害者又は告訴人が捜査又は公訴提起によって受ける利益は、公益上の見地に立って行われる捜査又は公訴の提起によって反射的にもたらされる事実上の利益にすぎず、法律上保護された利益ではないというべきである。」(1990年1月20日最高裁判所判決)
死刑にするのは被害者の復讐のためでも損害の均衡をとるためでもなく、国家の秩序を乱した犯人に対して国家が加える制裁なんだ、お上に楯突く奴を抹殺してるだけなんだ、ということでしょうか。
死刑に反対するようになる理由はさまざまなようです。グリシャムさんの『無実』の中に、ある冤罪で死刑判決を受けた囚人のエピソードが紹介されていました。彼は無実の囚人であったにもかかわらず、死刑賛成論者でした。ところがある死刑囚の処刑(間違いなく殺人犯であったようです)をきっかけに死刑廃止論者となり、冤罪が晴れて出所したあとも熱心に死刑廃止運動を続けているのだそうです。
また、冤罪がどうしても避けられないこと、あるいは死刑は国家による人殺しだとして死刑制度に反対する人も多いようです。そうであれば、冤罪がなくなれば死刑制度を廃止しなくてもよいのでしょうか。さらに、国家が意図して行う大量殺人である戦争にはより多くの反対があってしかるべきだと思いますがいかがでしょうか。死刑を廃止していながら戦争をやっている国はたくさんあります。人道的な意味で死刑を廃止したのなら、その何倍もの人間が殺される戦争なんかやってはいけないと思いますがいかがでしょうか。
最後に亀井静香代議士の発言を紹介しましょう。
亀井代議士は死刑制度が罪抑止に役立っていないこと、被害者の報復感情の捌け口として利用されていると主張した後、
「……そんな報復感情の延長にあるのが戦争です」
「ブッシュがそうですね。9・11の報復感情だけでイラクに侵攻してしまった」
「自分は絶対的な被害者だという立場をとるのは、やっぱり私は間違いだと思う」
と言っています。最後に
「これは誤解してもらっちゃなんねえけど、国家権力がな、手足を縛って抵抗できないようにして絞め殺すなんてね、それは亀井静香の性に合わねえって言ったんです。処刑される人のなかには、今の我々以上に人間的な心を取り戻して、神様や仏様に近いところまでいく人が本当にいるんだよ。そういう人間を殺すということを、あんたいいと思うかい。そういう人と対面したらね、この人を殺しちゃいかんと思うんでねえかい?って」
ということで終身刑を導入する運動が始まりました。
「少数派が未来をつくるんです。間違った現状であろうと維持するのが多数派です。それを変えていくのは、いつの時代も洋の東西を問わず少数派なんですよ」
がんばれ亀井静香!
私自身死刑存続の是非について迷っている最中です。でも思考停止でお上のやっていることに迎合するより、自分で考えてみようではありませんか。ぜひご一読を。
吉田 和正『伝説の詐欺師 事件ファイル』新風舎文庫
著者の吉田さんは長年犯罪ものを手がけてきた作家のようです。本書の登場人物たちの裁判も含め多くの裁判を傍聴しているようです。
伝説の詐欺師、という題名から大物詐欺師の華麗かつ奇想天外な大活躍、といった内容を想像しますが、本書で取り扱われているのは小物、しかもどちらかというと悲哀感ただよう犯罪者ばかりです。
登場するのは得意の声帯模写を悪用した「元祖オレオレ詐欺」、なんと窃盗で生計を立てながら20年にわたり家族をもだまし続けた「肩書きは「ドロボウ」」、ニセ破産管財人に扮して破綻銀行から一億円を巻き上げた「インテリ詐欺師」、社会に適応できず泥棒で得た金品を元に「窓のない家」を建てちゃった男、など全部で10話。
まあ、中には子供時代の良い暮らしが忘れられず、虚栄を張るうちに犯罪に手を染める、みたいな詐欺師も出てきますが、窓のない家を建てた泥棒の話なんて、かわいそうで涙が出ちゃいます。貧しい母子家庭に育ち、施設に預けられ、中等部の時になんと同性による性行為を強要され人嫌いになってしまったそうです。これでほとんど今で言う引きこもり状態になってしまったようです。たまたま外を歩いているとき、マンションの住人が良く鍵を隠している場所を見つけてしまい、それがきっかけで泥棒家業に入ったそうです。
泥棒してきた金品があふれかえり、倉庫代わりに窓のない家を現金払いで作らせ、お仕事をしていないときはテレビを見るかCDを聞くかしていたそうです。それ以外に趣味とか、酒、女、博打など一切なし。ほんと、何が楽しくて生きていたのでしょう。
吉田さんはこの泥棒の裁判も傍聴したようですが、とにかく存在感が希薄なことに驚いたようです。忍者かなんかが気配を消している、というのではなく、「存在に骨がなく肉も筋もない人間のように」見えたそうです。しかも、このときすでに泥棒家業を20年も続けてきて、年齢は42歳。判決は5年6ヶ月だったそうですが、出所してやって行けるのでしょうか。
2008年8月
城戸久枝『あの戦争から遠く離れて』情報センター出版局
著者の城戸さんのお父さんである城戸幹さんは、1970年文化大革命に揺れる中国から命がけで帰国した中国残留孤児でした。まだ中国残留孤児という言葉が一般的に知られるようになり、山崎豊子さんの『大地の子』が話題になるはるか以前のことです。
城戸幹さんは日本に帰国後結婚、城戸久枝さんが生まれました。従って城戸久枝さんは父の中国における体験を直接知っているわけではありません。しかし、父の影響を知らず知らずのうちに受けたのか父のルーツである中国に興味を覚えるようになり、中国は満州の大学に留学したり、中国残留孤児の問題に関わるようになっていきます。
『日本鬼子』と呼ばれる中国での迫害とそれにもかかわらず城戸幹さん(中国名孫玉福)を我が子のごとく育ててくれた養父母や文化大革命の最中でも日本人と知りつつかばってくれた友人、また著者の城戸久枝さん自身が体験した留学時代の反日運動とそれにもかかわらず暖かく接してくれた友人など、親子二代に亘るアンビヴァレントな体験が見事に描かれています。
「大海撈針」(海に落とした針を拾うようなもの)とも思われた城戸幹さんの肉親探しが成功したのは、もちろん幸運であったこともあるでしょうが、何よりも城戸幹さん自身が熱心であったことが原因として挙げられるでしょう。さらにもうひとつ忘れてはならないのは、肉親探しを1960年代と言う極めて早い時期に開始したことがあると思われます。城戸幹さんの肉親探しも、大した資料・証拠はありませんでしたが、中国に残されたときに直接城戸幹さんの保護に関わった人達から証言を得ることができました。たった10年、20年の違いでも、こうした証言を得ることは極めて難しくなったのではないでしょうか。だもんですっと後になって残留孤児の問題が取り上げられたときにはどうしようもなくなっていたと。日本の政府は捨てられたガキなんぞには注意を払ってはくれませんからね。
もっとも、中国って国の政府も、私の書評でも何度か触れてきましたが、まことに酷薄なようです。文化大革命なんて毛沢東が権力闘争のためだけに引き起こしたみたいじゃないですか。それでたくさんの人命が失われようがなんだろうがお構いなし。ある日突然いなくなって、永遠に消息不明。城戸幹さんも日本人ですからいつ自己批判を迫られてもおかしくなかったのですが、逆に政治警察から目をつけられていたので助かったみたいなんですって。何が幸いするか分からないものですね。
城戸幹さん、城戸久枝さんと中国に対してアンビヴァレントな感覚を持っていたことは前述の通りですが、日本に対しても同様な感覚を持っていたことが感じられます。帰国残留孤児第1号だった城戸幹さんの場合、当然日本語もできず、前例のない日本では自分を理解してもらうのに随分と苦労したようです。何といっても、日本は自分を中国に捨てていった(何らかの理由はあるにせよ)国であり、命からがら帰国した際にも何もしてくれなかった国なのです。
祖国とは何なのか、愛国とは何なのか、自分のアイデンティティーとは何なのかなどを考えさせられる感動的な一冊でした。ぜひご一読を。
ジョン・パーキンス 古草秀子訳『エコノミック・ヒットマン』東洋経済新聞社
「エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して膨大な金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。彼らは世界銀行や米国国際開発庁」(USAID)など国際「援助」組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族の懐へと注ぎ込む。その道具に使われるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。彼らの帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化が進む現代では、その存在は質量ともに驚くべき次元に達している。」
著者のパーキンスさんはこのようなエコノミック・ヒットマンの一員だったそうです。
パーキンスさんは、エコノミック・ヒットマンの仕事とは、「第一に、巨額の国際融資の必要性を裏づけ、大規模な土木工事や建設工事のプロジェクトを通じてメイン社ならびに他のアメリカ企業(ベクテルやハリバートン、ストーン&ウェブスター、ブラウン&ルートなど)に資金を還流させること。第二に、融資先の国々の経済を破綻させて(もちろんメイン社や工事を請け負った企業に金を支払わせたうえで)、永遠に債権者のいいなりにならざるをえない状況に追いこみ、軍事基地の設置や国連での投票や、石油をはじめとする天然資源の獲得などにおいて、有利な取引をとりつけることだ」と教え込まれました。ブッシュ息子政権のチェイニー副大統領は元ハリバートンCEO、レーガン政権時のシュルツ元国務長官、ワインバーガー元国防長官はべクテルの重役に天下りしています。なるほど。
エクアドルの大統領だったハイメ・ロルドスとパナマの指導者だったオマール・トリホスが1981年にあいつで飛行機事故で亡くなりましたが、パーキンスさんはあれは事故ではない、暗殺だったと主張しています。彼らはエコノミック・ヒットマンたちの組織(「コーポレートクラシー」)に殺されたと。エコノミック・ヒットマンは文官ですから、こういった実地行動はジャッカルと呼ばれるヒットマンや、それでもだめなら軍隊によって行われるのだそうです。イラクみたいに。なぜアメリカがイランを攻撃したのか。本書ではその謎解きも書かれています。
エコノミック・ヒットマンという職業に嫌気がさして職を離れていたパーキンスさんは、人間としても尊敬していた二人の死にショックを受け、エコノミック・ヒットマンの活動を告発する本を世に出そうとしましたが、「強い説得」にあって執筆を断念させられたそうです。2001年9月11日の出来事を機に、20年のときを経てようやく世に出すことができたのが本書です。
青臭い理想主義を掲げた本だと思う方もいらっしゃるかもしれません。でも、私は大変印象深く読了いたしました。
かつてはガーナがトップだったチョコレートの原料であるカカオ豆の生産は、1970年代からコートジボワールが世界最大の生産国になっているそうです。ガーナが生産トップだったころはアフリカが価格支配力を持っていたそうですが、今ではカーギルなど世界の食糧メジャーが価格を支配しているそうです。つまり、カカオ豆の価格は暴落しました。それにしちゃチョコレートの価格は安くなったって話もないけどどうなってんのかしら。統計では、コートジボワールは世界のカカオ豆生産の3分の1を占めています。それなのに価格支配力がないのはなぜでしょうか。
1960年の独立から国を率いたフェリックス・ウーフェ・ボワニの指導の下、カカオ豆生産に乗り出したコートジボワールは、しばらくの間繁栄を謳歌しました。しかしカカオ豆価格の暴落をきっかけにコートジボワール経済は破綻を来たしました。コートジボワールではカカオ豆生産農民に対して価格変動に合わせて所得補填をしてきましたが、破綻をきっかけに乗り込んできた世銀・IMFは資金協力と引き換えに「構造調整計画」を強要、補填制度は廃止されてしまいました。そんななまくらなことをしているから、農業の基礎体力が損なわれ、いつまでたっても独立できないんだ、世界経済に開かれることによってのみ将来の展望は開かれるのだ、と言うわけです。
まともにカカオ豆を作って売っても儲かんないので、子供を奴隷として使うようになった、というわけです。奴隷を使ったプランテーション農業の復活。それだけでは終わらず、コートジボワールでは内戦まで勃発。人種問題も絡んでぐちゃぐちゃ。2008年4月現在、外務省のホームページには退避勧告が出されています。でも、内戦の最中でもなぜかカカオ豆の輸出は続けられているそうです。
チョコレートはなぞの多いオルメカ文明時代に開発されたと言われているそうです。続くアステカ人などにも愛飲されてはいたそうですが、カカオ豆は通貨としても使われるほど価値の高いものだったそうです。偉い人とか戦争に行く兵士は滋養強壮効果を持つ「神々の食べ物」として口にしていたようですが、一般人が口にすることはめったになかったようです。生産を担ったのははもちろん虐げられた農民。その後同地域を支配したスペイン人たちもインディオたち(その後はアフリカ人)を奴隷状態でカカオ豆の生産に従事させて大もうけしました。アメリカ大陸での生産が病害により低迷したためカカオ豆が生産されるようになったアフリカ大陸の赤道地帯でもカカオ豆を生産していたのは奴隷たち。チョコレート生産における奴隷労働は伝統だ!ってか。
現在私たちが食べている固形チョコレートの製法は19世紀に確立されたそうです。それ以前は主に飲み物として消費されていました。固形チョコレートの製法は結構手が込んでいます。カカオ豆を取ってきて乾燥させりゃ出来るってもんではないそうです。まず収穫したカカオ豆の果肉と種子を一緒に発酵させ、適度に熟成した種子を取り出し乾燥させます。チョコレートも発酵食品だったんですね。ここで生産国から出荷されます。先進国の工場についたカカオ豆は粉砕され、バンホーテンによって開発された製法によりカカオバターとチョコレートやココアの原料となるカカオパウダーに分離されます。ここら辺の工程は機械じゃないとできないのでコートジボワールくんだりでは行われないわけです。カカオパウダーだけだとココアになり、カカオパウダーにカカオバターを適量戻し、色んな香料を加えるといわゆる板チョコになるわけです。余ったカカオバターはお菓子とか化粧品に使われているみたいです。確か、ホワイトチョコレートの原料もこれ。人手が多く掛かり儲からないところは奴隷労働で、機械が使えて儲かるところは先進国のお菓子会社でってわけです。
カカオ豆生産に駆り出さされている子供たち(もちろん大人たちも)はチョコレートなんぞは口にしたこともないし、一生口にする機会を与えられることもないそうです。
本書は読むとチョコレートを食べる気がしなくなるエグイお話が満載の一冊です。ダイエットにオススメ?
