2015年度の書評はこちら

 

201412

藻谷 浩介しなやかな日本列島のつくりかた』新潮社

 

藻谷さんは「安倍政権は経済的な“反日”の極み」とまでアベノミクスをけちょんけちょんに貶したとかで、安倍首相は「モタニ?アイツだけは許さない。あの馬鹿っ!俺に喧嘩売っているのか」なんて言ったとか言わなかったとか書かれています。ほう面白いじゃないの、何を言っているのかしら、ということで藻谷さんの最新刊を読んでみました。

本書評でも追い追い取り上げる予定ですが(読んで書評も書いちゃったのにご紹介しそびれている本が結構あるんです)、少子高齢化というのは今後の日本の大きなテーマ、問題になりそうです。ただし、日本だけの問題ではなく、人類社会全体の大きなテーマになって行く気がします、と言うか、間違いなくなります。イケイケドンドンの中国だって、(一人っ子政策の影響も大きいと思いますが)少子高齢化の問題にぶち当たりそうなんです。

そんな時に求められているのは政策の転換、パラダイム・シフト。今までになかった問題に立ち向かわなければならないのですから、過去を振り返ったって無駄。ああ、それなのに……。

藻谷さんは今の時代を「子供を持たずに生活費を切り詰めている人が、低賃金長時間労働をしてGDPを維持している。企業の側も、子育てができないほどの給料しか払わないことで、なんとか採算を確保している」状態だとしています。これで消費を増やせったって無理ですよ。

社会保障を充実させるために財源を確保しなくては、だから消費税を上げるんだ、なんて本末転倒もいいところ。これから少子高齢化が進んでいく世の中で、高齢者への給付だけを確保しようなんて無理。環境がそうであるならば、これからの社会をどのようにデザインするか、を考えなくてはいけないはずなのですが、そんな議論は全く聞きません。

藻谷さんはそのような議論を聞かせてくれる数少ない論客のようです。また、本書では藻谷さんと目指す方向が一致している方々が実は多数いらっしゃるということもわかります。ぜひ議論を深めて行っていただきたいと思います。皆さんもぜひご一読を。

 

 

佐高 信民主主義の敵は安倍晋三』七つ森書館

 

題名からして内容の想像のつく本ですね。

佐高さんも「はじめに」で触れていますが、安倍総理大臣のお祖父さんが岸信介元首相であることは本人もよく口にしているので知られていることだと思いますが、父方の祖父(つまり安倍晋太郎元外相の父)安倍寛も実は政治家でした。安倍寛は素封家の家に生まれた、言うところのエエトコのボン、だったのですが、金権腐敗を糾弾するなど相当気骨のある人物だったようです。政治家になり、1942年のいわゆる翼賛選挙では東條英機らの軍閥主義を鋭く批判、無所属・非推薦で出馬し当選するという離れ業も見せています。戦後の活躍も期待されたようですが、19461月、51歳の若さで亡くなってしまいました。

民主主義の今の世の中、こんな経歴の政治家を祖父に持ったとしたら、一言ぐらいなんかあってもよさそうなものですが(安倍晋太郎元外相は父親のことを大変誇りにしていたそうです)、安倍首相の口から語られるのは岸信介元首相のことばかりです。安倍首相は母親からのDNAしか受け継いでないのでしょうかね。安倍寛と親しかったという三木武夫元首相の奥さんである三木睦子さんが安倍寛について語っている映像が残っています。文字に起こすとこんな感じみたいです。

ところで本書は数年前からの対談で成り立っています。その頃の対談を読んでいて感じるのは、“今度の安倍内閣は違うぞ”という感覚です。ほんの数年で。佐高さんはそんな日本にも未来はあるんだ、という論調で書かれていますが、なんだか相当危ない感じになってしまっています。本書の中で小森陽一さん(「九条の会」事務局長)が「子どもが悪いことをしたり喧嘩していたりしたとき「やめなさい」というと「ぼくは悪くないもん」というでしょう。こういう幼児的な心性と、侵略を謝罪したくないと言い張る心性は似ていると思います」と指摘しています。この傾向は誰か特定の一人、と言うより、声高に“愛国”なんて叫ぶ方の多くの方に当てはまっているような気がします。日本は大丈夫なのでしょうか。皆さんもぜひご一読の上考えてみてください。

 

 

想田 和弘熱狂なきファシズム』河出書房新社

 

想田さんは1970年生まれの映画監督です。ドキュメンタリーの手法を使った作品が多く、国際映画祭での受賞も多数あるそうです。ただし、「僕の本文は映画作家であり、作品にある種の「色」がつくことを恐れて、長い間政治的発言は謹んできた」のだそうです。「しかし、東日本大震災と原発事故を契機に「もはや保身をはかっている場合ではない」と考え、積極的に発言し始めた」のだそうです。想田さんが感じる危機感は、本書からひしひしと感じられます。

想田さんは現在の社会状況を「消費者民主主義」であるとしています。民主主義をきちんと作動させるためには「政策や動向の一つひとつを主権者が詳しく吟味し、問題があれば反対の声を粘り強く上げていく作業が不可欠」なのですが、「残念ながら、日本の主権者のマジョリティは、そのような意欲も時間もないし、責任も感じていないからである」としています。なるほど、最近の政党には指南役に大手広告会社が就いていますねえ。大手広告会社の手にかかれば、消費者の動向何て赤子の手をひねるようにどうにでもなる、のでしょうか。

国民は自分たちと同じレベルの政治家しか持てないとか言われています。しかし、現在の状況を選挙の結果なんだからしょうがない、と簡単に受け入れてしまっても良いのでしょうか。「正直、状況を一気に解決するような特効薬はないと思う」「しかし、まだまだやれることはあるし、打てる弾はある。僕はそう、信じている」と想田さんは訴えています。私も同感いたします。少しでも私たちの思いを実現するために、やれることをやって行こうではありませんか。

 

 

倉山 満歴史問題は解決しないPHP

 

本書の冒頭で倉山さんは「「戦後レジーム」とは「日本を敗戦国のままにさせる体制」のこと」だと喝破しています。そうであると分かれば、「安倍晋三内閣が仮に六年続くとしても、日本がまともな国に戻るのは無理」だということが分かるだろう、としています。でも、安倍首相自ら戦後レジームからの脱却って言ってるんですけど、どうなんですかね。

本書の前半で倉山さんは戦争の歴史を順次紐解いてゆきます。そして、近代の始まりを1648年のウェストファリア条約にあるとしています。少なくともヨーロッパ社会に通用する“国際法”なんてのができたのがこの条約にさかのぼるわけです。お互いに戦争をする時もあるけど、いちおうルールを作っておきましょうということになったわけです。そうじゃないと王朝ごと国が亡びちゃいますからね。王様の人生をピリッとさせるには戦争も必要ですが、それで王位を追われる、なんてのは願い下げにしたいからです。

で、このような王様同士の決闘のシミュレーションみたいな戦争が終わって総力戦時代に突入したのが第一次世界大戦だったわけです。で、このころから台頭してきたのがアメリカ。倉山さんはアメリカ人のことを「正義の戦争があるとする考え方を信じている」、「敵と犯罪者の区別がつかない人々」であるとしています。倉山さんの見方としては全くほめ言葉ではありませんね。また、そのような見方の結果として敵国を占領するということは、総力戦という戦争状態の延長であり、アメリカは日本に対し「憲法強要・復讐裁判・教育簒奪」などなどを行ったのです。

日本の悲劇は、このような占領政策が「占領政策を戦争行為と認識させず、恩恵と意識させて文化的に抱合することに、かなりの部分で成功」してしまったことにあるのではないでしょうか。理由はいろいろあるのでしょうが、それまでの政治、特に昭和初期の政治が日本国民にとってあまり愉快なものではなかったことがあるのではないでしょうか。「総力戦研究所の敗戦直前の研究によれば、宗教・成法・風習のいずれか一つに介入すれば、被征服民族は滅亡を覚悟した抵抗に至り、占領政策は失敗する、と世界史全体の事例から結論付けた」のだそうですが、日本じゃそんなこと起きなかったもんね。

