2013年度の書評はこちら

201212

スチュワート・シャピロ 金子洋之訳『数学を哲学する』筑摩書房

 

本書はシャピロさんが数学の哲学における教科書を意図して書かれたものです。従って、歴史的な数学の哲学を取り上げそれに対して解説を加えることがメインで、シャピロさんの主義主張を展開することが目的で書かれたわけではないようです。

現代社会、そして私の仕事である金融関係の仕事には深いかかわりを持っているのが数学です。経済学そのものも数学者や物理学者に乗っ取られて久しいものがありますが、私も取り扱っていたオプションなどのデリバティブ商品は、数学を使わなければほとんど商品としては成立しません。数学者に足向けて寝られないわ。そんな数学はいかなる意図を以って展開されてきたのか、などは大変興味があるテーマです。ということで3990円もする本書を買ってみたのですが、400ページもある数学の専門書(入門書とは言え)です。いやあ、読み始めるには勇気が要りましたね。何とか読み終えましたよ。半分以上何を言っているのか分かんなかったけど。

数学ってのはたったひとつの真理を求めて証明を繰り返すことによりひたすら発展してきたのかと思っていましたが、そうでもないんですね。ここにふたつのリンゴがある。その傍らに二人の人間が居る。ここに現れたふたつと二人で表されている数“2”は1+12の答えの“2”と同じであるか否か、リンゴと人で同じであるか否か、なんてまことに哲学的なことを考えちゃったりすると、色々と見解が異なってしまうんだそうです。子弟関係であったソクラテスとプラトン、そしてアリストテレスの間でも、数学の取り扱いや細かい論点(私にはそのように思えました)においては違いがあったそうです。でも、昔っから数学と哲学ってのは意外と近い領域だったんですね。

本書は教科書としては高い評価を受けているそうです。著者本人によると。ですが、間違っても一般読者向けの本ではありません。数学と哲学に深い興味を持たれた方はどうぞお読みください。

 

 

リリアン・R・リーバー著 ヒュー・グレイ・リーバー絵 水谷淳訳『数学は世界を変える』ソフトバンク・クリエイティブ 

 

シャピロさんの本が余りにも難しかったので、簡単な数学の入門書はないかと探したところ、本書に出会いました。著者のリリアン・R・リーバーさんはロングアイランド大学の数学科長、絵を描いたヒュー・グレイ・リーバーさん(旦那さんです)は同大学の美術学科長だそうです。小学生の算数のような簡単な問題から抽象代数、有限幾何学などという文字だけでは何だかわからない高等数学までをやさしい文章と一風変わったイラストで解説しています。

実は、本書が出版されたのは1942年、第二次世界大戦の真っ只中です。どうのこうのではなくアメリカでも多くの青年たちが戦争に駆り出されて行きました。アインシュタインにも絶賛されたという本書、戦地の従軍兵士に読んでもらうべく野戦食料キットにも同梱されていたそうです。戦地の兵隊たちは本書をどのような思いで読んだのでしょうか。

本書の目的は数学そのものの解説ではなく、数学を通して理性的な思考方法を学んで欲しい、そのような思考方法を身につけることによってより豊かな人生、より良い社会を実現して欲しい、という願いを込めて書かれました。

科学技術や物理学や数学の理論は必ずしもそれが何をもたらすかに思いを致して考え出されたわけではありません。アインシュタインの相対性理論も原爆を作りたくて考えられたわけではありません。いわんや相対性理論の前提となる先行する科学技術や理論においてをや、です。そのような科学技術や理論を良い方向へ使うのも悪い方向へ使うのもそんな理論を考え出したり証明したりした訳でもない人々、もっと言ってしまえば私たちなのです。

リーバー夫妻はそんな私たちに向けてより良く、より正しく考えるための道しるべとしての数学、あるいは論理の使い方の一端を本書で示してくれています。

初版以来70年が経過していますが、本書が提起している問題は決して古びてはいません。本書に提示されている数学の問題は決して難しくはありませんので、ぜひ紙と鉛筆(頭のいい人は要らないかもしれないけど)を用意して、問題を解きながらご一読下さい。意外にも数学の本を読んで感動してしまいました。

 

 

小島 寛之数学的思考の技術』ベスト新書

 

著者の小島さんは東京大学理学部数学科卒業、同大学院経済学研究科博士課程修了、現在は帝京大学経済学部経済学科教授です。数学を武器に経済学に乗り込んできたタイプの経済学者さんですね。私の嫌いなタイプ?

本書の初っ端で小島さんはゲームの理論を取り上げています。私もいくつかの論文で取り上げていますが、ゲームの理論を応用して戦略的に考えることが論じられています。ゲームの理論というのは、自分がこうしたいからこうする、というのではなく、相手がどう出てくるかを予想し、さらに実際に相手がどう対応してきたかを考慮しながら自分の行動はどうすべきかを決定していく動的な理論です。ま、相手がバカじゃないとか制約はあるわけですが。

しかしながら、小島さんが指摘する通り、何かうまくいかないことがあると自分のことを棚に上げて人のせいにしちゃう人が多いですよね。戦略的に考えず、自分勝手な思い込みだけで決めつけちゃうんです。いっぱいいるよなあ、そんなやつ。

ところで、冒頭で給料はいくらにすべきか、なんてことが議論されています。歩合給でもリスクが高すぎれば社員は働きませんし、いくら努力しても給料が上がらないんじゃインセンティブゼロ。で、小島さんの結論は「社員に努力を促すシステムを導入すべきなのだ。それが若干の変動給であるボーナス制度なのである」と書いています。ま、もっともなんですが、問題はその「若干」っていくらなのかってことなんです。日本の年功序列だってアメリカのボーナスシステム(金融機関なんかの)だって社員を働かせるためのシステムです。問題は、じゃ、いくらが適当なの?という問いに絶対的な答えがないことなのではないでしょうかね。設定例ではいくら稼げるか、なんてことがアプリオリに与えられていますが、そんなこと、実際にはあり得ないですからね。でも給料は決めなくちゃならない。だから私には経営学の方が経済学より楽しいんですね、きっと。

ま、ここら辺については、小島さんも「数学の限界を理解するのも数学的技術の1つなのである」と書いています。数学的思考をマスターしさえすれば何でも解決できると思うのは早計。何でもかんでも解けるわけじゃないんです。小島さんは、「「数学という明かり」が届かない闇が確かに存在している」と表現しています。

ここで一つ疑問なのですが、この「闇」は数学が今より発展すれば明らかになるのでしょうか。それとも数学では原理的に解くことができないのでしょうか。あるいはその両方が正しい、もしくは間違っているのでしょうか。どなたかご教示を。

 

 

ダン・ガードナー 田淵健太訳『リスクにあなたは騙される 「恐怖」を操る論理』早川書房

 

911のあと飛行機に乗る人が激減し、人々は自動車など他の交通手段を利用するようになりました。これは統計的に正しい選択だったのでしょうか。「米国のある教授の計算によれば、テロリストが一週間に一機のジェット旅客機を米国内でハイジャックし激突させたとしても、一年間毎月一回飛行機を利用する人がハイジャックで死ぬ確率は、十三万五○○○分の一であり、車の衝突で死ぬ年間の確立六〇〇〇分の一と比べれば些細な危険率と言える」のだそうです。それにもかかわらず自動車を選ぶ人間が増えたのです。

なぜこのような選択がなされたのでしょうか。本書の前半でそのような選択に導く我々の持つ認知的なバイアスについて解説が加えられます。

これらについては類書でも解説されているところですが、本書の肝はここから始まります。なぜそのようなバイアスとその結果として選択された“誤った”行動が放置されているのか。それは、このようなバイアスの存在とそれに基づく恐怖を利用して利益を図る企業や政治家が居るからなのです。それを正す役割が与えられているはずのマスコミも、センセーショナルな報道の方がより大衆受けするので新聞は売れるはテレビの視聴率も上がるはで、そのようなバイアスを助長する報道がまかり通ってしまうのです。

ただ厄介なのは、そのような人々が必ずしもずるいことをして儲けている、とは考えていないことです。むしろ、自分は正しく人々を啓蒙している、私の活動によって人々はリスクから解放された、私は世のため人のために働いているのだ、と信じているのです。

まあ、昨今の政治状況なんか見ているとそんな感じがしますねえ。信じ込んじゃってるからまともな議論ができない。西條さんの本を読んでよって感じですねえ。マスコミも面白おかしく政局を取り上げるだけで政策そのものの是非を掘り下げた報道などはしない。

では、私たちはどのように対処すればよいのでしょうか。ガードナーさんの処方箋はたいへんシンプル。頭を使って考えろ、ということです。私たちは感情的な主張に大変流されやすく、理性的判断とは程遠い行動を選択してしまいがちです。本書では人間に備わるこの二面性を「頭」と「腹」と表現しています。これは「理性」と「感情」、「左脳」と「右脳」、あるいは「理性的判断」と「直観」などとも言い換えられるかもしれません。私たち人類(あるいは生命)が長い歴史を生き抜いてきたことを鑑みれば、「腹」の判断にも意味があることは明らかです。が、なんだかんだ言っても人類の最大の武器は「頭」なのです。首の上に乗っかっている頭は飾りではありません。考えに考え、ゴミのような情報をまき散らすバカどもに惑わされぬ判断を下すようにしようではありませんか。

 

 

201211

金子 一朗挑戦するピアニスト』春秋社

 

本書の著者の金子さんは現役のピアニストではありますが、早稲田大学理工学部数学科を卒業し、現在は早稲田中・高等学校数学科教諭であるという別の顔を持っています。ピアニストとしてはピティナ・ピアノコンペティションという日本最大のピアノコンクールで2005年にソロ部門特級グランプリを受賞していますが、金子さんは1962年生まれですから何と43歳の時。ピティナ・ピアノコンペティションは日本人演奏家の登竜門と言われていますので、これは異例の遅さ。それまでは別に職を持ちながらの単なる一アマチュア・ピアノ愛好家だったわけです。

アマチュア・ピアニストであった金子さんが再び真剣にピアノと向き合うようになったのは40歳近くになって何と左手人差し指の腱を切ってしまったこと。ピアノを弾けなくなったらどうしよう、という思いでリハビリに励み、リハビリの一環としてアマチュアピアノコンクールを受けることにしたのです。ここから一気に花開く、というわけにはいかず、ピティナ・ピアノコンペティションでのグランプリ受賞までには紆余曲折があったのです。

本書はグランプリ受賞までの苦労を書いたエッセイ、というわけではなく、ピアノの独学から学んだ、時間がない中いかに効率的に楽曲の分析能力やピアノの技術を磨くか、という技術論が中心となっています。ピアノなんてたったの二曲(詳しくは聞かないでくださいね)しか弾けない私なんぞがどうこう言えるようなレベルの話でないことは私もよーく分かっています。

コンクールの審査というのは単なる人気投票ではありません。レベルの高いコンクールであれば、技術的な部分は出来て当たり前、「差がつくのは、個々の作品の作曲語法や様式を理解し、その適切な表現ができているか」なのだそうです。「バッハのフーガなど、対位法的な作品は、多くのコンクールで演奏することが義務付けられていることが多い」「その際、対位法的な作品を演奏するのに最低限守らなければならない表現があり、それが満たされなければ、どんなに技術があっても、また、そのときの聴衆の心に訴える演奏であったしても、審査員の点数はばらつく。それが真に価値のある個性であったとしてもである」「対位法的な作品では、まず、テーマがあり、それが繰り返し、さまざまな声部に現れる。これらのものがどういう状態で現れたとしても、最初に表現したテーマとまったく同じアーティキュレーションで表現」されなくてはいけないのだそうです。このような表現をするためには、「少なくとも直感だけではできない。なぜなら、弾きやすさと一致しないからである」

あー、言っていることは分からないでもないんですが、譜面を理解し、それをどのようにピアノで表現するかなんてのは完全に私の理解と能力の範疇を超えています。ま、そうではあるのですが、金子さんがアマチュアとして自分の満足のために弾いていた時と、プロとして聴衆に聴かせるために弾いているときの違いなんてのは、もちろん別分野ですが、私にもかすかではありますが覚えがあります。

私はラシュモア大学というオンライン大学で博士号を取得しましたが、この時の論文の書き方の第一歩として指摘されたのが、「誰に向けて書いているかを明確にしろ」というものでした。読者を想定しないで書く場合、往々にして展開される論理が自己満足に陥りがちです。で、誰かにおかしいんじゃないか、なんて言われると頭に来ちゃうわけです。日記とか特殊な文章でもない限り、文章なんてものは他人に読んでもらうために書くんです。その他人にきちんと理解してもらえないようでは、文章として失格。で、どのようにすればよいのか、ということを金子さんは本書でピアノ演奏を例に展開しているわけです。

そう考えれば、なるほどね、というポイントがいくつもあります。金子さんはコンクールでの演奏を最終目標とした場合、まずピアノの演奏ではなく楽曲分析から始めろと指摘しています。が、この楽曲分析も研究を目的としているのではありませんから、あまりにもち密な分析は求めなくてよいとしています。いますよね、何か仕事をお願いするとディテールに凝りすぎてまとまらない人って。それと、コンクールを目標にした場合、時間の管理も重要になります。プロの仕事には大体期限とか納期が設けられています。プロに必要なのは見切り。たとえ細部まで完ぺきではないとしても全体としてまとまっていること。あー、そーすると、学者ってのはプロじゃないのか。

なんてあまり音楽とは関係のないことを本書を読んでいて多々感じました。皆さんにも何かヒントがあるかもしれません。ぜひご一読を。

 

