2016年度の書評はこちら

 

201512

ジェイコブ・ソール 村井章子訳『帳簿の世界史』文芸春秋

 

フランスの太陽王ルイ14世は財政総監だったコルベールから「年に二回、自分の収入、支出、資産が記入された新しい帳簿を受け取った」のだそうです。が、コルベールが死去すると、この習慣をやめてしまいました。度重なる戦争やヴェルサイユ宮殿の建設といった金のかかる政治を行っていたルイ14世にとって、あまり見たくないものであったのでしょう。「よい会計は悪いことが起きたときに真実を教えてくれるが、ルイ14世は都合の悪いことは見て見ぬ振りをしたくなったらしい」ですって。ま、そんなこんなで革命が起こっちゃうわけです。

そう言えば、最近も何が何でもあと3日で利益目標を達成しろと部下にハッパをかけ、結局粉飾決算(不適切会計とか不正会計って言ってますけど)を行ってきた会社がありました。見たくないものは見ない、なかったことにしちゃう、戦時中の高級参謀みたいなことをやってたみたいですね。私はかねて、このようなこと(客観的事実を無視し、自分が信じたい主観のみを信じる)が失敗の原因であると指摘してまいりました。世の東西を問わず失敗の本質ってのは変わらないもののようですね。

ところで、本書の巻末には「帳簿の日本史」という付録が掲載されています。これによれば、日本でも江戸時代には日本独自の複式簿記があり、概念的にはP/LB/Sに相当するものが既に使われていたのだそうです。ですから、明治になり西洋式の複式簿記(福沢諭吉の日本語訳のはずです)が導入されると、計算に便利なアラビア数字と共にあっという間に普及したようです。日本の漢数字や、本書でも触れられているローマ数字では計算が著しく困難ですからねえ。ここらへんのお話は本書評でも以前ご紹介した『ゼロの迷宮』なんかもご参照ください。

よく会計操作などに明るいと優秀な経営者であるかのように誤解されますが、簿記が良くできたとしても、企業の経営に秀でているとは限りません。企業の経営者として会計知識があることは必要条件ではあるでしょうが、充分条件ではないのです。会計処理を厳しい規律を以て行い、その結果として産出された数字を基に次の経営を行っていかなくてはなりません。PDCAサイクルとかと同じことですよね。何か悪いところがあったら直さなくてはなりません。そうではありますが、正確な帳簿を付け続けるだけでも大変な困難が伴ったことは(現在でも)、本書を読めばよく分かります。物事基本が大切なようですね。

ところで、本書ではいかに欧米諸国が苦労をして国家にも複式簿記を用いた会計を導入したか、が語られています。とは言え、それは19世紀までのお話みたいです。日本でも話題にはなっていますが、かたくなに反対する勢力があるようで、依然として公会計には用いられていません。お隣のGDP世界第2位の大国も統計数値が全く信用できないと言われていますが、日本もそう負けていないんじゃないですかね。

激動する経済を読み解くうえでも会計知識は重要であると思われます。お金のことは専門家に任せておけば、なんて悠長なことも言ってられない激動の時代が来る、なんて予言もあります。是非ご一読を。

 

 

トーマス・セドラチェク 村井章子訳『善と悪の経済学』東洋経済新報社

 

セドラチェクさんはチェコ共和国の経済学者だそうです。1977年生まれですからまだ相当若いにもかかわらず、チェコ最大の銀行でマクロ経済担当のチーフエコノミストを務め、チェコ政府の国家経済会議のメンバーでもあったそうです。

セドラチェクさん自身が経済学者ではありますが、現代の経済学があまりにも数学に傾倒している(最近は心理学でしょうか)ことに警鐘を鳴らしています。「よい経済学者であるためには、よい数学者であると同時によい哲学者でなければならない」としています。まえがきを書いているハヴェル・チェコ共和国初代大統領は、もし経済学者がオーケストラの仕事の最適化を任されたら「ベートーベンの交響曲から休符を全部取ってしまうだろう。休符のときは何もしない。手は止まっている。だったら、楽団員にはその分の給料をやる必要はない」と考えるのではないかと皮肉っています。

前出の『帳簿の世界史』では「会計士は老衰や死をきれいに数字に変換して帳簿に記載し、本社に送る。本社からすれば、会計士の数字を見る限り、典型的な帝国主義者のクルツも、悪夢のような奴隷酷使の実態も、たいへん効率的で申し分ないと感じられるのだった」と書かれています。「人間の経済的行動については、精密な数学モデルから学べるのとすくなくとも同じくらい多くの知恵を、哲学、神話、宗教、詩から学ぶことができる」としています。私だったらこれに歴史も加えますかね。

ところで、本書で提唱されているのは「Max GDPからMin Debtへの転換」、つまり大きいことはいいことだ、という経済観からもっとエコに生きようじゃないのという生き方へ変えようじゃないの、ということです。先ごろ日本の予算の概算要求が提出されたようですが、なんと税収だけではなく半分以上は国の借金を当てにした100兆円越えの規模だそうです。S&Pも日本の格付けを引き下げたそうです。日本のお役人は税金を徴収することには熱心ですが、歳出を抑えることにはまるっきり熱意が感じられませんねえ。ヤバイんじゃないですかね。

本書はたいへん学際的なテイストで書かれています。何しろ本書、ギルガメシュの叙事詩を経済学的観点から読み直す、という話から始まっています。だから分厚い経済書にもかかわらず各国でベストセラーになったのでしょう。是非ご一読を。

 

 

ハジュン・チャン 酒井泰介訳『経済学の95%はただの常識にすぎない』東洋経済新報社

 

チャンさんはケンブリッジ大学で博士号を取得した経済学者です。そのチャンさんが「経済学の95%は常識である、ただ専門用語や数式などを使って難しく見せてあるだけだ」と言いきっちゃってます。ま、同感できますね。

経済学の新古典派における定義とは、「(経済学は)人間行動を、目的と、希少な汎用的手段との関連として研究する学問」というものなのだそうです。つまり、物理的に希少であったり効果であったりする手段をいかに効率的に用いて目的を達成するかという問題に還元されるわけです。ま、そう言うことですから世の中の森羅万象は経済学で説明できる、なんて主張する経済学者も出てくるわけです。が、チャンさんは「経済学の主題は経済であるべきであり、そこには金(かね)、仕事、技術、国際通商、税その他の材やサービスの生産、その過程で生まれた所得の配分やそうして生まれたモノの消費などが含まれるべきだ」としています。ま、一般的に私どもが考える経済現象を対象にすべきであり、恋愛とか結婚問題、犯罪なんかは経済学の対象とすべきではない、という“価値判断”を加えているようです。

私はかねて経済学は自然科学ではありえないと思っていました。チャンさんも「多くの新古典主義者たちのように、自分のやっていることは価値中立的な科学だと称するのは誤りだ」、「さまざまな技術概念や無機質なデータの裏には、ありとあらゆる価値判断がある」と指摘しています。経済学は価値判断、そしてその裏にあるイデオロギーやそれを可能にする時代背景や社会体制と不可分の関係にあります。ですから、経済学なんて宗教みたいなもんなわけです。いろんな宗教があって、またその中で色々に分派したりして。で、お互い仲が悪い。おまけにカルト的な怪しげな一団まであったり。いや、思った以上に類似点がありますねえ。

本書においても『善と悪の経済学』同様、経済の発展の歴史を振り返っています。その中に、産業革命期のエピソードとして、「週70時間から80時間労働は当たり前で、なかには週100時間労働で休みは日曜日の半日だけ」、労働者は「ハエのように死んでいき、マンチェスターの貧困地域では平均余命は17年だった」と書かれています。このような労働環境へのカウンターとしてカール・マルクスの「科学的社会主義」や「資本主義の問題は議会制民主主義を破壊することではなく、それを修正することで緩和できる」と信じる「社会改良主義」が生まれました。後者は「労働時間や労働条件、福祉国家の発展などをめぐる規制を提唱」しました。歴史的には現在の資本主義国家は「社会改良主義」の主張を取り入れることで発展を遂げてきたと私は信じていますが、昨今「労働時間や労働条件、福祉国家の発展」などくそくらえ、と言わんばかりの政策がどこかの国で導入されています。どうなっているのでしょうか。

世界がいろいろな面で曲がり角に立とうとしている現在、経済学、あるいは経済はどう変わるのか、どう変わるべきなのか、なんてことを考えさせる一冊でした。是非ご一読を。

 

 

江上 剛狂信者』幻冬舎

 

江上さんがファンド・ビジネスの闇を描きます。

本書に登場するユアサ投資顧問の運用方法によくオプションが登場します。「株式のオプション戦略では株式が買われすぎと判断する局面でのコールオプションを、売られすぎと判断する局面でプットオプションを……」なんて書かれていますが、これ、株なんて買われ過ぎているところでは売り、売られ過ぎているところでは買えばいくらでも儲けられる、って言っているのと同じ事なんです。それができるなら苦労しません。オプションとかボラティリティとかブラック・ショールズがとか、デルタがガンマが、なんて小難しい言葉を使ってごまかしてるだけなんですよ。必勝の投資理論があるんだったら自分の金で投資すりゃいいんです。

ま、普通には必勝方法なんてないんです。本書評では何度も森永卓郎先生が言っていた言葉を引用しています。森永先生によれば「何人も年収二千万円以上って人を知っているけど、よっぽど運が良いか、悪いことをしている人だ」って。本書に登場するユアサ投資顧問は……、本書をお読みください。

 

 

201511

 吉田敏浩・新原昭治・末浪靖司検証・法治国家崩壊』創元社

 

1959330日、「砂川事件」に関して東京地裁で言いわたされた、「米軍の日本駐留は憲法第9条に違反している」という一審判決」が出ました。これに不満を持ったアメリカ政府は日本政府に対して圧力をかけ、最高裁における「米軍の日本駐留は違憲ではない」という判決を勝ち取りました。このような内幕は当然国民の目からは隠されていたのですが、「アメリカ政府解禁秘密文書」によって明らかになってしまいました。平たく言えば、日本なんてアメリカの占領地、植民地なんだから、ごちゃごちゃ言わずに言うことを聞け、って言われて日本国政府は唯々諾々と従った、ということです。これが戦後レジーム。

「砂川事件」の判決といえば、最近安倍政権が集団的自衛権の行使の容認になるとして持ち出してきましたので、再度話題になりました。この時の最高裁判所の判決がどのような背景を経て下されたのかをよくよく考えてみれば、私としては納得しがたいものを感じます。もっとも、集団的自衛権容認派からしてみれば、日本国政府の関知しない情報なんぞ知ったことか、何だかんだ言ったって最高権威である最高裁判所が公式にそのように判断してるんだから、いいじゃないか、ってなるんでしょう。

しかし、1959年って言えば、日本とアメリカの戦争が終わってから14年しか経っていません。ではありますが、日本を取り巻く状況は大きく変わっていました。アメリカの日本占領の当初の目的は何と言っても日本を再びアメリカ様に刃向うような真似をしないように牙を抜くことにあったのでしょうが、中国における革命の成功、朝鮮戦争、冷戦などが起こり、アメリカの世界戦略の歯車として日本を使おう、ということになったのでしょう。ま、いずれにせよ日本なんぞは占領地か植民地、日本人だって良くて奴隷、悪くすりゃ家畜程度にしか思われてなかったんでしょうが。いいように使われているんです。

ま、いいようにされている日本ですが、このような暴露本が出されても、国民の間からさしたる反応はありません。まあ、アメリカ政府のやっていることも気に入らないけれど、だからと言って日本の政府が全面的に取って代わったって、さして違いはないんでないの、と皆さんが思っているからでしょう。軍人が威張り散らしていた戦前の日本とアメリカの属国になり下がってしまった現在の日本とどちらが良いか、と聞かれても、うーん、としか言いようがないですよねえ。属国もいやだけど国民をただで使える兵器の一部ぐらいにか思っていない政府ってのもぞっとしませんからねえ。

 

 

孫崎 享、鈴木 邦男いま語らねばならない戦前史の真相』現代書館

 

孫崎さんはハト派の元外務省官僚、鈴木さんは泣く子も黙るバリバリの右翼組織「一水会」の顧問。心情的軟弱左翼の私としては鈴木さんの著作などあまりお近づきになることはないはずですが、これまでも佐高信さんとの共著左翼・右翼がわかる!』、単著の『歴史に学ぶな』と2冊も紹介してきました。あれま。