それはともかく、日本を取り巻く大国、つまりアメリカと中国、それにロシア、でしょうか、が日本が敗戦国のままでいる現在の体制を変える意図、あるいは日本が敗戦国であるという地位を変えるために助力してくれるか、と言ったら、そんなことはありえない、ということがよく分かると思います。そもそもアメリカって戦後レジームを作った国なんですよ、もちろんアメリカの利益のために。戦後レジームがアメリカの不利益になった、と言うのであれば、言われなくても変えますよね、普通。そうじゃないから変えないんです。

これからどうすれば良いのか、なんて点では倉山さんといささか意見が違うであろうとは思うのですが、現在巷には自分に都合の良いようにしか物事を理解しようとしない方々が溢れ返っているように思えます。そうであるとすれば、倉山さんのいささか極端とも思える歴史理解も知っておいて損はないように思えます。反論があるのであれば、考えに考え抜いて理論的に反論しようではありませんか。

 

201411

大塚 ひかり本当はひどかった昔の日本』新潮社

昨今の児童虐待やストーカー殺人など意味不明としか言いようがない事件が起こるたびに、「戦後教育が間違っている」とか「近頃の若者はけしからん」なんて論調が聞かれます。でも、日本の古典などをひも解いてみますと、昔の日本だって結構、いや、今よりもっとひどい例がごろごろしているそうです。大塚さんの心からの感想は「現代に生まれてよかったな〜」ということだそうです。

まあ、本書に引用されている多くは説話や物語から採られていますので、いわゆるノン・フィクションではありません。ですから、事実としてそのような事件があった、というわけではないのでしょうが、現代では到底許されないであろう設定がそのような物語に登場するということは、少なくともその物語が描かれた時代、そのような事例も許容されていたのであろうと推測されるわけです。確かに、昔の話には捨て子とか、身寄りのない子供、なんて話がわんさか出てきますよねえ。それも、日本だけじゃないかも。

本書では捨て子の数として、1879年には5千人以上、1987年には131人、2003年には67人と紹介されています。単なるノスタルジーで「昔は良かった」ってのはどんなもんでしょうかねえ。

本書には嬰児殺し、虐待、人身売買、親殺しなどなど日本にも昔からろくでもないやつ(男も女も)がうようよいたことが書かれています。ま、世の中そんなもんなんじゃないですかね。「昔は、…」なんてセリフに騙されないためにもご一読を。

 

 

大倉 幸宏「昔はよかった」と言うけれど』新評論

 

前書に続いて本書も「昔は良かった」ってのは本当か、っていうことを検証してみたらそうでもなかったぞ、という本です。前書がその題材を江戸以前の古典から採っているのに対して、本書は主に明治末から昭和10年代、私たちが戦前と言って思い浮かべる時代を検証の対象としています。

「昔は良かった」って言っている方々の「昔」っていつのことだったのかをよくよく考えてみると、実は本書で取り扱っている戦前の時代であることが多いように思われます。さすがに今を生きている方々で江戸時代を身近に見聞きした、あるいはその体験談を身近な人間から見聞きした、って方はほとんどいません。ではありますが、ぎりぎりで軍国教育の一端を受けた、とか、親戚から戦争時代の自慢話のあれこれを聞いた、なんて方は多くいらっしゃると思います。

そもそも、戦争時代の自慢話をするような方々は、戦争で思い出したくもない経験をした方ではないでしょう。実は、このような傾向は戦勝国であるアメリカの軍人の間でも顕著であると読んだことがあります。語られるのは生き残った方々の美しい思い出だけ。それも、損耗率の高かった部隊の生き残りは少ないわけですから、相対的に声が小さくなってしまいます。それに、戦死してしまった方々の思い出は絶対に語られることはありません。ですから、バイアスがかかるんです。

昨今はサッカー場でのゴミ拾いなどで世界に対して大いに面目を施した日本人ですが、本書を読むと、戦前の日本人にはそのような美徳は見られなかったようです。とすると、戦後の日本人の方が民度が上ってことになっちゃいますよね。“今の若いもんは大したもんだ”ってことになるはずなんですが、そんな評価はとんと聞いたことがありません。どうしてなんでしょうか。

悪名高い教育勅語に関しても、当時の識者はこのように評していたそうです。「暗記、暗唱素より悪くはない。否、時には大いにその必要もあろう。しかし、現時小学校に行われて居る勅語教授なるものは、多くは無意味な機械的な暗記、暗唱で、所謂論語読みの論語知らずの観があるように思われる」ですって。形を整えるのは無意味ではありませんが、やはり形だけで終わってしまっては無意味です。今でも同じようなことをやっているような気がします。いつまで同じことをやっているんでしょうか……。

観念的な“昔は良かった”といった粗雑な議論に流されないためにもぜひご一読を。

 

 

管賀 江留郎戦前の少年犯罪』築地書館

 

「私の子供時代には親が子を殺す、子が親を殺すなんて話は聞いたことがありません」なんて得意気に話している方を時折見かけますが、印象だけでものを語ってはいけません。

本書の表紙には、「昭和2年、小学校で9歳の女の子が同級生殺害」「昭和14年、14歳が幼女2人を殺してから死体レイプ」「昭和17年、18歳が9人連続殺人」「親殺し、祖父母殺しも続発!」なんて書かれています。本当に「昔は良かった」んでしょうか。

孫引きで申し訳ありませんが、ネットを検索してみたら、このようなグラフを見つけました。

f:id:NORMAN:20090527035859j:image:w520

引用元:どうにもならない日々(http://d.hatena.ne.jp/NORMAN/20080801/1218012928

  

親殺し統計

引用元:『少年犯罪データベース』(http://kangaeru.s59.xrea.com/G-sonzokusatu.htm    

昨今の日本人の倫理の荒廃は、なんて言ってみても、昔の方がひどかったんじゃないですかね。え、殺人だけが犯罪ではない?そうかもしれませんが、グラフを素直に眺めれば、太平洋戦争中のギャップを除くと、殺人事件は右肩下がりで減っているように見えます。

また、本書に掲載されている中で大変意外だったのは、戦前の日本では学校における体罰は教育令で禁止されていたのだそうです。禁止されているだけではなく、体罰を受けた生徒の親が教師を訴える、なんていう事例(つまり正式な記録が残っている)も数多くあるのだそうです。ではなぜ昨今の年配の方々が“我々が子供の頃は体罰なんて当たり前だった”なんて感想を持つのかといえば、どうも日本軍が大きくかかわっているようなのです。日本軍でも私的制裁は禁止されているはずでしたが、実際にはほとんど野放しだったようです。で、この軍隊経験を持った人間が数多く日本に戻ってきて「軍隊式」教育が一般的になった、なんて感じのようです。もっとも、家庭内における体罰とか虐待(間引きとか口減らしで遊郭に売っぱらっちゃうとか)は今の比ではなかったようですから、単純に「昔は良かった」というわけでもなさそうです。

前出の大倉さんも言っていましたけれど、今ほど良い時代はないんじゃないですかね。うわべだけの議論に巻き込まれないためにもぜひご一読を。

管賀さんは『少年犯罪データベースというサイトも運営されています。よく調べたな、と思えるほど多くの事件が起こっていたことが分かります。こちらもぜひご覧ください。

 

 

水間 政憲ひと目でわかる「戦前日本」の真実 1936-1945PHP

 

昔の日本はひどかった、なんて本ばかり紹介していると偏向だ、なんて言われかねませんので、戦前の日本はこんなに素晴らしかったんだ、って本も紹介しておきましょう。

水間さんの『ひと目でわかる』シリーズは、『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』、『ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』、『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』などがあります。その中から本書を取り上げたのは、本書の表紙に原節子さんの写真がドーンと載っているからです。いやあ、美人ですねえ。16歳の頃の写真らしいですが、とても大人びた顔をしていらっしゃいます。でも、水間さんの言うような「瞳からは深遠な大和撫子の魂を彷彿とさせるオーラがふんだんに発散されています」ってのはいくらなんでも言い過ぎじゃないでしょうかね。