バーバラ・エーレンライク『捨てられるホワイトカラー』東洋経済新聞社
以前『ニッケル・アンド・ダイムド アメリカ下流社会の現実』をご紹介した
「高校生で妊娠騒ぎを起こすようなこともなく、成績も良く、人に媚びへつらうようなこともせず、懸命に働いて、でもなぜか昇進も正当な賃金を払われることもなく、それどころか時給七ドルという低賃金で仕事をするはめとなり、学費ローンはしじゅう返済を繰り延べし、親と同居しながら、たいていは永遠に返済不可能とも思える借金を背負っている、まさに私のような人間たちについて、一度調べてみてください。」といった訴え受けてこのプロジェクトに取り組んだそうです。あら、私とおんなじこと考えている奴がアメリカにもいたわ。
エーレンライクさんはフリーのジャーナリストとして成功していた(ほとんど宮仕えの経験がない)ようですから経験がないかもしれませんが、とにかく失業するってのは、それだけでものすごいストレスになるんです。クビになっちゃうと、時間だけはあるんです、やること無くなっちゃうから。で、つまんないこと考えちゃうんです。なんで俺だけがとか、あの時ああしていればとか、やっぱ俺はだめなんだとか、あのヤローぶっ殺してやるとか、とにかくネガティブなことばかり考えちゃうんです。次の就職がタイムリーに決まる、なんてことは滅多に無くて、何回も面接を繰り返さなくてはなりません。採用担当者に「ウルセー、この馬鹿、グチャグチャ聞くな」と思っても、しゃべっていいのは用意された、自分をアピールするためのセリフ(嘘ではないにせよ)だけ。正に、はらふくふるるわざ、です。ますます落ち込んじゃう。
エーレンライクさんは就職活動のための各種セミナーみたいなものにたくさん参加する(させられる)羽目になるのですが、ここに出てくるオカルトチックなへ理屈(「あなたの真の敵はあなた自身です」とか)が、「オカルト資本主義」に出てくるのとそっくり、というか、出所がアメリカだと言うことが良く分かります。で、その裏にあるメッセージは「がたがた言わずにもっと働け」。結局資本主義の本質は収奪経済だってことでしょうか。
本書はホワイトカラー労働者の悲哀というよりは、そのホワイトカラー労働者になるための苦闘を描いています。前回のニッケル・アンド・ダイムドのときは少なくとも職はすぐ見つかってましたけどね。ホワイトカラー労働者も使い捨ての時代です。いらなくなったらポイ。そして、何回かポイされると、今度は再就職そのものが難しくなっちゃう。アメリカで本書が出版されたのは2005年。サブプライム以下もろもろで現在はさらに状況は悪化しているはずです。海の向こうの私のご同業の方々はいかがお過ごしでしょうか。
2008年7月
「孫子」とは今から2500年ほど前に活躍した孫武という武将が書いたといわれる兵法書です。日本はまだ弥生時代。ところが、古今の武将(武田信玄、西郷隆盛、湾岸戦争の指揮を執ったことで有名なシュワルツコフ将軍とか)、さらにビジネスマン(ソフトバンクの孫正義、マイクロソフトのビル・ゲイツとか)までが愛読しているそうです。まあ、人間なんてここ何千年まるっきり進歩していないってことがよく分かるではありませんか。
そんな孫子の名言を取り上げ、簡単な説明を加えているのが本書です。ふたつほど印象に残った名言をご紹介しましょう。
「算多きは勝ち、算少なきは勝たず。而るをいわんや算なきに於いてをや。」
まず、相手を良く見てから戦え、ということです。人づてに聞いた話ですが、ある極真空手の名手で全日本二位、なんて人が小錦(その頃全盛だったんですね)と喧嘩になったらどうするか、と聞かれて「土下座して謝る」と答えたそうです。そもそもあんなでかいのには空手の技もピンポイントで当たらない限り利かないそうです。それだけじゃなくて、空手の有段者が小錦のような人気者と喧嘩した、なんてスキャンダルになったらどうなるか分からないではないですか。だから土下座してでも喧嘩はしない。戦争だってそこまで考えてやってくんないとね。根性だけじゃどうにもこうにもなりませんよ。
「勝つべからざるは己に在るも、勝つべきは敵にあり。」
戦いには必ず相手がいます。いかに自分が努力したつもりでも相手も同じように努力していることを忘れてはいけません。もともとめちゃくちゃな戦力差があるのならともかく、互角であればそう簡単に決着がつくものではありません。逆に相手が何かへまをやらかしたら、こちらのチャンス。逆にこちらが弱みを見せれば負け。
孫子でも、どのくらいの戦力差があれば戦っても大丈夫か、なんてことが書かれています。現代になってこれを数学的に解明したのがランチェスター。私の論文をご参考まで。ランチェスター理論もビジネス界で有名ですね。
孫子では、とにかくなるべく戦を避けるのが良しとされていますが、だからといってゆめゆめ準備を怠るようなことがあってはいけないとしています。また、とにかく己を知り、敵を知ることを求めています。己の身の程も知らず、しかも敵を侮るばかりでは勝利はおぼつきません。しかし、昨今の保守化した日本では自分を過大視し、相手を見下すような議論ばかりが幅を利かしてい気がします。間違いだといいんですけど。
森田 実『脱アメリカで日本は必ず甦る』日本文芸社
小泉・安倍・福田政権、そしてブッシュ政権の方針に反対し続けてきた森田さんですが、2008年は大きなターニング・ポイントになることを期待しています。何たってブッシュ政権が終わりますからね。とは言え、悪名高い「年次改革要望書」はクリントンだんな政権と宮澤政権の合意によって始まったはずです。共和党大統領でも民主党大統領でもあんまり変わらんでしょう。アメリカ人にとって日本は単なる植民地。
森田さんの政治論の立脚点は以下の10の格言にあるそうです。詳しい意味は森田さんの著作を買ってお読み下さい。
1.
政は正にあり(孔子)
2.
民を尊しと為し、社稷之に次ぐ(孟子)
3.
大国を治むるは小鮮を煮るが若し(老子)
4.
人を恃むは自らを恃むに如かず(韓非)
5.
政治の究極の目的は人間的善の実現でなければならない(アリストテレス)
6.
平和は人類最高の理想である(ゲーテ)
7.
政治の目的は善が為し易く、悪の為し難い社会を作ることにある(グラッドストーン)
8.
真実の生活に根ざすただ一つの真の道徳は調和である。だが、人間社会は今日まで圧迫と諦めの道徳しか知らなかった(ロマン・ロラン)
9.
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず(福沢諭吉)
10. 国家の実力は地方に存する(徳富蘆花)
この中で私が最も強く必要性を感じるのが8番目のロマン・ロランの言葉でしょうか。「調和」。やっぱ、何ですね、人間何事につけても調和とかバランスが大事ですよね。何でも原理主義に走るとおかしくなる。日本の軍国主義だって中国の文化大革命だってアメリカの市場原理主義だって全部原理主義。原理主義における原理原則は割合と簡単単純にできていますので、人間社会におけるさまざまな事例には対応しきれない。それなのに役人根性丸出しで杓子定規に規則を当てはめちゃう。何たって自分の頭で考えて自分で責任を取るのは大変ですからね。で、自ら思考停止になって無理を承知で原理原則を押し付けちゃう。やはり、人間は考える葦にならなくてはいけませんね。
本書で森田さんはアメリカ流の市場原理主義の終焉を主張しています。最近巷では複素経済学とか超合金経済学とか多元宇宙的街角経済学なんてのがあるんだそうです。詳しくは知らんけど。私としては人間主義経済学とか複雑系経済学なんてのを提唱したいですね。中身はまだ考えてないけど。
それはさておき、2008年日本はアメリカの属国を脱することができるのでしょうか。
江副 浩正『不動産は値下がりする!』中公新書ラクレ
ご存知リクルート創業者の江副さんの著書です。情報誌の発刊、人材サービスで知られるリクルートですが、一時は不動産子会社であるリクルート・コスモスなどを通じ不動産業でも華々しい成功を収めていました。ま、その後紆余曲折があるわけですが、それはこの本の主題ではありません。
本書で江副さんが主張しているのは、「立地の良い健全なマイホームなら問題はないが、頭金ゼロのステップローンや金利にスライドするローンを組んでマンションを買っていたり、借金で投資用のワンルームを買った人は、返済債務延滞から自己破産ということにもなりかねない。」「いっぽうで、まだマイホームを取得していなく、それなりの所得がある人であれば、なるべく良い立地を選んで購入したほうがよい、と思える。長期的に見れば、これだけ赤字国債を発行しているのだから、調整インフレで貨幣価値が下がり、不動産の価格は上昇するだろうからである。」
気の短い人は、不動産を買ったほうがいいのか買わないほうがいいのか分かんないじゃないか、と思うかもしれませんが、私はこれは真実だと思います。本書は江副さんの不動産に関する薀蓄がこれでもかと語られているので一見前後が矛盾しているように見えるところもありますが、実はそうではないと思います。どんな不動産でも値上がりするのではなく、上がるところもあれば下がるところもあるはずだからです。いくら世間の景気がいいったってつぶれる会社はつぶれるんですから。
本書のメイン・テーマは、日本の不動産は値下がりすると言うことです。なぜならば、土地の供給が増えるから。一般的に日本は国土が限られていて、増えることはないと思われがちですが、埋め立てによって物理的に増えるし、また規制緩和による土地の高度利用(つまり高い建物を建てるってことです)により、実質的には土地が供給されるとしています。また、これだけ開発が進んでいると思われている東京ですら、大学の土地とか利用度の低い土地がまだまだあると指摘しています。
そういや最近あちこちの大学が妙にビジネスづいていますね。ホテル建てたり商業ビル建てたり。大学の伝統がどうのなんて言ってる場合じゃないんですね。なにしろ若者向けの教育産業ってのは人口が減りそうだっていわれてる社会じゃ長期ジリ貧産業ですもんね。
リクルート事件(詳しくはこちらを)ですっかり悪者になってしまった江副さんですが、なんだかんだあってもやはり不動産はお好きなようですね。
不動産に関する薀蓄がいっぱいに詰まった本書、面白い一冊でした。
高橋洋一『さらば財務省!―――官僚すべてを敵にした男の告白』講談社
霞ヶ関埋蔵金の隠し地図を発表した男として一躍有名になった高橋さんの著作です。おかげで、いまじゃ財務省の佐藤優だって。
高橋さんがなぜこの本を書くに至ったか、どのような思いで書いたか、といったことは全部まえがきに書かれています。
「霞ヶ関の、組織としてあまりにもお粗末な実態を、国民にあまねく知っていただきたいとの思いから筆を執ったのだ―――。」
「現在の財務省を始めとする霞ヶ関に働く人々は、個人としての能力は高いかもしれないが、組織としては、まさに幼稚な集団である。」
「典型的な官僚は、東大法学部を卒業し、外界とは隔絶された霞ヶ関の内なる論理で純粋培養される。」
「そして霞ヶ関の住民になると、自分の頭で考えることは止め、すでに時代からは取り残されている役人の論理にひたすら従うだけになる。」
なんでこうなっちゃうのか、は拙論「コンプライアンスを機能させるための組織」でも触れておりますのでご覧下さい。
やっぱりね、官僚の本質は思考停止ですよ。ひたすら前例に従うだけで変革には頑として応じない。その割には自分に都合良くするためには何でもする。
東大法学部卒が標準の財務官僚としては、東大理学部数学科と経済学部経済学科(ふたつも!)を卒業した高橋さんの経歴は異色だったようです。変人採用だって。高橋さんは財務官僚は数字に弱い、と本書で指摘していますが、法学部じゃ勉強しないことっていっぱいありますからね。
高橋さんは小泉・安倍政権の改革路線とそれに反対する勢力の争いとは突き詰めると「小さな政府」を求める勢力と「大きな政府」を求める勢力の争いだったと総括しています。そうと言えないこともないんですが、国民の一人として言わせていただければ、私たちが求めているのは「良い政府」、「国民を幸せにしてくれる政府」であって小さいか大きいかだけの問題ではないと思うんですが、いかがでしょうか。
本書を読むと、高橋さんが確かに頭の良い方だと言うのは良ーく分かります。でも、改革にしろ何にしろ一体全体国民全体の福利厚生に貢献したかどうか、って観点が完全に抜け落ちている気がします。政治とか行政ってのは理論的に正しいかどうかではなくて結果で判断しなきゃいけないんじゃないんでしょうか。その是非はともかく郵政は民営化されました。その結果どうなったのか、改革の理念は正しく実現されているのか、そして今後どのような施策が必要とされるのか、だめだと分かったら止めるのか、そもそも国民の福利厚生の向上に役立ったのか、といった議論がすっぽり抜け落ちています。ほとんどやりっ放し。それじゃだめじゃん。