そんなお二人が本書では「幕末の黒船来航から、第二次世界大戦終結のためミズーリ号での降伏文書調印までの時代」について語り合っています。今だって世界情勢があーでこーで大変なわけですが、明治維新後の日本人が直面していた問題の重大度ははるかに上だったのではないでしょうか。何しろ明治時代は世界の列強に伍して戦い抜こうとした時代、片や現在は何事においても宗主国米国様の陰に隠れて、ご主人様のご意向に逆らわないように、目立たないように、ってのが行動原理みたいですもんね。とは言え、その明治体制も「国を護るために戦争をやるべし」という「狂気の愛国心」によって木端微塵にされちゃったんですけどね。

なぜそうなっちゃたのか、の大きな原因として挙げられているのが日清・日露戦争における勝利です。ここがターニングポイントであったと。何しろそれまで海外列強に追いつくために文字通り歯を食いしばって努力してきた日本人でしたが、日清・日露戦争の勝利で舞い上がっちゃったんです。“俺たちは偉い、もはや敵はいない”って。で、日本人の精神力を以てすれば米国の劣等なる兵力など歯牙にも掛けない、なんて思うようになっちゃったわけです。そう言えば最近、日本はスゴイ、日本人は偉い、ってテレビ番組が増えてますねえ。どっかから圧力でもあったんでしょうか。

ところで、本書に面白い記述を見つけました。明治憲法の制定過程を見ても、「内実は伊藤博文とか何人かの少人数が外国の知恵を借りてつくって国民に押しつけたもので、明治憲法も押しつけだ」、「日の丸はもともと幕府が使っていた旗印でした」、「君が代だって、上野の音楽学校の外国人にかなりの部分作ってもらった。そういう紆余曲折の歴史を考えないで、いまは憲法を変え、国旗・国歌を護るのがナショナリストだと思っている人たちがいます」ですって。歴史の知識をつまみ食いして偉そうに講釈を垂れるんじゃなくて、歴史を知り、そして考えていただきたいものです。

 

 

熊本 一規電力改革と脱原発』緑風出版

福島原発事故から4年が経ちましたが、いまだに原子炉内がどのようになっているかは分かっていません。福島の原子炉は廃炉への工程表も公表はされていますが、本当にできるのか、といった疑念が絶えません。そもそも、メルトダウンした核燃料の所在すらよく分かっていません。“収束した”とはとても言えない状況が続いています。それにもかかわらず、政府は原発の再稼働、新設を計画しています。

本書の主張は「原発は失格電源である」ということに尽きるのだと思います。様々な言辞を弄して政府は原子力発電の存続を図っていますが、本書ではそれらの主張の欺瞞性を告発しています。

そもそも、今の原子力発電というのは第二次世界大戦時における原子力爆弾の材料であるプルトニウムなどの生産工場として作られたものを転用したという成り立ちを持っています。民生用としての安全性とか経済的効率性に配慮して作られたものではありませんので、発電用に使用するとあれこれ無理が生じるのです。

私は原子力に全面的に反対だとか、絶対的な安全性(事故0%)を主張しているわけではありません。ただ、現在の人類の持つ技術では原子の力を制御しきれないところが問題なのだと思います。太陽は巨大な核融合炉だと言われています。太陽だって大量の宇宙線を放射しているはずです。でも、これだけ離れていて、地球も大気だとかバン・アレン帯に守られているので人類が居住できるのです。人類だって太陽の位置に核融合炉を設置できるぐらいの技術力があれば、何の問題もないはずです。しかし、現存人類にはそれだけの知恵はない、だからちゃんと対処できるようになるまでは遠慮しておこうよ、ということです。

著者の熊本さんは環境問題、ごみ問題、共同体の権利(漁業権、水利権等)、埋立問題等を研究している研究者で、現在は明治学院大学教授を務めていらっしゃいます。本書でも大変詳細かつ緻密な議論が展開されています。感情的な脱原発論とは一線を画しているようです。ま、私ごとき門外漢にはいささか難しすぎるきらいはありましたが。

皆様の脱原発の理論的サポートとして是非ご一読を。

 

 

竹山 昭子太平洋戦争下 その時ラジオは』朝日新聞出版

著者の竹山さんはTBSに勤務した後、研究活動に従事、昭和女子大学の教授も務められた方です。1928年生まれですので、戦時中に放送局に勤務していたわけではありませんが、少国民としてそれこそかじりつくようにラジオを聴いていた世代でしょう。なにしろ開戦日には政府情報局から毎正時にはラジオのスイッチを入れろ、夕刻7時半には政府からの広報があるからちゃんと聴いておけ、なんて放送が流れたそうです。“聴かない奴は非国民だ”ってか。

本書によれば「放送は文化機関ではなく政治機関である」なんて書かれている検閲の指針まで文書で残されているそうです。国策推進のためのメディアとして新聞や報道を利用するなんて、軍部もよく分かっていますねえ。

新聞や放送の使命はジャーナリズムだ、なんて思われていますが、別にそれだけじゃないってことがよく分かります。マス・メディアったって経済活動の主体なんですから、儲けなくちゃいけないんです。つまりよく売れる新聞や番組を作れってことです。戦時中は紙資源が不足、紙の配給もどんどん減って、なんて事実もある一方、刷れば刷るだけ新聞が売れる時代でもあったんです。どこどこの大勝利、なんて記事を国民はむさぼるように読んでいたんです。正統なジャーナリズムじゃなかろうがなんだろうが、新聞社はウハウハ。

で、出てきたのがかの有名な“百人斬り競争”(ウィキペディア)なんて記事です。内容的には恐らく、小さな事実を針小棒大に脚色して伝えた記事なのでしょうが、堂々と大新聞に掲載されていましたし、当時の国民も大喜びでした。小学校では「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」なんて教えていたとウィキペディアには載っています。このような事例を小学校で取り上げるのはかしからん、人殺しをほがらかなんてとんでもない、なんて苦情が今ならガンガン来そうですが、当時はヤンヤの大喝采。

ま、国民は、その国民同じレベル政治家しか持てないなんて言われていますが、ジャーナリズムだって同様でしょう。日本の中でジャーナリストだけが異常にレベルが高い、なんてことはありえませんからね。

昨今、政府がマスコミを呼びつけただの、お食事会を開いて癒着してるだのの原点がこのあたりにあったようです。温故知新。是非ご一読を。

 

201510

瀬木 比呂志絶望の裁判所』講談社現代新書

 

本書は『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ』というダンテの『神曲地獄篇の一節から始まります。裁判所には一切の希望がない、とは随分とまた物騒な物言いではありませんか。特に、瀬木さんのように曲がりなりにも33年間も裁判官を務められた方からこのような発言がなされる、ということは、瀬木さんの気が狂ったか、それとも現在の裁判所の状態がとんでもなく歪んでいるかのどちらか、ということになるのではないでしょうか。

瀬木さんは現在の日本の裁判所は『国民、市民支配のための道具、装置』であるという『苦い真実』をご本人の経験を基に描き出して行きます。

かつての裁判官とは日本のエリートとされる法律家の中でも司法研修所での成績が上位ではないとなれない、法律家の中でもトップ・エリートであると読んだことがありますが、昨今ではいささか事情が変わり、「私自身、なぜこの人が任官できないのだろうと不思議に思った例、反対になぜこの人が任官できたのだろうと不思議に思った例を複数見ている」という状態になってしまっているようです。つまり、能力の有無ではなく、最高裁判所長官、その直属機関である事務総局(もちろん長官を任命する時の政府も)の意向を忖度して判決を下す裁判官(瀬木さんは「忠犬裁判官」と揶揄しています)ばかりが採用され出世する(なので能力があっても報われない者は退職してしまう)仕組みになっていると瀬木さんは慨嘆しています。

裁判官によって判決がコロコロ変わるというのも考え物ですが、政府(行政府)に都合が良い理屈を並べ立てた判決ばかり下す、というのでは「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」なんて日本国憲法第76条でわざわざ規定しているのがバカみたいですよね。もちろん裁判官本人は大真面目に良心的であると主張するのでしょうが。

本書に描かれているのは、実に腹立たしい裁判所・司法行政の現状です。しかし、私たち市民が何もせず、何も言わないのではこの現状が変わるはずはありません。現在の日本の問題点をしっかりと見つめ、改革を促すために声を上げていこうではありませんか。

 

 

瀬木 比呂志ニッポンの裁判』講談社現代新書

 

瀬木さんの『絶望の裁判所』の姉妹書です

。前書が日本国のお役所である裁判所や役人である裁判官といった制度面を批判しているのに対して、本書ではそのような裁判所、裁判官がどのような判決を下してきたのかを糾弾しています。瀬木さんの判例解説では、「冤罪連発の刑事訴訟、人権無視の国策捜査、政治家や権力におもねる名誉棄損訴訟、すべては予定調和の原発訴訟、住民や国民の権利など一顧だにしない住民訴訟」が具体例を挙げながら論じられています。

瀬木さんは冤罪が生まれる原因の一つとして、「日本人特有の、いわば「べったりリアリズム」とでも呼ぶのがふさわしいものの見方」を挙げています。「べったりリアリズム」とは、「事実は誰にとっても一つでありかつそれは究明できるはずであるという素朴な認識論(事実関係の相対性を認めない認識論)」を意味しています。自分だけが正しいと思っており、他人が違うことを言っているとすれば、それは間違い。あなたの心の動きだろうが何だろうが、他人である自分にはお見通し。だから捜査でも自分がこうだ、と思ったシナリオが優先され、客観的な証拠だろうがなんだろうがシナリオに合わないものは却下。しかし、こうしたものの考え方が日本特有であるかどうかはさておき、先の大戦中の軍中枢の考え方なんてのにはぴったりと符合しますね。日本人はちっとも進歩していないのでしょうか。それとも、日本人の心に先天的に組み込まれている考え方なのだから絶対に克服できないとでもいうのでしょうか。私はそんなことはない、と信じます。

本書の冒頭には「あなたがたは、みずからの裁きによって裁かれ、みずからの秤によって量られる」というマタイによる福音書の一節が引用されています。近寄りがたい権威を持つ裁判所ではありますが、裁判所もまた行政サービスの一環であり、そのサービスの内容がアンタッチャブルであっていいわけではありません。国民は自分たちのレベルに見合った政府しか持ちえないとも言われています。であるからこそ私たちは少しでも自分のレベルを上げ、政府のレベルも上げるように努力しないといけないのではないでしょうか。難しいことは分かんない、専門家に任せときゃいいんじゃない、と言っていると、後で取り返しが付かないことになってしまいます。そうならないように、私たちも大いに考え、発言しようではありませんか。

 

 

西野 喜一さらば、裁判員制度』ミネルヴァ書房

 

西野さんも瀬木さんと同様裁判官を15年間務めた経験を持っています。その元裁判官が裁判員制度なんて“こりゃダメだ”と主張しています。

「この裁判員制度によって、膨大な血税を浪費し、審理期間は長期化し、被告人の未決拘留は長引き、重罰化は進み、無罪率は減り、性犯罪被害者は「セカンドレイプ」とでも言うべき目に遭い、不本意な判決に対して上訴の足がかりになる判決理由は短くなり、現場の裁判官・書記官・事務官は疲労困憊の有り様で、弁護士(検察官も)の手間は圧倒的に増え、裁判員として狩り出される国民側も多大な迷惑を被るに至っています」「この制度で何か一つでも良くなった点があるのでしょうか」だったら、そんなものやめちまえ、というのが西野さんの主張のようです。分かるわ。

西野さんと同様に私も現行の裁判員制度には不満を感じています。が、その理由はいささかならず異なるようです。私が現行の裁判員制度の不備と感じているのは、裁判員として経験したことの経験が極めて共有されにくい制度になっており(守秘義務を破るとなんと懲役刑まで!)、国民の啓発にも何も役に立っていないこと、そして裁判員制度を導入すべきである事件は刑事裁判なぞではなく、国民が国や行政組織を訴える行政裁判とかではないのか、という点です。まあ、行政裁判では役人が悪いにきまってる、なんて主張するド素人の裁判員が出てきそうですから(原発訴訟に裁判員裁判を導入したら見ものだと思うんですがね)絶対に実現しないんでしょうね。

西野さんの論点が何なのか、は本書をお読みいただくとして、私が強く感じたのは、現在の(昔から、かもしれませんが)日本という国が抱える、一度走り出した制度なりなんなりを変えるのが異常に難しい、という宿業です。経営学ではよくPDCAサイクルを回す、なんて言います。PDCAとは、それぞれPlanDoCheckActの頭文字です。意味するところは、何か新しいことを決めて(Plan)実行した(Do)場合、必ずうまくいっているかどうかを点検し(Check)、問題があれば改善策(Act)を講じなさいということです。