ま、それはともかく、本書の体裁は当時の写真を紹介することで、その時代の真実を読者にストレートに感じてもらいたい、という意図で書かれたようです。

ただし、どうにもこうにも著者の主観的な感想が無理りこじつけられている場面が多いのには閉口させられました。ある「負けるな、勝て勝て!」がモットーだという小学校のエピソードで、「剣道と相撲は、防具も回しも本格的で、見事な体育館です。このような環境では、「イジメ」問題など存在しなかったでしょう」などと何の客観性もない感想をねじ込んでいます。

本書で取り扱う最初の年1936年には二・二六事件が起きています。本書でも何か所か取り上げられていますが、「この叛乱事件でわが国が失ったものは、日露戦争の戦費調達や国家財政再建に辣腕を振るった高橋是清大蔵大臣の国際的人脈や国際的な視点で、わが国の立場を冷静沈着にはかって施策できる政治勢力でした」、「ここに日本の伝統的な美風が欠落した者たちによって、政治が劣化していく状況が見え隠れしているようです」とかなり否定的に捉えています。この分析は私も門外漢ながら同意いたします。でも、そうだとしたら、それ以後の日本国の指導体制、あるいは戦時体制は評価できないものであった、ってことになると思うんですが、水間さんもそう思われているのでしょうか。

また、1942年の東京空襲の解説として「この米国の戦時国際法を無視したやり方から、日本人が覚悟を決めて身構えたのは、当然の帰結だったのです。それを軍国主義と批判することはできないでしょう」と書かれています。私も米国の無差別爆撃は国際法違反の単なるジェノサイド作戦だったと思います。しかし、この事件をきっかけに日本人はどんな覚悟を決めたのでしょうか。“国際法なんか知るか”って啖呵を切って国際連盟を辞めちゃったのは随分前のはずですよね。

また、占領時代になるとGHQにすり寄って“戦争協力者”たちをいじめた胡散臭い文化人たちも“誰”と名指しされていないことも多いのですが批判されています。でも、1945年の1学期には“鬼畜米英”だなんだって言っていた先生が2学期には“これからの民主主義の時代は……”なんて授業していた、なんてこともありますからねえ。どっちもどっちでしょうか。

 

 

201410

村上 隆芸術起業論』幻冬舎

 

2003年、サザビーズのオークションで等身大の美少女フィギュア『Miss Ko2』が50万ドル(当時のレートで6,800万円)で落札され、日本でも一躍有名人となった村上さんの著作です。フィギュア以外の二次元作品でも代表的なカイカイ&キキのモチーフなどで、皆さんも目にしたことがあるはずです。また同年、フランスの超一流ファッション・ブランドであるルイ・ヴィトンとのコラボレーション作品を発売しました。白地にカラフルなモノグラムがちりばめられたシリーズはあちこちで目にしましたから、商業的にも成功したと思われます。

しかし、芸術至上主義、というか芸術家なんて貧乏で、食うものも食わずに絵ばっかり描いている変人なはず、というイメージが強い日本では相当風当たりも強かったみたいです。その作品も、日本人であればアニメの美少女フィギュアに見えちゃう『Miss Ko2』とか、どこぞのアニメのオマージュ、パロディー、いやパクリではないの、なんて言われちゃう二次元作品など、何かと物議をかもしたようです。とは言え、村上さんだって「ぼくは36歳になる頃までコンビニの裏から賞味期限の切れた弁当をもらってくるような、お金のない時代を経験」、「酒屋やスーパーマーケットの裏から梱包用の段ボールをもらわなければ、作品ができても梱包発送ができなかった」時代も経験されたそうです。

本書は2006年に発表されていますので、相当ブイブイ言わせている時代に書かれたのだと思います。「「勤め人の美術大学教授」が「生活の心配のない学生」にものを教え続ける構造からは、モラトリアム期間を過ごし続けるタイプの自由しか生まれてこないのも当然でしょう」「エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った学園が、そこにはあります」なんて書かれています。でも、私はこんなぬるい大学ってところのタコツボ的雰囲気が好きなんですよ。成功しないわけだ。

私には村上さんの作品をあーだこーだと批評する知識も資格も力量もありませんので控えさせていただきます。とは言え、本書は村上さんのマネジメント論である、と考えれば、私にも一言ぐらい評論する権利はあるかもしれません。

村上さんは日本の画壇を見限って世界に出ていったような節がありますが、だからと言って海外で簡単に成功を収めたわけではありません。その過程でセルフ・マネジメントやセルフ・プロデュースの重要性なんてことにも気づかされたようです。また、村上さんのような作品は一人では作れませんので、協力者、職人、パトロン、さらには顧客など様々なステークホルダーをいかに満足させるか、なんて、正にマネジメントの神髄みたいなことも経験されてきたようです。また、欧米のアートシーンで活躍していくと、私たちが思いもかけないところの彼らの不愉快な本音に出会うこともあったようです。どうやって闘ってきたか、は本書をお読みください。

私たちふつうの読者はアート・マネジメントの世界と関わりあうことはめったにないかもしれません。村上さんの芸術論を期待して本書を読むとがっかりするかもしれませんが、本書を一日本人がいかにして世界を相手にビジネスを展開していったのか、なんて観点からとらえてみると、意外な発見があるかもしれません。

 

 

中野 京子中野京子と読み解く 名画の謎 旧約・新約聖書編』文芸春秋

 

前掲『芸術起業論』で村上さんは日本では芸術の鑑賞において、好き嫌いや「曖昧な、「色がきれい……」的な感動」が重んじられるのに対して、「知的な「しかけ」や「ゲーム」を楽しむというのが、芸術に対する基本的な姿勢なのです」「欧米で芸術作品を制作するうえでの不文律は、「作品を通して世界芸術史での文脈を作ること」です」としています。そういう点からいうと、宗教画なんてのは、バッチリと決まったコンテクストに従って描かれています。もし、それがどんな場面であるのか、誰に対して描かれたものか、その描かれた時代の歴史的背景は、なんてことが分からないとピント外れの鑑賞しかできないことになります。日本人が芸術を鑑賞する場合、最も不得手とする分野であるといえるでしょう。

そんな、聖書を題材とした作品の中から代表的なもの(つまり聖書の中の有名な場面)を中野さんが図版入りでどんな場面であるか解説してくれます。解説も結構くだけた文章で書かれていますので、気楽に読めるものと思います。美術館に行く前に是非。

 

 

中野 京子中野京子と読み解く 名画の謎 ギリシャ神話編』文芸春秋

 

キリスト教にまつわる宗教画も日本人にはなかなかなじめないものがありますが、ギリシャ神話も断片的には知っているのですが、一貫したお話として知っているのではないため(そもそもギリシャ神話には“国造りの物語”といったメインテーマはないみたいですね)、日本人にはやはりとっつきにくいのではないでしょうか。本書冒頭に“神々の系譜”が載っていますが、はーそうですか、って感じです。おまけに、神様たちはギリシャ名、ローマ名に加え、そして現在日本で最も知られている英語読みの名前(しかもそのカタカナ書き)まで持っていますので、分かりにくいこと分かりにくいこと。嫌がらせか、って感じです。

ではありますが、ギリシャ語とかラテン語はついこの間までヨーロッパのやんごとなき方々の間では必修科目でした。そして、絵画なんてもののお客さんはそういうやんごとなき人々でした。ってことは、そう言ったお客さんが分かるように(下々のものが分からんでもよろしい)絵画も描かれた、って訳です。中野さんは絵画の鑑賞は何も高尚な学問とかではなく、エンターテイメントとして楽しんだ方がいいんじゃないですかと書いておられます。エンターテイメントとして絵画を楽しむためには、ギリシャ神話も少しは知っていた方が楽しく鑑賞できるってもんです。

ま、それはともかく、まじめ一方だった『旧約・新約聖書編』と比べると、ギリシャ神話ってもうハチャメチャ。処女懐胎のマリアを裸で描いてはいけなかったらしい(タブー)のですが(裸の人物ばかり描かれているミケランジェロの『最後の審判』(イエス・キリストだって裸)でも、聖母マリアはちゃんと服を着ています)、同じような場面でもギリシャ神話がモチーフの場合はヌードOKだったのだそうです。だもんで、ギリシャ神話を題材にした絵画は裸のオンパレード。結構ですな、ほっほっほ。