 

坂口 博樹音楽の不思議を解く』株式会社ヤマハミュージックメディア

 

上記金子さんの経歴も一風変わっていますが、本書の坂口さんの経歴も音楽家としてはやや変わっています。「十代でロックやジャズを経験後、二十歳のとき音大受験を決意。日本大学芸術学部音楽学科作曲コース在学中に映像音楽などの仕事を始め、そのまま職業作曲家となる。アヴァンギャルド、クラシック、ジャズ、ロック、ワールドミュージックなど、すべての音楽ジャンルを乗り越えハイブリッドに活動する」

このような経歴の坂口さんは、音楽に関して偏見や先入観がほとんどないように見受けられます。ということで本書では音階の成り立ち、記譜法の発達などに始まり、クラシック音楽、現代音楽、さらには伝統邦楽、ジャズ、ロック、ヒップホップといった大衆音楽まで幅広く語られています。

本書の最初の方で坂口さんは日本における「音楽」の起源についてひも解いています。ま、はっきり言っちゃうと、明治政府が何でもかんでも西洋風を真似ちゃおう、ってことで導入したんですね。ですから洋楽と邦楽の間には深い断絶ができ、今じゃ邦楽そのものが単なる伝統芸能になっちゃって、日本人の間においてさえ風前のともしび。この頃、小学校の音楽の授業で伝統音楽を教えよう、ってことになってるみたいですが、教える方だって何にも知らないんじゃないの。愛国心だの伝統だのって騒いでる割には、ねえ。

グローバル化、などと言いながら体の良い西洋文化優越主義の押し付けをしているような音楽界の現状に対して坂口さんは警鐘を鳴らしています。

2010年は国連の定めた「国際生物多様性年」だったそうです。多様性の保持は何も人間以外の生物の中でだけ必要とされているわけではありません。人類も多様性を認め合わなくては明るい未来は開けないのではないでしょうか。

音楽を通して様々なことを考えさせられる一冊でした。

 

 

ジョン・パウエル 小野木明恵訳『響きの科楽』早川書房

 

パウエルさんはシェフィールド大学で作曲の修士号、インペリアル・カレッジ・ロンドンで物理学の博士号を取得、現在はノッティンガム大学とルレオ大学(スウェーデン)で物理学を、シェフィールド大学で音楽音響学を教えているという、卒倒しそうな経歴の持ち主です。頭が良いんだろうなあ。

ま、いろいろな経緯があって本書を書いたようですが、さすが物理学の博士だけあって、かなり理屈っぽい本になっています。教会旋法(ドリア旋法とかフリギア旋法とか)なんかをくだくだと説明しています。どーせ素人が読むんだし、読者全員がグレゴリア聖歌を歌うわけじゃないんだから、そんなにくだくだと説明しなくても良いんじゃないの、と思ったんですが、実はどうもその先を説明するための前置きだったみたいですね。「たとえ等分平均律においてでさえ、調はそれぞれに異なる情緒的な気分を伝える」ということが広く信じられています。ベートーベンだって信じていたんです。が、パウエルさんによればそれは単なる神話なんだそうです。

例えば、合唱などでは1番から2番への移行部などで半音か全音移調することがあります。なんでかと言うと新しく新鮮で明るくなったような感じがするためです(本書ではギアチェンジに例えています)。どの調から移行させても同じような感じがするのですから、ある調が特有のムードなんぞ持っているわけないじゃないか、というわけです。パウエルさんはこのことを実証実験でも確かめちゃっています。いやあ、知らなかった。

音楽に関するあれこれがクラシックからジャズやロックまでの実例(一部日本人読者に合わせて原書とは異なった例が使われているそうですが)を取り混ぜて解説されています。音楽好きの方は読んで損はないと思います。ぜひご一読を。

 

 

フィリップ・ボール 夏目大訳『音楽の科学 音楽の何に見せられるんのか?』河出書房新社

 

本書の冒頭でボールさんは西洋の音楽シーンでは音楽を作ったり奏でたりするのは非常に少数の音楽的才能に恵まれた「ミュージシャン」だけで、多くの人間にとっては「聞くだけ」のものだった、としています。確かに。しかし、最近では携帯音楽プレイヤーの出現によって音楽は持ち歩き可能なものになっていますし、マスメディアの登場により音楽を演奏し公開することが容易になった、のも確かです。本書では語られていませんが、音楽の演奏が誰にできるものなのだ、と気付かせたのは日本の偉大な発明であるカラオケに帰するところ大だと思うのですがいかがでしょうか。フィンランド人は確かにそう言ってたぞ

しかし、世界各国のカラオケに収録されている曲は結構異なっています。そりゃそうですよね。まず歌詞の言語が違っていますし(シンガポールで日本の歌だから歌えって言われたんですが歌詞が中国語でしか出てこなくて参ったことがあります)、そもそも流行っている歌だって違いますからね。果たして音楽は普遍的なものなのでしょうか。

ボールさんも本書で長々と音階(とか調)について解説しています。ただ、ボールさんは、「中には、調を変えると曲の持つ個性が変わる、それは絶対音感がなくてもわかる、と主張する人がいる。たとえば、グリーグの『ピアノ協奏曲』の調を、元のイ短調からヘ短調に変えれば聞こえ方が変わるということだ。おそらくその意見は正しい」としています。パウエルさんとはいささか異なる見解のようではありますが、ボールさんも平均律ではそのような効果は少ないはずだとしています。

ボールさんはブリストル大学で物理学の博士号を取得し、かの有名な『ネイチャー』誌の編集顧問も務めるサイエンスライターだそうですが、学生時代は音楽の演奏に没頭していた、なんて一面も持ち合わせている方です。

本書では楽譜による解説なども多数掲載されていますので心配なさる向きもあるかもしれませんが、ボールさんは親切にもMusic Instinctというサイトで音源を公開していますので、ご興味のある方は本書と一緒にお聞きください。

音楽を楽しむのに知識は必要ありませんが、知識があればより遠くまで音楽の世界を見渡すことができるようになります。ただし、本書を読めば実は音楽の専門家でさえ音楽とは何か、などという根源的な問いには未だに確たる答えがないことも分かります。自分のスタイルで音楽を聴けばそれでいいんじゃないの、ということで一安心。

厚さが5センチもあるハードカバーの本書、読み始めるには結構勇気が要りました。内容は音楽に関するあれこれがてんこ盛り。ぜひご一読を。

 

201210

木島 俊介名画が愛した女たち 画家とモデルの物語』集英社

 

著者の木島さんは美学・美術史を専攻、「イタリア・ルネサンス期の女性肖像画には特別に魅了されてきた」方ですが、経歴からは必ずしもアカデミックな世界で活躍された方ではなく、大阪万博の美術館の設立とか東急文化村のプロデュースなど美術ビジネスにも永らく携わってこられた方のようです。

取り上げられているのはルネッサンス期の美女たち。ルネッサンス期とは新プラトン主義が流行った時代。新プラトン主義とは「人間の尊厳とは、神の被造物のひとつとして人間が、他のものよりも高い位置を与えられているところにあるのではない。そうではなく、人間は彼自身もまた神のごとく、彼自身の想像力によって自由に、芸術を、文化を、宇宙を生み出すことができる。なかんずく、彼自身という人格を自ら創造することができる」という思想です。なるほどこれがルネッサンスという、暗黒の中世を抜けてとんでもなく華やかな時代を生んだ精神だったわけですね。

この時代に自由になるのは男性ばかりではなく、その影響は女性にも及びました。ま、名前まで分かっているのはどっちにしてもお金持ちの男女だったみたいですけどね。貧乏人が絵画に登場するのはもうちょっと後の時代のもうちょっと寒い地方でのことでしょう。

ちょっと気になるのは、木島さんの文体。絵画などの芸術作品を文章で表現しなくてはなりませんので無理もないのかもしれませんが、きらきらした修辞に満ち溢れた文章が続きます。

「いまや私たちは、「肖像」成立の原理を相関性のうちに認めようとしている。「肖像」は、アーティストとそのモデルと、それに加えるに、作品という物質との、三位一体の関係、せめぎあいのなかで発生すると言っても過言ではないであろう」

「するとその現象のはざまに、ここの存在を離れた何かが立ち上がる。美でもなく醜でもない何か、男でも女でもない何か。これは存在の髄とでもいったものであろう。意識を越えたというよりも、意識に至る前の本質、予兆。これをつかみ取るのは、神の創造の原初を引き出すことではないのか」

いやあ、新プラトン主義に耽溺する木島さんならではの表現ですねえ。私では読みとることができないほど深い……、のでしょう。

 

 

原田 マハ楽園のカンヴァス』新潮社

【送料無料】楽園のカンヴァス [ 原田マハ ]

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著者の原田さんはすでに数々の小説をものされてきた作家ですが、作家になる前、大学では美術史を専攻、さまざまな美術館でキュレーターをされていた(その中にはニューヨーク近代美術館も含まれます)という経歴をお持ちだそうです。美術をテーマにした小説は初めてだそうですが、専門分野だけあって、専門知識がふんだんに盛り込まれた、私好みの蘊蓄小説になっています。

本書で取り上げられているのはアンリ・ルソー。長らくパリ税関の職員として働いた後40代になってから画家になりますが、遠近法もろくに知らない子供の絵だとかからかわれ、生前はほとんど評価されませんでした。ただし、その絵は誰にでもわかるような特徴があり、現在では素朴派の祖と呼ばれています。特徴的でありながら特にテクニックがあるわけでもない、生前評価されなかったので作品は散逸、でも今では大人気、ということは贋作者にとっては狙い目。はたして本書に登場する作品の真贋は?

専門知識がちりばめられた本書ですが、ミステリ小説としても楽しめる、伏線を張りまくったストーリーが読ませます。あっという間に読了してしまいました。

ルソーが好きになる一冊。ぜひご一読を。

 

 

木村 泰司印象派という革命』集英社

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木村さんをご紹介するのは『巨匠たちの迷宮に次いで2冊目です。

本書のテーマは、本書の扉に書かれている「19世紀のフランスにおいて貴族社会が崩壊し、社会が大きく変わる時、絵画の世界でも「印象派」という革命がおこった。これは単なる偶然だったのか?それとも「歴史の必然」だったのだろうか?」という疑問の解明、というか、印象派というのは社会の変革に伴う必然的な運動だったのだということの証明であると言えるでしょう。

日本では印象派の絵画は大変人気があります。この原因を木村さんは、印象派の絵画が日本人好みの(浮世絵などにも多く取り上げられてきた)花鳥風月や風俗や風景を取り上げているところに求めています。

確かに、それ以前の絵画というものは、教会や政治的な建造物を権威づけるために設置されるか、個人が注文する場合でもお金持ちが自分の身分とか家系を自慢する意図から作らせるといった、非常に高価な装飾品でした。個人の家に飾られる場合、普段はカーテンが掛けられており、特別な場合だけ開帳する、なんて扱いを受けていたそうです。また、絵画は明確な意図を持って描かれていますので、さまざまな象徴(隠された暗号!がちりばめられており、その多くが聖書とか古典に基づいていますので、そのような知識になじみのない日本人には今一つ分かり辛い面があるようです。

ただし、きれいだ、きれいだ、というだけで印象派を捉えず、その時代背景を知ることによってより深く印象派絵画を味わうことができるのではないかと木村さんは提案しています。そのため、木村さんは印象派の時代背景から紐解いて行くわけですが、その時代とは私も本書評『怪帝ナポレオンIIIで取り上げた時代、日本では幕末から明治にかけての時代になります。これだけ社会が大きく変われば、芸術の好みだって変わるのではないの、というわけです。

まあ、日本だってこの時代、あれだけ社会体制がガラッと変わって、絵画や彫刻といった美術はもちろん、音楽や建築、文学、果ては料理やファッションまで全部影響を受けたわけですからね。芸術などは社会とは独立に存続しえないこと、また、芸術などに対する社会の嗜好が変わっているということは社会の表面的な変化ではなく伏流する大きな潮目の変化を示しているともいえそうです。昨今そのような変化はあるのでしょうか。

図版も多く、楽しく印象派を学べる一冊でした。

 

 

ジャン=クレ・マルタン 杉村昌昭訳『フェルメールとスピノザ 〈永遠〉の公式』以文社

フェルメールとスピノザは共に1632年、それぞれオランダのデルフトとアムステルダムで生まれました。別々の都市ではありますが、デルフトとアムステルダム間の距離は60キロほどだそうですから、そう遠くではなかったようです。歴史的資料としてこの二人の交友を証明するものはないようですが、様々な観点から考えて二人が知り合いであったとしても不思議ではないようです。

ただし、マルタンさんがフェルメールとスピノザの間に見る類似点は、二人の思想の背後にある哲学です。フェルメールの「デルフト眺望」の印象は、「巨大な川の人狩りを中心に、さざ波が画面全体の奥行きにまで抑揚をつけ、それによって多様に変化する唯一の実体」をあらわしており、「眺望が永遠の現在として存続することができる存在である」ことを表しているのだそうです。このような自然の中に永遠の存在を見るのはキリスト教の教義からは外れるわけですが、実はスピノザも同じような概念で自然を捉えていたようです。「神のなかにはあれこれの人間身体の本質を永遠の相のもとに狂言する観念が必然的に存在する」としています。

フェルメールのこのような理解は、彼が「カメラ・オブスキュラ」という一種の光学機器(フィルムなしのカメラみたいなもんでしょうか)を使って絵画を描いていたのではないかと言われていることと符合します。そして、スピノザはレンズ磨きで生計を立てていた、しかも一級の技術者であったと言われています。接点があったとしても不思議ではありませんね。