良く考えてみれば当たり前のことを言っているのですが、日本ではこの当たり前のことが実行されません。崇高な理想を掲げて何か新しい施策が実行されるのですが、時間の経過とともにルーティン化し、腐敗・堕落が生じます。その時点で制度に手を加えるなりなんなりすれば良いのですが、すでに既得権益が生じていますので、何も起こりません。戦争を始めたら戦争継続そのものが目的化してしまい、止められなくなります。事業だって上手く行かなかったら事業内容を変えるなり上手く行かない部門は切り捨てるなりすれば良いものを、とにかくあらゆる手管を弄して事業を継続させ、最後は従業員を道連れに地獄を見る、なんてことになるのです。裁判員制度だって最初の判断を誤ったのであれば、変えれば良いんです。その決断ができないんですね。

今のままでは判断材料が不十分である、これでは判断ができないので決定的な事由が明らかになるまでは現状を維持しよう、なんて言って決断を先延ばししていると決定的な事由が起きた時にはすでに手遅れになってしまいます。あー、あのときにこうしていれば、なんてタラレバは通用しません。もし判断が誤っていた、と判明したら、その時点で善後策を講じればよいのです。私たちも決断する勇気を持とうではありませんか。

 

 

郷原 信郎、森 炎虚構の法治国家』講談社

 

郷原さんと森さんはそれぞれ検察官・裁判官であった経歴を持っています。そんなお二人が検察・裁判所を批判する、というのが本書のコンセプトです。検察と裁判所というと、それぞれ独立したプロフェッショナル達が鎬を削る、というイメージがありますが、日本の司法システムの上では、「一つの有機体」であり、「渾然一体となった一つの「法権力」として把握する必要がある」と書かれています。だから「有罪率99.957%」なんです。森さんは「日本の冤罪は、誤判というより、冤罪性をわかったうえで有罪にされている疑いがある」とまで言っています。過失であれば裁判官(とか検察官)の能力が低いということになりますが、意識的にやっている、となれば、裁判官(検察官も)には能力はある、そしてその能力を無理やりにでも被告人が有罪であるという結論を導くために使っている、ということになります。げ、恐ろしすぎる。

このようなべったりした関係が生まれた背景として本書で取り上げられているのが、歴史的な経緯です。明治維新によって近代国家たるべく大急ぎで整備された司法システムですが、戦後のアメリカによる統治期間においても官僚機構の大部分(軍部や憲兵隊、特高なんかはともかく)は温存されました。なので、“国に楯突く奴は犯罪者”って意識が残っちゃったんですね。反省なし。ま、進駐軍にとっても便利だったんですね。戦前も明治政府は大々的な思想統制を行っていましたが、戦後だって進駐軍時代もその後も様々な形で思想の統制が行われました。ま、アメリカによる植民支配なわけです。でも、そんなことを表立って言うわけにもいきませんから、日本人の“エリート”を間に挟んで支配の道具にした、というところでしょうか。何しろ戦後日本の繁栄はアメリカによる植民統治の成功例なんです。ベトナムや最近ではイラクとかアフガニスタンとかアメリカ様が出てきたおかげで余計に惨憺たる有様になってるでしょ。最近もキューバと国交を回復するようですよね。さんざんケチ付けてたのにねえ。

 

 

20159

レザー・アスラン 白須英子訳『イエス・キリストは実在したのか?』文芸春秋

 

イエス・キリストは世界的に見てももっとも有名な人物でしょうが、歴史的に実在した一人の人間としてのイエス、宗教的指導者としてのイエス、信仰の対象としてのイエスなど、様々な側面があり、それぞれの場合において私たちが知るイエス像には大きな隔たりがあります。そもそも、歴史的に存在したナザレのイエスって自分はキリスト教徒であるなんて思っていなかったんですよ。自分は正統なユダヤ教の信者だと思っていたはずです。もしかしたら自分でもメシアだって思っていたかもしれませんが。本書では題名からも明らかなように、現在のイスラエルの地に実在したナザレのイエスを歴史・時代的背景を元に解き明かしています。

本書は2013年アメリカで刊行されベストセラーになりましたが、著者のアスランさんがイスラム教徒である、ということが読者の興味を引いた理由の一つであったようです。インタビューではことあるごとになぜムスリムであるアスランさんがイエスについて書くのか、そんなこと書けるのか聞かれたようでありますが、このような偏見は実は結構一般的だったりします。日本の大学で日本人がロシア文学を教えても、孔子について授業をしても何とも思わないでしょうが、アメリカ人が日本の文学の講義をしたり、インド人が日本史を講義したりしたら、“何で” って反応が起こりますよね。

実際には、キリスト教の文献学といった分野の研究者にはもちろんキリスト教徒が多いのでしょうが、ユダヤ教徒やイスラム教徒、仏教徒も数多くいるそうです。そして、面白いのは無神論者や無宗教論者なんてのも結構いるんだなんて読んだことがあります。疑問があるから学問の対象になるのであって、信じているだけでは研究ではなく信仰になってしまいますからね。

ということで、研究者の視点から書かれた本書、イエスの生きた時代がどんなものであったのかを解き起こしてくれます。イエスの時代についてのリファレンスになるものと思います。

 

 

ハーバート・クロスニーユダの福音書を追え』日経ナショナル・ジオグラフィック社

キリスト教は聖書(旧約と新約)を正典としていますが、その他にも外典とか偽典といった文書が存在します。外典とは聖書に含まれてもおかしくはなかったのですが、何らかの理由で聖書から省かれたもの、偽典とは聖書としては認められていなかったものである、といった区別はあるようですが、正典に収録されている文書も宗派によって異なっていたり、歴史的な公会議などで編入が決まったり省かれたりといった異同もあるようです。単純に昔書かれたものであるから正典に含まれているという訳ではなく、内容が現行の教義に合っている(異端ではない)かどうかなども勘案されて選択されています。聖書の外典とか偽典は単純に後世に捏造されたインチキとか偽物ではない、ということです。

聖書の外典とか偽典にはイエス・キリストの幼少期の逸話が書かれているもの、イエスの大工時代の逸話が書かれているもの、イエスの容貌が書かれたもの、イエスに兄弟や妻がいたと書かれているもの、その後異端とされた神秘主義(グノーシス派)的な逸話を取り扱ったものなど様々なものが存在するようです。だからミステリーなんかには良く登場しますよね。

ところで、本書で取り扱っているユダの福音書を含め、ナグ・ハマディ文書、死海写本など20世紀最大の発見だの、世界を震撼させるだの、歴史が書き替えられる、なんてふれこみの発見はいろいろあったわけですが、世界が震撼したような覚えはありません。どうなっているんでしょうか。

本書の福音書の主人公であるユダとは、銀貨30枚でイエスを売ったあの“イスカリオテのユダ”です。キリスト教徒によるユダヤ人迫害の原因となったとも言われる人物でもあります。が、ユダの福音書での解釈は全く異なり、「ユダだけがイエスの神秘を理解し、イエスの意思にしたがって行動をとったのである」のだそうです。“裏切り”自体もイエス・キリスト自身がユダへ指示したものであるとしています。えー、そーだったの、ということですが、キリスト教がユダヤ人の民族宗教から世界宗教へと変貌を遂げて行く過程でどのように変わって行ったか、なんて経緯はアスランさんのイエス・キリストは実在したのか?』にもちらっと書かれています。

初期キリスト教に関するの史料は極めて少なく(というか、殆んど存在しない)、またその後の“正統”なキリスト教によって作られた膨大な文献によって忘れ去られ、覆い隠されてしまいました。本書は今やあと影もなく葬り去られてしまったグノーシス派の一端に触れることができる数少ないチャンスでしょう。

 

 

コルム・トービン 栩木伸明訳『マリアが語り遺したこと』新潮社

本書は“キリスト”であるイエスが磔刑に処されて何年か経ち、老齢に達した“聖母”マリアの独白、という形式で書かれています。

聖母マリアは様々な形で信仰の対象となってきましたし、キリスト教会の中に祭られてはいますが、恐らくはキリスト教以前の大地母神信仰が起源だと言われる “黒い聖母”信仰まであります。本書はどちらかというと人間としてのマリアに焦点を当てているようです。

ではありますが、本書ではカナの婚礼で水をワインに変えたり、ラザロを復活させたり、水上を歩いたりといったイエスの奇跡もマリアの口から語られています。ま、そうだとすると本書におけるイエスは本当に“神の子”であり “メシア”だったってことになります。そうだとすると、私のような下衆は例の“処女懐胎”はどうだったんだろうって思っちゃうんですがねえ。まあ、あまりあれこれ書くとネタバレになってしまいますので、詳しくは本書をお読みいただきたいと思います。

本書は元々一人芝居の台本として書かれたのだそうです。ですから、あれこれとした説明は思いっきり省かれています。その省かれた部分は私たち読者(芝居であれば観客)が考えて補わなくてはなくてはならないようです。ですから、本書の読後感もそれぞれによって違うのだと思います。でも、そこが面白い。是非ご一読を。

 

 

阿刀田 高コーランを知っていますか』新潮文庫

 

何かとイスラム教徒の動向が話題になる昨今。ではありますが、私たちのイスラム教に対する知識・認識にははなはだ心もとないものがあります。なんか分かりやすく書いた本はないかな、と思っていたらありました。阿刀田さんの「知っていますか」シリーズ。阿刀田さんはもちろんイスラム教徒ではありません。「これはアラーの神にうとい異教徒にコーランの大意をやさしく伝えるためのエッセイ、多少の方便はお許しいただきたい」、ということで阿刀田さんが日本人にも分かりやすくイスラム教のあれこれを教えてくれます。

阿刀田高は専門家じゃないんだから、とか、イスラム教徒じゃないんだから、なんてケチを付ける前に、とりあえず読んでみようではありませんか。もしこんなもんでは物足りない、と思われた場合には、多くの参考文献も掲載されています。イスラム教理解の第一歩。是非ご一読を。

 

20158

酒井 邦嘉(編)『芸術を創る脳』東京大学出版会

芸術家の頭の中はどうなっているのだろう、ということで言語脳科学者である酒井さんが芸術家たちと対談する、という企画ですが、芸術家たちの選び方がちょっと変わっています。日本画家の千住博さんや指揮者であり作曲家でもある曽我大介さんなどはふつうに芸術家と認識されるのでしょうが、その他将棋の永世六冠である羽生善治やクロースアップマジック(舞台ではなくテーブルの向こう側にいる人だけに見せるようなマジック)の達人である前田知洋さんなどはふつうは芸術家とは呼ばれないでしょう。ではありますが、酒井さんは同じ芸術に属するものであると認識されているようです。「将棋とマジックが芸術なのかと思う人はいるかもしれないが、味わい深い思索の家庭や、鍛錬による技のすばらしさを考えれば、まぎれもなく芸術だと言える」と書いています。

前田さんは自身のマジックを観客との対話に例えています。もちろん実際に話しているわけですから、ある意味本当に対話しているとも言えます。が、前田さんのマジックは私たち観客の心の動きを先取りして、どうです、変じゃありませんか、ではトランプを確かめて下さい、と進んでいきます。私たちが心の中で「アレッ」と思ったことをちゃんと確かめさせてくれるので、「洋の東西を問わず、マジックを見せたお客さんから「タネはこうだろう」と言われたことがほとんどありません」と言っています。まあ、トランプマジックなんて別にカードが本当に消えたり出てきたりするわけではありませんから、前田さんの手さばきに騙されていることだけは確かなんです。でも、前田さんの座右の銘は「人はただ騙されたいのではなく、紳士に騙されたいと思っている」というものなのだそうです。だから、安心して騙されちゃうんですね。

ま、しかし、前田さんのマジックが自分だけではなくて観客の脳の動きまで想定して演じられている、ということを改めて言葉で読むと、なるほどこれも天才的な技なんだな、芸術なんだな、と思わされます。

酒井さんは「芸術は人間固有の脳機能によって生まれる」「芸術は人間の言語機能を基礎とする」「美的感覚は芸術を支える心の機能である」という仮説を本書で検証しようとしています。千住さんは「人間が「美」を作ったのではない。「美」、すなわち美しいと感じる「心」が人間を作ったのです」と言っています。なるほど、サルにマジックを見せても驚かないそうです。しかし、本当に人間はサルより進歩しているのでしょうか。本書で「美意識という本能」と書かれていますが、何時から美意識が人間の本能になったのでしょうか。クロマニヨン人でしょうか、ネアンデルタール人でしょうか、それとも北京原人でしょうか、ホモ・なんとかかんとかの時代でしょうか。千住さんは「今までグレー・ゾーンだったものを、○か×かの二者択一で判断しようとする論調が増えてきていて、危機感を感じます」と言っている割には芸術が分かるのは人間だけだ、なんて言ってます。芸術が分かんない馬鹿者は人間じゃない、ってことなんでしょうか。