本書も中野さんが楽しい解説をしています。また、作品を紹介しているページの余白に、矢印付きでキャプションが付けられていますので、真に分かりやすい。美術館に行く前に是非。

 

 

トビー・レスター 宇丹貴代実訳『ダ・ヴィンチ・ゴースト』筑摩書房

 

「本書は、世界一有名な素描についての物語。すなわち、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、円と正方形で囲まれている男性像の物語だ」

ウィトルウィウス的人体図は映画『ダ・ヴィンチ・コード』でも印象的に使われていました。また、イタリア発行の1ユーロ貨幣の裏面にも刻まれています。各国で発行されている1ユーロ貨幣の表側(1EUROって書いてある方)のデザインは共通ですが、裏面は各国それぞれの意匠で作られています。貨幣にイタリア代表のデザインの一つとして選ばれているわけですから、その有名度が分かります。カッコイイので私も何枚か持っています。それに、ポスターも持ってますよ。

ところで、ウィルトウィウスは古代ローマ時代、建築家でしたが、本書の考証によれば、意外なことに著名な建築家ではなかったのだそうです。ま、それでも建築家ですから、かの有名な人体図も今で言うエルゴノミック・デザインとして、どのように建物をデザインすれば中にいる人間がいかに快適に過ごせるか、なんてことを検証するために作られたのかな、なんて思っていましたが、どうもそうではなかったようです。

ウィトルウィウスの時代においては、ミクロコスモスである人体はマクロコスモスである宇宙を写したもの、あるいは人体における様々な比率はマクロコスモスにおいても等しく、従って、建築物などもそれらの比率に従って作られるべきだ……なんて考えられていたみたいです。これが後のキリスト教時代になると、人間はそもそも神に似せて作られたわけですから、ミクロコスモスとマクロコスモスの対比・類似は決定的なものだと思われたみたいです。ちっともエルゴノミックではありませんねえ。

本書はこのウィルトウィウス的人体図のあれこれについて歴史を追って記述されているわけですが、私たちが今ここでこの人体図を見ているのは結構な偶然の産物のようです。そもそも、前述のようにウィルトウィウス本人がさしたる著名人ではなかったようですし、彼自身は文字での説明はしたようですが、図画としては描いていません。レオナルド・ダ・ヴィンチも本図を描くことは描きましたが、手稿に収められただけできちんと印刷・出版、あるいは美術作品として完成されなかったようです。

大々的に世に出たのは、ダ・ヴィンチ研究家でもあったケネス・クラークという美術史家が1956年に出版しベストセラーになった『ザ・ヌードという本がきっかけだったようです。何とも意外ではありませんか。

一枚の図版がたどった数奇な運命。ぜひご一読を。

 

20149

リン・トゥイスト 牧野内大史訳『ソウル・オブ・マネー』ヒカルランド

 

お金というものは、現代の私たちにとって無くてはならないものです。お金がなかったら、どのように生活していけばよいのでしょうか。とはいえ、あったらあったでいろいろと問題を引き起こすのもお金です。

お金がないと明日の生活も確保できませんから、必死で働くなりなんなり(悪いことを含め)してお金を確保しなくてはなりません。幸いにして安定した職業に就くことができ、さすがに“明日”を思い煩う必要がなくなったとしても、それで終わりではありません。いくらあれば絶対に困らないのか、なんてことは誰にもわかりません。そうすると不安になってもっともっと、となります。これ、実は餓鬼の世界です。

で、本書を読むと「古い思い込みから自由になった、本当の自分を発見」できるのだそうです。ほう、やるじゃないの、ということで読んでみました。

ま、色々なことが書いてあるわけですが、ぶっちゃけて言っちゃうと、私も本書評で書いてきたことと重なります。例えば、人類の全員がお金持ちになることはできません。皆がみんなビル・ゲイツと同じだけお金を持っていたとしても、とんでもないインフレが起きるだけです。で、皆同じ。貧乏人がいなきゃ、金持ちって概念は成り立たないんです。でも、人類全体が幸せになることはできます。他人と比べなきゃ、ね。

あと、本書では「充足」という言葉も使われています。ガンジーの言葉も引用されています。「私たちに必要なものは充分にあるが、私たちの強欲を満たすには十分に無い」って。私、揮毫をお願いされたら書こうと思っている字があります。 “口”ひと文字。これ、結構有名だと思うんですが、吾唯足知(われ、ただ、たるをしる)、という漢字四文字の共通の部分なんです。まさに、充分を知っている、ということでしょう。もちろん誰からも揮毫なんてこと依頼されたことは無いですけどね、もしかしたら、ってこともあるじゃないですが。いや、一回ぐらいはあってほしいなあ。

ま、それはともかく、思いっきりお金に毒されたアメリカ人にもこんなことを考える人がいる時代になったってことなんでしょう。次は中国人か?

 

 

ポール・J・ザック 柴田裕之訳『経済は「競争」では繁栄しない』ダイヤモンド社

 

著者のザックさんはクレアモント大学院大学経済学・心理学・経営学教授で、クレアモント神経経済学研究センター所長、さらにロマリンダ大学医療センター臨床神経学教授だそうです。大学では数理生物学と経済学を学んだんだそうですが、ものすごく学際的な経歴ですね。ザックさんは最初は経済学者だったようですが、あまりにも数学的になりすぎた経済学に嫌気がさしてこのような研究を始めたようです。で、名付けたのが「神経経済学」。

ザックさんは2004年、「人間が相手を信頼できるか否かを決定する際に脳内化学物質の「オキシトシン」(oxytocin)が関与していることを発見し、以来、オキシトシンが人間のモラルや社会行動に与える影響の研究に邁進」してきたのだそうです。

「信頼」と言えば私も論文で引用させていただいた山岸さんが思い起こされます。最近も『心でっかちな日本人』なんて本を出版されています。それにしても、人間の信頼感ってのは何と脳内化学物質の影響だったんですね。

また、その実験には“ゲーム理論”を思いっきり利用しています。ゲーム理論については拙論もご参考に。ゲーム理論ってのは合理的な考え方をするプレイヤーばかりが参加するゲームでは、より良い解が存在するにもかかわらず、本人たちの意図しない最低の結果しか得られない、という大変よく考えられた理論です。“囚人のジレンマ”なんてのが有名ですよね。ところが、拙論でもご紹介していますが、ゲーム理論では当然とされる結果が得られない場合があります。参加者がバカだから?いや、私も参加者の一人ですから、バカじゃ困るなあ。こんな場合、実はオキシトシンが効いていたんですねえ。いやあ、長年の疑問が解消した。

また、アダム・スミスの『道徳感情論』なんかも引用しています。実は私も拙論で引用したことがあります。いやあ、親近感を感じるなあ。

ところで、本書を読んでいて気になる記述がありました。「コーネル大学の経済学者ロバート・フランクが明らかにしたところによると、「自己利益」という考えが学問の中心となる経済学を専攻する学生は、1年から4年へと学年が上がるにつ入れて、実験で人を信頼したり寛大な態度をとったりする度合いが減る」という実験結果があるのだそうです。で、他の専攻の学生ではこのような傾向は見られないのだそうです。経済学なんかを勉強すると、自分のことしか考えないガリガリ亡者になっちゃうってことなんでしょうか。私も経済学を学んだものとしては、気になるところです。

ところで、オキシトシンと対立する働きをするホルモンがテストステロンなどの男性ホルモンです。オキシトシンが道徳ホルモンと呼ばれるような働きをするのに対して、テストステロンは私たちに荒々しい行動をとるように駆り立てます。そんなものいらないんじゃないの、とも思われますが、そんなことはないようです。あまりにも簡単に他人を信用しちゃうと、当然それに付け込んでくるけしからんヤカラもいるわけです。そういうとんでもない奴らとは対決しないといけません。また、私たちの文化の発展を後押ししてきたのもテストステロンなどの男性ホルモンでしょう。そうじゃないと、冒険したりしないもんね。というわけで、どうやら神様は私たちが自分自身を操るための手綱をちゃんと用意してくれたようです。ですから、どちらか一方ではなく、バランスをとることが必要になるわけです。