いずれにしろいろいろと考えさせられることの多い本でした。思考停止にならないためにもご一読を。
2008年6月
リチャード・ドーキンス『神は妄想である』早川書房
「利己的な遺伝子」で有名なドーキンスが現代アメリカ社会で猛威を振るうキリスト教原理主義やインテリジェント・デザインに対抗すべく世に放った著作です。多分。
先にご紹介したボビー・ヘンダーソンの『反☆進化論講座』が同じ目的をしゃれのめすことで果たそうとしているのに対し、ドーキンスは真っ向から議論を挑み、論破しようとしています。ま、ドーキンスはイギリス人でイギリス在住ですからこんな本が書けたのでしょうが。アメリカに住んでたら、どっかから弾が飛んできちゃいますよ。
500ページ以上もある分厚い本書で宗教を排撃する議論を延々と続けているなかで、なるほどと思ったのは、原理的な教義を子供に押し付けるのを止めろと強調している下りです。ドーキンスは、必ずしも成人が宗教的なものを信じることまで全面的に否定しているわけではないようです。まー、そうするとアルコール依存症をキリスト教再生派(だっけ)への信仰で克服したブッシュ大統領なんかは許容範囲ってことになるかな。もっとも、ブッシュ大統領はキリスト教右派の教義を子供どころか異教徒にまで強制しようとしているから、だめだこりゃ、ってか。
ドーキンスは明確な無神論者のようですが、欧米の社会において「私は無神論者です」って名乗るのは、ものすごく勇気が要るらしいです。そんなこと言うと、両親は取り乱し、友人たちは怪物でも見るような眼で見るそうですよ。「私はイスラム教徒になりました」とか「私はヒンズー教徒に改宗しました」って方がまだましなんだそうです。少なくとも何かの宗教を信じてるから。
まー、お正月は神社にお参り、桃の節句や端午の節句、七夕もお祝いし、結婚式は教会で、お葬式は仏式で、ついでに年末はクリスマスでお祝いする日本人としてはそう目くじら立てて宗教を否定するのもどうかと思いますが、昨今のアメリカの状況など鑑みると(日本だっていつ今の自由奔放な宗教乱立が許されなくなることがないとも限りませんからね。つい何十年か前まで、天皇は現人神だったんですよ)、居ても立っても居られなくなったんでしょう。だれかドーキンスさんに日本教に改宗しなさいって教えてあげないのかな。お正月も豆まきもお節句もお盆もお月見もクリスマスもお祝いしたほうが、お酒がいっぱい飲めて楽しいじゃないですか。短い一生、楽しく生きなきゃ、ね。
体外離脱やさまざまな神秘体験を誘発するヘミシンクというテクニックを開発したモンロー研究所の創始者であるロバート・モンローさんの最初の著作です。本書は体外離脱のバイブルとまで呼ばれていたそうですが、日本では長らく絶版になっていました。このたびめでたく再版されたようです。
本書におけるモンローさんは体外離脱を宗教的な神秘体験として受け取るのではなく、体外離脱をなんとか科学的に証明しようとしています。自分自身が体外離脱中に明晰な意識を保とうとするだけでなく、さまざまな科学的(医療)機関の協力を仰ぎ、さまざまな実験を行っています。今の日本でサイキックの研究にまともに協力してくれる医療機関なんてなかなか見つけにくいと思いますが、本書が出版された1971年ごろと言えば、ヒッピー・ムーブメントが一世を風靡した頃です。モンローさんの体外離脱体験自体はそれ以前から始まっているようですが、こういったサイキックものが受け入れられる下地はあったと言うことでしょう。さらに、ヘミシンクなどの音声を使ったテクニックがどのような経緯で開発されたからはジョン・ロンスン『実録・アメリカ超能力部隊』をご覧下さい。ここら辺は本書では全く触れられてはいません。日本でユリ・ゲラーが大評判になったのも1974年のはずです。そう言えば、『新刑事コロンボ』にもサイキックのインチキをトリックに使った「汚れた超能力」って作品がありましたね。
ま、そこら辺はともかく、モンローさんは体外離脱を神秘体験であるとは捉えていますが、それが宗教的(特にキリスト教的)なものであるとは思っていないことが本書からは読み取れます。本書のあちこちで、体外離脱中に危ない目に遭ったときありとあらゆるお祈りの言葉を(もちろんキリスト教のでしょう)唱えたけれど全く効果がなかったとさりげなく(でも結構しつこく)触れています。
モンローさん自身が東洋の宗教にどれだけ関心・知識があったのかは本書では明らかにされていませんが、私には仏教などの神秘体験との共通点が強く感じられました。モンローさんの著作を多く読んだり、ヘミシンクセミナーに参加しているわけではありませんので、私だけの感想かも知れませんが。
モンローさんのように意識的に体外離脱をしたわけではありませんが、私もいわゆる明晰夢といわれる体験は何度かしたことがあります。その中で一番奇妙だったのは、私以外の登場人物が全部手塚漫画の主人公たちで、平面の実物大ポップ広告のようなのから吹き出しが出てしゃべっていました。鉄腕アトムも夢を見るのでしょうか。
伊藤博敏『「欲望資本主義」に憑かれた男たち』講談社
この本の表紙には緒方重威元公安調査庁長官、折口雅博グッドウィル・グループCEO、堀江貴文元ライブドアCEO、西武鉄道グループの元オーナーである堤義明、そして村上世彰もとM&Aコンサルティング代表取締役の5人の顔写真が載っています。ま、「欲望資本主義」に憑かれた男たちがどんな人達を指すのかはよく分かりますよね。
伊藤さんは冒頭、外資やファンドについて、「企業を「モノ」として売買、土地を「証券」として流通させる彼らの手法について理解するのは、それほど難しいことではなかった。それは、カネを滞留させることなく回転させる金融テクニックの一環でしかない。ただ、ルールに則っていれば何でも許され、組織の歪みや、制度のスキマをついて儲けると言う彼らの発想を理解するのは容易ではなかった」と書いています。でも、上記のような顔ぶれを見ると、「欲望資本主義」が外資の専売特許でないような感じもしますよね。
昨今コンプライアンスの行き過ぎが問題になっています。金融商品取引法が施行されて以来、銀行とかで投信なんかを買おうとすると、とんでもなく長いご高説を拝聴しなくてはいけなくなっちゃったんだそうです。銀行側は怒られちゃいけないんで、リスクヘッジも含めて長々と説明するわけです。ま、銀行の言ってることも分かりますよ。損した瞬間に何もかも忘れて文句言ってくる人っているんですよ。儲かったときは何も言わないのにね。
ところで、本書にも随所に「国策捜査」が出てきます。著者の伊藤さんはフリーのライターですが、その書き振りには公平な目線が感じられます。本書の登場人物に対して過剰なシンパシーをいだくことも、過剰な反感をいだくこともないようですが、「国策捜査」のあり方には疑問を感じていることは行間からうかがえます。やはり最大の問題は「国策捜査」を誰も批判できないことでしょう。そんなことをしたら身辺を嗅ぎ回られて尻尾を出したら即アウト。出さなくても出したことにされちゃうかもしれない。なんか後味悪いですね。
姿を消したはずの裁量行政が復活したとも言われている金融庁の検査などにも同じことが言えます。ま、お国の機関というのは一罰百戒を目指していますからね。それに引っかかりたくなきゃ、ばかばかしいとは思ってもどこからも文句言われないように防御を固めるしかないわけです。
それやこれやで説明が長くなるわけですが、これって壮大なる資源の無駄遣いなんじゃないでしょうか。最近の食品偽装とか、何とかバッシングとかを見ていて気がつくのは、権力の分立、牽制機能がうまく働いていなおらず、ものすごく一方的なことです。特に第四の権力であるマスコミがきちんとしたスタンスを保っていないことから起きる弊害を感じます。政府や大企業、あるいは国民に対してきちんとものが言えるようになっていない。一応国民の味方を謳っていますが、その実お金や権力を持ってる側の御用報道機関でしかない。で、一朝ことが起きるとお得意様のために煽りまくるわけです。そして問題の本質は忘れられてしまう。単なる魔女狩り。そんなバッシングに乗る国民もアホなんでしょうがね。これを称してワイドショー型社会。
アホにならないためにもご一読を。
本書が出版されたのは1997年ですが、10年経った現在でもスピリチュアリズムとかオカルティズムは大流行です。書店でいわゆるトンデモ本コーナーではなく、ビジネス書のコーナーを見ても、自己啓発だとか成功の法則、ナントカの導きなんて本があふれています。斉藤さんそれらには共通した底流があると指摘しています。「@われわれは生きているのではなく、生かされている。A世の中で起こることのすべては必要、必然である。B思ったことはすべて実現する。C近い将来この世界は崩壊する。が、選ばれた人々だけは生き延び、新しい理想世界を築き上げるだろう―――。」これに東洋思想とか神秘思想とかニューサイエンスとかナントカとかカントカのフレーバーをふりかければ一丁出来上がりってわけです。
これらオカルティズムがごく一部のマニアの間でだけ広まっているのであればどうということはないのかもしれませんが、これが昨今のグローバリゼーションの広まりと共に企業の従業員コントロールの一環として使われていることに対して斉藤さんは危惧を抱いています。
「経済的利潤だけでは割り切れない多様な価値観の塊としての人間存在と企業とは、どこまでも共存共栄の関係にまでとどめるべきで、ましてや一体化など言語道断である。ところが現状は、雇用という最大の社会貢献機能を放棄し剥き出しになった企業の生産性の論理だけが、これまで以上に個々の人間、さらには人間社会全体を覆い尽くそうとしている。」
「人間の自我を失わせ思考停止に陥らせるオカルティズムが、日本をそのような悲劇に操り導く強力なエンジンになっている。これぞカルト資本主義なのだと、私は本書で主張した。」
上記の@からCも、なるほどと思わなくもありませんが、たとえば社長が従業員に対して主張したら全然違う意味になってきますよね。お前は俺に生かされているんだ、滅私奉公しろとかね。馬鹿どもを思考停止にしてこき使う。うーん、戦時中とそっくり。
このような動きに加担しているのがオカルト情報を垂れ流しているマスメディアなのですが、「マスメディアによる情報操作は、だが一方的に完結しない。操作される側の想像力が決定的に欠如している前提条件があって、初めて成立するのである。」相手が馬鹿じゃなきゃ簡単には騙せないってことですよね。馬鹿になるように仕向けられているのはあなたや私。
今月取り上げた本はどれも似たような問題点に辿り着きますねえ。ただ、このオカルティズムというか科学万能主義への反動ですが、いわゆるトンデモ系を除いたものは実は科学者たちの間から出てきたものなのだそうです。詳しくは本書をお読みいただきたいと思いますが、その存在が否定されているはずの永久機関なども、実は多くの大企業によって研究されているそうです。オカルティズムを馬鹿にするのは簡単ですが、科学的思考を突き詰めていくとどうしても分からない部分が出てくる、というのは興味深いものがあります。まあ、公式ではないにしろ大企業が研究しているは、もしそんなモンが出来たら大儲けが出来るに違いない、と踏んでいるからでしょうが。
実は私も大好きなオカルティズムですが、思想停止にならないようにお付き合いしなくちゃいけませんね。のめり込んで思考停止になるのも問題でしょうが、オカルト的なものを全部否定しちゃうとクリスマスもお正月もお祝いできなくなっちゃいますモンね。
2008年5月
チャールズ・C・マン 布施由紀子訳『1491』NHK出版
本書の表紙裏には「1492年にコロンブスが到達した新世界については、誰もが知っている。わずかな狩猟採集民族が暮らす動植物の楽園で、文明など存在しなかったのだ、と。実際は、いくつもの都市が築かれ、ヨーロッパより大きな人口を擁し、さまざまな言語と文化が入り乱れていた。ただひとつ、新世界に欠けていたもの―それは旧世界の病気に対する免疫力だったのだ。最新の発掘と研究で明らかにされる、アメリカ大陸文明の全貌」と書かれています。
確かに以前ご紹介したアメリカの歴史教科書(ジェームズ・M.ヴァーダマン、村田薫編(2005)『アメリカの小学生が学ぶ歴史教科書』株式会社ジャパンブック)でも、コロンブスのアメリカ大陸発見から始まる「不幸な歴史」についての記述はありますが、それ以前の歴史についてはほとんど触れられていません。つまりアメリカじゃそんなこと教えてくれないから誰も知らない、と。
でもねえ、サブカルチャー大好きの私にとっては、ネイティブ・アメリカンの歴史とか文化ってやつには結構なじみがあるんですが、皆さんはいかがでしょうか。アメリカでは2005年の発売以来大ベストセラーになったそうですが、アメリカ人は知らなかった、ってことでしょうか。病原菌だ何だって話も、以前ご紹介したジャレド・ダイアモンドの本(ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳『銃・病原菌・鉄』草思社)で触れてたし。