私としては芸術と非芸術の間には果てしないグレー・ゾーン、あるいはあらゆる光のスペクトラムでしょうか、が広がっているように理解したいと思います。皆さんはいかが思われますか。

 

 

和田 秀樹フロイトとアドラーの心理学』青春出版社

 

心理学者として圧倒的に有名なのはフロイトやユングでしょうが、本書で取り上げられているアドラーも、現代の精神療法(心理療法)の開拓者としてその業績が近年見直されているのだそうです。何で有名じゃなかったのかというと、何と多くの弟子がナチスの強制収容所で殺されてしまったからなのだそうです(アドラー自身はアメリカに移住)。

ところで、アドラーも実はフロイトやユングと一緒に働いていた(共同研究者でもあった)ようなのですが、その後決別したようです。まあ、心理学なんてものはあまり科学的ではない医学の中でも特に科学的ではない学問ですから、フロイトとユングとアドラーの心理学のうちどれが正しくてどれが間違っているのか、なんて議論をしても結論は出ないでしょうから、俺の理論の方が優れている、と思った瞬間、別れるしかなくなっちゃうのかもしれませんね。

和田さんも「こと心理療法に関しては、どれが正しくてどれが間違っているということはありません。いろいろなタイプの心理療法が存在することに大きな意味があります。いろいろな心理学があるということは、いろいろな「道具」があるということだからです」と言っています。ただし、日本の精神医学の中心は生物学的精神医学が主流で、心理療法は重視されてこなかったそうです。日本だとボスの先生が「こうだ」って言っちゃうと弟子も「そうだそうだ」って言わないと干されちゃう猿山みたいな医局が多いらしいですからね。いろいろな手法を学んで状況(患者の症状)に合わせて使い分けるなんて器用な先生を教育するのには向いていないような気がしますけどね。

ところで、心理学と言っても色々な種類があるみたいですね。本書が取り扱っているフロイトとかアドラーが属しているのは臨床心理学と言って、病んだ心を治すのが目的だそうです。もう一つ有名なのがふつうは文学部に所属している実験心理学。こちらは正常な心の動きを研究するのが目的だそうです。有名な“パブロフの犬”現象の発見なども実験心理学の成果だそうです。また、同じく心の病気を治す心理学でも、「生物的精神医学」なんてのもあるそうです。こちらは心理学というより脳科学みたいな分野で、脳の画像診断による器質的な分析にもとづいて薬物療法を行うようです。さらに、細かい分類では認知心理学、発達心理学、言語心理学、社会心理学、犯罪心理学、などなどあるそうです。行動経済学なんてのも心理学を応用していますね。

本書は専門書ではありませんので、私たち素人が心理学の一端に触れられるよう、現在の心理学のうちの一部をサラッと紹介しています。でも、心理学って面白そうだな、と思わせる知的な刺激に富んだ一冊でした。是非ご一読を。

 

 

マリオ・ボーリガード 黒澤修司訳『脳の神話が崩れるとき』角川書店

人間の精神活動、思考、記憶、感情といったものは全て脳内の化学物質の作用に過ぎないと考えることが、19世紀以来模範とされる科学的な考え方であると思われてきました。しかしながら、私たちの行動を細かく観察してみると、そうじゃないんじゃないの、という例が多々ある、とボーリガードさんは本書で主張しています。

有名なものにプラシーボ効果が挙げられています。ご存じの通り薬効を確かめるため、一方には有効であると思われる薬を、他方には偽薬を、そしてさらに対照群には何もしない、などを組み合わせて試験するのですが、偽薬を与えられたにもかかわらず病気が改善する例があることが知られています。それどころか、本書ではプラシーボ手術(患者には手術をしたと思わせるものの、実際には切開はするものの患部には手を付けず抱合してしまう、など)にさえ効果が認められた事例が紹介されています。肉体に作用する精神の効果がある、ということになりますので、「精神とは脳が作り出した幻影に過ぎない」という仮説に対する反論にもなりえます。

本書では瞑想をはじめとするスピリチュアルな分野についても言及されています。そりゃそうですよね、精神について研究してるんですから。とは言え、世の“科学者”達には評判が悪いようです。2005年にSfNSociety for Neuroscience)における講演者としてダライ・ラマ14世を招待しようとしたところ、宗教者が科学界の講演をするなんてけしからん、とボイコット騒動まで起きたそうです。うーん、頭が固いなあ。

とは言え、科学者の頭の固さに関しは、日本の方が上かもしれません。ヨーロッパ、あるいはアメリカでさえも日常生活のベースとして宗教があります。ところが、日本では科学者ほど“宗教なんて”って言いますよね。でも、そんな科学者たちの間からも以前ご紹介した矢作直樹さんの『人は死なない』みたいな見方を持っておられる方も段々と増えつつあるように思われます。と言うか、そういうことを公言することができるようになった、ということなのかもしれません。

本書を読めば、なにがしかの気づきがあるのではないでしょうか。ぜひご一読を。

 

 

ダニエル・C・デネット 山口泰司訳『解明される意識青土社

デネットさんはハーバード大学の哲学科を首席で卒業、オックスフォードで博士号を取得、現在はタフツ大学認知研究センターの所長務めているような人物なんだそうです。アカデミックすぎて眩暈がしそうだな。本書『解明される意識』(原題はConsciousness Explained)で一躍ベストセラー作家になったのだそうです(原書刊行は1991年)。

で、本書がどんな本かって言うと、「本書が西洋哲学の長い伝統を背景に、実験心理学、神経科学、生物進化論、動物行動学、精神医学、コンピュータ・サイエンス、認知哲学などの精神知見を総動員して、「意識の神秘」の解明」をしたものです。これだけだと小難しい本になってしまいそうですが、「その溢れる才知を縦横に駆使して、予備知識ほとんどゼロの素人にも十分理解しうるような工夫を随所にこらしながら」説明している本です。デネットさんって本書評でもだいぶ以前にご紹介した『ゲーデル・エッシャー・バッハのホフスッタッターさんとはお友達で共著もあるそうです。なるほどすんげえ頭の良い人がど素人にも分かりやすく手を変え品を変え説明しているってスタイルは良く似ていますねえ。おまけに、素人に分かりやすく書いた、って割にはスゲー難しくてやたら小さな字で書いてある分厚い本、ってところも似てますね。ま、多芸多才で頭の良いおふたりですから馬が合うんでしょう、きっと。

読み終えるのにえらく時間のかかる本でした。心してお読みください。

 

 

20157

山口 晃ヘンな日本美術史』祥伝社

 

山口さんといえば、一見すると源氏物語絵巻のような大和絵だかに見えるのですが、細かく見ていくと建物がなぜか現代のハイテクビルだったり、侍が乗っているのがオートバイだったりと、平安時代から現代までがごたまぜになった妙な絵を描くことで有名です。広告やポスターにも多く使われているので、ご覧になった方も多くおられると思います。

そんな山口さんが日本における美術(絵画)の歴史を、山口さんが選んだちょっと変わった絵の解説とともに楽しむ、といった趣になっています。

ただし、東京芸術大学で油画(油絵(あぶらえ)じゃなくて油画(あぶらが)なんですって)で修士まで取りながら現在では大和絵や浮世絵を思わせるモチーフを取り入れることで一躍有名になった、といういささか変わった経歴の山口さんですので、いわゆる美術史家、みたいな切り口から絵画作品を読み解くことはありません。あくまでも一個の表現者である自分を通して作品の解説をしています。ですから、私のようなトーシローには分かりにくい表現も間々見受けられます。

とは言え、文書はユーモアに富んでいて、とても読みやすく書かれています。また、取り上げられている題材も結構有名(あ、見たことある)なものが多いので、読み物として読んでも楽しめると思います。是非ご一読を。

 

山口さんの作品集も紹介しておきましょう。

山口晃大画面作品集

 

大友義博監修消えた名画』宝島社

 

本書では盗難などで行方不明になった名画(その後見つかったものも多くありますが、杳として行方が分からないものも多いようです)にまつわるお話です。

本書で取り上げられているのは世界的に有名な名画ばかりですから、様々な報道も残されているのでしょう。報道されないような小品であれば、古物商を通してそのまま市場に流れることもあるのでしょうが、世界的名画ともなると事後処分が大変です。ま、それやこれやで日本には多くのいわくつきの作品が流れ着いているとも言われています。あなたの身の回りにお心当たりはありませんか。本書には盗まれた絵画が日本にある、との通報を受け、外国の捜査当局と協力して日本の警察が現場を直撃したところ、持ち主があっさりとフェイクであると明かした、なんてエピソードもはさまれています。フェイクと偽った本物だったりして……。ひねりすぎか。

最近のニュースで、「90年間不明の名画、映画『スチュアート・リトル』に映り偶然発見ってのがありました。本書に行方不明の絵画の図版も多く掲載されています。覚えておくと名画を見つけられるかもしれませんよ。

 

 

岡澤 浩太郎巨匠の失敗作』東京書籍

美術史に燦然と輝く稀代の名作、なんて絵画とか美術作品が存在するのは間違いありません。でも、それを私が、あるいはあなたが傑作であると思うかどうかは分かりません。いや、私たちが美術館などを訪れて、「あ、これがかの有名な作品か」と思ったとしても、同時に心の中で「ふーん……」程度の感想しか思い浮かばなかったこともあるのではないでしょうか。

本書の著者である岡澤さんは美術関係の出版物を多く手掛けてこられた編集者ではありますが、「「正当な」美術教育を受けていない」方のようです。そんな岡澤さんが所謂美術の専門家、評論家の方々に取材、岡崎さんがピンときた意見を元に世に傑作と謳われている芸術作品に対する新たな見方を読者に提供しています。さて、どんな評価が下されているのでしょうか。詳しくは本書をお読みくださいね。

最初に取り上げられているのはレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』。有名であることは確かだと思いますが、私もあまり好きな画ではありません。あなただって、あんな画を寝室に飾ろうとは思わないでしょ。陰湿だし。まあ、応接間に飾って、「どうだ、高いんだぞ」って自慢する分には良いかもしれません。もちろん、本物を手元に置くのは事実上不可能でしょうが。でも、もし『モナリザ』の複製画が飾られた応接間に通されたとしたら、「趣味ワルッ」なんて思うんじゃないでしょうか。

フェルメールの『真珠の耳飾の少女』も取り上げれれています。「1984年に国立西洋美術館でやはり同じような「マウリッツハイス王立美術館展」が開催されたのですが、その時も『真珠の耳飾の少女』が出品されていたんです。でも当時は誰も足を止めなかった」なんて書かれていますが、私、確かに国立西洋美術館でこの画を見た記憶があります。多分この時。他は忘れましたが。確か『青いターバンの少女』って題だったと思います。で、吸い込まれるように透明な瞳が、うんと近くに行くと結構荒いドットで表現されているのにびっくりした覚えがありますよ。で、すごく魅力的な画だなと思いました。うーん、私って昔からセンスが良かったのかしら。確かに、周りに人がいなかったから近くでじっくりと見られたのかもしれませんがね。でも、私がフェルメールが好きになったのはこの作品を見たからだと思いますよ。

本書では有名15作品が取り上げられ、それぞれに従来とはいささか趣の異なる評価が下されます。すべてに得心が行った訳ではありませんが、なかなか面白く感じました。

ところで、本書ではあまり多くの図版が使われていません。テーマとなる画の図版は掲載されていますが、それ以外に引用されている作品の図版は多くの場合掲載されていません。専門家はともかく、私のようなトーシローではイメージがわかない場合がありました。でも、ネットで検索すると一発でした。いやあ便利。皆様もネット環境の近くで本書をお読みください。

 

 

冨田 章偽装された自画像』祥伝社

 

本書の冒頭に「画家は必ず嘘をつく」と書かれています。犯罪的な嘘をつく、というような意味ではなく、絵画・二次元表現として成り立たせるための意図的な演出を行う、というような意味において“嘘”をつくのです。歴史を描いた作品、例えば有名なナポレオンが後ろ足立ちをしている馬に乗っている作品なんてのは正にその典型でしょう。ナポレオンが乗っていたのはロバだとかって言われていますし、そもそも画家はそんな場面を眼にしていません。全部フィクション。