なるほど、そう言われてみれば、世の中でトンデモナイと思われる人って、オキシトシンかテストステロンのどっちかが過剰だってタイプの人が多いですよね。何事もバランスが大切、って今から25百年前に中庸に書かれていますねえ。やっぱり、昔の人ってのはちゃんと物事を考えていたんですねえ。

いささか議論が荒っぽいようにも感じましたが、それでも大変示唆に富んだ面白い一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

水野 和夫、大澤 真幸資本主義という謎』NHK出版新書400

 

本書は著名な民間エコノミストである水野さんと社会学者の大澤さんの対談をまとめたものです。対談のテーマは「資本主義」を巡るもろもろの問題です。

資本主義は現在の主流の経済イデオロギーであり、共産主義が崩壊した(残ってはいますが、世界的に見れば実にマイナー)現在においては、主流の中の主流、その他の経済体制など考えられないと言っても過言ではないでしょう。ではありますが、現在の資本主義の在り方には多くの疑問がありますし、それどころか資本主義のもとでは人類の未来はないのではないか、などという議論も巻き起こっています。資本主義の未来とはどうなるのでしょうか。

本書の最初の方で、16世紀の「利子率革命」が取り上げられています。16世紀のイタリアはジェノヴァで、11年に渡り金利が2%を切っていたことがあったのだそうです。なぜかと言えば、有望な投資先がなくなってしまったから。現在の日本何ぞ1997年以来超低金利が続いています。それどころか、欧米諸国の金利も軒並み低下しちゃっています。

16世紀の低金利は17世紀に入りイギリスやオランダが東インド会社を設立(多分超大型の好景気だかバブルだかに突入したのでしょう)し、世界がグローバル化した頃に終焉を迎えたようです。でも、投資先がない、なんてのは確かに現在と重なりますね。

人がすすんで投資する時代ってのは、「人は投資への勇気や地震が持てる。そのうえ、投資には、「予言の自己成就」的な部分があって、人々が投資するからこそ需要が喚起され、実際に投資が成功する。こうした循環がうまく機能している」なのだそうです。これに対して、投資先がない時代とは、「何かに投資しても、それに見合ったリターンが返ってくるという期待をもつことができない。不確実性を越えるような勇気がどうしても出てこない時代です。しして、誰も投資をしないがゆえに、有効需要も小さく、実際に投資が成功しないという悪循環」に陥っている時代だということになります。単純に流動性を供給するだけでは景気は上向かないんですね、きっと。

紀元前の中国の『春秋左氏伝』に「国が興るときは、民を負傷者のように大切に扱う。これが国の福です。国が滅びるときは、民を土芥のように粗末に扱う。これが国の禍です」とあるそうです。いやあ、同感しちゃった。

 

本書の最後の方で大澤さんが『桐島、部活やめるってよという映画を現代社会になぞらえて熱く語っています。桐島のようなスーパースターのいない時代、現実の世界ではアメリカというスーパースターが世界の檜舞台(覇権)から意識的に降りようとしている時代にどう生きればよいのか。詳細は本書をお読みくださいね。

 

 

ジョン・ハンター 伊藤真訳『小学4年生の世界平和』角川書店

 

本書は教育者であるハンターさんが永年小学校の4年生に対して行ってきた『世界平和ゲーム』を使った授業の記録です。

『世界平和ゲーム』で世界は海中、陸地と海面、大気圏、宇宙空間を模式的に表した4層のアクリル板からなります。そこには「潜水艦や船、兵隊や都市、石油タンクや油田、スパイ機や人工衛星」などが配置されています。45年生の児童は想像上の4カ国に分かれて世界平和を達成するために努力するのですが、4カ国の国民だけではなく「独特の宗教を持つ少数民族に、砂漠の遊牧の民」もいます。また、「国際連合、世界銀行、それに武器商人も23人に、気象の神または女神」もいます。気象の神様だか女神だかは気象だけでなく株式市場の動向を決めるコイン・トスも担当するんだそうです。おまけに密かに任命された破壊工作員までいて、色々とちょっかいを出すそうです。いやあ、複雑。

各国の子供たちには首相以下さまざまな役割を与えられ、「それぞれの国家の予算と資産、軍備、それに50件のグローバルな危機」を説明した書類を渡され、各国で順番に次の政策を発表していきます。そして、10週間ほどかけて世界をより良くするために奮闘努力をするのだそうです。あらかじめ決められたルールはたくさんあるそうですが、あらかじめ決められた解決策は無いのだそうです。

いやあ、実に面白そう、とも思いますが、いやな奴と一緒の国民になったらどうしよう、なんてことも考えちゃいますね。大人だったら殴り合いのケンカとか始まっちゃいそうですよね。

世界平和を希求するゲームではありますが、軍隊や戦争の存在を否定しているわけではありません。むしろ、その存在を認めていると言ってよいでしょう。ゲームが求めているのは、カッコつけてやたらと軍隊を動かしたがる勇ましいだけで、その結果がどうなるのか、なんてことには全く頭が回らないバカどもを、いかに制御するか、ということなのでしょう。子供たちがどんな解決策を用いて軍事オタクのアホどもに立ち向かったのか、は本書をお読みください。

このゲームを行うには「知識」、「創造性」、「英知」が必要なのだそうです。このゲームをプレイしてほしいのは小学4年生だけではありませんねえ。面白く、感動する一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

20148

Carl Johan Calleman The Global Mind and the Rise of CivilizationTwo Harbors Press

 

2012年の12月にマヤの長期暦の終わりが来る、と言われていたしたが、コールマンさんはそうではなく2011年の1028日に終わりが来ると解釈しました。ま、どちらも過ぎてしまいましたねえ。コールマンさんはマヤ暦が終わったからって人類が滅亡するとかアセンションするとか何とかという話ではない、と微妙に軌道修正しているようです。もっとも、コールマンさん自身は2011年の1028日から29日にかけてリアルなパラダイム・シフトを経験したそうです。ほお。で、新しく出した本が本書。いやあ、お話が尽きませんねえ。

コールマンさんによれば、私たちの心というか意識でしょうか(英語ではmindを使っています)がどのようにして生まれたのかが分からないと、私たちの歴史を正しく理解できないし、またその逆も理解できない、としています。本書ではその人類の意識の起源を探究しています。

人間の意識の発展に関するコールマンさんの指摘の中で、ひとつ、なるほど、と思ったのは、直線と直角の誕生です。直線と直角は現代の生活のあらゆる場所に表れていますので、今では何とも思わないのですが、確かに自然界には存在しません。また、考古学的な発見において“人工的”であると認められるまず第一の要素が直線と直角です。岩に刻まれた図形が直線と直角を含んでいれば、まず間違いなく人工のものだと認識されるでしょう。そう考えると、直線と直角を意識したってのは人類史上、大変な転換点でもあったわけです。『2001年宇宙の旅のモノリスみたいなもんから教わったんでしょうか。

本書はマヤ・カレンダーに基づくパラダイムシフトを取り扱う3部作の第1巻として刊行されました。来年以降第2巻、第3巻が刊行されるようです。第2巻では私たちの意識に潜む秘密(明るいところばかりではなく、暗部もあるんです)、第3巻では私たちの未来を取り扱うようです。第2巻、第3巻で取り扱われる事柄についても、そのヒントは第1巻にもちりばめられています。コールマンさんは私たちの未来をどのように予想しているのでしょうか、そしてそのように実現するのでしょうか。楽しみですね。

本書は英語で書かれていますが、コールマンさんがスウェーデン人であるため、持って回った凝った言い回しとか、やたらと衒学的表現なんてのは出てきません。大変平易な英語で書かれています。私でも簡単に読み通すことができました。

あまり詳しく書いてしまうとネタバレになってしまうので控えますが、本書では私たちがふだん読み慣れている歴史解釈とはかなり異なる見解が披瀝されています。こんなトンデモ本、と思う方は買わない方が無難でしょう。お金の無駄遣いです。私は、第2巻以降も読んでみようと思いました。そうか、と思われる方はぜひご一読を。

 

 

ユージン・ローガン 白須英子訳『アラブ500年史 上 』白水社

 
 