最初に文句を書いてしまったのでなんですが、注まで入れると全部で700ページを越える分厚い本書、大変面白く読ませていただきました。
本書では、旧大陸の四大文明の登場とほぼ同時期にメソアメリカでも新石器革命が起きたこと、マヤではインドより早くにゼロを計算に取り入れていたこと
(もっとも、数学的なゼロの意味を発見したのは依然としてインド人が最初のようです)、コロンブス到達時の南北アメリカ大陸の人々は高い技術をもって自然を管理し、当時のヨーロッパ全体を超える数の人口を擁していたことなど、最新の発掘情報を駆使して紹介しています。
面白かったエピソードをひとつ。北米に上陸した西洋人をインディアンがどう見ていたか。大体、インディアンは大変生産性の良いとうもろこしを中心に豆などでたんぱく質を補った質が良く栄養価の高い食べ物を食べていたので、体格も大変良かったのだそうです。それに対して上陸してきたイギリス人やフランス人はそもそも本国で食い詰めて一発逆転を狙ってやって来たようなやからばかりだったそうですから、体格も貧相(イギリスじゃ貴族と貧民は体格で分かるって言いますからね。貴族のほうが立派。余談ですが)、おまけに風呂なんぞ入ったことも無いからものすごく臭かったそうです(だから西洋では香水が発達した。余談ですが)。でもって、インディアンたちは相当軽蔑していたらしいですよ。
最後に、本書ではアメリカ大陸の先住民のことを原著ではインディアン(インディオ)またはネイティブ・アメリカン(主としてインディアン(インディオ)の繰り返しを避けるため)と呼んでいます(日本語訳では日本の慣習に従い北米在住の先住民をインディアン、南米在住の先住民をインディオ)。これが歴史的に正しくはないことは著者も認めていますが、南北アメリカに現在在住する先住民自身が自分たちをそう呼んでいるので採用したそうです。私たちはアメリカからの情報にはなじみがありますので、ネイティブ・アメリカンという呼称も広く知られています。でも、著者がこの呼称をボリビアで先住民の血を引く大学院生に使ったところ、ネイティブ・アメリカンはアメリカ合衆国にしか住んでいない、我々はインディオだ、と抗議されたそうです。また、北アメリカ在住の先住民もネイティブ・アメリカンではなく、アメリカ・インディアンを自分たちの呼称として採用するという運動を行っているそうです。
まあ、最近愛国心だ何だってがたがたしてますが、江戸時代の日本人だって、我こそは日本人なり、なんて思っていなかったでしょうからねえ。言葉尻を捕らえてどうのこうのって言うのは無意味だってことでしょう。
サビン・バリング=グールド 池上俊一監修『ヨーロッパをさすらう異形の物語』上 下 柏書房
歴史というとどうしても戦争や政治といった支配者たちの物語が主流となりますが、19世紀にはそれに対して民族伝承なども研究の対象として認知されるようになりました。著者のバリング=グールドは1834年生まれ、没年は1924年ですから、19世紀後半のそのような気風の中で活躍した歴史家と言えるでしょう。そのほか、怪奇小説なども書いていたそうですから、本書を執筆した動機も分かりやすいですね。
本書で取り上げられているのは以下の24の物語ですが、いくつご存知でしょうか。私は7話しか聞いたことありませんでした。
「さまよえるユダヤ人 永遠という罰の重み」
「プレスター・ジョン 朗報かそれとも悪い報せか」
「占い棒(ダウジング) なんでも見つけ出す魔法の棒」
「エペソスの眠れる七聖人 復活する死者」
「ウィリアム・テル 本当はいなかった弓の名手」
「忠犬ゲラート 命の恩人は動物だった」
「尻尾の生えた人間 「よけいなもの」か「必要なもの」か」
「キリストと女教皇ヨハンナ 悪しき者たちへの恐怖と期待」
「月のなかの男 いまもそこにいる理由」
「ヴィーナスの山 戻ってきた者はひとりしかいない」
「聖パトリックの煉獄 足を踏み入れた者たちの証言」
「地上の楽園 それはどこにあるのか」
「聖ゲオルギオス 残酷な拷問とドラゴン退治 」
「聖ウルスラと一万一千の乙女 偽りだらけのくだらなくて愚かな物語」
「聖十字架伝説 けたはずれの創造力」
「シャミル 虫や石に宿る謎めいた力」
「ハーメルンの笛吹き男 誰もが知っている伝説の正体は?」
「ハットー司教 ネズミに食い尽くされた強欲の司教」
「メリュジーヌ 裏切りは別れを招く」
「幸福の島 聖なる場所は西にある」
「白鳥乙女 詩人に愛された美しい鳥」
「白鳥の騎士 素性をたずねてはならない」
「サングリアル(聖杯) 聖なる器の伝説」
「テオフィロス 悪魔と契約した司祭 」
ほとんどの物語は伝説であり、歴史的検証に耐えるものではありませんが、中世に生きた人々が信じていた、あるいはその時代を生きていたのは間違いないでしょう。中世とはドラゴンが生きていた時代だ、という話を聞いたことがあります。例え具体的な形が無かったとしても、中世の人々の心の中にはしっかりと生きていた、と。
現代でも都市伝説の類は生き残っていますし、私たちもあと何百年か経ってからそんなもんデタラメに決まってるじゃないか、と言われるようなことを信じているのかもしれません。あんまりえらそうなことを言っていると聖パトリックの煉獄に繋がれちゃうかもしれませんよ。
ヨーロッパや中近東に伝わるさまざまな物語が比較検討されていますが、本書はヨーロッパで書かれた本ですので、アジアやアメリカ大陸の物語などはあまり出てきません。にもかかわらず、浦島太郎を思い出させる話とか、鶴の恩返しみたいな話とか、三途の川渡しみたいな話とか、羽衣伝説みたいな話とか出てきます。洋の東西を問わず似たようなことを考えているのか、似たような話が脚色を加えながら広まって行ったかを示しているのでしょう。日本の名前も、人魚のミイラの輸入先として出てきますよ。
ダレン・オルドリッジ 池上俊一訳『針の上で天使は何人踊れるか』柏書房
本書では、「人間の子供を殺した豚の親子が裁判に掛けられ、母豚が絞首刑に処される。死者の霊魂が生きている人間を訪ねに来て、頼み事をしたり来世からの伝言を伝えたりする。リンゴに悪霊が取り憑いて、奇妙な音を響かせる」なんて事例が取り上げられています。中世、場合によっては近世の人々までがなぜこのような迷信を信じたのでしょうか。中世の人たちはそんなにアホだったのでしょうか。著者のオルドリッジは、中世の人々がわれわれとは異なった価値観を持っており、知的・社会的状況も大きく異なっていたことが原因であるとしています。まあ、現在でも都市伝説は立派に生きていますからね。昔の人間だけがバカだったなんてことはありえませんよね。
本書の中で文化的背景などにより現代でも大きく異なった行動を取る場合があることを示す興味深い例が挙げられていました。1993年、イギリスで10歳の少年2人が幼児を殴り殺すという事件が起こりました。その後2人は成人と同じ法廷で裁かれ、殺人罪で有罪判決を下されました。その1年後、ノルウェーで6歳の少年2人が幼児を殴り、石をぶつけて殺すという事件が起きました。このときは2人の少年は殺人犯と呼ばれることもなく、カウンセラーに付き添われて事件からわずか2週間後に学校に戻ることを許されたそうです。この2つの事例を並べてその処分が適当であったかを比較することにはあまり意味のあることではないでしょう。個別の法的環境も異なりますし、その法的環境を作り出している社会的環境も大きく異なるからです。であるとすれば、数百年も隔たった時代において、現在とは大きく異なった行動が取られたとしても不思議はないではありませんか。そうじゃないと、今の我々の行動だって、何百年も後になって(それまで人類は生き延びられるのか?)昔の頑迷固陋な迷信好きの大ばか者たち、って言われちゃいますよ。
ということで、作者は最後の章「奇妙な私たち」において現代に生きる我々も実は先入観や思い込みで判断している事例が多いことを示しています。そして歴史家の役割を、クレティエン・スキナーという歴史家の言葉を引いて本書を締めくくっています。
「歴史家には、現代の生き方に含まれる価値、そしてその価値に対する考え方について私たちが理解を深め、現在とは異なる時代の異なる社会で選択されたことを振り返る手助けが出来る。この意識が、価値観に対して、こう解釈すべきとかこう理解すべきといった制約から解放してくれるのだ。幅広い可能性に対する意識を身に着けることで、他から受け継いだ知識から一歩引き、考慮すべき事柄について、新たな心構えで探求することが出来るのである。」
私たちが自明と思い込んでいることにも落とし穴が仕掛けられているのかもしれません。考える葦は考えることを止めてはいけませんよ。
吉田 進『フリーメイソンと大音楽家たち』国書刊行会
モーツァルトが17世紀当時あれほどあちこちに出かけて音楽の腕前を披露できたのは父親がフリーメイソンのネットワークを使えたからだと言われています。もちろんモーツァルト自身もフリーメーソンでした(本書では父親のレオポルドがフリーメイソンになったのはヴォルフガングの後だとされています。じゃ、だめじゃん)。また、音楽とフリーメイソンの関わりは深く、ハイドンやリストなどもフリーメイソンだったそうです。また、時代は下って現代のエリック・サティやベニー・グッドマンもフリーメイソンだそうです。サティは私も大好きな作曲家ですが、薔薇十字団のためのナントカって曲が何曲かありますよね。
あと、アメリカの政治家でフリーメイソンってのもいっぱい居るはずです。その証拠としてよく挙げられるのが1ドル札の裏の目が書かれたピラミッド(全能の目)です。確かにお札の図柄としては変わってますよね。
また、フリーメイソンは巷間に流布しているようなおどろおどろしいユダヤ人の秘密結社ではなく、坂本竜馬、米内光正、鳩山一郎、吉田茂といった著名な日本人も会員であったと言われているようです。確証がない場合も多いようですが。
音楽は算術、幾何、天文学などと共に中世ヨーロッパの大学では数学の重要な教科とされていました。それは、和音などの音階が美しい数学的構造を持っていることなどが原因でしょう。また、宗教(ここではもちろんキリスト教)ともかかわりが深かったようです。宗教音楽は民衆に宗教の厳かさを印象付ける重要な小道具だったんです。そう言えば、宗教音楽が盛んであった中世においては天上の音楽である宗教音楽は片っ端から三位一体を象徴する三拍子で作曲されていたのだそうです。三拍子はフリーメイソンでも重要なテンポになっているそうです。
フリーメイソンの会員たちは自分は良きキリスト教徒であるとかユダヤ教徒であると思っているはずですが(なんらかの宗教を信じていることが入会の条件で、無神論者と共産主義者は入会できないそうです)、カソリック教会などの側からは目の敵にされてきました。
フリーメイソンの起源には各種伝説(ソロモンの神殿建築に関わった、ピラミッド建設に関わった、ピタゴラス教団だ、テンプル騎士団だ、薔薇十字団だ、その他もろもろ)がありますが、共通の要素としては古の宗教の影響を受けていることと共に理性を重視することがあげられるでしょう。メイソン(石工)の仕事である建設には数学的知識とその活用が不可欠でしょう。また、その後フリーメイソンに加入してきたのは貴族などインテリ層が中心だったようです。つまり中世ヨーロッパにおいては少数派であった教育を受けた者たちがメンバーとなっていったのです。
そんな彼らが理性主義的傾向を持っていたとしても不思議はありません。フリーメイソンは特定の宗教のみを是とするのでなく、普遍的な人類の友愛を希求しています。しかし、さまざまな宗教を認めるなんてことがカソリック教会に受けが良いわけありません。そもそも、理性主義なんてのはキリスト教的世界では悪魔崇拝と紙一重、というか、場合によってはそのものと受け取られるようです。ドーキンスみたいに「神は妄想である」なんて断言しちゃうとどっかから弾が飛んでこないとも限らない。そんなところがフリーメイソンの秘密結社的イメージを作ったのでしょうか。
そんなフリーメイソンですが日本にもグランドロッジがあり、もちろん日本人が会員になっています。本部は東京タワーのすぐそば。秘密でもなんでもなく通りに面してフリーメイソンのシンボルを刻んだ石碑が置かれています。ご興味のある方はインターネットで検索してみてください。
2008年4月
世界中の国が実は困っているのに、日本は困っていない。アメリカなんぞは国内にあらゆる問題があふれて困っていて、しょうがないからイラクで戦争なんかしてる。中国も国内は問題があふれていてどうしようもないから日本にイチャモンを付けてくる。21世紀をリードするのは日本だ!