では自画像はどうでしょうか。きっと鏡とかを近くにおいて描いたはずです。だとしたら忠実に描いた、とも思えますが、別に誰に見せるわけじゃない作品の場合、ずっとかっこよく描くこともできたはずです。あるいは、有名な物語の登場人物の一人としてさりげなく書きこんじゃう、なんてこともできたはずです。ルネサンス時代においては、パトロン(作品の注文主)の姿を作品(主に宗教画でしょう)の中に書き込むというのは普通に行われていました。半ば職人であった画家たちには誰かほかの画家に自分の肖像を書いてもらう、なんて贅沢はできなかったでしょうが、自分なら、ねえ。あと、嫌がらせをした奴を画の中でひどい目に合わせる、なんてこともあったみたいです。

そんな単純な自画像から、画家が自画像を描くことが普通に認められる時代になってからの自画像まで、20の作品について、時にはミステリーのように解き明かして行きます。

美術館に行く前にちょっと読んでおくと、より面白く鑑賞ができるかもしれません。

 

20156

ハン・フククワン、ズライダー・イブラヒム、チュア・ムイフーン、リディア・リム、イグナチウス・ロウ、レイチェル・リン、ロビン・チャン 小池洋次監訳『リー・クアンユー 未来への提言

 

今や国民一人当たりのGDPでは日本をはるかに引き離し(ざっと日本の倍。2013年の購買力平価で調整した国民一人当たりGDPは日本$37,433-、シンガポール$76,237-Trading Economics))、アジアではトップクラスに位置するシンガポール。リー・クアンユー元シンガポール首相も「日本に学べ」と言っていた時代もあったそうですが、今では日本が学びに行かなくてはいけないようです。ということで本書を手に取ってみました。

本書は2009年に当時86歳であった国父とも呼ばれるリー元首相に対して行われたシンガポールの主要紙であるストレーツ・タイムズの若手記者8名によるインタビューを基にまとめられたものです。監訳者の前書きにも書かれていますが、シンガポール人によるシンガポール元首相へのインタビューで、しかもシンガポール人の読者を想定して書かれた本です。ですから、日本人読者にはなじみがなさすぎる部分は訳出されていないのだそうです。何しろ、訳出された部分でも相当強烈なことを言ってますからねえ。

「いつも品質のよいドリアンを望むなら、一番よいドリアンの芽を選んで接ぎ木するというのが言わなくてもわかる現実だ。それは選抜育種の方法で、同じことが人間でも起こると思う」ですって。実績も能力も認めますが、私がリー元首相を今一つ好きになれない理由がここらへんにありそうです。

私も何度かシンガポールに行ったことはあるのですが、どうもシンガポール人にはなじめないものを感じました。有能であることは確かなのでしょうが、ビジネス以外ではあまり会話が弾まなかったような覚えがあります。

リー元首相に言わせれば「聡明さに欠け、脆弱である人々」の一員であろう私にとって、シンガポールはたまに仕事をしに行くには良いところだと思いますが、これからの人生を過ごしたいとは思わない国、のように思えます。

とは言え、1965年の独立後あっという間に日本を抜き去ったシンガポールの躍進を支えた政治家の提言です。日本人としては心して読まなくてはいけない言葉が含まれているものと思います。良薬口に苦し。是非ご一読を。

なお、私が本書読了後の20153月にリー元首相は永眠されました。

 

マハティール・モハメド 加藤暁子訳『立ち上がれ日本人』新潮新書

 

アジアの哲人宰相とも呼ばれるマハティール元マレーシア首相ですが、前書『リー・クワンユー、未来への提言』ではリー・クワンユー元首相にケチョンケチョンに貶されていました。政治家の評価ってのは難しいものですねえ。

私はかねがねマハティールさんにはマレーシア政界を引退したら日本の首相を務めていただきたいもんだと思っていました。リー・クワンユー元首相じゃいやだけど。だって、最近の日本のこともよく知っていて、それでも日本のことを褒めてくれているんですよ。人は褒めて育てる……。

ここのところずっこけている日本ですが、マハティールさんは変わらず「日本はすごい国だ」「日本の勤勉精神はどこにも負けないセールスポイントだ」と言い続けてくれています。最近じゃ日本のことを褒めてくれる人って少ないですからねえ。とは言え、現在の日本を手放しであることないこと褒めているわけではなく、日本の現状を知ったうえで様々な提言をしてくれています。

マハティールさんが日本びいきになったのには、日本がマレー半島を占領していた時代の記憶も影響しているようです。「占領下では学費を稼ぐために屋台でコーヒーやピーナッツを撃っていたが、「英国人はカネも払わず勝手に商品を奪うことも多々あったが、日本の軍人は端数まできちんと支払ってくれた。街で見かける軍人は折り目正しく、勇敢で愛国的であった」」としています。どこの国にも後々まで国の評判を叩き落とすような行動をする輩はいるもんですね。

ではありますが、本書の初版は2003年。今でも日本はいささか不本意な現状に甘んじているようにも思えます。最近の報道を見ていると外国の新聞や雑誌を精査して少しでも日本を褒めてくれていると大騒ぎして紹介したり、それでも足りないときは自画自賛しちゃってますよねえ。もう少し自信を持たなきゃ。

また、イスラム教徒でもあるマハティールさんは現在のパレスチナとイスラエルの紛争にも面白い見方をしています。そもそも、ユダヤ教徒と折り合いが悪かったのはキリスト教徒であり、歴史的にもユダヤ教徒たちはキリスト教の迫害を逃れてイスラム国家に移住していたという点を指摘しています。そして、現在のパレスチナ紛争の発端は、「最後の大虐殺はナチス・ドイツによるもので、600万人のユダヤ人が殺されました」「その挙句に、欧州の人々は、欧州内のユダヤ問題の付けを他の地域に払わそうとしたのです。彼らは域内にユダヤ人が国家を創ることは頑として拒否しましたが、自分たちの国を豊かにするための資金源としてユダヤ人を必要としました。そこで、パレスチナにイスラエルを建国させたのです」

いやあ、分かりやすい説明ですねえ。

と言うことで、日本人が自信を取り戻すためにも是非ご一読を。

 

 

小林 秀雄、国民文化研究会・新潮社編『学生との対話』新潮社

小林秀雄といえば、“評論の神様”として、私が受験生の頃、現代国語に頻繁に出題されていました。“著者の言わんとすることは何か”なんて問われてもさっぱりわからずむかついた思い出しかありません。だもんで、本書は自分から進んで読もうとは思わなかったと思います。が、ある番組で新潮社の中瀬出版部長が、こんな知的な興奮を覚える本を久しぶりに読んだ、みたいなことをおっしゃっていたので買ってみました。

本書は小林秀雄が昭和36年から昭和53年までの間に、五回に亘って九州各地で行った「全国学生青年合宿教室」での講演を文字化したものです。ところが、生前、小林秀雄は「講演であれ対談、座談の類であれ、自分の話を録音することは固く禁じていた」のだそうです。自分が書いたのでもない文章が“小林秀雄の文章”として流通してもらっては困る、ということだったようです。ではありますが、講演に関してはすったもんだのあげく、速記原稿に加筆訂正したものであれば文字にしてもよろしい、というお許しを得て講演録として刊行されていたようです。さらに、本書には学生たちとの質疑応答も収録されています。こちらは小林秀雄の遺族の許可は取ったようですが、小林秀雄本人の承諾は当然取れていません。

ではなぜそんなものを文字として残したかったのか、というと、小林秀雄は講演では「うまく質問して下さい」と注文を付けた上で質問を募っていたそうです。これは、「問題を出すということが一番大事だ。問題をうまく出せばすなわちそれが答えだ、いまものを考えている人がうまく問題を出そうとはしない。答えばかり出そうと焦っている」という考えがベースにあるようです。

そういえば、最近娘が物置をごそごそしているので聞いてみたら、ハードディスクの説明書がどうのこうのと言っているので、何をしたいんだ、と聞くと、バックアップしたファイルを元に戻したい、と言っていました。で、どんなソフトで何をどこにバックアップしたのか聞くと、自分用のマックから付属ソフトを使って外付けハードディスクにバックアップしたということがようやく分かりました。だとしたら、そのソフトの説明書を見てどうやってバックアップ先からリカバリーすればよいかすぐ分かりそうなものではありませんか。最初の疑問の立て方がよく考えられていなかったので、無駄な時間を費やしてしまったのだということがよく分かります。問題をうまく出せば、答えだってすぐ見つかるんだ、という見本でしょうか。

ま、いろいろと考えながら読みましたので読了には時間がかかりました。結局私は小林秀雄が好きにはなりませんでした。

 

新潮CD 小林秀雄講演』(全八巻)もご紹介しておりましょう。

 

 

高橋 昌一郎ノイマン・ゲーデル・チューリング』筑摩書房

本書は二十世紀を代表する知性であるジョン・フォン・ノイマン、クルト・ゲーデル、アラン・チューリングの評伝です。ノイマンについては拙論で取り上げさせていただきましたし、ゲーデルについては『ゲーデル,エッシャー,バッハ あるいは不思議の環と『ゲーデルは何を証明したかを書評で紹介させていただきました。チューリングについても、『暗号解読』の書評の中で触れています。ま、3人ともとっても有名だってことです。

ノイマンは53年という短かめの生涯の間に「論理学・数学・物理学・科学・計算機科学・情報工学・生物学・気象学・経済学・心理学・政治学に関する百五十編の論文を発表した」のだそうです。万能の天才。で、そのノイマンが高く評価してナチス・ドイツの迫害から救い、プリンストン高等研究所に招いたのがゲーデルです。このときアインシュタインもプリンストン高等研究所に在籍していました。知能指数を合計すると600を超える、なんて冗談もあったそうです。冗談じゃないかもしれないけど。

コンピュータの基礎を切り開いたと評価されるチューリングも若いころプリンストン大学大学院に留学、ノイマンは彼を高く評価し、助手にならないかと誘ったそうですが、チューリングは帰国して軍に志願する道を選んだのだそうです。天才は天才を呼ぶのでしょうか。

人類史上に燦然と輝く偉業を成し遂げた3人ですが、一個人として見た場合、必ずしも幸福とは言えなかったようです。

ところで、著者の高橋さんは3人の文章を新たに翻訳し直しています。ノイマンは「何事も始まるとき、その様式は古典的です。それがバロック様式になってくると危険信号が点灯されるのです」なんて、芸術史を知らないと訳の分かんない、教養が溢れかえった文章を書くそうです。それに対してゲーデルは「正確性を重視するあまりに迂遠な表現が多く、容易には真意を掴みにくい」文章を書くそうです。チューリングは「二重否定や裏の裏を暗に示すようなひねった言い回しが多く、皮肉と暗喩にみちている」のだそうです。エニグマ解読の立役者らしいですね。

三者三様の天才の人生。天才にはなれない私たちにも様々な示唆を与えてくれます。ぜひご一読を。

 

 

20155

矢部 宏冶日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』集英社インターナショナル

 

20113月、福島原発事故が起きてから、私たち日本人は日々、信じられない光景を眼にしつづけて」います。「なぜ、事故の結果、ドイツやイタリアでは原発廃止が決まったのに、当事国である日本では再稼働が始まろうとしているのか」「そしてなぜ、福島の子供たちを中心にあきらかな健康被害が起きているのに、政府や医療機関関係者たちはそれを無視しつづけているのか」なぜでしょうか。

本書のあとがきに面白いことが書かれていました。大日本帝国敗戦の後日本国憲法の起草の責任者であったGHQのマイロ・ラウエル陸軍中佐は194511月、「なぜ戦前から戦中にかけて、日本の軍部は国政を私物化できるようになったのか」を、大日本国憲法など制度面から研究しろ、という指令を受けたのだそうです。その結論は「数多くの権力の乱用があった」とし、具体的には「政府のあらゆる部門に対して、憲法によるコントロールが欠けており」、「国民の意思が政治に反映されず、国民の人権が守られない」ことであるというものでした。こんなレポートを1か月足らずでまとめたそうですから、外から見れば、大日本帝国も随分と底が浅かったようです。それにしても、この指摘は現在の日本にも大いに当てはまりそうではないですか。つまり、これらの欠陥は日本人がバカだったからこんな制度しか作れなかったのではなく、統治するためには何かと使い勝手が良かったから採用され、それを占領軍もそのまま(今でも)使い続けた、ということなのではないでしょうか。