私たち日本人が” 歴史”というと、なんだかんだ言っても欧米的視点からの歴史を思い浮かべてしまいます。なんと言ってもそれが明治以来の日本における歴史教育の基本になっていますからね。今、日本では「戦後レジームのからの脱却」だとかなんだとか言っていますが、日本人以外だって現代の歴史学のあり方には不平不満があるようですね。

現在はイスラム教圏であるアラブ人の歴史をアラブ人の観点からみると、私たちが理解していたのとはかなり違った歴史が展開されることになります。著者のローガンさんはYouTubeでの発音を聞く限りではアメリカ人なんだと思いますが、子供時代をベイルートとカイロで過ごし、長らくオクスフォード大学セント・アントニー・カレッジ中東センターの所長を務められた方ですので、今現在アラブ人側からの歴史を描くには好適な歴史家なのでしょう。

アラブ人の居住地域は現在のイスラム教圏に含まれています。世界三大宗教だか四大宗教だかの中で、イスラム教というのは最も最近になって成立しました。成立後、あっという間に信者数を増やしてきたわけですから、それなりの魅力や合理性があるはずですが、イスラム教徒ってのはキリスト教・ユダヤ教の聖地を奪った天敵ですからね、当然悪く書かれちゃいます。

日本はごく最近まであまりイスラム教とは縁がありませんでしたので、思いっきりバイアスのかかったキリスト教的な視点を受け入れてしまい、いささか発展途上の地域の宗教だとか思ってしまいがちですが、キリスト教の支配地域が優位に立ったのは、ここ500年くらいのものです。それまでは、世界の最先端地域は、現在のイスラム圏や中国圏だったのです。本書はアラブの歴史の中から、1516年から1517年にかけてのオスマン人による征服に始まる近代アラブ史、まさに西洋文明が猛威を振るい始めた時代を取り扱っています。

ただし、上巻で第2次世界大戦のころまで、つまり500年のうち450年くらいまで進んじゃいます。今を生きる我々にとって、重要度からいけばこんな比率になるんでしょう。

 

 

イアン・モリス 北川知子訳『人類5万年 文明の興亡 上 』筑摩書房

 
 

今月の書評で最初にご紹介したコールマンさんは5千年ほどの周期をもつ(正確には約5,125年)マヤ暦を、次にご紹介したローガンさんは最近500年のアラブの歴史を、そして今回ご紹介するモリスさんは人類5万年の歴史を取り扱っています。なんで5のつく期間が重要なのでしょうか。

1842年、イギリスがアヘン戦争に勝利して以来150年間、西洋は紛れもなく東洋を圧倒し、世界を支配している。だが、なぜ歴史はそのように展開したのか。それは歴史の必然なのか、あるいは単なる技術革新の勝利なのか。それとも西洋には本質的に何かしら有利な条件があったのか」という疑問から、スタンフォード大学の歴史学教授であるモリスさんが古今の歴史を改めて調べてみると、洋の東西を問わず似たような発展と衰退のパターンを繰り返していることに気づきました。

その主張からしても、モリスさんは人類の発展の歴史は単なる偶然ではなく、ある一定の法則がある、と考えているようです。従って、過去をよく研究すれば未来も分かるんだ、ということです。その未来については、最後の方にちょこっと書いているだけですが。

本書、上下巻で人類史の5万年を取り扱っているのですが、上巻ですでに西ローマ帝国は滅んでいます。つまり上巻で48,500年、下巻は1,500年ほどを取り扱っている、ってことになりますね。ローガンさんは本チャンの歴史学者ですから、資料の多寡などからどうしてもそうなってしまうのでしょうが、もう少し歴史を俯瞰するような観点があってもよかったのかな、と思います。資料がある時代についてはやたらと詳しく書かれていますが、記述がくどすぎるような気がしないでもありません。

本書では各地域の発展の度合いを測るため、「社会発展度指数」という興味深い指数を使っています。補遺という形で解説を加えていますが、ほんの30ページほど。私としては細かい歴史上の出来事より、統計的数値などが整っていない各年代においてこの「社会発展度指数」をどのように推計したのか、どのような要因から増減したのか、なんてことを軸に書いていただいた方がより面白かったような気がします。詳しく知りたい方はウェブサイトへ、って書いてありますが、そこまで詳しく知りたいって訳でもないですし。

モリスさんの歴史観に全面的に賛成する、って訳ではありませんが、いろいろなことを考えさせられる一冊でした。あれこれ考えることが好きな方は是非ご一読を。

 

 

塩野七生皇帝フリードリッヒ二世の生涯 上 』新潮社

ご存じ塩野七生さんの最新作です。本のカバーの裏側に新潮社から出した著作一覧が乗っていますが、何と53冊もあります。いやあ、結構なお年のはずですが、パワフルですねえ。

実は、フリードリッヒ二世は処女作である『ルネサンスの女たち』を書いたころから書きたいと思って温め続けてきたテーマなのだそうです。で、中世ヨーロッパを描いた作品の真打ちとして、満を持して本書を書かれたのだそうです。ほお。

そのフリードリッヒ二世(11941250)は神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世を父として、シチリア王女コンスタンツァを母として生まれていますので、血筋としては第一級のサラブレッド、ということになります。が、諸般の事情で宮廷で何不自由なくわがまま放題に育てられる、なんてことはなく、父母ともに幼いうちに亡くし、結構苦労したみたいです。とはいえ、ラテン語、フランス語、イタリア語、ギリシア語、アラビア語を習得、さらに歴史書などを読みふけっていたそうです。それでいながら身体も壮健、武術にも馬術にも通じていたそうです。「万事につけて御しがたい存在」だと評されていたそうですが、「王として振舞わなければならない場ではそれが一変する」「貴人らしく凛とした美しさを漂わせ、会う人が自然に彼の占める地位を思い起こさずにはいられないように仕向けてしまう」んだそうです。まだ十代の頃の話ですよ、光源氏かって。おまけに、当時の資料に当たっても容姿端麗とは書かれていなかったにもかかわらず、女にはモテモテ、正妻。愛人合わせて11人の女に15人の子供を産ませたんだそうです。ま、ときどきいるんだよな、こういう何でもできちゃう嫌味な奴って。でも、塩野さんの好みのタイプの男なのかもしれませんねえ。

ところで、塩野さんは本書の中で情報というものについてカエサルの「人間ならだれでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」という言葉を引いています。見たいものだけ見て“俺の言っていることは間違いない”とふんぞり返り、見たくないものは無理やり違った風に理解するか、知らないふりをする。こんな人、古今東西を問わずにいるみたいですねえ。もちろん、塩野さん好みのいい男であるフリードリヒ二世は分かっている男であったみたいです。

ま、細かい話は本書を読んでいただくとして、このフリードリッヒ二世という男は、支配者としても中々に有能であったようです。また、この時代には珍しく法による統治を目指していたようです。神聖ローマ皇帝ですから、なんだかんだ言っても望めば何でもできちゃう立場にあった人間にしては立派としか言いようがありません。

この法治という考え方は、実は人間というか個人による統治から、法律とそれを実施する官僚というシステムによる統治になるということです。個人に頼っていたのではその人間が死んだり、あるいは何か判断を誤っただけで終わってしまいます。が、システムが確立していればそのような事態は防げる、はずでしたが、フリードリッヒ二世の思いは結構あっけなく終わってしまったみたいです。まあ、現代だって法による支配とか統治とか言っている割には結構人治主義みたいなところは、企業経営なんかでは(国家経営でも?)残っていますからね。フリードリッヒ二世の死後から750年ほど経っていますが、人間、あんまり進歩していないみたいですね。

とはいえ、読ませる歴史書でした。是非ご一読を。

 

 

20147

ダン・ブラウン 越前敏弥訳『インフェルノ 上 』角川書房

ご存じダン・ブラウンさんのラングドン教授シリーズの最新作です。本書の謎はあのダンテの『神曲』の地獄篇を描いた絵に隠された暗号です。タイムリーにも、ダンテの『神曲については最近ご紹介したばかりでした。『ドレの神曲』と本書を読んでおけば、『神曲』につてはかなり知ったような気分になれるのではないでしょうか、多分。