100ページほどの薄い本書ですが、文章は晦渋にして難解。心してお読みください。

 

 

20129

マイケル・サンデル 鬼沢忍訳『それをお金で買いますか――市場主義の限界』早川書房

【送料無料】それをお金で買いますか

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価格:2,200円(税込、送料別)

 

サンデル先生の最新著作です。一読後、書名の邦訳はいかがなものかな、と思いました。英語の題は”What Money Can’t Buy”で、副題は”The Moral Limits of Markets”です。訳として間違っている、というわけではないのですが、ニュアンスがちょっと違うような気がします。皆さんはいかがでしょうか。

サンデルさんが主張しているのは、この世の中にはお金で買えないものがある、のではなく、お金で買うべきではないもの、売買の対象とすべきではないものが存在する、ということなのだと私は思います。なぜか。サンデルさんは「理由は二つある。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわるものだ」としています。

本書に取り上げられている行き過ぎた商業主義の実例(人体の目立つ場所に入れ墨で広告を入れるなんてのもあるそうです)は確かに私たちの嫌悪感を喚起しますが、絶対的に如何なる場合でもいけないといった問題はほとんどなく(例えば、消える入れ墨で広告を入れるのは許容範囲内か?)、白と黒の間には幅広いグレーゾーンが広がっているようです。

例えば、電車内の紙の吊り広告は私たちも日常目にしているところで、違和感はありません。最近動画スクリーンによる車内広告も始まりましたが、まあ許容範囲でしょう。最近はラッピング電車による広告も始まっています。私はあまり好きじゃありません。見たくなくても目に入ってしまいますからねえ。では、駅の命名権(ネーミングライツ)を売り出す、というのはどうでしょうか。最近ではスカイツリーの最寄り駅が名前を変えました(この場合は命名権を売ったのではなく、スカイツリーと鉄道の運営会社が同系列だった)。公共施設の命名権を売りに出した地方自治体もありました。建造物の名前ならともかく、子供の命名権を売りに出したとしたらどうでしょうか。ここまで来るとさすがに“黒”でしょうか。

このような問題を判断するときに重要になるのが“Moral”でしょう。“法律で禁止されているわけじゃないんだから”という言い訳をよく聞きますが、そういう問題じゃないんですよ。

私たちはどのような社会を望んでいるのでしょうか。今現在社会で行われていることに興味を持ち、良く調べ、良く考え、良く議論して行こうではありませんか。

 

 

川端 幹人タブーの正体!−マスコミが「あのこと」に触れない理由』ちくま新書

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価格:882円(税込、送料別)

 

「どれだけ重大な事実であろうと、マスコミが口を閉ざしてしまうことがある。大物政治家の不正疑惑、大手企業が引き起こした不祥事、有名タレントの薬物使用疑惑……」など、大手マスコミが沈黙してしまう事件があります。逆に、大手マスコミが世論の誘導を意識したかのように煽りまくる事件もあります。このからくりの正体に迫るのはかつて「伝説のスキャンダル雑誌『噂の真相』の副編集長」であった川端さんです。

本書で最も感動、というか心を動かされたのは、川端さんが自身の体験として「噂の真相」編集部への右翼襲撃事件と、その事件を契機とする自身の「転向」を語っている下りです。

なぜ転向するんだ、卑怯者、と言ってしまえばそれまでですが、現実に感じた暴力への恐怖はいかばかりのものだったでしょうか。噂の真相事件では直接的暴力が使われましたが、これに政治的暴力や経済的暴力が使われたらどうなるのでしょうか。私のような小心者には川端さんの気持ちが痛いほどわかります。情けないことではありますが、私が吠えられるのは噛み付いてこない小さな犬に対してだけ。でも、そういう人って多いんじゃないですか。

本書評でご紹介するのは控えますが、本書では何とも醜悪な「タブー」の真相が語られています。このような「タブー」を建設的な方向で打ち壊すためには何をすればよいのでしょうか。

「タブーを破るところまでできなくてもかまわない。破ることが無理ならさわるだけでいい。さわるのが怖ければ、まじかでその正体を見ようとするだけでもいい。そうすれば、そのぶんだけタブーと非タブーの境界線を押し戻すことができるはずだ」

少しでも自分のできることをしようではありませんか。タブーだから、と思考停止をしてしまっては、何も始まりません。考えに考えてタブーの裏に巣くっている白アリたちに一矢でも、いや半分でも、またその半分でもいいから報いるようにしようではありませんか。

 

 

田口 理穂ほか「お手本の国」のウソ』新潮社

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日本における評論家の常套句は「外国では…」「どこそこでは…」というものです。続くのは「それに引き換え日本では…」というものです。

それでは、「外国では…」と言われている内容は本当に正しいのでしょうか。本書では “フランスにおける少子化問題”、“子供の学習法として有名な『フィンランド・メソッド』”、“イギリスの二大政党制”、“アメリカの陪審員制度”、“ニュージーランドの自然保護”、“ドイツにおける戦争責任問題”、“ギリシャの財政破綻”という日本でもよく耳にするところの所説を取り上げ、各国在住の日本人ライターが実情をレポートしていきます。

日本が明治維新以来、諸外国の制度やメカニズムを批判は抜きにして導入、成功を収めてきたことは事実です。が、その際当時主流であった帝国主義も無批判に導入、手痛いしっぺ返しを食いました。何がどういけなかったのでしょうか。残念ながら日本においてはそのような考察が深く行われた形跡はありません。

明治維新以来100年以上の月日が流れました。そして日本は曲がりなりにも先進国の一員として数えられるようになりました。知ったかぶりや半可通の意見に流されることなく、我々日本人は今後の日本を、そして世界をどのようにして行きたいのか考え、何をなすべきか主体的に選択しようではありませんか。

 

 

アレックス・マックブライド 高月園子訳『悪いヤツを弁護する』亜紀書房

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日本流に言えば、著者のマックブライドさんは弁護士になります。ただし、イギリスの法曹資格にはバリスタ(法廷弁護士)とソリシタ(事務弁護士)の二種類があり、法廷で丁々発止のやり取りをするのはバリスタですが、依頼主から紛争や事件の依頼を受けられるのはソリシタだけで、訴訟においてはソリシタがバリスタを指名することになります。

また、私人訴追主義という日本人には分かりにくい制度を伝統的にとってきたイギリスでは、バリスタが検事役も務めます。公訴権を独占した日本の検察庁の独善振りなどを勘案すると、国家に公訴権を与えなかった英国流のやり方も納得できるものがあります。ただし、イギリスでも最近(1985年から)公訴局(検察庁)が設立されたそうです。

で、マックブライドさんは刑事訴訟のバリスタ。バリスタの仕事は何が何でも被告を無罪にすることです(検事役の場合は何が何でも有罪にすることでしょうね)。「私たちはいかなる判断も下さない。証拠がどんなに動かしがたいものであろうと、いや、言ってしまえば、被告人がやったかやっていないかさえ、どうでもいい。私たちの関心はただ「どうすれば被告人を無罪にできるか」にある」「バリスタにとってのエシックス(倫理)はロンドン東部の州のようなものだ(エセックス州のこと―――イギリス人の間で常にジョークの種にされる)」なんだそうです。サンデル教授に聞かせたい。

このバリスタになるのはなかなかに狭き門なのだそうです。エリートですね。法廷で当意即妙なやり取りを行うには相当な頭のキレが必要になりますが、この能力は政治家に必要とされる能力にもかぶります。ですから最近の首相経験者ではサッチャー元首相とブレア元首相がバリスタ出身だそうです。なるほどお二人とも弁は立ちましたね、私の嫌いなタイプでしたが。

本書ではマックブライドさんの駆け出し時代の思い出から現在に至るまでの、気取った日本の弁護士であったら絶対明かさないであろうエピソードが満載です。バレなきゃ何だっていいんだ、という英米法の真実が本音ベースで描かれています。ただ、この本音はイギリス人の間でも100%共有されているかと言うと、本書にも書かれているように、どうもそうではないようです。しかし、英米法は金融などの世界では事実上の標準法になっています。甘ちゃんでいるようでは付け込まれるだけです。英米法の考え方の基本は、相手も同じ土俵に乗っていることが前提になっています。知らないのが悪い。日本人だから手加減してね、なんて考え方は通用しません。中国人なんてのは別にちゃんと教育しなくても「騙されてたまるか!」という精神が備わっていますが、日本人みたいに相手の顔色をうかがっているばかりだと騙されちゃいます。で、次回は騙されまいとして相手の言うことを何も聞かなくなる。それじゃだめじゃん、なんてことは私も拙論で書いたところです。

マックブライドさんは現役のバリスタですので、ストレートに物を言ったりしません。諧謔が利きすぎるぐらいに利いていますのでいささか分かりにくいのですが、イギリスの司法制度が効率重視(イギリスには数百万ともいわれる監視カメラがあります)の、つまりジョージ・オーウェル描くところの『1984になってしまうことへの懸念を感じていることがひしひしと伝わってきます。刺激的な一冊でした。読んで面白いことだけは保証いたします。

 

 

20128

帚木 蓬生蝿の帝国』『蛍の航跡』新潮社

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『蝿の帝国』15編と『蛍の航跡』15編の短編の主人公は全て「私」。と言っても、戦後生まれの帚木さん自身の体験ではありません。現役の医師である帚木さんが戦中戦後に軍医として従軍した医師たちの記録を基に再構成したものです。これは、帚木さんが戦後生まれであり、当然個人的な回顧録は書けないという事情とともに、個人的な回顧録では描ききれないさまざまな戦争の実態を描き出すために取られた手法のようです。本書に登場する「私」が従軍したのは満州・樺太から太平洋の島々、そしてビルマとまさに大東亜戦争の版図に広がっています。

中でも印象に残るのは、かのインパール作戦で牟田口司令官のむちゃくちゃな作戦指導に対して佐藤兵団長自らが反旗を翻して独断で撤退するという、皇軍に有ってはならない事件を取り扱った『抗命』というエピソードです。ここでなぜ軍医が登場するかと言うと、牟田口司令官が佐藤師団長の精神鑑定を要求したからです。なぜ牟田口司令官は精神鑑定を要求したのでしょうか。佐藤兵団長は抗命罪による死刑を覚悟の上で軍法会議において洗いざらい軍司令部の無能ぶりをぶちまけることが予想されました。それは軍上層部にとって好ましいことではありません。ここは一時的に気がふれたことにして、軍法会議を回避、何とかやり過ごそう、という思惑だったのでしょう。ここで精神科である「私」がどのような鑑定をし、その後佐藤兵団長がどうなったのか、は本書お読みいただきたいと思います。

巻末にずらっと参考にした資料が載っています。書き残すことができたのは、多くの場合終戦を生きて迎えることができた方々でしょう。ただ、帚木さんの作品を読んでいて感じるのは、あの時代、結果として生き残ることができるかどうかはほとんど運としか言いようがなかったことです。ただ、登場する多くの「私」は、己にもたらされたあれこれはそのまま受け入れつつも、どこかで自分としての矜持を貫こうとしているのが印象に残りました。そう言えば、佐藤兵団長のご子息も高名なお医者さんだったそうです。

ぜひご一読を。

 

   

NHKスペシャル取材班日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦』新潮社

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1980年から1991年にかけ、海軍士官のOB会である「水交会」において、かつての海軍軍令部や海軍省に勤めていたエリートたちが集まり「海軍反省会」が開かれていました。反省会そのもののテープ録音もありましたが、公開の条件は「自分たちが生きている間は、決してその存在を表に出してはいけない」というものでした。

この反省会に出席しているのは戦争中海軍トップではなく、その下、部課長だった方々のようです。戦前、そして戦中は序列の手前上層部の意見に楯突くことが敵わなかった世代でしょうか。戦後ある程度の年月が経ち、上層部の連中もあの世に行き、ある程度ものが言えるようになったのでしょう。

私は以前より、今に至る日本人の悪癖はあの大東亜戦争に思いっきりあらわれていると思っていました。例えば、何か失敗しても誰も責任を取らないし責任の追及もしない。責任を取らなければならないときは下っ端に押し付ける。現実は直視せず何でも気合いで解決できると信じ込む。不都合な事実には目を向けず、誇大な希望的観測のみを信じ込む。一度決まったことは不都合があってもそのまま続ける。失敗は糊塗して知らなかったことにするか忘れたことにして、絶対に反省なんかしない。思いっきりセクショナリズムで部外者のことなんか考えない。そもそも誰も人の意見なんか聞かないので、議論が成り立たない。上には媚びる、下には威張る。うーん、人の悪口はいくらでも思いつきますねえ。

日本人は戦争中、とんでもないことをした、という非難に対してこっちだって必死に戦っていたんだ、やらなきゃやられちゃうんだ、相手だってひどいことをしていたんだ、仕方ないじゃないか、と言ってしまったのでは何の進歩もありません。私たちにできるのは真摯に歴史に向き合い、反省すべきは反省し、主張すべきは主張していくことしかありません。反省なき主張ばかりでは理解は得られないのではないでしょうか。

泥臭い陸軍に対して進歩派でスマートな印象のある海軍という従来からのイメージを大きく覆す事実が実際に海軍に在籍していた元軍人たちによって語られています。事実を確認する意味でもぜひご一読を。

 

 

溝口 郁夫絵具と戦争』国書刊行会

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戦後、GHQはいわゆる戦争画をアメリカに持ち帰り、画家たちが挿絵を描いた従軍記録なども焚書(必ずしも燃やしてしまった訳ではなく、日本に返還されたものもある)にしたそうです。