今の日本は「自国内の外国軍に、ほとんど無制限に近い行動の自由を許可すること」と「民主的な法治国家であること」というダブルシンク(オーウェルのDoublethinkです)でも使わない限り両立不可能な問題を抱えています。戦後70年近く、日本の優秀なエリート官僚たちはこの問題を上手く隠蔽しつづけてきましたが、そろそろそれも限界です。気が付いちゃった人もいるみたいですよ。だもんで沖縄で翁長知事が当選しちゃったんです。

日本国憲法のあれこれなど、興味深い情報が満載です。そして、これからどうすれば良いのか、を矢部さん自身が考えたおすすめも掲載されています。ご興味がある方は是非ご一読の上、ご自身でもお考えください。

 

ハッピー福島第一原発収束作業日記』河出書房新社

 

日本国首相が" under the control"と宣言した福島第一原発がどのような状態にあるかを現場作業員(ハッピーさん)がツイートしたものをまとめた本です。

本書を読んでまず感じられるのは、現場の作業員と東京電力の本社、そして政府との距離がとてつもなく離れていることです。最初のうちは現場にいる東京電力の社員たちも永年一緒に働いていたので親近感もあったようですが、被爆量が増えるにつれ徐々に交代して行き、作業員との一体感も失われてしまったようです。また現場の作業員もあまりの重労働に音を上げ退職するものが多く、おまけに給料は偽装請負だかでピンハネされて安く、質の高い作業員が確保できないようです。なんで東京電力、あるいは国がちゃんと給料払って、社会保障も万全にして直接雇用しないのでしょうね。

また、現実・現場を無視した無理な収束・廃炉作業を計画したため、あちこちに無理が生じているようです。つい先ごろにも、福島第一原発で進められていた“氷の遮水壁”計画がとん挫したと報じられました。日本の内閣総理大臣が「The situation is under controlって大見得を切っていましたが、どうやら現実はこんなもんみたいです。そう言えば、早々と「収束宣言」をした日本の内閣総理大臣もいましたね。取り消されちゃったようですけど。

現在の収束作業は「予算削減、設計簡素化、工期短縮、行き当たりばったりの対応・対策」が露呈してトラブル続きなのだそうです。ハッピーさんはこの現状を「この2年半、怪我をしても、お金を使って良い病院で傷をしっかり根本から治さないために、傷は治らず、いつの間にか化膿してしまい、傷口が開き、膿が出ている」状態だと嘆いています。廃炉までには数十年という年月がかかります。今のままでは、いつやって行けなくなっても不思議ではありません。そうなる前に対策を取らなくてはいけないはずなのですが、政治家は目先の選挙のため甘言を弄するだけだし、お役人達は前例踏襲以外はやらない。この国はどうなってしまうのでしょうか。

 

 

若杉 冽東京ブラックアウト』講談社

 

原発ホワイトアウトに続く若杉さんの原発シリーズ第2弾です。

どの政党も原発に関しては積極的に推進しないはずでしたが、そんなことは忘却の彼方に埋没してしまい、何事もなかったかのごとく原発の再稼働が検討されています。と言うより、検討と言う儀式でしょうか。儀式が終われば当然のごとく再稼働されるのでしょう。このまま再稼働するとこうなっちゃいますよ、というのが本書です。本書が刊行されたのは2014124日。1210日にはかの特定秘密保護法が施行されましたので、若杉さんにとって、最後の告発になるとかならないとか言われています。

2011311日の東北大震災以来迷走を続ける日本の原子力行政の矛盾を見事に描き出しています。政府関係者の議論などは真に迫っています。何しろ登場人物の名前や経歴が……。真に迫っているだけ、地獄絵の事故の描写や無責任そのものの日本のエリートたちの体たらくも本当なんじゃないかという暗澹たる気分に襲われます。こんなことが本当に起こらないように祈るしかない、なんて悠長なことを言っていないで、私たちも行動しなくてはならないのではないでしょうか。是非ご一読を。

 

雁屋 哲美味しんぼ「鼻血問題」に答える』幽幻舎

 

東日本大震災後の福島を取材、それを基に『美味しんぼ(110、『美味しんぼ(111で主人公の山岡士郎が鼻血を出す場面を描いたところ、「根拠のないでたらめだ」「風評被害だ」と大バッシングを食らいました。まあ、福島の原発事故については日本国首相が"Some may have concerns about Fukushima. Let me assure you, the situation is under control.  It has never done and will never do any damage to Tokyo. "って大見得を切っちゃったわけですから、今更人的な被害が出ている、なんて言われたら困っちゃいますよね。政府が困るようなことはなかったことにしなくてはなりませんので、「国家に反逆した、極悪人」はよってたかっていじめちゃう、訳です。『美味しんぼ』を掲載していた小学館はとんでもないクレームの嵐に見舞われたそうです。

で、刈屋さんが選んだのが本書を書く、という反論の方法です。いやあ、出版してくれる出版社があって良かったですね。日本人のすべてがバッシングに賛成しているのではないと分かってホッとしました。

ところでこの鼻血問題、震災後の民主党政権時代、当時野党であった自民党も国会質問で取り上げ、民主党の責任を追及していたのだそうです。誰が何を言ったのか、などは本書をお読みください。でも、そう考えると今も問題になっている震災復興の根本にある問題を誰が作り出したのか、おぼろげながら(いや、はっきりと)見えてくるのではないでしょうか。ピンと来ない方は若杉さんの本を読んでくださいね。

雁屋さんの主張に賛成する方にも反対する方にも読んで考えていただきたい一冊でした。

 

 

 

20154

バーン・ハーニッシュ&フォーチュン編集部 石山淳訳『ありえない決断』阪急コミュニケーションズ

 

本書の序文を書いているコリンズさんはご存じ『ビジョナリー・カンパニー』の著者です。本書評でも『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則と『ビジョナリー・カンパニー3 衰退の五段階をご紹介したことがあります。ご参考まで。

本書では一度追い出したスティーブ・ジョブスを呼び戻す決断をしたアップル社、古くは従業員の賃金を2倍にしたフォード社の決断など、それまでのビジネスの延長線上では考えられえないような決断を下した際のエピソードが集められています。

序文の中でコリンズさんは、これらの決断がCEO一人の独断で決まり、類稀なるリーダーシップで実現した訳ではないことを指摘しています。むしろ、そのような決断は経営陣や従業員との白熱したディベートを経て決定されているのだそうです。そして、そのようなディベートは意識的に優秀な人間、しかも必ずしもCEOに従順ではないような人間を配置しているからこそ生まれるのです。イエスマンばかりでは今までと同じような路線が議論もないままに採用されるばかりだからです。

周りにイエスマンばかりを置きたがる自分の権威第一の態度をとっているトップも、こんな本を読むと突然“ブレイン・ストーミングを導入しよう”、なんて突然言い出して、“遠慮なく自由に発言しろ”なんて命令するわけです。そんなこと言われたって、普段は違うんだからうまくいくはずないじゃないですか。そんな経験をしたことが何度もあります。そもそもブレイン・ストーミングをしよう、なんて言っている時点でいつもは上下の意思疎通ができていないことがバレバレです。なるほど世間に自慢できるような決断ができない訳です。

ただし、「ありえない決断」を下した企業であっても、未来永劫に安泰なわけではありません。本書で賞賛されているアップルやサムソンも昨今調子が悪いようですし、フォードだって賃金を2倍にした当時はともかく、それ以後好調を維持している訳ではないですからね。いやあ、経営って難しいもんですね。

 

 

金剛 利隆創業一四〇〇年』ダイヤモンド社

ご存知のとおり、世界最古の企業として知られる金剛組の元社長が書いた金剛組のお話です。

578年の創業以来、金剛一族が経営を担ってきましたが、経営難から現在は高松建設の傘下に入っています。また、本書の著者金剛さんも、後継者不在のまま本書の刊行直前(本書初版が20131031日、亡くなったのは20131028日)に亡くなったそうです。

金剛一族が経営、と書きましたが、必ずしも直系の血族が経営に携わってきたわけではなく、著者の金剛さんも婿養子です。過去には若くして家督を継ぎ正大工になったものの、力量不足で正大工職を解かれる、なんてこともあったそうです。

金剛利隆さんの代までの金剛組トップは正大工、つまり本人が本職の宮大工(ほとんどの場合)だったようです。とは言え、正大工の職務とは、宮大工としての力量のほか、後進たちの教育・育成、そして後継者の選定など、正に経営者としての役割が求められていたようです。

金剛さんは、実は金剛組の経営が傾いて高松建設の傘下に入らざるを得なくなった過程で経営の一端(社長、会長)を担っていました。高松建設の会長は「なんでもっと早く言ってくれんのや!金剛組を潰したら、大阪の恥や!」と言って金剛組を引き受けてくれたのだそうです。もちろん、金剛組が企業として生き残れるかどうかは厳しくチェックされたようですが、それでも高松建設会長(と浪速の商人(あきんど、ですね)たち)の義理と人情でかろうじて生き延びた、というのが真相でしょう。

前に触れたとおり、本書の刊行直前のタイミングで金剛さんは亡くなられていますので、本書は正に金剛さんの遺言といえるでしょう。どのように再建を果たしたのかといった経緯は本書をお読みいただきたいと思いますが、金剛組を破綻寸前まで追い込んでしまった本人が反省とともに書いていますので、大変説得力があります。経営者が書いた本ではありますが、“俺は成功したんだ”みたいな経営書ではありません。是非ご一読を。

 

 

カレン・フェラン 神崎朗子訳『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です。』大和書房

経営コンサルタントの懺悔の書かと思って読んでみました。

「この30年、多くの企業に入り込み、「目標による管理」だの「競争戦略」だのとお題目を唱えて回ったすべての経営コンサルタントを代表してお詫びします。御社をつぶしたのは私です」ですって。実体験を基に反省を以って書いておりますので迫力満点。教科書で取り上げられているような経営学のスーパースターたちをなで斬りにしています。いやあ痛快。

フェランさんはMITの大学院を卒業後、デロイト・ハスキンズ&セルズやジェミニ・コンサルティングといった大手コンサルティング・ファームでコンサルタントを務めた後、ファイザーやジョンソン・エンド・ジョンソンといったトップ企業でマネジャーを務めるという輝かしい経歴の持ち主です。が、その後思うことがあったのでしょう、オペレーションズ・プリンシパルズという会社を共同代表として設立、現在も経営コンサルタントとして活躍しています。

経営学の様々な「理論」ついて、フェランさんは面白い指摘をしています。「ありがたいことに、理論の誤りを証明するのは簡単だ。誤りを示す証拠がひとつ見つかれば、それで事足りる」としています。これ、科学的思考法や論理学の基本です。でも、経営学を論理の物差しで一刀両断にしてしまうのはどんなもんでしょうか。フェランさんの提唱する手法だって“うちでは上手く行かなかった”って言われたらお仕舞いですからね。

経営学の手法なんて、どれも“効果があるかもしれない”けれども、もしかしたら“効果がない場合もある”かもしれない、って程度のものなんじゃないでしょうか。これが文学とかの問題であれば、誰も良い文学作品を書くための理論が正しいかどうかなんて問題にもしないでしょう。文芸作品の評価であれば、文学界の権威が“これが最高”って言ったとしても、面白いと思う人がいる一方、つまらないと思う人もいるのが普通でしょ。

「幸福な家族はどれも似通っているが、不幸な家族は不幸のあり方がそれぞれ異なっている」とは有名なトルストイの言葉ですが、この言葉は経営学でもよく引用されています。良い企業、良いリーダーには共通点があり、潰れてしまった会社や経営が傾いてしまった会社にはそれぞれ別々の潰れる理由がある、というものです。ですからリーダーシップの研究とか、優れた会社の経営手法や理念を研究、ベスト・プラクティスとして真似しよう、なんてことになるんですが、私はかねがね逆なんではないか、と思ってきました。

ま、家族のことはひとまず置いておくとして、本当に優れた業績を残している会社は同じようだと思いますか。私は、成功した会社ってのはそれぞれに同業他社にない強みを持っている、と思います。だから成功したんじゃないですか。で、その強みってのは他とは違うってことです。質的な問題なのか、量的な問題なのか、あるいはそのどちらでもないのかもしれませんが、とにかく何らかの形で他社と差別化することによって何らかの意味で自分で選んだフィールドでのNo. 1の地位(必ずしもシェアが1番とかを意味しません)を獲得しているのではないでしょうか。なので、簡単に真似なんかできないんです。