脱原爆、脱武器輸出、脱宗教、脱イデオロギー、経済第一、清潔第一、勤勉第一、平和第一、健康第一、少子高齢化、女尊男卑、助け合う、察しあう、子供はかわいい。日本はいいところだらけじゃないか、というわけです。最近怪しくなってるのもあるけど。
そもそも欧米が上だと思っているからまちがいのもとで、日本のほうが上だと気づけば、いろんなことが分かってくる。日本じゃつまらないイデオロギー論争なんぞはとっくに卒業しちゃった。で、必要なところだけ取り出して消化しちゃったと。欧米じゃまだ屁理屈並べてあーだこーだと言ってる。日本人はそんなレベルはとっくに超越しちゃった。
日本人の常識ってのは「神道+道教+仏教+儒教+景教+アカデミー教」さらに「国連教」なんだそうです。しかもそれを全部飲み込むのではなく、一度咀嚼して良いとこだけ取り入れている。これぞ世界に通用する普遍的思想ではないか、と日下さんは主張しています。なるほどね。こんだけいろいろ入ってりゃ、イデオロギー論争は起きませんからね。いくらこっちに理屈があるって言ったって、あっちにはあっちの理屈があるんです。だからいくら議論しても解決は無理。日本人以外はそれを理解していないと。
なんとも小気味の良い主張ではありませんか。
で、問題は日本人が日本は世界をリードする、独走・独創している国だという自覚が無いことなんだそうです。日本は世界一の債権国ですが、世界の常識は借りた金はなるべく返さない。世界の常識では民間の債権だろうが何だろうが、金を返さない奴のところには軍隊を差し向ける。でも、日本はこんなことやらない。民間の債権回収に国が手を貸してくれるなんてありえない。シベリアとかサハリンで大損してるでしょ。周辺国だって正しいかどうかなんて関係ない。儲かりそうな方に味方するだけ。で、日下さんの結論は日本流の「世界秩序」を作ろう。それがだめなら、日本も原爆を持とう。
さ、どうなりますか。
デュラン・れい子『一度も植民地になったことがない日本』講談社+α新書
著者のデュランさんは博報堂のコピーライターとして活躍した後、退社してスウェーデン人と結婚。スウェーデン、オランダ、ブラジルなどに在住したそうです。専業主婦に飽き足らず芸術活動も行い、英国国際版画ビエンナーレで銅賞を受賞したこともあるそうです。現在は南仏プロヴァンスに在住、欧米の芸術家を日本に紹介する仕事をしているそうです。
長く海外で暮らしてきた方ですから、主張していることも上記の日下さんとはだいぶ趣が違います。
とは言え、ご主人まで外国人という環境の中、懸命に日本人代表として日本のよさをヨーロッパに広めようと孤軍奮闘されてきたようです。日本人なぞ黄色いサルぐらいにしか思っていない人達を相手に日本の良さを宣伝してくれていたようです。ありがたいことではないですか。
デュランさんの発見した面白いエピソード。日本人の感性はヨーロッパ人、特にフランスと似ているそうです。両国とも女性的嗜好が強く、お土産品なんかも女性用はいっぱいあるのに、男性用は少ないんですって。フランスで男性用への贈り物、なんて探すとメイド・イン・イングランドになっちゃったりするんだそうです。で、日本と中国は同じアジアの国でありながら違うと。ここから先は書いてありませんが、中国ってアメリカに似てるんじゃないですかね。国民としてのアイデンティティーとか。中華思想なんて、世界中で何でもかんでもアメリカ流を押し通そうとするアメリカのやり方と似ていると思いません?
あと、日下さんとデュランさんが共に強調しているのが日本の漫画文化。中でもピカチュウ。ピカチュウが世界的にはやった原因のひとつは、ポケモンの戦いを描いていながら、絶対に誰も死なないことだって読んだ記憶があります。おまけに最後は手を取り合って仲良くなっちゃう。日本精神を体現しているのは漫画。日本文化があーだこーだと言うより漫画を題材にしたほうが日本人にも外人にも分かりやすい!のかな。
唐津一『日本のものづくりは世界一』PHP研究所
最近は、「え、こんな物まで」、と思うような物まで輸入されるようになっています。ハイテク、最先端商品もメイド・イン・チャイナとは表示されていませんが、実は中国で製造されている場合があります。こんなことがマスコミで大々的に取り上げられていますので、日本のドル箱であった製造業の将来は危ないのではないか、といった論調が見られます。これに対して唐津さんは真っ向から反論しています。「日本経済を築いたのはものづくりであり、日本は依然として製造業大国である」「中国、韓国に追い越されることは、少なくとも今後十年はありえない」。このことを唐津さんは数字を挙げて論証しています。
中国や韓国に行っても、工場に装備されている工作機械は日本製。で、工作機械などの付加価値は最終的な製品より利益率が高いそうです。経済産業省が発表している「工業統計表」の平成16年版によれば、自動車製造業の生産額が22兆円、付加価値率24%なのに対して自動車部品・附属品製造業の生産額は21兆円、付加価値率は何と31%。大企業が多い自動車会社に比べると中小企業も多い部品産業は地味ですが、部品作る方が儲かるんですって。今や日本は消費財ではなく、資本財を輸出するようになっているんです。資本財は輸入する側にとっても輸出・生産に必要ですから歓迎される。共存共栄の輸出。私の主張する共創社会を地で行っている話です。素晴らしい。
経歴を拝見すると唐津さんは長らく製造関係のお仕事をなってこられたようです。マスコミ、金融業など短薄軽小な産業には反感を持たれているようです。製造業はしっかりと付加価値を生み出しているからデフレだって怖くない。金融業界なんぞのように不動産を転がしてあぶく銭を儲けようとした奴らだけがデフレを怖がっているんだと述べています。う、耳が痛い。マスコミだって中途半端な知識で分かったようなことを書いて国民をミスリードしている。第一次石油ショックのときのトイレットペーパー騒ぎだって、引き起こしたのはマスコミではないにしろ、その後の報道は面白がって売り切れたトイレットペーパーの棚を映すだけで事態の沈静化への手を貸すことはありませんでした。
1993年から翌年へかけての米不足の際もマスコミは面白半分に米不足を煽るだけで、国内で米不足が起きたにもかかわらず融通してくれたタイに感謝する報道などありませんでした。米不足の原因の半分は買占めと売り惜しみでしょ。タイ米だってタイカレーとかチャーハンにすりゃ美味しいのに、そんなニュースが出始めたのはタイ米なんぞは不法投棄しちゃった後。そういや、結構前ですが、黄色いダイヤとか言って、数の子が買い占められたことがありましたよね。で、すったもんだの挙句、数の子が安くなっても売れなくなっちゃった。今回の米騒動だって、日本人の米離れを加速する役にしか立ってないんじゃないですかね。将来的に日本の農業をどうするかとか、食料調達をどうするかなんて視点は無し。そしてマスコミの最大の欠点は責任を取らないこと。お役人と同じだわ。
国民をミスリードし続けてきたマスコミはインターネットの発達で製造業より先に地盤沈下を起こしてしまうのではないか、というのが唐津さんの予言です。結構本当かも。
日本の製造業は世界を相手に商売をして成功してきました。日本の金融界も、マスコミも、お役人も世界を相手に戦ったことは無いか、戦ったことはあってもやられちゃったことしかありません。やっぱ、本当に成功した人と経験を共有しなくちゃ。
高杉良さんは経済小説の第一人者です。高杉さんの小説では「村の論理」を振りかざす大企業に所属しながら正義を貫く「熱い」男たちが取り上げら得れています。そんな高杉さんが「企業と社会、そして社会はどうあるべきなのか?」という問いに答えるために書かれたのが本書です。
高杉さんは小泉・竹中改革路線に警鐘を鳴らし続けてきました。「私は小説を書きながら、企業と社会、そして国のあり方にも、折にふれて筆を執ってきた。特に小泉政権が誕生してからは、私は批判の矛先をこの政権に向けてきた。なぜなら、小泉首相の「構造改革」には、国家や社会、そして、国民に対する愛情というものがまったく感じられなかったからだ。この状態は、安部政権になっても変わらず、福田政権にも継承されている。はっきり言おう。いまの政治には国民に対する愛情がない。このままでは、日本は亡国の一途をたどるのみだ」。ほんとにそうですね。国民には国を愛せと要求する割りに、国や為政者は国民なんぞ愛してはいない。
本書の中で高杉さんは『現代』2002年12月号に発表した「竹中大臣を即刻クビにしろ」、2003年11月号に発表した「竹中平蔵留任は亡国の選択である」、2006年2月号に発表した「小泉・竹中『亡国コンビ』への退場勧告」という3本の論文を再収録しています。発表時期が長期に亘っているということはそれだけ長く小泉・竹中構造改革が続いたことを示しています。高杉さんの言っていることは終始一貫していますが、小泉・竹中構造改革によって長きに亘って痛めつけられてきた日本は受けたダメージを克服できるのでしょうか。
今月は何冊か今の日本はどっかおかしくはないか?というテーマの作品をご紹介してきました。著者の皆さんが共通して取り上げているのは、経済原理主義・拝金主義が幅を利かせすぎていること、社会的リーダーたちの腐敗、日本の良さが日本人にきちんと評価されず、いたずらに拝米主義がはびこっていること、ものづくりの伝統が失われる寸前であること、などです。あと、日本のマスメディアをこき下ろしているのも共通しています。
今や日本の昔の気風が残っているのはアングラで政府の支配が及ばなかったオタク文化だけじゃありませんか。そうか、オタク気質ってのは昔の職人気質だったんだ!そういや、仲間内だけの符丁を使うとか、物(職人だと道具ですね)をものすごく大事にするとか、細部へのこだわり、なんて共通していますよね。
日本復活のため、高杉さんは「このまま私たちは、「拝金主義」にまみれ、大切なものを失ったまま生きていくしかないのか?日本は「ものづくり国家」の原点に戻り、それを支えるモラルや倫理を一刻も早く取り戻すべきではないのか」と提唱しています。そうだ、私も明日からオタクになろう!って高杉さんはそんなこと言ってないか。
2008年3月
水木しげる『水木しげるのラバウル戦記』ちくま文庫
ゲゲゲの鬼太郎の原作者として名高い水木さんは赤紙で召集を受け、二等兵として殴られ続け、マラリアに罹患、さらには左腕を失うという経験をしました。本書は中断を挟みながら書き続けられたその体験談を一冊にまとめたものです。華やかな戦記物とは違った、地べたを這いつくばるようにして見た戦争体験談です。
私には耐え切れないであろう軍隊生活(きっと古参兵に目をつけられ目つきが悪いとか難癖をつけられて殴られたあげく爆弾の直撃を受けて死んだか、その前に精神に異常を来たして廃人になったかしたんじゃないでしょうか)ですが、水木さんは殴られながらもなんとか(しかも楽しく!)生き抜くことが出来ました。懲りない兵隊だったのかバカな兵隊だったのか。根本的に軍隊とか戦争に無関心だったのでしょう。それが良かったんでしょうか。軍人精神なんてもんをまともに体現していたらすぐに死んじゃいますよね。
水木さんは現地人を土人と呼んでいます。でも、文字通り土とともに暮らしている“土の人”という尊敬の意味で使っているそうです。悪くないですよね。なんだか知らないけど土人とはすぐに仲良しになっちゃったみたいですよ。畑まで作ってもらったって。日本に帰ることが決まったときにはみんなでラバウルに残れと説得されたそうです。後ろ髪を引かれる思いで帰朝、再訪したのは23年後だったそうです。でも、昔出会った土人たちに出会えたそうですし、その後も度々訪れているそうです。
本書には戦争中(戦場で)描いたものから戦後しばらく経ってから描いた絵まで掲載されています。まあ、本職ですから当然かもしれませんが、水木さんはものすごく絵が上手です。ただ、水木さんの絵を見ていると、不思議なほど音が聞こえてきません。特に鉛筆(多分)で描いたデッサンは、静寂を通り越して、何か不思議な音の無い世界から切り取ってきたように全く音の気配がしません。どうしてなのでしょうか。
そう言えば、確か「博士の異常な愛情」という映画のエンディングで原爆だか水爆だかのきのこ雲の映像をバックに音楽が流れている場面がありました。爆発音は一切なし。それがその場面の持つ悲しさ、悲惨さを際立たせていました。水木さんの絵の場合、音楽もなし。水木さんが交流していた土人たちをスケッチした絵も、その暖かい交流を考えればもっと楽しかるべきものですが、同じような静寂、寂寥感に包まれています。やはり水木さんは妖怪の世界とかあっち側の世界を見ちゃった人なのでしょうか。
ところで、最近描いたのであろう水木さんの絵を見ていると、自分自身をあのねずみ男そっくりに描いているのが分かります。いつも損得ばかり考えているくせに要領が悪くて、人を陥れているばかりなのに憎めないあのねずみ男は水木さんの分身なのかもしれませんね。
佐藤さんは1930年生まれですから、年代的には戦争に行かずに済んだぎりぎりの世代でしょう。しかし、生まれたときから軍国教育を受けて育ったはずです。佐藤さん自身は少年兵に志願しましたので、わずか3ヶ月ですが軍隊生活の片鱗も体験されたようです。
佐藤さんは冒頭で面白い例を引いて戦争当時の日本人の心象風景を描いています。それは、「日本文学に精通しているあるアメリカ人が、戦争中には日本人は天皇を神と信じていた」と書いたことに対して「これを読んだある日本の作家が、そんなことはない、誰もそんなことを本気で信じてなどいなかった、と反論した」のだそうです。この議論、片方が正しければもう一方は間違っているはずですが、どうもそうじゃないだろう、というのが佐藤さんの見方です。確かに天皇だって人間じゃないか、とは思っても、建前として神であることは間違いありません。そんな天皇も人間であり、飯も食えば糞もするんだ、なんていったら冗談抜きで監獄行き、どころかそれより前にそれを聞いた周りの連中にリンチにされてもおかしくは無かったでしょう。本当に信じているのか、と聞いても、もちろん心の底から信じております、という答えしか口には出来ません。なんたって、ご真影を見ただけで怒られた時代ですよ。皇室関係の話題が出ただけで、その場で直立不動の姿勢をとって首をちょっと前に傾けなければいけなかったのだそうです。で、言ったことは本当になりますので、天皇万歳と叫んで特攻機で突っ込んで行ったと。
本書には戦前戦中の教科書の分析、武勇伝の取り上げ方の変遷なども取り上げられています。戦中の教科書の題材に良く使われた武勇伝の中に、爆弾三勇士というものがあります。3人の兵隊が鉄条網を爆破するため体に爆弾を巻きつけ、自分の体もろとも突っ込み、命と引き換えに血路を切り開いた、というお話です。この話、新聞にも大きく取り上げられ、義捐金などもガンガン集まったそうです。ところが、この話、当時は軍でもなんか違うんじゃないかと思われていたのだそうです。鉄条網を爆破するだけのために肉弾攻撃をするというのはいくらなんでもおかしい。普通は棒の先に爆薬をつけ、鉄条網の下にセットして兵隊は逃げた後にドカン、とやるのだそうです。つまり、三勇士ではなく、何らかの事情で爆弾が早く爆発して逃げ遅れたんじゃないか、と。だとすれば事故。でも事故だなんていうと、誰かが責任を取らなきゃいけなくなってしまいます。で、誤魔化しているうちに三勇士のお話はどんどん大きくなっていってしまい、結局取り消せなくなっちゃうわけです。