そもそも、戦争画などがなぜ描かれたのか、というと、当然のことながら戦意高揚のためです。兵隊さんはこんなに勇敢にお国のために戦っています、赫々たる戦果が上がっています、と国民に知らせ、戦争の遂行を推進するための広報活動、今風にいえばPRとかIRってわけです。

大東亜戦争開戦当初までは軍隊も羽振りが良かったですから、画家たちをアゴアシ付きで実際に戦場まで連れて行って結構自由に描かせたみたいです。このようなプロパガンダの活用は日本の十八番などではなく、米国も、ナチスドイツも、共産諸国も第一次大戦の昔からやっておりました。日本軍もその効果を認めて採用した、というところでしょうか。

溝口さんは戦争画についての思い入れが深いせいか、描かれていることが全て真実である、というような捉え方をしているところがいささか気になりました。本書で画家の川島理一郎は「戦争の理想、聖戦の目的への認識を鉄いた戦争言に於て冷酷な場面、グロテスクな光景が招来され得るといふ反面、正しい戦争言の場合必然その反対が現はれねばならぬことは自明である。即ち戦場の兵士の顔の如きも、殺人鬼や野蛮人の顔と一見紛はしいが如きはあり得ざる筈である。聖戦に従車する皇年前上の顔に一死報國の清純を湛えた精神の高貴を見得ない者が、何で報告の事使に取材する戦争書を描き得るであらう。単なる殺戮は非文明である。私は文明であって尚且つ臣子敵を征服する精紳がそこに現はれねばならないと但じてゐる」と書いています。平たく言えば、描きたいもの、見せたいものしか描かないよ、ということでしょう。

当時のマスコミ事情と言えば、かの有名な「百人斬り」などというヨタ記事が大新聞の紙面を飾っていた時代です。描きたいものを描いたどころか、海外でも「ルシタニア号」事件の報道映画のような捏造だって平気で行われていた時代です。反戦的なものは出版不可能。今だって大して変わらないのかもしれないけど。描かれているからそうだったんだ、と信じ込んでしまうのはどんなもんでしょうか。

まあ、それら戦争画が描かれた背景を鑑みれば、GHQが焚書にしたのも頷けるのではないでしょうか。ただ、GHQはともかくとして、戦後日本の一部の人士がコロッと手のひらを返したように同じ日本人を批判しだしたのはいただけませんねえ。人を批判するならまず自分を顧みないと。藤田嗣治は「私が日本を棄てたのではない。棄てられたのだ」と言い残してパリに戻り、二度と日本の土を踏むことはありませんでした。

ま、それやこれやで多くの日本画家たちが不当に貶められ、忘れられていきました。ここらについては私も本書評の実力画家たちの忘れられていた日本洋画、『実力画家たちの忘れられていた日本洋画2』などでご紹介いたしました。ご興味のある方はどうぞ。

戦争画の明と暗に思いをはせる一冊でした。

 

 

中薗 英助何日君再来物語』七つ森書館

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「何日君再来」(ホーリイチュンツァイライ、日本語の題名は「いつの日君また帰る」)は1936年に作曲され、翌年製作された映画の挿入歌として使われました。当初周璇、黎莉莉という中国人歌手が歌いヒットしたそうですが、その後李香蘭(山口淑子)、渡辺はま子、ケ麗君(テレサ・テン)などにもカバーされ、日中両国で戦後も長くヒットした名曲だそうです。その歌詞の政治的解釈を巡って幾度となく発禁になるなど、数奇な運命をたどった曲でもあるそうです。本書でその運命を中薗さんが解き明かして行きます。

「何日君再来」の歌は現在もテレサ・テンさんその他が歌った動画が数多くインターネット上にアップされていますので、簡単に聴くことができます。私の耳にはいわゆる昔風の甘ったるい中国の歌謡曲って感じで聴こえましたが、いかがでしょうか。中国当局(国民党だったり共産党だったり)は黄色歌曲だ何だと因縁をつけては何度も弾圧したようです。大衆娯楽は淫靡なものであってはならず、健康的かつ愛国的じゃなきゃ、って訳でしょう。ま、日本でもそんなことが言われていた時代がありましたよね。

たかが歌謡曲ではありますが、「何日君再来」は作曲者や歌手のその後の人生に大きな影響をもたらしました。不幸な時代、と言ってしまえばそれまでですが、このような不幸が二度ともたらされない社会を建設するためにも歴史を紐解く必要があると思います。歴史は美化したり否定したりするために存在するのではありません。歴史を学び、歴史に学ぼうではありませんか。

 

 

20127

中野 剛志・三橋 貴明売国奴に告ぐ!いま日本に迫る危機の正体』徳間書店

 
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ものすごい題名ですので、バリバリ右翼の本かと思いましたが違いました。

ここ20年ほどの日本経済の問題はデフレです。「ところが、長きにわたるデフレで国民の多くが苦しんでいるというのに、この世界最低水準のエリートたちは平気な顔をして新たな政策やら改革やらを試してみては、デフレを悪化させるということを繰り返してきた。そして、自分たちの改革が失敗すると、彼らは反省する代わりに、「日本人が内向きだからだ」「既得権益が守られているからだ」「少子高齢化が進んでいるからだ」などと言い募って、また新たな改革を仕掛けてきた」「テレビで「日本は外圧がないと変わらないから、TPPを梃子にして改革するしかない」などとほざいた評論家や元官僚、あるいは現役の国会議員を見て、何も感じないのか。日本人を侮辱する発言だとは思わないのか」「だから、何の躊躇もなく宣言させてもらう。「売国奴に告ぐ!神妙にお縄を頂戴しろい!」」そうだそうだ!

本書では小泉政権以降の新自由主義と構造改革、昨今のTPP推進や増税がいかにまやかしであり日本経済にとって有害であるかを舌鋒鋭く攻撃しています。中野さんと三橋さんが主張されていることは、現在の経済学の主流派の主張からはいささか外れていますが、経済学という学問そのものが米国を中心として発展し、米国にとって都合のよい主義主張をその他諸国に押し付けるために創られたようなものですから、経済学界の主流派の主張から外れているからといってバカにしてはいけません。日本では学界の主流から外れることなどを主張しようものなら即座に却下されるか無視されてしまいますが、長引く経済的混乱を鑑みれば、中野さんや三橋さんの主張に耳を傾ける必要は大いにあるのではないでしょうか。

ところで、本書には90年代に官僚が構造改革に染まった理由として、もう1つ僕が考えているのは、その時期、戦前・戦中を経験している世代が引退したことです。言い換えると日本の90年代とは、戦後に大して苦労もしていない連中が天下を獲り出した時代なのです」と書かれています。このころ偉くなったのは団塊の世代。私なんかこの世代に阻まれてバブルのときだって大して良い思いができなかったぞ。今から10年ほど前、私と同年代のヘッドハンターから「団塊の世代が定年になれば日本は良くなるだろう」って聞いたんですが、ダメでしたね。今じゃ団塊の世代が死なない限り日本は良くならない!!って思うんですが、どうでしょうか。

特に日本経済新聞ばかり読んでいるビジネスマンには是非読んでいただきたい本書でした。たまには毛色の違う主張も読んで色々考えてみましょうよ。

 

 

内田 樹・中沢 新一日本の文脈』角川書店

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「日本辺境論」の内田さんと「日本の大転換」の中沢さんの対談集です。東日本大震災とその復旧復興を通じてさまざまな問題が明らかになったことによって、これからの日本をああしよう、こうしなくては、という議論が一気に盛んになりました。本書は内田さんと中沢さんという戦後生まれの思想家二人がこれからの「日本の文脈」について語りつくしています。

ところで、本書の最初の方にお二人が呼吸法、意識と無意識などについて語り合っている場面が出てくるのですが、一読して私の認識というか理解の仕方とぴったり同じであることに一驚いたしました。あらま、私の哲学とか思想の理解もまんざら捨てたもんではないのね。ウヒヒ。

ところで、皆さん車とかオーディオの世界で語られている“オカルトグッズ”ってご存知でしょうか。これを貼ると燃費が良くなるとかこれを塗ると音が良くなるって商品です。実は私、こう言ったインチキ臭いオカルトグッズが結構好きで、色々持っています。あんまり高くないヤツだけど。理屈は分からなくても、もし車やオーディオに良い影響があるんなら面白いじゃないですか。でも、世の中にはこう言ったオカルトグッズを毛嫌いする人がいますよね。そんな人は大抵「そんなもん科学的におかしい」とか、「本当なら大メーカーがこぞって使ってるはずだ」なんて言うんですが、絶対に自分では手を出さない。結構無駄金を使うことになりますのでそんなもの買わないというのは賢明といえば賢明なのでしょうが、自分で実証することもせずに否定だけ、というのでは、何も新しいものは見えてきません。頭から信じ込んでしまうのも問題でしょうが、上っ面の言葉だけで分かったような気になって否定してしまうのも同じく何も生み出さない気がします。中沢さんが思想を言葉ではなく身体感覚で理解することの重要性について、「からだを通して出てくることの重要性を、僕はチベット人から徹底的に叩き込まれました」と書いているのを読んでそんなことを感じました。

対談集ですので一貫したテーマが語られているわけではありません。が、その分私たち一般読者にも読みやすく仕上げっています。ぜひご一読を。

 

 

適菜 収『脳内ニーチェ』朝日新聞出版 

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早稲田大学で哲学と西洋文学を学び、ニーチェの著作の翻訳なども手掛けてきた適菜さんが、没落しかけている3.11後の日本に対してニーチェならどのような処方箋を下すのであろうか、そして世界を、地球を滅亡から救うためにニーチェなら何をなすべきだと言ったのだろうか、ということを荒唐無稽な設定の下描いています。設定はぶっ飛んでいますが、内容的にはニーチェの思想を素人にも分かりやすく解説してくれています。適菜さんはニーチェを専攻されていたようですから、軽い設定の割にはニーチェの考え方がきちんと語られているようです。

私、ニーチェに関しては全くの素人なんですが、相当過激なことを19世紀末に語っていたようですね。現代社会はプラトンの毒、パウロの毒、ルターの毒、ルソーの毒に侵されている、なんて、西洋文明、キリスト教文明、民主主義、資本主義など諸々の因って来たるものを全否定してしまっているではありませんか。とは言え、登場人物たちの会話に何気なくちりばめられている解説を読むと、私にはなるほどと納得できるものでした。

過激なニヒリズムで何もかも否定したように思われているニーチェですが、意外にもニーチェが重視していたのは、「朝にいっぱいの紅茶を飲むといった日常の決め事。人類の歴史を慎重に扱うこと。激情に流されないこと。能力に応じて、目の前の仕事をこなすこと」なんだそうです。へー。

さて、ニーチェは地球を滅亡から救うことはできたのでしょうか。

 

 

ジョージ・ソロス 藤井清美訳『ソロスの警告 ユーロが世界経済を破壊する』徳間書店

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最近クォンタム・ファンドは外部資金の運用を止め、ソロスさん個人・家族の資産運用会社になったそうですが、ま、依然として伝説の投資家のようでありますね。ソロスさんは何度か類書を発表、世界中でベストセラーになっているようです。

本書のメインテーマはユーロ圏を存続させ、世界経済のクラッシュを防ぐには何をしたらいいのかという提言です。時系列的にソロスさんが様々な媒体に発表した論説が掲載されていますので、それまでの経緯、ソロスさんの考え方などが良く分かると思います。論説を通じて発表された処方箋ですが、結局のところ無視されたそうです。で、今のような状況に陥っちゃったと。

バブルの崩壊といった金融危機はこれまでも起こってきましたが、20世紀の終盤からの危機の連鎖は、米国のS&Lの危機、アジアの金融危機、ITバブルの崩壊、米国のサブプライム危機、そして昨今のユーロ危機と途切れる事がありません。なぜかって言うと、それぞれの危機が根本的に解決されたわけではないから。直近のユーロ危機にしたって、ユーロのはらむ根本的矛盾(金融政策は統一されているのに財政政策はバラバラ)は是正されていません。そりゃ表面的につくろったってそのうちおかしくなりますよね。

まあ、こう言っては何ですが、現代の金融界ってのは欧米のエリートが牛耳っていて(文字通り米国と西欧諸国、その他諸国ではかろうじて日本がオブザーバーってとこでしょうか)、何か不都合があるとその他諸国に奉加帳を回して取り敢えず金が回るようにして一件落着、ってのが常態化していたんではないでしょうか。だもんで性懲りもなくあちこちでバブルが起きては崩壊ってのが続くんです。ジョージ・ソロスだってそれで儲けた一味だったんじゃないかなあ。

それはともかく、ソロスさんは市場原理主義を批判しています。グローバル化にしても、「グローバル化のおかげで、アメリカは他国の貯蓄を吸い上げて、生産を上回る消費を行えるようになった」としています。平たく言えば、カツアゲした金で遊んでるってことですよね。そりゃ行きづまるわ。

ソロスさんはユーロ存続をのシナリオを示していますが、その通り実現するのでしょうか。日本のバブル崩壊のときだってソフトランディングだって言っていた割には処理に多大の痛みと後遺症が伴いました。私はヨーロッパやアメリカのエリートがやったって日本と同じデフレスパイラルに巻き込まれちゃうと思いますよ。だってエリートって大衆のことなんか気にしないで食い物にするだけでしょ。それじゃあ皆が幸せになれないじゃないですか。皆が幸せになれないシステムなんてうまくいくはずないですよね。

 

 