それに対して、失敗の原因ってのは結構似ているんじゃないでしょうか。私はかつて日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦の書評の中で、第二次世界大戦中の日本のリーダーの特性として、「何か失敗しても誰も責任を取らないし責任の追及もしない。責任を取らなければならないときは下っ端に押し付ける。現実は直視せず何でも気合いで解決できると信じ込む。不都合な事実には目を向けず、誇大な希望的観測のみを信じ込む。一度決まったことは不都合があってもそのまま続ける。失敗は糊塗して知らなかったことにするか忘れたことにして、絶対に反省なんかしない。思いっきりセクショナリズムで部外者のことなんか考えない。そもそも誰も人の意見なんか聞かないので、議論が成り立たない。上には媚びる、下には威張る」なんて書いていますが、これ、ずっこけちゃった企業のマネジメントにもそっくりそのまま当てはまるんじゃないですか。

ところで、本書の最後の方に、「注意すべきコンサルタント」の例が表にまとめられています。ろくに分析もせず、人の話なんか全く信用せず、自分の理論を小難しい専門用語を使ってまくしたて、すごい効果がありますなんて大ぼらは吹く癖に、実務経験はゼロ。効果がない場合は実施方法に問題がある、なんて責任転嫁。要するに信用のできないハッタリ屋。うーん、政府の何とか諮問会議とかに良く登場してきそうですねえ。こんなコンサルタントの話を聞いても、悪影響しか起きそうにないですよね。コンサルタントを雇う前に是非ご一読を。

 

 

井上 達彦ブラックスワンの経営学』日経BP

 

本書は一流の経営学会誌などで最優秀賞を受賞した論文を紹介していく形で展開されています。現在、経営学会誌に提出される論文は統計学を用いた「仮説検証型の研究」が主流であることは、世界の経営学者はいま何を考えているのか』の書評でもご紹介した通りですが、最優秀賞を受賞するような論文は、実は本書で取り扱っている「事例研究」型の論文の方が多いのだそうです。

本書の題名に使われている「ブラックスワン」はもちろんタレブさんの書いた『ブラックスワン』から採っているのですが、井上さんは「ホワイトスワンの平均像を示す」のに適した統計学を使った「仮説検証型の研究」より、「ブラックスワンを探し出すのに向いている」「事例研究」の方が経営学の方法論としては優れているのではないか、と思っておられるようです。

本書にはブラックスワンをあぶりだすようないくつかの事例研究が紹介されています。いかに少ない事例からバイアスを取り除き、信頼性の高い結論を導くかといった研究手法には大変興味深いものがありますが、本書はややアカデミックな興味が優っている気がします。経営学を勉強している人間が新しい研究の手法とか動向を知るのには良いかもしれませんが、実務家が読んで参考にするといった類の本ではないようです。

 

20153

フィリップ・コガン 松本剛史訳『紙の約束』日本経済新聞社

 

著者のコガンさんは20年以上フィナンシャル・タイムズの記者を務めた後、現在はエコノミスト誌でキャピタル・マーケット担当編集長を務めているという大ベテランの経済ジャーナリストです。そんなコガンさんが現在の経済状況(多くの国が過剰な負債を抱えている)を、その歴史を遡ることによって解き明かし、そして未来への展望(The New World Order)を語ります。私たちに明るい未来は待っているのでしょうか。

ほとんどの章では紙の紙幣、あるいは約束(クレジット、creditですね。クレジットカードはプラスチックの約束って訳ですか)が受け入れられるようになるまでの歴史が語られます。で、最後に未来への展望が語られるわけですが、私としては“うーん”という感じでした。それに、“次”のシステムが確立する前には相当な混乱、場合によっては戦乱がありそうです。

人類は有史以来、それほど賢くはなっていないようです。

 

 

マイケル・ルイス 東江一紀『ブーメラン』文藝春秋

 

本書には、2008年のサブプライム・モーゲージ市場の崩壊で一儲けしたヘッジファンドが、ギリシャやアイルランド、ポルトガル、スペインやイタリアのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)で一稼ぎ、今度は日本とフランスの国債のCDSを購入している、という場面から始まります。

CDSとは本来企業など債券発行者が倒産した時のリスクをヘッジするデリバティブ商品です。平たく言うと、会社がつぶれちゃった場合、なにがしかの保険金が下りる、という保険類似商品です。

保険商品と違うのは、CDSの買手には債券の保有が求められていないことです。生命保険では原則として他人の生命に対して生命保険を掛けてはいけないことになっています(被保険者の同意があればかけられます)。どうしてかというと、他人(被保険者)に、自分が保険金受取人である生命保険をかけて被保険者を……なんてことを考えるワルがいるからです(生命保険業界ではモラル・リスクと称しています)。でも、CDSの場合、同意もくそもありません。日本のCDSを買いながら、“日本が危ない……”なんてセミナーを開いているのかもしれません。

ところで、本書の中でMITから発表された「いくつになっても男子は男子:ジェンダー、自信過剰、普通株式投資」という論文が紹介されています。その内容は「ごく簡単にいうと、男は女より頻繁にトレードを行うだけでなく、誤った信念にもとづいて金融上の判断を下す」傾向が強い、というものだそうです。いやあ、痛いところを突かれちゃいましたね。そう言えば、ギャンブルにはまっているのは圧倒的に男の方が多い、と思うんですがどうでしょうか。

本書には元プロの優秀な漁師があっという間に為替のトレーダーになっちゃった男性が紹介されています。私が為替のディーラーをやっていた時だって、ゼロから百までの数字を英語で言えて、あとはマインとユアーズさえ言えれば為替のディーラーになれるって言ってたもんね。為替のディーリングなんて確たる理論があるわけでもないし、経験や学識があれば勝てるってもんでもないですからね。インサイダーだってまずないと言えるし。簡単に言えば、誰だってできるってことです。バブルが起きるわけだ。

 

 

ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール 高橋璃子訳『ウォール街の物理学者』早川書房

 

著者のウェザーオールさんはスティーブンス工科大学で数学と物理学の博士号を取得、さらにカリフォルニア大学で哲学の博士号を取得した方だそうです。三つも博士号持ってんのこいつ、嫌味な奴だなあ。

こんな経歴のウェザーオールさんですから、ウォール街を席巻するクオンツたちの生態を理解することができるのでしょう。マーケットを混乱させる元凶とも目されるクオンツたちですが、ウェザーオールさんの目から見るとどのような人たちなのでしょうか。

数学や物理学の経済学や投資理論への応用というと、ハリー・マーコウィッツのCAPMや、オプションの価格理論であるブラック・ショールズ方程式なんてのが思い起こされますが、実際にはそれより早くからいろいろな形で応用されていたようです。確率論が考え出されたのは博打に勝ちたいためだとも言われています。戦争が科学の進歩に大きな役割を果たしたと言われていますが、もっと卑近なところにも学問発展の芽はあったようです。

こうすれば儲かる、なんて魔法みたいな方法があれば素晴らしいのですが、そんなもの本に書かれて出版される頃にはしゃぶりつくされてなくなっています。昨今流行りのコンピュータを使ったHFT(高頻度取引)なんてのも、最初のうちは確かに儲かったそうですが、同様のアイデアを持った参加者が増えるにしたがって儲からなくなっちゃった、なんて話を聞いたことがあります。

本書の初っ端にルネサンス・テクノロジーズという理数系の人間だけを集めたヘッジ・ファンドが紹介されています。金融の専門家、なんて人間は絶対に雇わないのだそうです。それでいて抜群のパフォーマンスを示しているのだそうです。本書において詳しい投資戦略が明らかにされているわけではないので何とも言えませんが、長年にわたってトップ・パフォーマンスを示し続けている、なんて言われちゃうと、森永卓郎先生ではありませんが、“よっぽど幸運なのか、悪いことをしているかのどちらかだ”なんて思っちゃいます。

皆さん結構勘違いされているのですが、オプションのブラック・ショールズ方程式なんてのを知っていれ儲かる、みたいに思われていますが、そんなことはありません。現時点において想定されたリスクをニュートラルにするにはどうすれば良いか(所謂デルタ・ヘッジですね)、は分かりますが、どうすれば儲かるか、まではブラック・ショールズ方程式は教えてくれません。

では、どうやって儲けるのか、ということになりますが、もし様々な金融商品の正確な価格が分かれば、それぞれの価格の間の歪みを見つけることができるようになります。つまりアービトラージ(裁定取引)が可能になるのです。悪いことをしなくても、絶対に儲かる機会が存在する、ということです。ただ、私の経験から言うと、確かにアービトラージの機会は存在するのですが、そんなものがあれば皆が我も我もと押し寄せてくるのでいつまでも続くことはない、ということです。そんなうまい話、いつまでもそこらに転がってはいませんよ。ヘミングウェイも言ったそうです、“みんなが同じ馬に賭けたら競馬にならないじゃないか”って。

また、なにか大きなことが起きる前兆を捉える可能性も指摘されています。マーケットのクラッシュが起きる前に何かが起きることが分かっていれば、確実に儲けることが可能です。どうやって予測するのかを企業秘密にしてしまえば、永遠に儲け続けられそうですね。

ところで、本書では一貫して数学や物理学が経済学に大きく貢献して来たことを強調していますが、だからと言ってそれらのモデルが完璧であるとか永遠に正しいことを保証しているものではないとも強調しています。「科学はプロセスであり、金融モデルの構築はそうしたプロセスの一例だ」としています。宇宙のどこに行っても“正しい”といえる理論は数学にしかないと読んだことがあります。経済学なんて、いや物理学においても絶対的な正しさは得られません。従って、様々なモデルが考えられますが、それらは全て永遠の改良を前提としたものにならざるを得ないのです。

ウェザーオールさんは「金融モデルにとって何よりも危険なのは、いまのモデルが完成形だと思い込んでしまうことだ」と指摘していますが、何も金融モデルに限らない箴言のようにも思えますがいかがでしょうか。

 

 

ウリ・ニーズィー/ジョン・A・リスト 望月衛訳『その問題、経済学で解決できます』東洋経済新報社

 

前書が“数学と物理学で経済現象は解読できます”と主張しているのに対して、本書は行動経済学で“経済問題は解決できます”と主張しているわけです。前書でも触れられていましたが、数理経済学と行動経済学ってのは何とも折り合いが悪いそうです。どっちかが正しいのでしょうか。それとも2013年のノーベル賞でロバート・シラー(行動経済派)とユージン・ファーマ(効率的市場派)が同時受賞したように、経済学なんてそんなもんだと思っておいた方が良いのでしょうか。

それはともかく、本書の最初の方で、インセンティヴについて様々な例を挙げて解説しています。募金集めのとき、全くの無報酬で頑張ってほしいと激励した場合と、募金した中からキックバックを払いますよとインセンティヴをつけた場合とどちらが一生懸命募金を集めてくれるのか、なんて例(実際に実験した)が挙げられています。ここら辺のことは経済学ではなく、経営学でも応用可能なのかもしれません。“どのような報酬体系を採ったとき、社員はいちばんよく働くのか”なんてね。

本書、経済学でなんでも解決できるかのような超強気の邦題が付けられていますが、原書には"They Why Axis: Hidden Motives and the Undiscovered Economics of Everyday Life"という題が付けられています。邦題よりは奥ゆかしさがありますよね。で、本書を通じてお二人が強調していることは、「インセンティヴは結果を左右する。でも、インセンティヴは、人々のやる気に合わせて正しく設定し、絶妙に調整しないといけない」というものです。

どこかの会社で上手く行った評価制度だって、国や文化、業種、社長の性格などなどが異なった会社でも同じように上手く行くわけではありません。本書にも紹介されていますが、インセンティヴが反対の方向(やる気を無くさせる)に働く場合だってあるんです。皆さんも思い当たる節があるんじゃないでしょうか。私なんか、あっちでもこっちでも……。

ところで、本書では数多くの行動経済学に基づいた実験が紹介されていますが、その多くが著者であるニーズィーさんとリストさんによって実行されたものであることに驚かされます。経済学に対する批判として実験ができないことが挙げられますが、なるほど実験可能な経済学の分野もあるのだということが分かります。

もっとも、行動経済学ですら経済のあらゆる問題を解決してくれるわけではなさそうです。行動経済学で景気が良くなりますか?とは言え、大変示唆に富んだ、興味ある一冊でした。是非ご一読を。

 

 

20152

鈴木 邦男歴史に学ぶなdZERO

 

鈴木さんは昔、ビスマルクの「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉を聞いた時、大変感銘を受けたそうです。ところが、最近この後ご紹介する『漫画が語る戦争』というシリーズ本を読んで、改めて「戦争の〈歴史〉は皆知っているかもしれないけれど、戦争の「体験」は知らない」ことに気づかされたそうです。