例によってラングトン教授はジェームズ・ボンドも真っ青な大活躍をします。もちろん隣にはすこぶるつきの美女。しかも、知能指数208!ヒイ。

内容の紹介は控えますが、本書はかなりとんでもない終わり方をしています。ではありますが、さすがベストセラー作家ブラウンさんの作品だけあって、その筆力で読ませてしまいます。面白かったです。

 

 

ジャレド・ダイアモンド 倉骨彰訳『昨日までの世界 上 』日本経済新聞社

 
 

ご存じダイアモンドさんの最新作です。本書評でも銃・病原菌・鉄、『セックスはなぜ楽しいか文明崩壊と何度もご紹介してきました。

銃・病原菌・鉄文明崩壊2冊が昨日の世界、つまり人類の歴史がある程度文字情報などで残っている世界以後を取り扱っていたのに対し、本書はそれ以前の世界、昨日までの世界を取り扱っています。

領土問題、戦争、子育て、高齢者介護、宗教などの問題は何も昨日今日始まったわけではなく、我々が文字を持たない時代から、いや人類だけではなく動物たちだって同じような問題に直面してきたはずです。

目に見える文明を持っていなかったとしても、知恵や知性が全くなかったわけではありません。本書冒頭に今日のニューギニアの空港の風景が描かれています。世界中、空港って結構似たり寄ったりです。ところが、ニューギニアには1930年代になって初めて文明社会と接触した、なんて部族も数多くいたそうです。が、その孫の世代になると飛行機のパイロットだって普通にいます。人類の進歩、文明化なんてそんなもんです。日本だって1860年代まではちょんまげだったのに、1940年代にはニューギニアで近代戦争を戦ってましたもんね。負けたけど。

道具としての機械とか知識の範囲などに違いはありますが、知性とか知恵なんて部分では大して進歩していない、どころか退歩した部分だってあるかもしれません。本書ではジャレドさんが“昨日までの世界”を今でも使える知恵はないかいなと探索しています。

だからと言って、ダイアモンドさんは私たちは現代文明を捨て原始生活に戻るべきだ、なんてことを主張しているわけではありません。私たちの生活とは大きく異なっている生活様式も、年月をかけ、それなりの合理性を持って選択されてきたものなのです。また、その結果として近隣の部族の間でも異なった選択が行われることがあります。それは現代社会においても全く同じことです。異なった他人の存在を許さない偏狭なナショナリズムが幅を利かせるようになりつつあるようにも感じますが、そのナショナリズムのよりどころとなっている“伝統”にしたって、絶対的に正しいわけでもなんでもないってことが分かります。

本書を読んだからと言って、何か新しい、正しい規範に対する見識が生まれるわけではないでしょう。でも、自分とは異なる発想で生きている人々がいることに思いをはせるのは、私たちが豊かな人生を送るためには必要なのではないでしょう。本書でも現代アメリカ人の特徴として、「アメリカの多くの人は、物的にはひじょうに豊かです。しかし、他の世界に関する知識と理解に関しては、貧困なままです。用意周到に組み立てた狭い壁の中に安住し、自分から進んで無知であり続けることに満足しているように思えます」と書かれています。昔からアメリカ人ってこうでしたが、最近また政治的にも引きこもり症候群になりつつあるように思えますがいかがでしょうか。

なにはともあれ面白い一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

ビー・ウィルソン 真田由美子訳『キッチンの歴史』河出書房新社

 

『キッチンの歴史』という書名、「料理道具が変えた人類の食文化」というほとんどありえない副題に惹かれて思わず買ってしまいました。普通そんなもんを題材に本を書かないでしょう。ということで読んでみた本書ですが、いやあ面白かった。

先ごろ放送していたNHKのドラマで“料理は科学です”みたいな台詞がありましたが、必ずしも正確ではないようです。科学が体系的にまとめられたのがいつかは議論のあるところでしょうが、それ以前(それも数千年前)から様々な料理方法が試され、あるものは捨てられ、あるものは定着していった歴史があることに異論はないでしょう。ありったけの創意工夫を“おいしいものが食べたい”という欲求を満たすためにつぎ込んできたんです。戦争が科学技術を進歩させた、というのは私も以前からご紹介してきたとおりですが、料理(調理)も人類の進歩にずいぶんと貢献してきたみたいですね。昔から人類ってのはグルメだったみたいですよ。

私もいっちょ前に料理なんかもするわけですが、バーニャ・カウダとかベジタブル・スープ(かぼちゃのポタージュとかですね)なんて、ハンド・ブレンダーを買ってきてから良く作るようになりました。無くってもできるんですが、手間が(力と時間も)かかるんですね。だからよほどのインセンティブ(奥さんの機嫌をとらなくちゃいけないとか)が無いとやる気が出ないんですよね。文明の利器ってのは、やっぱり便利なんです。

本書では、各種の道具から料理や調理を語ることによって、とても面白い比較文化論が展開されています。ナイフの違いからみるフランスと中国の文化の比較なんてのは、今まで聞いたこともありませんでしたが、大変面白い議論が展開されていました。なるほどねえ。詳しくは……、本書をお読みください。

本書ではさまざまな観点から選ばれたキッチン用品が紹介されています。私でも共感を持って読み進むことができました。大した意図もなく買った本書、正直言ってここまで面白い本だとは思いませんでした。ぜひご一読を。

 

 

アルベルト・アンジェラ 関口英子・佐瀬奈緒美訳『古代ローマ帝国15000キロの旅』河出書房新社

 

本書は、以前本書評でもご紹介した『古代ローマ人の24時間の続編と言えます。本書ではローマという都市ではなく、ローマ帝国が最大の版土を誇ったトラヤヌス帝時代の「南北は現代のスコットランドからエジプトまで、東西はポルトガルからアルメニアまで」を描きます。で、本書の主人公、というかなんていうか、として選ばれたのはセステルティウス貨です。一枚の硬貨が人手から人手に渡っていことでローマ帝国のあれこれを描こう、というわけです。落語の花見酒みたいに、同じ人の間で行ったり来たりしていたわけじゃないんです。統一された硬貨がローマ帝国じゅうで通用していたんですね。すごいわ。

普通、国家が通貨の発行権を一手に握っており、通貨の偽造に対しては非常に重い刑罰が科されます。また、法定通貨には強制流通権が認められています。外国のお金なんて使っちゃダメよ、ってことです。ではありますが、こんなことは国家、政府に信用があればこそ、です。つい最近も、国際的信用力がなくなっちゃったジンバブエで日本円が法定通貨の一つとして採用された、なんてニュースがありました。ホンマかいな。

ところで、本書の物語そのものは架空のものですが、登場する人物たちはほとんどこの時代に実在しており、名前や職業、それどころか顔立ちまで分かっている人物もいるのだそうです。ま、ローマ時代ってのは実利的な時代でしたので、さまざまな記録が遺物の形で残っており、それが研究されてきた結果としてそのような細かいことまで分かるのだそうです。でも、「卑弥呼さまー」の時代より前ですよ。人間、あんまり進歩してないってことですね。

ところで、イタリアでは本書の続編、ローマ人シリーズの第3弾がすでに発売されているそうで。題名は『古代ローマ人の愛と性』ですって。ほっほっほ。日本語版の出版が待ち遠しいですな。

600ページ以上ある大部の本書ですが、ローマ人のあれこれ関する蘊蓄に耳を傾けるうちに楽しく読了することができました。ぜひご一読を。

 

 

20146

ニック・レッドファーン 立木勝訳『ペンタゴン特定機密ファイル』成甲書房

ハリウッド映画、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、ナチス・ドイツの探検家たちが伝説の、十戒をおさめた「契約の箱」を求める様子が描かれていました。実際、ナチスはチベットなどにも探検家を派遣していたことが知られています。中国の歴代皇帝は不老長寿の秘密を探していたし、自分は神から権力を授かったのだ、なんて指導者は洋の東西を問わずいっぱいいたようですもんね。ナチスのあのカギ十字のマークも左卍を斜めに傾けたものですし、ヒットラーはその意味を知っていて使ったとも言われています。ま、古来、権力者たちは何がしかの力にすがろうとしてそういった神秘的な物事を追い求めていたようです。

で、本書は米国の秘密諜報機関(CIAだとかNSAだとか)もその秘密を探り、ついには探り当てたんだけれども隠している、と主張しています。ノアの方舟もストーンヘンジもUFOもマヤの予言も秘密は全部暴かれているんだ、でも、人類にショックを与えることがないように隠されているんだ、という本です。ま、トンデモ本ですね。でも、読んでみると結構面白いですよ。飲み屋の話のネタにはなるな。

 

 

ジム・マース 渡辺亜矢訳『マスメディア・政府機関が死に物狂いで隠蔽する 秘密の話』成甲書房

 

マースさんはオリバー・ストーン監督の『JFK』の原作者としても知られる、世界ナンバーワン陰謀論作家なんだそうです。へえ。

マースさんは提言しています。「無知を拒否しよう。メディア・マトリックスから抜け出そう。自分の頭で考えよう。権威を疑おう」

そうだそうだ!