20126

西條 剛央人を助けるすんごい仕組み』ダイヤモンド社

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東日本大震災の直後からさまざまな支援の手が差し伸べられたはずですが、政府や行政の支援は遅々として有効な手だてが取られていないようにも感じられました。早稲田大学大学院で心理学と哲学を教えておられる西條さんもそんな状態に疑問を抱き、自分も何かしなくては、とボランティアに名乗りを上げました。しかし、なにぶんにも初体験。何をどうしたら良いのか、と考えたところ、ご自分の専門である「構造構成主義」が役に立つことを発見、現在では西條さんの立ち上げた「行政を通さずに必要としている人に必要なものを必要な分だけダイレクトに届ける」「ふんばろう東日本支援プロジェクト」は数あるボランティア団体の中でも最も成功したと評価されているようです。本書は西條さんがどのようにしてこの支援組織を作っていったかの記録です。

なぜ「構造構成主義」が役に立ったのかというと、「構造構成主義は、固定的な方法が役に立たないような、まったく未知の状況、変化の激しい環境において、ゼロベースでその都度有効な方法を打ち出していくための考え方だからです。また、信念対立を解き明かす考え方でもあるため、対立に足を取られることなく、物事を建設的に前に進めていきやすくなります」

前例踏襲とイデオロギー的な対立(っていうか、感情的な好き嫌いにしか思えない不毛なレッテル貼り)でにっちもさっちもいかなくなっている現在の日本の行政・司法・立法、それに産業界やマスコミ界にも役に立てていただきたい考え方でありますね。

「ふんばろう」の組織は西條さんがトップに立つ組織でも営利組織でもありません。ボランティアの集まり。そのような組織が時々刻々変化する現場の状況やニーズに応えなくてはなりません。その際の指針が「方法の原理」なのだそうです。

「そういうときこそ、「方法の原理」を視点とすることで「有効な方法とは情況と目的に応じて決まるんだな。被災者の支援という目的は変わっていないけど、情況は変わっているから、今日はこういう風に動いてみよう」と、情況に対応しながらもブレることなく的確な判断がしやすくなる」のだそうです。

なるほど。現場にいる個人もちゃんと考えなくてはならないのですね。西條さんの組織を支えるのは「考えることができる」人たちなんですね。

東日本大震災という現実のプロジェクトに応用されていますので、言葉だけで説明されたのでは分かりにくいであろう「構造構成主義」が分かりやすく解説されています。私の専門であるコンプライアンスの推進に大いに活用できるであろう知見もたくさん掲載されています。口先だけで考えているふりをしている政治家の方々や、前例主義にどっぷりとはまって状況の変化なぞには一顧だにしないお役人の方々にもぜひお読みいただきたい本書でした。その他の皆様もぜひご一読を。

 

 

西條 剛央構造構成主義とは何か 次世代人間科学の原理』北大路書房

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上記、西條さんの書かれた『人を助けるすんごい仕組み』を読んで「構造構成主義」にいたく感心いたしましたので、「構造構成主義」をより体系的に解説している本書も読んでみることにしました。

西條さんは(謙遜も込めて)「構造構成主義の構成要素となっている諸概念自体は目新しい概念ではないかもしれない」と書いています。が、それに続けて「人間は当たり前のことを、当たり前であるゆえに、当たり前のように見失ってしまう存在であり、それは研究者といえども例外ではない(私を含め)。否、むしろ研究者は専門性が高いがゆえに、視野が狭くなり、一般の人々にとって当たり前のことを見失いがちになる」と、東日本大震災で露わになった原子力ムラの科学者たちの右往左往ぶりを予言していたかのように書いています。と言うより、構造構成主義というメタ理論が分からなければいくら様々な専門分野の専門家を動員したところでお互いに「おらがムラの論理」を振りかざすばかりで、三人寄れば文殊の知恵なんてのは夢の夢になるのは当然なのかもしれません。

ある分野の専門家であっても、異分野との協力体制を作り上げるスキルを持った人とそうでない人、あるいはそういうことを受け入れられる人と受け入れられない人がいることは、皆さんも経験されていることでしょう。異分野との協調体制を築ける人は「自他の関心を対象化して捉える認識力に長けていること、問題がこじれそうな時にその根源を突き止め解きほぐすことができること、自分だったらどうするかといった身に引きつける態度で建設的に考え、お互いの良さを引き出すといった「隠れスキル」とでもいうべき裏の技術もっている」のです。こういう方は、無意識にですが「構造構成主義」を実践しているわけです。このような「隠れスキル」をメタ理論(原理)として言葉で示したものが「構造構成主義」になるわけです。

お互いに自分だけが正しくて相手は間違っていると信じ込んでいて解決しようがない信念対立、全てが正しい、従って何も決められない相対主義、カッコだけで結局は何もしないニヒリズムなど不毛な議論を乗り越えて行くためのツールが「構造構成主義」です。ただし「構造構成主義」さえあれば人間の対立は全て乗り越えられるのだ、というわけではないでしょう。ただ、私は「構造構成主義」に大きな可能性を感じました。

いやあ、ここら辺の議論、「ムラの論理」への批判は私も指摘したところではありますが、さらにその解決策まで指し示しているのは、なるほど、でありますね。コンプライアンス推進など会社の中で同じ言葉で話しているはずなのに同床異夢になりやすい現場での議論の進め方などに大いに参考になるのではないでしょうか。

本書は専門家向けに書かれたようですので、私を含めた一般読者にはいささか難解すぎるかもしれません。それでもきわめて興味深い一冊でした。

 

高橋 哲哉犠牲のシステム 福島・沖縄』集英社新書

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本書では東京電力福島第一発電所の過酷事故で大いなる犠牲を払わされた「福島」と在日米軍専用施設面積の約74%が集中する「沖縄」の問題が取り上げられています。が、この「福島」と「沖縄」は戦後日本における「犠牲のシステム」は象徴的事例として取り上げられています。もしかしたら誰かを収奪することによってのみ維持されうるのでしょうか。どのようにしたらこのような「犠牲のシステム」を超克することができるのでしょうか。このような問題点を高橋さんが鋭い論考で明らかにしていきます。

原発事故の後も「フクシマ50」なんて言って決死隊のことを賞賛していましたが、良く考えればおかしいじゃないですか。放射能汚染がひどいのであればより多くの人間を順次投入して被曝を低く抑えなくてはならないはずなのに、被曝限度を引き上げることで対応しています。また、食事も貧弱、寝床も満足に確保できないといわれていましたが、食事も寝床も運びゃいいじゃないですか。なんでそんな金もかけられないのでしょうか。決死隊の方々を「偉い偉い」って褒めるだけで結局はポイ捨て。これが「犠牲のシステム」。

高橋さんはこの「犠牲のシステム」のことを「植民地主義」とも呼んでいます。植民地主義とは無論欧米各国が海外に植民地を持ち、植民地からの収奪によって経済的繁栄を図っていた時代のイデオロギーです。が、現代において植民地主義は無くなってしまった訳ではありません。現代社会では経済を発展させるために植民地、ないしはフロンティアを常に必要とする植民地資本主義、あるいはグローバリズムが幅を利かせています。私は、この収奪主義こそが資本主義の本質なのではないか、と疑っています。もしそうであれば、収奪すべきフロンティアが無くなった時点で資本主義はジ・エンドのはずなんですが、どうなのでしょうか。

沖縄の「犠牲のシステム」は頓挫してしまった鳩山政権の普天間基地の「最低でも県外移設」の公約により、そして福島の「犠牲のシステム」は東日本大震災によって明るみに出てしまい、多くの日本人の気付くところとなりました。でも、気付いただけじゃダメ。何とかしなくちゃ。

ところで、なぜこのような収奪主義、「犠牲のシステム」が分かっているのに滅びないのか、というと、幾重にも偽装網やら防護柵が施されているからです。それだけじゃなく、犠牲にされる側も収奪システムに組み込まれていて、良く考えると収奪する側にも立っているからです。で、がんじがらめ。批判しようと思っても、「お前が偉そうに言うな」って言われちゃってお終い。でも、そこで立ち止まってしまっては元の黙阿弥。何とかしなくちゃ。そんなときに「構造構成主義」が役に立つ、かな。

いつもながら、高橋さんの著作を読んでいると、ふつふつと怒りがこみ上げてきますね(高橋さんに対してじゃありませんよ)。ぜひご一読を。

 

 

高橋 哲哉状況への発言 靖国そして教育』青土社

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以前から靖国公式参拝や愛国心教育の推進など国家主義的傾向に反対してきた高橋さんが2005年から2007年にかけて発表した論考をまとめたのが本書です。日本の政治状況は小泉政権末期から阿部政権の終焉までということになるようです。その後の民主党政権の樹立により日本の進路は変わるかに思われたのですが、昨今の状況は皆さんもご存知の通り。いやあ、日本人のメンタリティーってのは変わらないものですねえ。

でも、今私が懸念している日本人のメンタリティーってのは戦前、それも明治の後半から昭和の前半までの短い期間に確立されたように思われていますが本当なんでしょうか。明治の元勲たちは偉かったけど、その後のエリートたちは堕落したかのように思われています。司馬遼太郎さんの作品などはその方向で書かれていますよね。でも、民族のメンタリティーなんてものが一朝一夕に変わらないのであれば、江戸時代の日本人(とは思ってなかっただろうけど)だって大して変わらなかったのかもしれませんねえ。どなたかご存じではありますまいか。

ところで、高橋さんも本書で指摘しているところではありますが、昨今日本で取り沙汰される「日本の伝統文化」ですが、実はさして古くないものが多いことをご存知でしょうか。初詣のメッカ明治神宮は当然のことながら明治天皇崩御の後に作られましたので大正時代に創られたものです。靖国神社も東京招魂社として創建されたのは明治2年、何かと話題になる君が代も作曲されたのは明治時代です。伝統、って言う割にはあまり古くはないですね。

靖国問題の参考には同じ著者の『靖国問題をご参照ください。

 

 

20125

マーク・シャツカー 野口深雪訳『ステーキ! 世界一の牛肉を探す旅』中央公論社

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『ステーキ』という本としては異常な題名に惹かれて買ってしまいました。

ステーキ好きなシャツカーさん、世界一のステーキを食さんとアメリカ、フランス、イギリス、イタリア、日本とステーキを食べ歩き、挙句の果ては自分で牛を飼い始めた、というまことにアホとしか言いようのない牛肉フェチです。

シャツカーさんは「商売繁盛を祝うのに、「チキンでもどう?」なんて誰も言わない。独身最後のパーティーで厚さ5センチのタラは出ない。特別の日に求められるのはステーキだ」、だからステーキは別格の食べ物なのだ、と書いています。ま、日本でもそれに近いものがありますね。

ところで、牛肉のサシ信仰ってのは日本だけのものだと思っていたんですが、サシ(marbling)の多い肉ほど良い牛肉だという考え方はアメリカのUSDA(米国農務省)の基準にもちゃんと入ってます。

逆に、サシ信仰の反対の赤身に赤身の肉信仰ってのもあります。本書の中で、健康に牧草を食べて正しく育てられた牛の肉をシャツカーさんが食べる場面が出てきますが、「防弾チョッキかと思うほど堅い」肉で、ごみ箱に直行するほどまずかったそうです。家畜として育てられる歴史の中で、人間の味覚に合うように改良されてきたんですね。工業製品みたいにケージの中で成長ホルモンと抗生物質漬けになって育てられる牛の肉もぞっとしませんが、草を食べて育った牛の肉なら何でもおいしい、というのも単なる思い込みかもしれませんね。

シャツカーさんのステーキの旅には当然日本も含まれています。でも、真っ先に高級店ではありますが、×××というチェーン店に行ってしまったのはどういうわけでしょうか。ここは英語が通じるので外人の接待向けであることは確かですが。もっとも、その後ちゃんと松阪なんかにも取材していますし、米国流テッパンヤキのパフォーマンスは日本の鉄板焼きとは似ても似つかぬものであることなんかもちゃんと記していますのでなかなかよく観察しているとはいえるでしょうが。

シャツカーさんは日本で牛タンの焼いたもの(焼き肉屋さんでよく出てくるみたいなやつ)を食べて絶賛しています。日本で食べたどんなステーキよりも美味しかったって。何でだろうと思ったら、「直火焼きの牛タンの喜びを享受しているのはアジア人だけのように思える。アルゼンチン人は茹でるし、北米人は手をつけようとしない」んですって。あまりにもマグロがおいしいと宣伝したので世界中でマグロが食べられるようになり、資源の枯渇とか言われてマグロが食べられなくなっちゃいそうです。牛タンではぜひこの二の舞を避けたいものです。外人を接待しても牛タンを食べさせるのは止めましょう。なんちゃって。

牛肉にまつわるうんちく満載の本書。さあ、今日はステーキだ!?