そこで鈴木さんが提唱するのは、「歴史に学ぶな」、しかし「歴史を楽しめ」ということです。歴史に学ぶとき、“司馬史観”(最近あちこちで批判されていますねえ)ではありませんが、どうしてもある特定の解釈を伴う著者のフィルターを通して歴史を眺めることになります。また、読者である私たち自身も自分を正当化するように歴史を解釈してしまいます。

そもそも、鈴木さんによればビスマルクの「愚者は体験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉ですら、出典ははっきりしないそうです。少なくともどこで言ったのかとか、ましてや自分で書いたという証拠は見つからなかったそうです。

鈴木さんは「これからどういう社会を作ろうかとか、まったく戦争のない社会を作ろうとか、歴史を抜きにして一から考えられるはずなのに、考えない」と指摘しています。歴史を知ることは絶対に必要のことだと思います。が、だからと言って今までと同じでなくてはいけない、ということはありません。また、本に書いてあった、有名な先生がこう言った、テレビで言っていたからといってそれが真実、あるいは正しいことであるとは限りません。自ら考え、もし自分は違うと思うのであれば、そのように行動しなくてはなりません。その勇気を持とうではありませんか。

 

 

水木しげる、梅図かずお、野間宏・滝田ゆう、古谷三敏、新谷かおる、比嘉慂、立原あゆみ、湊谷夢吉、かわぐちかいじ、白土三平、あべ善太・倉田よしみ『漫画が語る戦争 戦場の挽歌』小学館クリエイティブ

 

この後にご紹介する『漫画が語る戦争 焦土の鎮魂歌』とシリーズをなす戦争をテーマとした漫画のアンソロジーのうち、戦場が舞台となっている作品を集めたのが本書です。

本書に掲載されている作品の多くは戦後生まれです。その意味では一次的な経験をもとに作品にしたものばかりではありません。

様々なテーマに沿って作品が描かれています。どれをとっても読み応えのある作品でした。漫画恐るべし。ぜひご一読を。

 

 

手塚治虫、巴里夫、早乙女勝元・正岡としや、中沢啓治、曽根富美子、ちばてつや、山上たつひこ、村野守美『漫画が語る戦争 焦土の鎮魂歌』小学館クリエイティブ

 

本書は戦場でなく内地にあって戦災にあったり、外地からの引き上げで苦労をしたりといった「銃後」の戦いを描いた漫画が集められています。

作家の宮崎学さんは本書の解説で、戦争中の銃後の暮しには戦争遂行という確固たる目標があり、生活にも妙な明るさがあった、としています。ただし、そんな思いは空襲によって木端微塵に吹き飛ばされてしまったんですが。「戦争被害が銃後に及ぶまで、前線に送られた兵隊が消耗戦を戦わされようが、その痛みをわがごととして受け止めえなかった」「庶民は軍国主義に無理やり巻き込まれた被害者であるというよりも、みずから望んで協力していった側面が間違いなくある」と辛口の評価をしています。

本書にも随所に出てきますが、アメリカという国は“正義の国”でもなんでもなく、ただ単に自国の利益を最大限に追求している国であることがよくわかります。そうであるとしたら、“戦後レジームの総決算”をして“美しい国”を作るために、なにゆえアメリカ様、アメリカ様と崇め奉らなくてはいけないのでしょうか。どうも視点がずれているような気がしてなりません。

いずれも涙がちょちょ切れるような佳作ぞろいです。漫画恐るべし。ぜひご一読を。

 

 

日高 一郎+みどり私は戦犯なのか――従軍看護婦物語』日刊ゲンダイ・無双舎

 

本書は日高一郎さんの母親である多佳さんが残した遺稿をもとに日高一郎さんとみどりさんが小説として書き起こしたもののようです。多佳さんはお国のために、という思いで従軍看護婦として働くことを志願しました。

ところが、多佳さんが戦場で経験したことは、思い描いていたような経験ではありませんでした。兵隊たちはお国のために戦い、看護婦たちはそんな傷ついた兵隊たちを看病する。が、戦場で待っていたのは人と人が殺しあっている“戦争”でした。戦争が終わった後の状況もちらっと書かれていますが、以前やられていた側がやり返す側に回っただけ。

そして、終戦後の日本に戻ってみれば、なんでもかんでも戦争に協力した奴らはイヤ、という何とも理不尽な仕打ちでした。

そう言えば、絶対に戦争が起きなくなる法律、というのがあるそうです。もちろんジョークですが。それは、戦争をすると決めた政治家は、本人、あるいは一族の壮年男子は兵隊に、女性も戦場近くの病院などに勤務することを義務付けるものだそうです。昨今勇ましいことばかり言っている輩を多く見受けます。そんな方々には率先して戦場に行ってほしいものです。

 

 

20151

和田 秀樹医学部の大罪』ディスカヴァー・トゥエンティワン

 

本書の帯には「日本の医学と医療の進歩の最大の抵抗勢力、それが、医学部」と刺激的なことが書かれています。また、日本の最長寿県である長野県について、「長野県の場合、大学の医学部が少ないこと」が「寿命がいちばん長いのに、医療費がいちばん少ない」原因である、なんて書いちゃってます。こんなことを書いてしまう和田さんは、日本の医学界では嫌われているんでしょうね、きっと。

本書の初っ端で、日本の医者は総合的な診療ができない問題が取り上げられています。以前本書評でも取り上げた、『「老年症候群」の診察室でも同様の問題が取り上げられていました。病気のデパートになっているお年寄りは、この病気はこの診療科、こっちの病気はあっちの診療科、とあちこちの診療科に通わなくてはなりません。診療科どころか、病気ごとに病院が違う場合だってあるでしょう。病院巡りをするだけで一苦労です。そして、山のように薬を処方され、薬の飲みすぎで具合が悪くなると、さらに薬が追加される、なんてマンガみたいなことが実際に起きています。そりゃ、老齢医療費がかさむわけですよね。

本書にも書かれていますが、医者と法律家ってのは日本における二大知的エリートの職業でしょう。だもんで、そのプライドたるやエベレストをも凌ぐほど高い。まあ、病院に行く時ってのはこちとら病気だからですよね。医者とけんかしちゃうと良い治療が受けられなくなる恐れがありますから、“ははあ、先生様ごもっともでございます”なんて言っちゃうわけです。頭が高くなるわけです。患者に威張っているくらいならまあ我慢できますが、そのプライドのおかげで新しい治療法の導入にはとにかくなんでもかんでも反対する、なんてことになると、いくらなんでもどうかしてるんじゃないの、と言いたくなります。

日本の大学医学部をけちょんけちょんに貶している本書ですが、医者なんぞこの世からいなくなってしまった方が幸せだ、何てことを主張しているわけではありません。そうではなく、和田さんなりにどのようにすれば日本の医療制度や技術が向上するか、様々な提言をしています。まあ、今の日本の統治システム(日本の問題は何も医学界に限ったことではないようですから)では受け入れられそうにもないものが多いとは思いますが。

私の娘は現在医学部への進学を目指して受験勉強中なんですが、今この本を読んだらいやになっちゃうかもしれませんねえ。医学部に合格してから読ませるようにいたしましょう。

 

 

ビクトリア・スウィート 田内志文/大美賀馨訳『神様のホテル』毎日新聞社

 

本書の舞台である『神様のホテル』とは「1867年、ゴールドラッシュに沸くカリフォルニア州サンフランシスコに開院」したラグナ・ホンダ病院です。現在は正式な病院として運営されていますが、もともとは開拓者や炭鉱夫のためのケア施設、いわゆる「救貧院」であったようです。救貧院とは、「さまざまな理由により社会生活が困難となった人びとや、行く当てのない慢性疾患を持った人びと、回復の兆しがない病人のためのシェルター(避難所)」です。こうした救貧院はアメリカ各地にあったそうですが、現在ではラグナ・ホンダ病院が「最後の救貧院」と呼ばれているそうです。

アメリカの病院なんて言うと、救急車で運ばれてきても受け入れる前に医療費をちゃんと払える保険に入っているかどうかを調べられ、入っていないと裏口からそっと捨てられちゃう、なんてろくでもない話ばかり思い浮かびますが、アメリカの医療技術が世界一であることは現在でも間違いありませんし、その教育システムもまた世界最高水準を誇っています。もちろんアメリカの医療システムにも多くの問題があることは確かでしょうが、やはり見習うべき点もあるようです。

スウィートさんはほんの短期間務めるつもりで採用試験を受けたようですが、何と20年以上に亘ってラグナ・ホンダ病院に医師として勤められた方です。その詳しい経緯などは本書をお読みいただきたいと思いますが、私がスウィートさんの経歴で興味を引かれたのは、自身最新の医療教育を受けたにもかかわらず、12世紀のドイツに生きたヒルデガルト・フォン・ビンゲンという女子修道院長にして神秘学者、神学者でもあり、『聖ヒルデガルトの治療学という現在でも日本語で入手可能な医術書の著者に魅かれ、その研究によって博士号を取った方である、ということです。中世の医術書ですから現代の近代医学とは異なる、伝統的なホリスティックな療法です。私たちには、“東洋医学”的な医療といった方がみしろ分かりやすいのかもしれません。そして、スウィートさんの働くラグナ・ホンダ病院ではそのような医療活動も受け入れられていたようです。また、「スイスの病院では、マッサージとブランデーが睡眠のために処方され、今でもハーブ風呂が活用」なんてことも紹介されています。患者も使えるカフェテリアではワインまで飲めるんですって。そんな病院なら入院してもいいかなあ。

日本では眉唾ものと思われている代替医療ですが、意外にも欧米では広く受け入れられているのだそうです。私もこんな柔軟な思考力を持ったお医者さんに掛かりたいものです。本書も娘が医学部に受かったら読ませることにいたしましょう。

 

 

北原 茂実「病院」がトヨタを超える日』講談社+α新書

 

日本の医療の現状を考えるための重要なヒントとして、本書でも人口構成(いわゆる人口ピラミッド)の変化が取り上げられています。日本のみならず、欧米、あるいは中国などの発展途上にあると思われているような国々を含め、今後少子高齢化が進んでいくことが確実な現在、今までと同じ事をやっていたら現在の社会保障システムなんて維持できるわけがありませんよ、ということです。社会保障どころか、政治経済全般にどうかなっちゃうんじゃないですかね。

で、本書は現役の医師であり、医療法人社団KNIKitahara Neurosurgical Institute)理事長でもある北原さんの処方箋です。

詳しくは本書をお読みいただきたいと思いますが、簡単に言ってしまうと医療をちゃんとした産業と捉え、自立してやっていけるようにしよう、ということのようです。

まあ、一国の運営だって一つの企業として考えれば、その目的はいかにすれば国が末永く(持続性、sustainableですね)独立を保っていけるか、国民が幸せであるかどうか考えよう、ってなもんですよね。誰もそんなこと考えていないようだけど。

ところで、本書で北原さんは「医療とはアートです」と言っています。私がイメージしたことと北原さんが本書で述べられていることは若干違うようなのですが、私はこの言葉を読んだとき、私がいつも思っていることを思い出しました。それは、全体を見ることの重要性です。いくら油絵だからって、絵具の材質に注目して絵画を鑑賞したりしないでしょう。また、これは例えば経営の実務においても同じです。あまりに一点だけを見つめてビジネスを続けると、強みであったはずのものがいつの間にか弱みになってしまったりします。何事にもバランス、全体への気配りが必要なのです。

北原さんは海外進出も見据え、ビジネス拡大に余念がないようです。是非成功していただきたいものだと思います。

 

 

名郷 直樹「健康第一」は間違っている』筑摩選書

名郷さんは自治医科大学卒業後、長らく僻地医療に携わってこられたお医者さんです。現在は開業されているようです。そのような経験を基に、病気になること、死ぬことは不幸、という現代医学のドグマに警鐘を鳴らしておられます。本書では長寿であれば幸せなのか、という現在ではいささかタブーなのではないかと思われるテーマを正面から取り上げています。

美味いものを食って早く死ぬんだ、なんてうそぶいていた医者が、実際に年を取ると死ぬのが怖くて仕方がない、なんて例もあります。でも、どんなに死を恐れ、逃げ回っても、あるいは健康に気を付け、検診も受け、病気になれば最高の治療を受けても、人間いずれ死ぬんです。残酷なようですが、これが真実です。であれば、良く生きるのと同じように良く死ぬことを考えてみても良いのではないでしょうか。

人間、いずれは死ぬんです。ああ良い人生だった、と思って死ねるよう日々精進しようではありませんか。

 

 

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