そのとき時代の空気を煽ったのはマスコミ。マスコミが何で大騒ぎしたのかというと、大衆に迎合したから。で、兵隊は死ななきゃいけないとなっちゃうわけです。先に紹介した水木さんの本でも、敵の攻撃を受けだ部隊が全滅、九死に一生を得て生還した水木さんは将校から、みんな玉砕しているのに何でお前だけ生きているんだ、死んでしまえ、みたいなことを言われたそうです。最初は言葉の問題だったのに、それが本当になっちゃう。決死の覚悟で頑張っているはずなのに、死ななきゃそれを証明できなくなってしまうんです。生きて帰ったらお前頑張っていなかったと言われちゃうんです。
佐藤さんは「日本の軍国主義を成り立たせた条件」は、「他人の愛国心、忠誠心を覗き見し、監視するということに病的なまでの喜びを感じていた人たちがいたということです」としています。こういう人たちが少数派であれば何とかなったのかもしれませんが、草の根の軍国主義ですから、そこらじゅうにプチ・ナショナリストがいたわけです。そういう人たちが時代の空気に乗っかった言葉を金科玉条のごとく振りかざしてたわけです。これじゃ誰も文句が言えない。
日本国民なんだから国を愛そう、国旗や国歌に尊敬を払おう、という言葉は正論かもしれません。でもそれが行き過ぎちゃって君が代を歌うときに起立しなかった教師の名前を報告させていた教育委員会もあったそうですね。その次は君が代を歌うときに大きな声で歌わなかった、その次は日の丸に対して最敬礼しなかったやつは非国民だ、ってなるんでしょうか。
戦前だって誰もそんな世の中になることを期待していたわけではないでしょう。ところが皆の言うことに流されているうちにどうにも身動きが取れなくなってしまったのです。きちんとした議論もしないで、なんとなく空気に流されていく、という日本人の感性は今も変わっていないのではないでしょうか。若い人たちもKYなんて言ってるし。悲惨な時代を再度招かないためにも、ただ単に空気に流されるのではなく、時代の空気に異論を唱え、正面から言葉を使って議論していくことも必要なのではないでしょうか。
佐藤さんの現在の本職は映画評論家です。長年日本の映画をアジアに、そしてアジアの映画を日本に紹介することに尽力してきたそうです。本書の最後に記憶に残る作品のいくつかに触れておられます。佐藤さんの書いていることを読むと、ぜひその作品を見たくなってしまいました。
「光、新たに」フィリピン、「運動靴と赤い金魚」イラン、「生きるために」イラン、「廣島廿八」香港、「無神論者」インドネシア、「晩鐘」中国、「少年義勇兵」タイ、「鬼が来た!」中国、「梅花」台湾
某出版社がスッタモンダのあげく出版を取りやめたことで話題となった『プリンセス・マサコ』の日本語版、今般違う出版社から出版される運びとなりました。ということで読んでみましたが、あまり衝撃的ではなかったですよ。フーンって程度。こんな地球のケツで出版されたマイナー本に難癖付けたりするから余計話題になっちゃったんじゃないですか。じゃなきゃ、私だって買いませんよ。
不敬だ何だって問題にされているようですが、本書において名指しで批判されているのは宮内庁とその職員(時に実名まで上げられています)です。そういえば宮内庁を含む官庁職員が都合の悪いWikipediaの記述を書き換えていたって報道がありました。書かれること自体がいやなんですかね。ま、日本人は批判を含む意見のやり取りには慣れていませんからね。違う、なんて言われちゃうと、すぐ「何だ、貴様!」ってなって手まで出ちゃう人って多いですもんね。
宮内庁は伝統にこだわっているみたいですが、天皇家(天皇制度)の伝統はここ150年ほどの間にも、明治維新と戦後のGHQ支配と二度に渡り大きく変質しています。伝統ったって大した歴史もないではありませんか。これからの日本のためにどのような天皇制度がふさわしいのか考えなくてはならないのに、小役人根性(宮内庁職員はやんごとないご出身の方が多いそうですが)を丸出しにして前例だの格式だのに拘るのはいささか滑稽だと思いますがいかがでしょうか。
宮内庁の抗議では皇室の方々は熱心にレプロシー・ミッション(ハンセン病問題)に取り組んでいらしたとしています。事実です。でも、明仁天皇陛下がサイパン島で韓国人慰霊塔を参拝したとき、天皇陛下の強いご意思で実現したそうですが、宮内庁はその影響を抑えるのに必死だったような印象を持っていますがいかがでしょうか。また、国旗・国歌に対する米長邦雄に対する明仁天皇陛下の発言とか、昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示したとかの問題などが明らかになったときも、天皇が実際の政治にかかわることはないとか何とか言って、延焼を防ぐのに必死だったではないですか。
ちなみに本書に対する外務省の抗議も紹介しておきましょう。
本書そのものはヒルズさんがジャーナリストの本領を生かして、雅子妃を知る多数の関係者からの聞き取り調査を基に書かれています。その他、ご成婚当時にはあらゆるメディアにこれでもかと書かれていた儀式の次第などが事細かに書かれていますが、私はこういったものに全く興味がありませんでしたので、知らないことばかりでした。
その中から傑作なエピソードをひとつ。6回も開かれたご成婚の祝賀会に、日本のセレブとして当然呼ばれるはずの相撲の横綱が呼ばれませんでした。なぜか。皇太子成婚直前の秋篠宮の祝宴で、元横綱の千代の富士が自分の前に置かれた鯛を食べるという大失態を犯したのだそうです。で、皇太子後成婚の祝賀会にはお相撲さんは呼ばれなかったんだそうです。鯛は引き出物ですので、持ち帰らなくてはいけないのです。そんなことも知らなかったのか、相撲協会は厳しい処分を下したのか、って知るわけないよなそんなこと。
雅子妃が結婚の前年のクリスマスに家族に送ったカードの文面を紹介しておきましょう。
「お父様、お母様
今年一年は本当に随分と御心配おかけしました。お蔭様で私も十分に考えた結果、新しい人生の一歩を踏み出す決心をすることができました。こうして皆でクリスマスや年の暮れをお祝いできるのもこれで最後かもしれないけれど、今思うことは、こんなに温かい家庭でずっと幸せに育てて頂いて本当に有難うということです。これから暫くまた大変になると思いますが、どうぞ宜しくね。最後に、一杯の幸せをお祈りして。」
幸せ一杯の結婚を夢見ている若い女性の手紙ではなく、まるで特攻隊員の出陣の前の手紙みたいな悲壮な覚悟が感じられます。
博覧強記の博物学者、幻想小説家などさまざまな肩書きを持つ荒俣さんが20世紀もおしまいの頃、20世紀を回顧するために逆に19世紀から見た20世紀がどのようなものであったかを振り返ることにより20世紀とは何であったのかを総括しているのが本書です。そして結論しています。「「未来」という名の幻想は二十世紀にしか存在しなかった」と。
19世紀の後半、博覧会などが盛んに開催されていました。江戸幕府・新生明治政府も盛んに出品、日本の名を世界に知らしめようと躍起になっていました。そこには夢のような新発明が展示されていました。万博(Expo)としては第一回とも言われる1867年パリ万博を開催したのが以前ご紹介したナポレオン3世です。
また、19世紀というのは産業革命も軌道に乗り、それまで夢だと思われていた発明が次々と実現していた時代でもあります(『創造の魔術師』にまともなのからどう考えても変な19世紀の最新発明が図説されています)。発明や発見の恩恵が一般庶民にも理解できる形で提供され始めた時期でもあります。その延長線上に考えられた20世紀は当然バラ色の生活が実現するものと皆が期待していました。
もっとも、未来の予測はバラ色のものばかりとは限りません。19世紀半ばに20世紀の戦争では細菌兵器や毒ガス兵器の登場が予想され、さらにその後遺症や新しい疫病の発生も予想されています。公害や環境破壊も予想されています。でも、未来への羨望はなくならなかった。
それから1世紀経った20世紀末はどうだったでしょうか。ノストラダムスの予言がはやり、そうでなくとも、21世紀になったからといって特段の進歩が見込まれるわけでもなく、むしろ環境の悪化などで生活レベルが落ちるかもしれないなどという予言とも予測とも付かないものが巷間に流布しだしました。アメリカではすでにそれが現実のものになりつつあり、ベビーブーマー世代の子孫たちは親の世代の平均的生活レベルより低下する、そして現実に低下しているといわれています。もちろんお金持ちは別ですよ。お金持ちはいつでも楽しい。
本書が書かれたバックグラウンドは上記のようなものですが、本書で紹介されている発明とかアイデアには、その後実現しているもの、さらに進歩しているもの、実現しなかったものなどさまざまです。カバーされている領域も、いわゆる発明といって思い浮かべる機械の類ばかりではなく、健康とか美食、あるいはセクシュアルな方面にまで及びます。博覧強記の荒俣さんがそれにあらゆる方面からの薀蓄を傾けて解説しています。面白くないわけないでしょ。
2008年2月
池田晶子『人間自身 考えることに終わりなく』新潮社
著者の池田さんは1960年生まれですから私と同年齢ですが、2007年2月ガンで逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
普段私が読む本とはかなり趣が違いますので池田さんの著書を読むのはこれが初めてでした。池田さんのエッセイの特徴は衒学的(学者ぶって見えるってことですよ)な哲学用語を使わず日常の言葉で哲学を語るところにあるそうです。
のっけから「自殺のすすめ」なんていう刺激的な題名のエッセイが載っています。昨今の青少年の引き起こしたわけの分からない殺人事件に触れた後でこう書いています。「人を殺したくなったら、自分が死ね。それが順序だというものだと。」確かにそのとおり。でもねえ、人をいびり殺しちゃってもなんとも思わない奴は自殺なんてしないんですよね。ノモンハンから生きて帰ってきた将校に自決用のピストルを渡した辻正信みたいに。
ご自分については、「私には、本質的にしかものが考えられないという、どうしようもない癖がある」と書かれています。いや、さすが哲学者。私なんか本質とは程遠い妄想しか浮かばないですよ。池田さんの本を読んでも、この人美人だな、とか変な妄想が浮かんできちゃう。帯に写真が載っていますが、きれいな方ですね。若いころはJJの読者モデルまでやったとか。才色兼備。天は二物を与えたんですね。少しは分けて欲しい。と、ここまで書いて自分でも恥ずかしくなっちゃった。
池田さんにとって哲学とは何なのでしょうか。哲学とは「考える」こと。「考えることが哲学なのだ。何を考えるのかと言えば、決まっている。現実を考えるのだと。」現実について考えて考えて考え抜く。池田さん一人でいても全然退屈しなかったんじゃないですかね。考えてさえいれば楽しい。
私の専門であるコンプライアンスについても面白いことを言っています。「警官が、泥棒した。教師が、売春した。」こんなニュースに誰も驚かなくなりました。池田さんは、これは倫理意識の喪失ではないと喝破しています。「やっていいことと悪いことのけじめを教え、取り締まる立場の人に、やっていいことと悪いことのけじめが、わからない。まさにこのことがやっていいことと悪いことのけじめが、道徳や法律ではあり得ないことを示している。」法律は個々の行動(窃盗とか売春)をしてはいけないとは言っていますが、それが悪いことだとは言っていません。法律は倫理的善悪を決めるものではないからです。そして、道徳や法律は外在的なものだから忘れちゃえるんです。倫理や善悪の問題とは内在的なものであり、徹底的に自分に対して問いかけ、自分で考えることによってしか解決されないのだと言っています。ここでも問題になるのは考えること、考え抜くことです。
でも、本質を考え抜く、なんてことを実践している人は哲学者くらいでしょう。普通の人は誰か頭のいい人が考えたことを鵜呑みにして信じるだけ。自分で考えたことがないから自分で考えろ、と言われても、じゃ、どうすればいいんですか、なんて質問が返ってきちゃう。自分で考えたことがないから、お前が信じていることは違う、なんて言われると「貴様**をバカにするのか」なんて怒っちゃう。あ、**のところは適宜補ってください。何でも当てはまるんじゃないですか。
日本には「信ずるものは救われる」ってのがもろに当てはまる気がします。信じない奴は非国民だってね。でもね、ひたすら信じて付いて行っちゃったら変なとこに行っちゃいますよ。信ずるもの、ではなくて自分で考えるものが救われるってのが本当なんじゃないでしょうか。
皆さんもたまには考える体験をして見ませんか。
「あやしげな外国人」いや「三国人」か?が書いた愛国心のあり方です。
姜さんはご存知のとおり日本で生まれ、日本語で教育を受けてきた在日韓国人の政治学者です。私の母校であるICUでも教鞭を取られました。現在は東京大学社会情報研究所の教授です。やっぱICUより東大の方が上か。くそ。
それはさておき、数年前姜さんは公開講座のあと「姜さん、姜さんは日本が好きですか。日本を愛していらっしゃいますか」という質問を受け、一瞬言葉を失ったそうです。質問自体は「あやしげな外国人」発言のように悪意のあるものではなかったようですが、別の意味で考えさせられるものがあったようです。
姜さんは「好きも嫌いもありません。愛するも愛さないもありません。わたしは日本という国で生まれ、日本語と言う母語で育ち、その言語で感じたことや考えたことを表現してきました。その意味では、日本という国の言葉と文化、その風土は私にとって運命のようなものです」。
「でも、いったい日本という国を愛するとはどういうことだとお考えですか。そもそも愛するとはどういうことで、その対象である国とは何を指しているのでしょうか。その国とは、統治機構としての国なのでしょうか。それとも、国民的共同体を指しているのでしょうか。また、国という場合、それは憲法で規定する立憲的な体制としての国なのでしょうか、あるいは国土や伝統、文化の歴史的な統一体としての国なのでしょうか」という疑問形で答えたそうです。
この問いかけから始まり、本書ではなぜいま「愛国」なのか、国家とは何か、日本という「国格」、愛国の作法と整然たる議論が繰り広げられていきます。
姜さんは政治学者ですから、こんな議論が出来る相手としか話さないのかもしれません。うらやましいなー。そこらのライト・ウィングにこんな話したら、間違いなく殴られちゃいますよ。「なんだ、テメーそんなことも分からないのか」って。本当に分かってんのかいな?姜さん気をつけてくださいね。
愛国とか愛国心と言うと一瞬で思考停止になるのはごめんです。国を愛するとは国のすることに盲従することではないはずです。でも、美しい国の国民に求められているのは絶対の服従。文句あっか?