 

 

永山 久夫戦国の食術』学研新書

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食文化史研究家の永山さんが、戦国武将たちの食べていたもの、そして兵隊たちに食べさせていたものを紐解いて行きます。戦国時代の武将だって兵站の重要性は十二分に意識していました。今風に言うとミリ飯ってやつですか。それも、ただ単に食わせりゃいいだろう、というのではなく、ここぞ、と言う時には無理をしてでもいいものを食わせて士気を上げる、なんてことを意識的にやっていたようです。ここら辺のインサイドワークが抜群にうまかったのは豊臣秀吉らしいですが、その秀吉も朝鮮出兵では目論見が外れて兵站が持たず、負け戦を余儀なくされました。

また、戦場で戦うことを常に意識していた武士たちは日々精進に励み、贅沢を戒めていたので、食生活も意外とストイック。現代の目から見ればいたって健康的な生活をしていたようで、戦場で命を落とさない限り意外と長命であったようです。

戦国の世の食べ物と言うちょっと変わった題材を取り上げた本書ですが、意外なところに健康の秘訣はあるのかもしれませんね。

 

 

中村 安希食べる。』集英社  

 

気鋭のノンフィクション作家の中村さんが世界各地を旅した経験を基に、食べることから浮かび上がる異国に人々の心温まる情景を描いたエッセイ集です。中村さんは二年間に47カ国を旅し、『インパラの朝』で第七回開高健ノンフィクション賞を受賞されました。受賞した賞の名前からも、食への関心が強そうだなとは想像はつきますね。

初っ端に出てくるのは旅人に“ゲロ雑巾”と呼ばれている、「ゲロみたいに酸っぱくて、ほんとうにボロボロの雑巾みたいな色」をしているエチオピア料理。その後に出てくる料理も、いわゆる美食とは程遠い、庶民の料理が中心。いわゆるソウル・フードってやつでしょうか。日本のソウル・フードとして取り上げられているのはラーメンと獣肉。え、日本で獣肉ってなんだ、と思われた方は是非ご一読を。  

 

中村 生雄肉食妻帯考 日本仏教の発生』青土社

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著者の中村さんは宗教思想史の学者ですが、2010年、急性骨髄性白血病で亡くなりました。本書は中村さんの残した遺稿の中から関連性のあるテーマをピックアップしてまとめられたものです。

日本の仏教界では僧侶たちに肉食妻帯が許されています。根拠は明治5年に出された「肉食妻帯勝手タルベシ」という太政官布告。政府がオーケーですよって。でも、いくら俗世の政府が良いよって言ったからって奥さんもらっちゃうってのはいくらなんでも変なんじゃないのってんで、肉食妻帯している日本の僧侶は世界的な宗教者の集まりでもいまいち重きを置かれないんだ、なんて書かれているのを目にしたことがあります。でも、じゃあ仏教において何で肉食妻帯がいけないのか、と言われるとその根拠は今一つ明確ではないのだそうです。

例えば、インドの僧侶は托鉢をし、出された料理は何でも食べなくてはなりません。だから、釈迦だって肉も食べていたそうです。確かに殺生戒はありますが、植物だって生きているわけですから、何でもかんでもダメ、ってなっちゃうと、断食して死ぬしかなくなっちゃいますよね。肉食のタブーはむしろ大乗仏教において強いそうです。

また、釈迦の定めた戒律では、妻帯はおろか女性に接触することも禁じています。が、これはいわゆる小乗の戒律。これに対して日本に伝わってきた大乗仏教はいわば在家の宗教運動。ところが、これらに日本に古来存在するあれこれが合体、なぜか小乗の具足戒と大乗仏教、さらにその他諸々か混在する状況が日本に生まれてしまった訳です。教義を突き詰めると矛盾というか無理が生じる。だもんで日本では太政官布告の前から生臭坊主が全盛だったんですね。表向きはともかく、般若湯は飲むは事実上の奥さんはいるは。ま、そういう流れの中から親鸞も生まれたのだ、と。あ、そう言えば生臭坊主って言葉はあるけど生臭神主って言葉はないって。何ででしょ。

まあしかし、中村さんはこのような日本仏教を否定的に捉えているのではないようです。こんなごた混ぜで何でもありな日本仏教を、これが日本文化なんだ、これで良いんだ、と肯定的に捉えているようです。もっとも、日本文化の別の側面として今でも体育会系のストイックすぎる練習風景に垣間見られる極端な精神主義や思いっきり画一主義なところも存在します。私としてはこんな側面はご免こうむりたいなあ。

日本文化を肉食妻帯という視点から眺めた文化評論です。ご興味のある方は是非ご一読を。

 

20124  

小澤 征爾、村上 春樹『小澤征爾さんと音楽について話をする』新潮社

 

ご存知、日本の誇る指揮者小澤征爾さんと、ノーベル文学賞の有力候補とも言われる村上春樹さんの対談集です。本書は小澤さんが大病を得て休養しているという、本来であれば超多忙な小澤さんが対談に時間を割ける、音楽ファンにとっては幸運とも言える時間が与えられたことによって実現しました。

村上さんは熱心なジャズファンでもありますが、それに負けず劣らずクラシック音楽の熱心なファンなのだそうです。ただし、音楽教育を受けているわけではありませんし、対談を読む限りでは自分で演奏を楽しんでいるのでもないようです。本書では一流の作家が一流の音楽家と芸術一般について討論をする、というのではなく、レコードやCDなどの録音媒体を通して音楽を楽しむことの多い一般的な音楽ファンが小澤征爾と言うプロの音楽家に音楽のあれこれを話してもらう、という体裁になっています。小澤さんは音楽家ですが、一般の音楽ファンに向けて平易に音楽について語るのは初めての試みであったようです。対談の記録として、音楽のプロの目を通してではなく、村上さんと言う一流の作家であるとは言え音楽とはジャンルの違う分野のプロの記録者を得たことは、小澤さんにとってはラッキーなことであったかもしれません。

録音技術の発明は音楽史上でも大きな事件であると『音楽史を変えた五つの発明』でも取り上げられていますが、録音技術そのものの発展も演奏方法に大きな影響を及ぼしていると本書では指摘されています。録音技術が良くない時代は残響が長いホールでの録音が良しとされていました。残響が長いと音楽が一体となって聴こえますからね。ところが、CDの登場で細かいところまで聴こえるようになりましたので、それに対応した録音、そして演奏方法が好まれるようになったそうです。本書では取り上げられていませんが、ロマンチックな演奏が好まれたり、コンクール映えのする原典に忠実で正確な演奏が好まれたりと言った演奏スタイルの変遷にも技術の進歩は影響を与えているのかもしれませんね。

小澤さんは指揮者として長く活躍されてきた方(マエストロ、巨匠!ですからね)ですので、多くの音楽家とも知己があります。その批評みたいな(余り批判的なことは話していませんが)ディテールが面白かったですね。天才肌で楽団員との平等感を大切にしたバーンスタインと自分の音楽を頑として守りとおそうとしたカラヤンとの比較なども身近にいた小澤さんだからこそ描けたのだと思います。ただ、人の言うことなんて全く無視していたというカラヤンも、先にご紹介した『グレン・グールド 未来のピアニスト』では、「自分の芸術観とグールドのそれは一致する」、「みながなぜグールドを変人だと思うのか理解できない」なんて言っています。音楽のスタイルはグールドとカラヤンでは大分違うように思えますし、本書でもカラヤンとグールドの共演するレコードを聴いてお互い勝手に世界観を作っちゃってる、みたいな感想が語られています。音楽の評論ってのは難しいですねえ。

本書の特徴として、小澤さんと村上さんが実際にレコード(だかCDだか)を聴きながらああだこうだとしゃべっていますので、よほどの音楽マニアでないと付いていけない場合があります。私は手元に色々音楽の入ったiTunesがありましたので助かりました。皆さんもお読みになる時は何らかの工夫をどうぞ。本書がより深く楽しめると思います。

 

 

小澤 征爾ボクの音楽武者修行』新潮文庫  

 

本書は小澤さんが26歳のとき、まさに徒手空拳でヨーロッパに渡り大成功をおさめ、凱旋帰国、NHK交響楽団の指揮者に抜擢されるなどした1961年に書かれ、19624月に刊行されました。その後、かの有名なN響との事件をきっかけに活動の場をアメリカに移すことになります。本書は小澤さん自身がヨーロッパから家族に書き送った手紙がベースになっていますので、マエストロと呼ばれる前の小澤青年が気取りのない瑞々しい感性で音楽や欧米での生活について語っています。

ところで、小澤さんは満州出身。だから、というわけでもないのでしょうが、海外に対してアレルギーとか拒絶反応が不思議なほど全く感じられません。初めてヨーロッパに上陸したはずなのに「見慣れぬ風景も食物も、酒も空気も、なんの抵抗もなく素直に入ってくる。まるでヨーロッパで育った人間みたいに。美人もよく目に付いたが、気おくれなど全然感じない。大げさに言えば、美人が皆ぼくのために存在しているようにさえ思えた。音楽に対してもそうだ」ですって。いやあ、ずぶとい神経していますねえ。でも、それくらいじゃないと世界を股にかけての成功などおぼつかないのかもしれません。

もっとも、その後パリでホームシックになっちゃったそうですが。傑作なのは、そのときかかった医者から転地療養を勧められるものの「金がない」、と言うと、何と修道院に入りゃただ飯付きでいくらでも頭を冷やせると言われたそうです。いやあ、太っ腹な医者がいるもんですね。ちゃんと元気になったそうです。

文中、小澤さんが出会う誰もが小澤さんを助けてくれ、小澤さんはそれに応えてあれよあれよと言う間に成功を収めていくことには驚かされます。小澤さん自身が書いているのですから、書きたくないことは飛ばしているのかもしれませんが、ヨーロッパに渡り最初に応募した指揮コンクールで優勝、ミュンシュ、カラヤン、バーンスタインと言った名だたる指揮者に師事するなんてことの全部がほんのニ年か三年のうちに実現したのですから驚くほかありません。日本人で思い起こすのは空海ぐらい、と言ったら言い過ぎでしょうか。小澤さん本人を直接目にしたことはありませんが、おそらくオーラ全開、カリスマ性抜群なのでしょう。うらやましい限りです。

今から50年も昔に刊行された本書ではありますが、全く古臭い感じがしません。今読んでも面白いことは保証いたします。ぜひご一読を。小澤征爾が好きになりますよ。

 

 

小澤征爾・広中平祐著 プロデューサー荻元晴彦『やわらかな心を持つ』新潮文庫

 

書籍としてはへんてこりんな著者の表記がなされているのは本書が「オーケストラがやってきた」と「対談ドキュメント」というふたつのテレビ番組を基に製作されているからです。対談をまとめた本書は1977年に刊行されました。小澤さんと広中さんについては説明不要でしょう。もう一人の荻元さんは上記二つのテレビ番組を制作したテレビマンユニオンの創立者です。テレビ番組のプロデュースばかりではなく、サントリーホールやカザルスホールのプロデュースも行った方だそうです。

ところで、広中さんが小澤さんに、音楽の話はしたことあるけど数学の話はしたことないって話をしていました。確かにそうですよね。音楽ってのはたとえ専門家でなくても多くの人が楽しむことができます。別に楽器の名人とかオーケストレーションができるような音楽の専門家でなくても音楽に楽しみを見つけることは出来ます。音痴でもカラオケが好きって人もいますもんね。それなりの楽しみを見つけることができる。ところが、数学を楽しむってのはどうなんでしょうか。広中さんの言葉を読んでいると、やはり数学が面白いから数学者になった、という感じがひしひしと伝わっては来るのですが、じゃあ、どんな風に面白いんだ、とか、素人がどうやって数学を楽しみゃ良いんだ、なんてことは今一つ分かりませんね。やっぱ、頭が悪いのかな。

本書でかなりのページを通じて話題になっているのは教育の問題。ご自身の体験も交えて日本の教育、アメリカの教育、昔の教育、当時の教育などなどが語られています。

でも、私に言わせれば一番重要なのは多様性を認めることだと思うのですがいかがでしょうか。この世に誰にとってもベスト、唯一無二の教育方法などはありません。最近教育に多様性を認めない方々増えているように思います。世の中、違っている人がいるから面白いんじゃないですかね。軍隊式金太郎飴はいやだなあ。

 

 

小澤 征爾、武満 徹『音楽』新潮文庫

 

日本を代表する指揮者小澤征爾さんと同じく日本を代表する作曲家武満徹さんの対談集です。武満さんの方が5歳年上ですが、二人とも大陸生まれという共通項があります。

本書が書かれたのは1981年ですから、お二人ともすでに世界的な名声を得た後です。対談を読んで感じたのは、上記『ボクの音楽武者修行』に見られた瑞々しさが無くなって、偉そうな中年オヤジがあーだこーだと若いもんに難癖つけている感じ。うーん。

武満さんが途中で邦楽器を使った作品に触れて、「僕の『ノヴェンバー・ステップス』を鶴田錦史さんがやる時に、彼女が五線譜の読み方を勉強するというんですよ。僕はその時それはしないでください、とお願いしたの。そんなことをしたら肝心の彼女の音楽が失われてしまう」なんて言っています。なんだか、田舎者は田舎っぽいから価値があるんであって、田舎っぽさを失わないためにも文明の利器などと呼ばれる物の使用はできるだけ控えるべきだ、なんて言われているみたいで、イヤーな感じがします。

まあ私も当時のお二人と同じような年齢ですので、お二人のその気分、分かると言えば分かるんですが。もっともさらに30年経った『小澤征爾さんと音楽について話をする』では小澤さんも日本人のことをちゃんと褒めています。変わるもんですねえ。

ところで、本書ではかのN響事件のことも小澤さん本人がチラッとですが語っている部分があります。詳細はお読みいただきたいと思いますが、要するに会社のマネジメントと一緒。マネジメントと現場がちゃんと同じ方向を向いていないとだめってことです。社長だけがギャーギャー言っても現場がそっぽを向いていたらだめ。現場にいくら力があっても間違った方向に発揮されているようではだめ。組織の運営、なんてテーマで野球の監督なんかが講演に呼ばれますが、なるほどね。

音楽がどうのと言うより、二人の音楽家を通した文化評論といった趣の本書でした。

 

 

20123

アマルティア・セン 大門毅監訳、東郷えりか訳『アイデンティティと暴力』勁草書房

【送料無料】アイデンティティと暴力

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21世紀がスタートして早くも10年ほど経ちました。私たち20世紀生まれにとって、21世紀と言えば未来、バラ色の未来を意味していました。しかしながら、21世紀は不幸にも911を以ってスタート、その後も紛争の絶えない年月が続いています。本書においてノーベル経済学賞を受賞した経済学者でもあり、自身インドに生まれ「アイデンティティと暴力」にまつわる苦い体験をしてきたセンさんが「ハンチントンやサンデルらの過誤を指摘し、現代世界を読みとく新たな枠組みを提示」します。その肝は「アイデンティティは与えられたものではなく、理性によって「選択できる」」ということです。つまり、自分で考えて選べる、ということと、ある個人のアイデンティティとは単一のものではなく複数ある、ということです。

センさんはハンチントンなどが世に広めた文明論は、極めて乱暴にさまざまな文明を単純に規定してしまっている、と批判しています。ハンチントンによってヒンドゥー文明とされたインドにはどこの国よりも多くのイスラム教徒が住んでいると指摘しています。それだけではなく、同じヒンドゥー教徒にだって右から左まで色々な考え方を持つ人間がいるはずです。それを十派一絡げにこうだって決めつけちゃだめですよ。

また、現代西洋文明の十八番である民主主義も、世界の歴史を広く見れば、さまざまな地域で先験的な試みが行われていたことを指摘しています。西洋人が優れているから誰よりも早く素晴らしい民主主義を実現できたわけではない、ってことですね。アメリカ人なんかみんな勘違いしてるもんね。

「日本人だから」こうしなくてはならない、あんな風に考えてはならない、といった乱暴な議論が昨今目につきます。こういう議論をする人ってのは、とにかく自分では考えない。で、権威のある誰かがああ言った、こう言った、というのを鵜呑みにして私たちに押し付けるんです。自分で考えていないから理屈も何もなし。文句を言おうものなら居丈高に威嚇してきます。威嚇どころか鉄拳が飛んでくることもしばしば。

何でこのような考え方が生まれたかと言うと、欧米支配に対する反発から。反発しているだけですので、欧米流は何でもかんでもダメ、科学もダメ、民主主義もダメ、平等主義もだめ、ってなっちゃうんです。実は日本においても科学的思考や民主主義的思考は存在していたのですが、それらをひっくるめて否定してしまうことになるんです。これじゃ単なるコンプレックスの裏返しではありませんか。

ちゃんと自分の頭で考え、議論に議論を重ねようではありませんか。そして、自分とは異なる価値観を受け入れるだけの度量を持とうではありませんか。

 

 

増田 悦佐それでも「日本は死なない」これだけの理由』講談社

 

本書で豊田さんは「世界中で愚民政治と言えば、エリートがやりたい放題に好き勝手なことをするために大衆を愚鈍にとどめておくことだ。だが、世界で唯一、日本の愚民政治だけはまったく反対だ。エリートが勝手な悪事を働かないように、賢明な大衆が政治家や官僚や一流企業経営者を愚鈍なままにとどめておくことを指す」と喝破しています。日本のエリートは愚鈍かもしれませんが、好き勝手なことをやっているような気もしますがいかがでしょうか。

「一般大衆と同等の能力しか持たない人間が、たまたまクッションがよくてしっかりした肘掛けのついたイスに座っているだけという状態を保っている限り、日本は繁栄する」とも書いています。そうか、私が偉くなれないのは有能すぎるからか、と納得しそうになってしまいました。そんなわきゃないわな。

本書はいわゆるトンデモ本の一冊でしょうが、増田さんは大手外資系証券会社でアナリストを勤めていたこともある方ですので、数字の裏付けのある主張をしています。日本の未来はバラ色なんだ、と信じ切ってしまうのはどうかとも思いますが、本書の主張にも一理も二理もあるような気がします。洗脳されちゃったのかな?

 

 

有馬 哲夫日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』宝島社

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本書は「日本の「テレビ放送の父」そして「原子力の父」と呼ばれる正力松太郎は、CIAの対日心理戦協力者だった」ことを有馬さんがアメリカ公文書館で発掘した資料を基に暴いてゆきます。

ただし、CIAの協力者とはいっても別にスパイとして日本の重要機密をアメリカに流したとか、日本で謀略活動を行った、などと言うのではありません。むしろ、アメリカ政府内の対日政策を立案実行しているグループ(ジャパン・ハンドラーズでしょうかね)と密に連絡を取り合っていた日本側のキーパーソンのひとり、と言った方が適切なのかもしれません。ま、それじゃ本が売れないだろうけど。

ジャパン・ハンドラーズたちが何をしようとしていたのかと言うと、日本をアメリカ好みの国にすることと、二度とアメリカに歯向かわないようにすること。そんなこんなで今の日本が形作られたわけです。

アメリカは映画やラジオといったメディアを非常に戦略的に使ったことが知られています。その効力を熟知していたわけですから、戦後日本にテレビ放送網を導入しようと考えた時、さまざまな戦略的思惑があったであろうことは当然だと言えるでしょう。何の思惑もなしに日本の文化や経済発展に資するためにアメリカは協力を惜しまなかった、なんて考える方がどうかしています。当時の日本とアメリカの国力の違いを考えれば、日本は日本独自の道を歩むんだ、アメリカの協力なんか一切受けない、なんて考えるよりは協力してくれるんだったら利用しよう、と考えるのは国賊的というよりは合理的であり、必ずしも責められるものではないと言えるのではないでしょうか。

ところで、本書の内容もさることながら、なぜアメリカはこのような情報を一定の時間が経過したとはいえ公開しているのでしょうか。その答えは、アメリカ公文書館に刻まれた銘文に示されています。序章で紹介されているのは「過去から引き継がれたものは未来を生み出す種となる」、あとがきで紹介されているのは「民主主義の代価は、永遠に監視を続けることだ」。最近のWikiLeaksに対するアメリカ政府の対応などに鑑みると、公表された資料のうちどこまで真実なのかあるいは全てであるのか、はたまたインテリジェンス活動であるのかにわかに判断がつかない部分もあります。が、民主主義というものはそこまでひっくるめて、私たち国民が監視し、そして慈しんでこそ発展するものなのではないでしょうか。お上のやることだから、と丸投げにしないで少しでも関わっていくことが重要なのではないでしょうか。そんなことも東北・関東大震災を経験して考えました。ぜひご一読を。

 

 

クリストフ・ニック+ミシェル・エルチャニノフ 高野優訳『死のテレビ実験』河出書房新社

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テレビというものが普及したのは第二次世界大戦後のことです。普及し始めて100年もたっていません。が、その影響力は巨大なものがあります。それに伴い、番組の内容は低俗化の一途をたどっています。日本の民放各局のバラエティー番組もひどいと思いますが、ひどいのは何も日本に限らないようです。

アメリカでは賞金を獲得するため「生きたゴキブリを食べる」「芋虫がうようよしている水槽に頭を突っ込む」「豚の睾丸を砕いて牛の血とまぜ、それを飲み干す」「ミミズ風呂に入る」なんて番組があったそうです。ハンガリーではガラスケースの中につながれた挑戦者に対して一週間エサをやっていないネズミとタランチュラを放し「3分間耐えられたら賞金獲得できる」という番組があったそうです。書き写すだけで気色悪いな。

「賞金をもらうためなら何でもする。本来隠しておきたい私生活を公然とさらす。相手に屈辱感を与えたり、平気で暴力をふるう番組が画面にあふれ、見る側もそれを喜ぶ。このままエスカレートしていけば、テレビはいつか生放送で人を殺してしまうのではないか?」

この疑問を確かめるために著者たちはある実験を行いました。これは1960年代にアメリカで行われた有名な実験(通称アイヒマン実験(<権威>から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合でそれに服従するか)を基にしています。行われた実験は、「一般参加者80人を出題者として募集し、解答者(実は俳優)が間違えたら、最高で460ボルトまで電気ショックを与えるよう命令を与えた」というものです。

実験結果の詳細は本書をお読みいただきたいと思いますが、本書ではテレビと言う機械はただ単に映像を映し出すだけでなく、システムとして上手に使われると人を一方的に操ることが可能なのだ、ということが実験を通して描き出されています。洗脳、などという言葉が思い浮かびますが、そんな大仰な仕掛けではなく、ちょっとしたお願い(番組に参加して私たちのお手伝いをしていただけませんか)をするだけで、本を読んでいる私たちは絶対にしない、と思うようなことを簡単にやってしまうのです。本を読んでいる私たちは倫理感がしっかりしているのでそんなことはしない、のではなく、ただ単に立場が違うだけなのです。本を読んでいる私たちだって、その立場になれば簡単に同じことをしてしまうのです。

本書を読んで気がついたのは、このようなシステムや体制を用いた暗黙の強制というものは、なにもテレビの専売特許ではないことです。実は同じようなことは昔から手を変え品を変え行われてきたのです。「権力が私たちに服従を強いるやり方は大変巧妙なのです。『何かに服従するなんて弱い者のすることだ。自分は何でも自分の意思で選びとっている』、そんな風に言いながら、知らないうちに権力に服従していることはよくあるのです」

メディアその他の権威と言われる物が持つ力の恐ろしさの一端を垣間見せてくれる本書。ぜひご一読を。

 

20122

ハワード・グッドール音楽史を変えた五つの発明』白水社

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著者のグッドールさんは「ミスター・ビーン」のテーマ曲なども手掛けた音楽家だそうです。私「ミスター・ビーン」は好きだけど音楽は覚えていない……。

本書では音楽史に燦然と輝く五つの発明(発明された場所や時期が管理明確に特定できるもの)を取り上げています。その五つの発明とは、記譜法、オペラ、平均律、ピアノ、録音技術です。

この五つの中でも最重要であり、かつ説明がきわめて困難なのが平均律なのだそうです。平均律と言えばバッハ。私も弾けますよ。Cのプレリュードだけだけど。文句あっか。

純正律でちゃんとしたハーモニーとして聞こえるのは、オクターブ(1オクターブ上の音は周波数が2倍)と4度(ドとファ、周波数は4/3倍)、そして5度(ドとソ、周波数は3/2倍)です。で、この5度を12回重ねると7オクターブ上の同じ音になるはずなのですが、ならない。おかしいじゃねーか、ということで強制的に音を割り振って創られたのが平均律(半音階の周波数比は全て 倍)です。完全にハモらないんですが、違いはごくわずかなんで、まあ分からない。でも、絶対音感がある人にはスゲー気持ち悪く聞こえたりもするそうです。私にはそんなもん無いから関係ないけど。あと、移調が簡単にできる、他の楽器とも合わせやすい、なんて利点もあります。

バッハの平均律はハ長調から始まって24ある長調・短調の和音をベースにプレリュードとフーガを作曲したわけですが、こんな発想はそもそも平均律が存在しなければあり得ないのだそうです。なぜかと言うと、純正律で調律した楽器はその調しか弾けない(別の調を弾こうとすると極度に難しかったり、和音がハモらない)からです。また、メロディーではなくハーモニーを基調とする現在の音楽も、この平均律がないと成立しないそうです。

グッドールさんは「西洋クラシック音楽が私たちにもたらしたものは、民族音楽と比べても、より豊かでバラエティに富むものであったと認めないわけにはいかない」。「西洋音楽は、その間に記譜法を生み出し、絶え間ない進化を遂げながら、洗練された音楽としての伝統を守り続けた。これほど豊かな音楽を持つ文化は他に見当たらない」と自慢げに書いています。日本人としてはいささか面白くありませんが、たしかに三曲(三味線、琴、尺八の合奏)でも、基本はユニゾンです。合奏ではありますが、三味線も琴も尺八も同じメロディーを弾くんです。この場合、ハーモニーを楽しむというよりはメロディー(及びその楽器独特の装飾音)とそれぞれの楽器の音色を楽しむことが目的になっているわけです。

その一方で、現代において西洋音楽、特に和声を中心とした音楽の影響力はすさまじいものがあります。和声音楽ををぶっ壊そうとした現代音楽は逆にぶっ壊されてしまい、クラシック音楽界はいまだにベートーベンだモーツアルトだって言っているし、現代のポピュラー音楽も和声法や記譜法などは思いっきりクラシック音楽の伝統を受け継いでいます。だから邦楽なんて青息吐息だもんね。

と、さまざまなうんちくがつまった本書、音楽の本としては異色ですが、大変楽しませてくれる一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

青柳 いずみこグレン・グールド 未来のピアニスト』筑摩書房

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グレン・グールドと言えば、20世紀の巨匠達にも絶賛を浴びた天才ピアニストです。私もセンセーションを巻き起こしたデビュー盤ゴルドベルグ変奏曲と遺作となった二度目のゴルドベルグ変奏曲の両方持ってますよ。ま、中抜けなんだけど。 グールドは活動の場をレコードやCDといった録音媒体一本に絞った音楽家として有名ですが(31歳まではコンサート・ピアニストとしても活動したそうですが)、奇人変人としても有名でした。まず、どこへ行くにも持って歩いたといわれるやたらと低いピアノ用の椅子。低い椅子に腰かけているものですから、演奏中の恰好もピアノにぶら下がったオラウータンみたい。おまけに、演奏中ウーウー唸っているし。