そういえば、ソ連時代に政府を批判したとしてついに国外追放になったソルジェニィーツィンがアメリカにかくまわれた後アメリカを批判したとき、アメリカ人たちには何でソ連を批判していた人間がアメリカに文句をつけるのか分からず、「あいつとんでもない」なんて議論が沸き起こりました。ソルジェニィーツィンがロシアを愛すればこそソ連を批判した愛国者だってことが分からなかったんですね。どこでも一緒だわ。
浅薄な議論に惑わされないようご一読をおすすめします。
片山さんは幼いころから右よりだそうです。「私は幼いころ、右が好きだった。右か左か、どちらかを選べと言われたら、右を選んだ。曲がり角ではいつも右に行きたくなった」。「本来左利きだったものを右利きに矯正され、右をよいものだと必死に思おうとした結果だったのかもしれない」ですって。バリバリの右翼だわ。
冒頭で片山さんは左翼と右翼の思想の特徴を簡単に要約しています。左翼とは、「過去にも現在にも存在しないのだけれど、そのようにしたほうが過去や現在よりも必ず桁違いによくなると信じられる未来の理想図に賭ける。そういう空中楼閣のような、まだつかめていないものに立脚して、現在を変えようとする勢力」なのだそうです。
これに対して右翼は、「失われた過去に立脚して現在に意義を申し立てる」のが第一義となるのだそうです。ただし、日本の右翼はここからやや複雑な経路を辿って、現在お馴染みの右翼になるのだそうです。それは、「日本近代の右翼の思想史には、まず現在をいやだと思って過去に惹かれ、過去に分け入ってその果てに天皇を見いだし、その天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずはないのではないかと思い直し、ついには天皇がいつも現前している今このときはつねに素晴らしいと感じるようになり、現在ありのままを絶対化して、常識的な漸進主義すら現在を改変しようとするものだからと認められなくなり、現在に密着して、そこで思想が停止する」ものなのだそうです。思考停止ってのは右翼の思想を良く表していますよね。
永遠の未来に理想を求める左翼と、過去と現在の無条件の肯定から生まれる右翼。ま、水と油ですね。でも、右翼も2・26事件とか5・15事件なんてのを起こしてますよね。天皇が間違っている場合は命に賭けて正さなくてはいけない、なんて考え方もあったはずです。天皇は無謬のはずですけどね。まあ、左翼だってひとたび革命を成してしまえば、あとは無条件の現状肯定に陥ることはソ連とか中国を見ていても感じますよね。
右翼も左翼も理論的に一枚板、金太郎飴ではないわけですから、いろいろな考え方があるのでしょう。まあ、色んな思想家が他と差別化するために色んなことを言うわけですね。違ってるって言わないとその他大勢になっちゃいますからね。ですから右翼思想も左翼思想もある程度の幅があるのでしょう。で、幅があるもんだから重なっちゃう部分もあると。本書でも、「贅沢品を身につけたり、ちょっとした気障な身のこなしを指して、「ブルジョワ的だ」」とマルクス主義者はなじり、「同じことを「この非常時に非国民め」」とファシストは叱りつけるって言ってますね。結局どっちもどっちじゃん。
本書は代表的とされる右翼思想家を取り上げ、その思想に解説を加えています。基本的には片山さんが過去に発表した論文が基になっています。従って文章は学問的厳密さをもって書かれています。読んでいて結構疲れました。
塩野七生『ローマから日本が見える』集英社インターナショナル
ご存知塩野さんが書かれたローマ物です。15巻にもわたる『ローマ人の物語』を読み通すのは限りなく苦行に近いものがありますので、コンパクトにまとめられた本書でローマの歴史を概観してみるのも悪くないでしょう。さらに本書ではローマ帝国を通して見る日本というテーマに沿った文章も収録されていますので、現代日本とのアナロジーを通してローマの歴史とか制度が容易に理解できるのではないでしょうか。
ローマ帝国といえば思い出すのがそのプラグマティックな精神です。超現実主義。彼らだってもちろん信じていた主義主張も信仰もあるのでしょうが、ローマ帝国を統治する、という命題の下では民族の違い、文化の違い、宗教の違いなどすべてを飲み込んでしまう度量を持っていました。
また、そのプラグマティックな精神が遺憾なく発揮されたのが建築分野でしょう。今でもイタリアにはコロセウムなど2000年前の建築物がそこら辺に普通に見られますし、水道橋などのインフラ施設に至っては近年まで実用に供されていたものまであるそうです。2000年も使われているインフラなんてまるで……、って他にはまったく思いつかないではありませんか。ピラミッドとかパルテノン神殿といったモニュメントみたいなものなら思いつきますが、
2000年も使われ続けたインフラ設備ってのは空前絶後じゃないでしょうか。最近の水道管とかガス管なんて作られてから100年も経たないうちにどこに埋めたか分からなくなったり、老朽化して壊れちゃったりしてますからね。進歩してないなあ。
ローマ帝国が拡大し、それを維持し続けることができたのは、周辺諸国をまず軍事的に屈服させた上でローマへの同化政策を行ったことにあるそうです。同化政策といってもローマ風の風俗習慣を押し付けるのではなく、街道の整備(今で言えば鉄道かハイウェイでしょうか)とか水道の整備などなどを通じて地域経済を発展させる、といった方法が採られていたそうです。ジョセフ・ナイが言うところのソフトパワーってやつでしょうか。
まあ、そのローマ帝国ですら最後は肥大した巨体を持て余し、崩れ落ちていくことになるわけですが。でも、紀元前8世紀といわれる王政ローマの成立(紀元前753年?)から数えると西ローマ帝国の滅亡(476年)まででも1200年以上、東ローマ帝国の滅亡(1453年)まで入れると2200年もの期間、命脈を保ち続けました。秋の夜長に悠久の歴史に思いをはせてみるのも一興ではないでしょうか。
おごれる平家は久しからず。
2008年1月
田中和彦『あなたが年収1000万円稼げない理由。』幻冬舎新書
思い切り「余計なお世話だ」と思ったあなた、あなたは正しい。
本書は「人材開発会社」とも言われているリクルートからスピンアウトし、現在は“今までに二万人以上の面接を行ってきた転職コラムニスト”兼映画プロデューサーの田中さんによって書かれました。ただし、本書は「この本はただ単に年収1000万円を稼ぐためのノウハウを紹介するものではないし、この本を読んだからといって、あなたの年収がすぐに1000万円になるわけではない」と描かれています。じゃ、何なんだ。
「年収1000万円という、ある種のメルクマールを掲げ、それにかなうだけの能力やスキルを身につけた、希少かつ貴重な人材になるための「キャリア・デザインの方法を紹介する本」であることを、覚えておいて欲しい」だって。
本書では希少なスキルを身につけて華麗なる転職を遂げた方々が紹介されています。転職で悲惨な下降スパイラルに陥ってしまった方の例も少数ながら紹介されています。その差はどこから生まれるのでしょうか。確かに、自分に自信を持つあまり自意識過剰になって失敗する例もあるでしょう。でも、転職の失敗って転職してみたら、「あれ、こんなはずじゃなかった」ってのがほとんどなんじゃないですかね。どんな会社だって入ってみなけりゃ分からないことがいっぱいありますよ。「あなたの能力がぜひ欲しい」なんて言われて転職したものの、行ってみたらあっちが期待してたこととこっちが出来ることが全然違った、なんて例はいくらでもあるって。転職歴7回の私が言うんだから間違いない。
大体、希少な人間って書いてあるじゃないですか。稀で少ない。みんなが稀で少ない人間になれるわけないじゃないですか。なぜ希少なのか。要するに世間に需要がないってことですよ。確かに、次はこれだって先行投資の出来る目先の利く方もいらっしゃることでしょう。本書の著者の田中さんとか。でもそれはアントレプレナーの能力であってサラリーマンの能力じゃないですよ。誰もが第二の江副浩正になれるわけじゃないって。
転職が成功するかどうかなんて、ほとんど「運」。うまく行かなくても運が悪かった、くらいに思わなきゃやって行けないですよ。だから、うまく行ったからって、威張っちゃだめですよ。
サラリーマンなんて会社の歯車、誰でも出来る仕事をしているだけなんですよね、結局。オレ様がこの会社を支えている、なんて思ったら大間違いのコンコンチキ。サラリーマンなんて給料の半分は我慢代だって独立して開業した税理士の先輩が言ってました。
本書には異論もあるものの、履歴書を常に更新しておけとか私も実践しているテクニックも多く紹介されています。現状に不満なあなた、ざっと目を通してみるだけでも役に立つフレーズがあるかもしれませんよ
新井千暁『職場はなぜ壊れるのか』ちくま新書
サラリーマンの給料の半分は我慢代だって言いましたけど、あんまり我慢し続けるとそれだけで人間壊れちゃうという恐ろしいお話です。
「いま日本の労働社会で奇妙な現象が起きている。うつ病などを中心に、働きながら心の病になる人が着実に増えているのだ。労災認定者も増えていることからそれは隠しようのない事実なのだが、安全衛生の世界で用いられるハインリッヒの法則に照らし合わせれば、その実数や予備軍はかなりの数にのぼるはずである。」
著者である新井さん自身も医者として活躍しながらあまりの長時間労働に危うく燃え尽きる寸前まで行ったそうです。「幸いにも壊れてしまったわけではなさそうなので申しますが、人というものは仕事が強いられている、いないにかかわらず過剰な長時間労働をしていれば、ただそれだけで崩れるようなのです。現代は医師も過労死し、過労自殺をする時代になりました。2005年6月20日の新聞各紙の報道によれば、基幹病院にいる研修医も指導医も2割がうつ状態にあるといいます。」
なんでこんな事態になったのか。新井さんは「成果主義・能力主義・自律労働論などを現代に浮上してきた問題を縦糸に置き、横糸として旧来からある職場の阻害因子を並べて」この問題を解き明かしています。
成果主義については私も論文「業績評価と報酬―財務的指標を超えて」において議論いたしましたのでここでは繰り返しませんが、日本の経営者たちはこれだけ問題点が指摘されているにもかかわらずどうしてホワイトカラー・エグゼンプションとか言えるんでしょうか。自分が過労死するまで働かなきゃ分かんないんですかね。それとも過労死するようなヤワな人間には社長は務まらないってことでしょうか。そう思っているのであれば、経営者の労働時間は配下労働者の平均労働時間の二倍を下回ってはいけない、とか決めてくんないとね。
最近でこそワーク・ライフ・バランスなんてことがやっと聞かれるようになりましたが、やっていることと言っていることが全く違うのが世の常。転職しちゃうのもひとつの手でしょう。転職に際して参考にするのは上で紹介した田中さんの本でしょうが、ぜひ下記高田純次さんの本もご一読下さい。目の前がパッと開けるかも知れませんよ。
ご存知適当男、高田純次さんの本です。私も大好きです。当意即妙にいい加減かつ適当な受け答えする職人芸とさえ思える話芸には思わず笑っちゃいますよね。もっとも、本書はテレビなどでもおなじみの精神医学者和田秀樹さんとの対談、過去の発言や出版物の分析などに多くのページが割かれていますので、本人が書いているのはごく一部分です。ま、どっちでもいいんだけど。
高田さんは若いころサラリーマンも経験したことがあるそうです。確か宝石屋さん。宝石の鑑定士の資格も持っているはずです。結構真面目に働いてたそうです。ところが、5年ほどの宮仕えのあと、女房子供が居るのに劇団に入っちゃった。奥さんも働いていたらしいですが、自分も肉体労働のアルバイトでちゃんとカネを稼いでいたそうです。エライ。
でも、そういうことを自慢しないところが人気の秘訣でしょうか。きっと苦労話をまともに聞こうとしても、例のいい加減かつ適当な話術で煙に巻かれちゃうんでしょうね。大体他のところで、「気分が変われば転職もある。「普通の人」だから、会社にとってはそれほどのタマであるわけがない。だったら、一生同じ会社に縛り付けておくこともない」とか「仕事をして金をもらうのは当たり前。いかに仕事をしないで金をもらうかがサラリーマンの真骨頂」なんて言ってますからね。
でも、サラリーマンなんて所詮は組織の中の歯車ですからね。歯車の仕事なんて、大体誰だって出来るんですよ。だから会社から見れば私やあなたのやっている仕事なんて大して評価していないんですよ、私たちが自分で思っているほど。
じゃどうやって会社で存在感を主張するか。どうやったら人は付いてくるのか。
高田さんが考えた人に嫌われる三原則は、
(1)
威張っている
(2)
説教をする
(3)
自分で絶対に金を払わない
なんだそうです。確かにそのとおりだわ。で、その逆をやれば部下や後輩は付いてくる。これが高田さんの生き方なんでしょう。「おごってくれる人だけはいい人」なんて言ってます。最近じゃデートも割り勘なんだって。少しはカッコつけろって。
でもねえ、天職なんて簡単に見つからないですよ普通。私なんか何べんも転職してるもん。で、そんなときはどうすればいいか。「まあ何でもやればいいし、やっていることを天職だって思い込むことも重要だと思うよ。その仕事がだめだったら、また次の仕事を天職だと思い込めばいいんだから。何でも思い込みだって」ですって。思い込みが激しすぎるのも良くないけど、あまりに簡単に諦めちゃうのも良くない。私も転職を重ねてきましたが、ひとつだけずっと守り続けてきたことがあります。それはどんな職場でも、どんな仕事でもそこで手に入れられるものは知識にしろ人脈にしろ最大限吸収すること、です。さ、今度の仕事は私にとって天職でしょうか。
「「Iの母親は主婦売春をしています」と画像つきでばらまかれる嘘メール」
「「汚い」と言われ続けて毎日必死に身体を洗う子どもの自己臭恐怖」
「「退屈だから」といじめをエスカレートさせていく集団ヒステリー」
こんなことが身の回りに起こったらどうすれば良いのでしょうか。
本書は東京都児童相談センター心理司として実際に活動しておられる山脇さんが書かれた本です。もし私の子どもに上に書かれたようないじめが起きたら、何が何でもいじめの加害者と学校の責任追及をしたくなりますが、山脇さんは責任追及といじめの解決は別の問題だとしています。責任追及を始めてしまえば、解決には取り組めなくなってしまうからです。
現在のいじめはクラスで被害者は一人、その他全員が加害者(積極的かどうかは別にして)という構造をとるそうです。いじめに参加しなければ許されない。参加しない場合は被害者が二人になるのではなく、その子だけが被害者になってしまうのです。裏切り者を許さない。どこかで聞いたような話だと思いませんか?山脇さんはこれを現代のいじめとしていますが、これって戦争中の隣組の構造そのものじゃないですか。みんなの言うことを聞かなければ非国民。非国民だから何をしても許される。非国民だから悪いんだ、ってワケです。書いていていやになった。
確かに、責任追及をすることにより学校・加害者と被害者は敵味方の関係に立たされてしまいます。そうなると本来理解しあえるはずの問題の解決も遠のいてしまいます。私が被害者の親の立場に立たされたらそんな冷静な判断が出来るかどうかは心もとありませんが。
その他に山脇さんの主張で面白いなと思ったのは、いじめの兆候を見つけたら、まず学校を休ませるそうことだそうです。ここまではよく書かれていることですが、その先に転校はあまり勧めない、と書かれていたことです。もし転校を手段として選んだ場合、学校にいじめの根絶にまともに取り組んでもらえなくなるばかりでなく、被害者の子どもの外傷記憶を修正できなくなってしまうからだそうです。
私なんか転職で外傷経験から逃げてばかりいたわけですから、外傷経験が癒えていないのかもしれませんね。山脇さん、私も診てください、って無理か。ま、大人と子どもでは環境が違いますからね。中年男が親に助けてなんて言えませんからね。あ、だから中年男の自殺が多いのか。
それはさておき、本書の「いじめに気づくチェックリスト」に面白いのがありました。「すぐに自分の非を認め、謝るようになった」というものです。いじめの被害者になってしまい、とにかくこれ以上いじめられなくないので、何でもいいからとりあえず謝ることが習慣になってしまっているのだそうです。こんなことが習慣になるなんてとてもつらいことですよね。
でも、これを読んでいるサラリーマンのあなた、上司の命令にはとりあえず「分かりました」、とか答えるのが習慣になっていませんか?もしかしたらあなたもいじめを避けるため自分も騙そうとしているのかも知れませんよ。ご自愛を。
北海道・東京都の教頭・校長を歴任後、埼玉県の私立狭山ヶ丘高等学校の校長を務め、同校を有数の進学校に育て上げたカリスマ校長の小川さんが書かれた本です。ま、経歴から言っても過労死なんて絶対にしそうに無い方でしょうか。
「低学年のころまでは、できるだけ子どもをどうぶつ本来の姿に戻らせてあげるのがいい。それも、のびやかさを持った「健全な獣」でなくてはならない。「健全な獣」とは、野生から人間社会と共生し、他者にかわいがられ役立つように育てられた獣である。誤解を恐れずに言うならば、「家畜」だ。「家畜」は野生のものに比べれば自立性が低い。人の手が多くかかる。子どもとはそのような生き物なのだ。」
ま、小川さんのおっしゃることも分からんではありません。でも、現代の教育がなぜ失敗してしまったか、という議論になると、戦後のアメリカ式の教育が間違いだった、という通り一遍の議論になってしまうのがいささか引っ掛かります。
小川さんは躾の基本として海軍兵学校の「五省」を取り上げています。
「まごころに反することはなかったか」
「言葉と行いに恥ずかしいところはなかったか」
「気力に欠いていなかったか」
「努力不足ではなかったか」
「不精になっていなかったか」
というものです。でもねえ、大日本帝国の軍隊ほど言っていることとやっていることのギャップが激しかった軍隊ってのも珍しいんじゃないでしょうか。小川さんが言っていることをやってこなかったと批判するわけではありませんが、言うだけなら簡単ですよ、そりゃ。
参考に以前も紹介しましたが、あの讀賣新聞社の渡邉恒雄さんが、田原総一朗氏責任編集の雑誌「オフレコ!」創刊号で以下のように発言していることを田中康夫さんが日刊ゲンダイ紙上で紹介していた文章(孫引きですいません)を再録しておきましょう。
「安倍晋三に会った時、こう言った。『貴方と僕とでは全く相容れない問題が有る。靖国参拝がそれだ』と。みんな軍隊の事を知らないからさ。それに勝つ見込み無しに開戦し、敗戦必至となっても本土決戦を決定し、無数の国民を死に至らしめた軍と政治家の責任は否めない。あの軍というそのもののね、野蛮さ、暴虐さを許せない」
「僕は軍隊に入ってから、毎朝毎晩ぶん殴られ、蹴飛ばされ。理由なんて何も無くて、皮のスリッパでダーン、バーンと頬をひっぱたいた。連隊長が連隊全員を集めて立たせて、そこで、私的制裁は軍は禁止しておる。しかし、公的制裁はいいのだ、どんどん公的制裁をしろ、と演説する。公的制裁の名の下にボコボコやる」
「この間、僕は政治家達に話したけど、NHKラジオで特攻隊の番組をやった。兵士は明日、行くぞと。その前の晩に録音したもので、みんな号泣ですよ。うわーっと泣いて。戦時中、よくこんな録音を放送出来たと思う。勇んでいって、靖国で会いましょうなんか信じられているけれど、殆(ほとん)どウソです。だから、僕はそういう焦土作戦や玉砕を強制した戦争責任者が祀られている所へ行って頭を下げる義理は全く無いと考えている。犠牲になった兵士は別だ。これは社の会議でも絶えず言ってます。君達は判らんかも知れんが、オレはそういう体験をしたので許せないんだ」
小川さんの年齢にもヒントがあるのかもしれません。小川さんは現代の若者の茶髪その他の反抗的な気風を口を極めて批判しておられますが、その一方で旧制高校の「弊衣破帽」の文化も「「エリートならエリートらしくきちんとした格好をすればいいのに」と彼らの精神のいやらしさを嗅ぎ取ったものだ」。その彼らが大学生にでもなれば、とたんに紳士のような振る舞いをした。学生服に学帽だが、頭はポマードでテカテカに整髪し、洒落たダスターコートを羽織っている。社会が大学生をエリートとして扱い、エリートの振る舞いを要求したからだ。」
まさか当時の大学生の振る舞いを小川さんが賞賛しているとは思えませんが、1932年生まれの小川さんはそのような振る舞いをする年齢に達する前にそのような体制そのものが消えてなくなってしまっていたはずです。もし「弊衣破帽」の世代であったら、どのような振る舞いをしたのでしょうか。ぜひお聞きしてみたいものです。
でも、上記の小川さんの記述を読んで感じるのは、今も昔も表現の形が違うだけで、心情的には全く同じ、ってことではないでしょうか。そんなもんだって若いもんなんて。
それにしても、小川さんの昔は良かった、今は、という場合の昔の認識が小川さん個人の経験をあまりにも普遍化しているところも気になります。小川さんが理想としている家庭、父親が外で遅くまで働き、母親は父親を敬いつつ家庭を守る、というステレオタイプも、実は日本の伝統でもなんでもなく明治期から一般化した家庭の姿にしか過ぎません。なんでそんな家庭像が必要とされたのか、というと長い間男性を軍務につかせ、おまけに人口は生めよ増やせよという要請に応えるにはこうするよりほかにないからでしょう。当たり前のことですが、江戸期以前では女性は家庭を守るだけ、などという風習は武士以外では成り立たないでしょう。網野さんの著作などをご参考に。そう言えば、ナチスも家族とか家庭を守ることにすごく熱心だったはずですね。
ところで小川さんは体罰も原則的には禁止だが、許される場合もある、としています。また、オレを体罰教師だと訴えるのなら訴えてみろ、オレは絶対に正しい、最高裁まで付き合ってやると息巻いています。そして、俺が殴った子どもたちとは今でも付き合いがあるし、慕ってくれている、と自慢しています。ふーん。私は小川先生に習ったわけではありませんが、今でも小学校時代の教師なんて大っ嫌いですね。付き合いもなし。愛情の押し売りをする先生でしたけど。でも、確かに慕っている同級生も居るみたいですね。私は違うけど。大人になっても嫌っている生徒も居るってことは、付き合いもない以上わかんないんでしょうね、きっと。私は躾のなっていない生徒なんでしょう、小川さんには。
私は子どもを小川さんの学校に通わせようとは思いませんね。