ただし、ピアノ演奏にかけては早熟の天才であったそうです。まず、その読譜力と記憶力、テクニックはずば抜けており、難曲を初見でもやすやすと弾きこなして見せたそうです。その割にはあまり練習はせず、せいぜい1日1時間程度しかピアノに向かわなかったなんてエピソードもあります。コンサート・ピアニスト時代もコンサートの二週間ほど前から譜読みを開始、わずか一週間前から実際にピアノに向かったそうです。もっとも、演奏会では満足な演奏が出来ない極度のあがり症だと本人は思っていたようですが。ただし、演奏会ピアニストでもある青柳さんは、初期のグールドの公開演奏の録音を聞く限りでは、天才グールドには満足がいかなかったのかもしれませんが、いずれも素晴らしい演奏であったとしています。

とっつきにくい天才のイメージもあるグールドですが、それは本人が作り上げたイメージによるところも大きかったようです。アーティストのセルフ・プロデュースですね。死後公開された資料によると、オカマじゃないかと疑われていた割にはずいぶんとお盛んにアバンチュールも楽しまれたようですし、極端な偏食で幼児用ビスケットしか口にしないといわれていた割にはステーキにかぶりつく写真なんてのも出てきたそうです。

その音楽にしても、グールドの演奏は過激に速かったり遅かったりすることで有名ですが、初期の演奏会では必ずしもそのような演奏ではなく、正統的な演奏も多かったそうです。レコードでの特異な解釈なども、グールドにとってはそれが唯一無二の解釈だったから、ではなく、どちらかと言うと天の邪鬼な、何でもいいから今までと違うことを試してみたかったから、などと思わせるような発言もあったようです。モーツァルトのK311を録音した際、そのあまりにも遅いテンポがのちに物議をかもしたそうですが、この時グールドが言ったのは、「そら、これで連中(批評家)も手こずるだろうさ」。私たちはグールド・マジックにまんまと引っかかってしまったようですね。

この本を読みながら久しぶりにグールドのゴルドベルグ変奏曲を聴き直してみました。もう一度聴こう、と思わせる一冊でした。面白かった。

 

 

桜井 進、坂口 博樹音楽と数学の交差』大月書店

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著者の桜井さんは数学家、坂口さんは作曲家です。私がこの人本当に頭が良いなあ、と感心するのは、数学家や音楽家(作曲家)が多いようです。私の専門分野である経済学とか経営学なんてのを専門にしている人では、別の意味で感心することはありますが、頭の良いことで感心したなんてことは記憶にありませんねえ。

古代ギリシアでは数論、音楽、幾何学、天文学が数学として扱われていたそうですし、中世キリスト教世界における大学でも同じような扱いだったようです。ですから、中世の音楽はローマキリスト教会のレゾンデートるである三位一体論を賞賛するために三拍子の音楽ばかりだった、なんてのは余談です。

そんな桜井さんと坂口さんが音楽と数学についての考察を重ねていきます。始まりは音を数えるところから始まりおしまいには宇宙論にまで広がっていきます。

ところで、数字と数の違いが分かりますか?「数とは概念であって、数字とはその概念を表すための言葉」なのだそうです。ちょうど、音と音符の関係とも重なるそうです。なるほど。

本書の最後の方で、数学と物理学の違いが描かれています。「たまたま「この宇宙」に住んでいて、「あの宇宙」もあります。そうすると、ピタゴラスの定理というのは、「この宇宙」でも「あの宇宙」でも、直角三角形はあの関係なのです。ところが、アインシュタインの相対性理論は「あの宇宙」では成り立っていない可能性があります。光速度不変の原理なんていうのは、「この宇宙」だけかもしれません。これが物理学と数学の決定的な違いです」。なるほど。音楽は世界に通ずるとも言われています。ひょっとすると音楽は「この宇宙」でも「あの宇宙」でも通じるのかもしれません。そう言えば、昔の映画の「未知との遭遇」だかなんかで音楽を使って宇宙人とコミュニケーションをとる場面があったような気がしますねえ。まあ、そうだとしても、私の専門分野の経済学とか経営学なんてのは「この世界」、いや「この国」の中ですらてんでんばらばらだもんね。研究してるやつに頭が良いやつがいないわけだ。

音楽と数学、この深淵にして高邁な世界の一端に触れることのできる一冊でした。

 

 

天井 香織音楽と数学の怪しい関係』東洋出版

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浮世離れしたクラッシックの作曲家と相棒になる指揮者志望と称するの高校生の繰り広げるみょうちくりんな探偵物語。収録されている2編の短編の題名が「塩胡椒と殺人犯の無頓着な関係」と「音楽と数学の怪しい関係」ですから、まあ、正統的な推理小説ではなさそうだということは想像がつきますよね。

主人公が作曲家という設定ですので、作曲家にまつわるあれこれのディテールが笑わせてくれます。気軽に読める一冊でした。

20121

 

ニコラス・ウェイド 依田卓巳訳『宗教を生みだす本能NTT出版

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宗教は世界中のいたるところに存在しますし、存在し続けてきました。宗教は我々に極めて強いパワーを与えてくれることもありましたが、厄介な対立の源にもなってきました。宗教の存在は単なる偶然だったのでしょうか、それとも何らかの必然がもたらしたものだったのでしょうか。

本書で紹介している説は、宗教や道徳的感情は私たち個人の知的選択によって後天的に得られたものではなく、自然淘汰によって選択された形質に基づいた適応であり、そして適応であるならば遺伝的基盤があるはずだ、というものです。え、じゃあ、動物もそのような適応(あるいは宗教とか道徳的感情)を持っているの、という疑問が湧いてくるわけですが、程度の差こそあれそのような感情というか知恵(同じ組織の中では争わないとか)は持っている、と考えられるようです。このような考え方は原理主義的なキリスト教徒には受け入れにくいはずですが、日本人には結構すんなりと受け入れられるのではないでしょうか。

つまり宗教的感情(人への慈しみとか)なんてものは結構古代から存在してきたことになります。じゃあ昔から人間社会(動物社会も)きわめて平等主義的で平和だったのか、というとそうではなかったようです。最近の考古学的知見によれば、結構頻繁に殺し合いを含む争いはあったようです。これはチンパンジーなどの観察によっても裏付けされているそうです。チンパンジーってカワイイなんて言われていますが、はっきり言って頭の良い猛獣みたいなもんだそうですよ。あなたがアントニオ猪木ならともかく、うかつに近寄らない方が良いって。宗教も適応なら、戦闘本能も適応なんだって。平和と戦争は紙一重。

また、本書ではユダヤ教、キリスト教、イスラム教という中近東で発展した3つの宗教の起源にも詳しく触れていますが、私たちが普通知っている(というか知らされている)歴史とはかなり違った成り立ちが描かれています。そのような成り立ちを知れば、なんであんなにいがみ合っているかも分かる……かも。

宗教というテーマに異色の切り込み方をしている本書。ぜひご一読を。

 

 

アクセル・カーン 林昌弘訳『モラルのある人はそんなことはしない』トランスビュー

著者のカーン産は医師であり遺伝学者、そして現在はパリ・デカルト大学の学長を務めているという著名な科学者です。カーンさんの生命倫理に対する考え方はかなり保守的、と言うか自分自身指針で築き上げた倫理道徳を重視する考え方をしており、医師でありながら移植医療に関しても懐疑的なようです。ただ、だからと言って何でもかんでも「ダメ」というのではなく、妊娠中絶には賛成していますし、回復する見込みのない患者に対して「患者の生命の終焉を早めることに手を貸してきた」と告白しています。

カーンさんは「社会で倫理的な考察がクローズアップされる以前から、私はあたかもジョルダン氏が黙々と散文をつづってきたように、常に倫理を追求してきた。それが他者の目に奇異に映ったとしても、私の意思は長年にわたってゆるぎなく、時流にもほとんど影響されず、いわゆるポリティカル・コレクトネスに迎合することもなかった。時代の変化や新たな発見によっても、私の倫理的な見解はほとんど変わることがなかった」としょっぱなからぶちかましています。いやあ、びっくりした。石部金吉みたいな人かと思いましたが(だとするとこの本も面白くない)、カーンさんが自分の人生を振り返る場面(丸々第一章)で、おフランス語で言うところのアバンチュールなんてのもあったし、それが原因だかで離婚もしちゃったなんて告白しています。安心した。

ところで、翻訳者の方が最後にフランスの国家倫理諮問委員会のメッセージを紹介しています。「身体は人格そのものであって、だからこそ神聖なものである。人体の組織を商品化することはその人物に対する耐え難い侮辱的な行為であり、我が国の法律に根本的に違反する行為である。さらにこれは、文明が衰退する兆しでもある」。さらにカーンさん自身は「技術革新の科学的な価値が、道徳的な面で「理性的かつ人間的」である保証はなく、いかなる科学であっても、それ自体は良くも悪くもない。科学だけで社会的、道徳的な進化が約束されることはあり得ない」と表現しています。

私はカーンさんの意見に賛成いたします。どんな学問でも、どんな人でも万能ではないって。

ところで、カーンさんは道徳的な価値観とはそれぞれの人生を通じて形成されるものであって、決して生得的なものではないという見方をしています。前出のリドレーさんとは大きく異なる見方です。ただし、そんなカーンさんも今から4200年以上前に書かれた「ギルガメッシュ叙事詩」にも現代と同じような道徳倫理感を見ています。

本能なのか後天的に得られたものなのか。まだまだ人間には解き明かすことのできない謎が多くあるようです。謎がなくなったらそれこそ人類の歴史も終わっちゃいます。あーでもない、こーでもないと考えに耽っているからこそ人間なんじゃないでしょうか。あーでもない、こーでもないと考えさせられる一冊、ぜひご一読を。

 

 

マット・リドレー 大田直子・鍛原多恵子・柴田裕之訳『繁栄 上 』早川書房

 
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昔は良かった、なんて嘆きはエジプトのピラミッドだか何だかの落書きにも見られるそうです。日本でも江戸は世界に冠たるエコ都市で、なんてことを声高におっしゃる方も居られるようです。これに対してリドレーさんは真っ向から反論しています。「1800年以来、世界の人口は6倍になったが、平均寿命は2倍以上に伸び、実質所得は9倍以上になった」。1955年と比べてさえ、「戦争や殺人、出産、自己、竜巻、洪水、飢饉、百日咳、結核、マラリア、ジフテリア、発疹チフス、腸チフス、麻疹、天然痘、壊血病、ポリオで死ぬ確率も減った」としています。

まあ、統計的にはそうなんでしょう。でも、だからって幸福度が増したのだ、という断定にはいささか疑問を感じます。本書でもGNHで有名なブータンの話も出てきますが、幸せかどうかってのは、そこに生きている人がそれぞれ感じるものであって、絶対的なものではないような気がするのですがいかがでしょうか。幸せってのは他人の不幸を見ているときに湧きあがってくる感覚だ、ってビアスの『悪魔の辞典』に書いてあったような気がする。他人の不幸は蜜の味、とかね。

中国の田舎の大学に留学した日本人の女の子が中国人(女の子も)がそこらで野グソをしているのを見てビックラこいたけれど、何ヶ月かしたら自分も一緒に野グソしてたって。だからって中国人が不幸なわけでもないし、この日本人留学生が人間として退化したわけでもないもんね。大体、昔の人がそんなに悲惨で不幸な生活をしていたんなら、そして自分でもそう思っていたなら、人類なんてとっくに滅びちゃってるんじゃないの。

まあ、さすがに猿人とか原人に比べりゃ多少は進歩しているのかもしれませんが、ここ数千年じゃ人類に大した進歩はないんじゃないですかね。ローマ人の生活なんぞを覗いてみると、モノは進歩しているものの、人間の精神とか知性、理性なんてものは同レベルなんじゃないですか。

ただし、本書でリドレーさんが主張している「文明を駆動するものは何か」という考察は確かになるほどな、と思わせるものがあります。とにかく読んでいて面白く、いろいろ考えさせられる本でありました。リドレーさんの主張に賛成の方も反対の方もまずはご一読を。

 

 

A・キンブレル 福岡伸一訳『すばらしい人間部品産業』講談社

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最近、日本でも金銭(ついでに暴力団も)を介して養子縁組を行い、親族間の生体間臓器移植が行われたという事件がニュースになりました。何でばれちゃったかと言うと他にもドナーを探しており、そちらで金銭トラブルが発生したため。もしすんなりと金を払っていたら発覚しなかったのかもしれません。そう考えると、麗しい美談の親族間の生体間臓器移植ってのも結構怪しいものがありますね。上記カーンさんの本にも、「腎臓の機能不全(自己免疫性糸球体腎炎)が原因の自己免疫疾患は、男性の発病率よりも女性のほうが高いにもかかわらず、妻から夫への腎臓提供のほうが、その逆よりも多かった」というフランスの事例が紹介されています。

それだけではなく、もろに金銭の介在する臓器売買という先進医療の闇の部分は本書評でも城山英巳『中国臓器市場、梁石日『闇の子供たち』などご紹介してまいりました。はたして上記リドレーさんの本が主張するように科学の進歩というものを無批判に受け入れて良いのでしょうか。ここではご紹介しませんが、相当グロテスクな例が紹介されています。お読みになる場合、心して読んでください。

ところで、本書の翻訳者である福岡さんは青山学院大学教授でもある分子生物学者です。ある日アメリカで書店に入った福岡さんはふと原書を手にとりました。読み始めて衝撃を受け、これはぜひ日本でも読まれるべきだと確信したそうです。が、お硬い内容の本書、売れそうもないし、従って高い翻訳料も出せない、ということで翻訳の経験なんぞ全くなかった福岡さん本人が翻訳を担当することになったそうです。今回ご紹介するのはその改訂版です。

現役の分子生物学者が推奨するくらいですから、間違いなく面白く、かつ考えさせられる本でした。

 

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