本書の最後に、インターネットは素晴らしいシステムではありますが、含まれる情報はまさに玉石混交、目利きが必要だという著者のマースさんからの注意喚起が載せられています。

マースさんは「真実とそうでない情報とを区別しようと悩んだ結果、私は「はあ?」ファイルをというものを作るにいたった。新しい情報を入手しても、すぐには成語の判断を下さない」のだそうです。で、「はあ?」ファイルに入れておく。そのうちファイルの中身を肯定する、あるいは否定する情報が現れてくるのだそうです。

私も、似たようなテクニックを大学院時代、論文書きに追われていた時期に使っていました。論文のテーマになりそうなものを思いついてもすぐに形にするのではなく、同時並行でいくつかのテーマを温めておき、やがてそれについてより詳しいデータとか文献、新しい情報が得られたときに実際に論文の形にするというものです。一つのテーマしか手元にないと論拠が曖昧になったり、結論を無理やりこじつけることになっちゃうんです。当然そんな論文の評価は低いものになってしまいます。情報にも熟成期間が必要なんでしょう。昨今、何やかやと慌ただしい時代ですからね、トンデモ情報もそっとどこかにしまっておいて熟成させると、何か面白いことが見えてくるかもしれません。

ところで、本書で取り上げられている陰謀は、911とかUFO、フリーエネルギーなんて、いわゆるトンデモ本によく取り上げられている話題ももちろんカバーしていますが、「米国連邦準備制度は詐欺か?」なんて章まであります。私たちが絶対的に正しいと信じてきた民主主義体制とか自由経済体制が、本当に民主的なのか、本当に自由なのかといった疑問を一般国民から突き付けられている現在、本書のような陰謀論を読み、自分で考えてみることが必要なのではないでしょうか。

 

 

リチャード・コシミズリチャード・コシミズの未来の歴史教科書』成甲書房

 

いささか変わった題名ですが、その意味するところは、「ネット・ジャーナリスト、リチャード・コシミズ(RK)が「本来教科書に記載されるべき真実の歴史」をまとめた」ものなのだそうです。

しょっぱなの章が、戦後70年、日本民族が劣化してきたのはユダヤ金融資本のせいだ、というようなことが書き連ねてあるのでいささかがっくりきたのですが、その次の章で「からゆきさん」を取り上げていたので見直しました。「からゆきさん」って何なの、と思った方はお調べいただくか本書を読んでいただきたいと思います。

道徳の教科書に出てくるような話ではありませんが、このようなことを全部無かったことにして安っぽい美談ばかりを採り上げて美しい”なんて言っているようではダメでしょ。

本書を読むとコシミズさん、反権力、反ユダヤ金融資本の活動を(相当派手に)繰り広げているようです。頑張っていただきたいものです。

本書「おわりに」の前のページに「いつまでもあると思うな支持と権力」と書いてありました。私も同意いたします。

 

 

井口 和基ニコラ・テスラが本当に伝えたかった宇宙の超しくみ 上 』ヒカルランド

トンデモ本に頻出するニコラ・テスラ。本書評でも昨年12月に『ニコラ・テスラ 秘密の告白をご紹介したばかりですねえ。今回はテスラが自分で書いたものではなく、311地震を予言したとして注目されたフリーの理論物理学者の井口さんがテスラの理論について「本格的な物理学、それも理論物理学の立場から俯瞰する」ものです。うはは、面白そう。

ところで、井口さんによれば、「いまで世界中で多くのエンジニアや電気工学者や物理学者がまじめにニコラ・テスラを科学的に研究するのがブームになっている」のだそうです。断片的にしか伝わっていないニコラ・テスラの様々な試みを再現しているそうです。現代の物理学者にとっても、ニコラ・テスラの存在は魅力的なのでしょう。

上巻ではフリーエネルギー”を取り扱っています。井口さんは、フリーエネルギーはなにもオカルト現象ではなく、「負性抵抗」を利用した真空管やトランジスターの増幅現象もフリーエネルギー創造や利用の一つの鍵であるとしています。へえ。そういえば、私もPCオーディオって奴を楽しんでいますが、DACからの出力が小さかったので、昔々祖父がオルトフォンのMCカートリッジに使っていたオルトフォンの昇圧トランス(今の時代分かる人が何人いるんでしょうか。レコード時代の懐かしいテクニックですよ)をかまして音量を確保しています。確かに昇圧トランスって外部からの電力供給がないのに音が大きくなります。これもフリーエナルギーの利用なんですかね。

でもって、下巻はより陰謀論的なこと、地震兵器(311HAARPによる人工地震だ!)とか、UFOだとかの話が出てきます。ウホホ。

下巻の最後の方で、同じような観点からの研究が異なった年代に異なった研究分野で繰り返されるような現象が起きているとしています。ある研究分野では「終わった問題」が違う研究分野では「いまナウい問題」としてもてはやされたりするそうです。もちろんそれで研究が深まればよいのですが、下手をすると問題が解けなかったりするそうです。つまり、「分野が変われば、下手をすると、年代ごとに同じことの再発見や再忘却の繰り返しで、迷路の中を行ったり来たりしているにすぎないのかもしれないのである」確かに。こんなことは私も入山さんの世界の経営学者はいま何を考えているのかを読んでいた感じたことがあります。最近の学問・学者はオタクチックですからね。“学際的”なんて言葉は聞いたこともないんでしょう。

トンデモ本だと思って読み始めた本書でしたが、意外にもトンデモナクナイ本でした。食わず嫌いはやめてぜひご一読を。

 

 

20145

トリシア・タンストール 原賀真紀子訳『世界でいちばん貧しくて美しいオーケストラ』東洋経済

 

ベネズエラで始まったエル・システマという音楽教育活動をご存知でしょうか。音楽教育活動といっても、単なる情操教育や演奏技術の向上などを目的とした一般的な音楽教育とは異なり、「オーケストラや合唱を中心とする音楽教育を通して、子供たちを貧困や犯罪から救おうとする社会変革」を目的としています。エル・システマは1975年、ベネズエラの政治家(ベネズエラ議会で最年少議員になったそうです)・音楽家(作曲とオルガンの学位を持っているそうです)・経済学者(石油経済学で博士号を取得しているそうです)であるホセ・アントニオ・アブレウの提唱で始まりました。

クラッシック界の若手スター指揮者であるグスターボ・ドゥダメルもエル・システマで育った音楽家として知られています。ドゥダメルの活動を通してエル・システマの名をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

日本のテレビでも何度も紹介されていますし、エル・システマジャパンが2012年、福島県の相馬市で発足しましたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。さらに、エル・システマの音楽教育の方法論としてはスズキ・メソードを基にしているそうですので、日本との縁もないわけではなさそうです。

エル・システマは音楽教育のみならず、教育全般やビジネスにも多くの示唆を与えてくれそうです。

「芸術教育における「深さの追求」と「広さの追及」は、それぞれ独立したアプローチだと思われがちですが、エル・システマでは、この2つは同時に成り立ちます」と書かれています。芸術教育だけではなく、文理を問わず、専門性を問われる研究分野では“深さ”が求められます。大学の卒業論文、修士論文、そして博士論文とレベルが上がるにつれて研究テーマは狭くなって行くのが普通です。学会誌に載るような論文では、自分以外に研究者がいないようなピンポイントのテーマが選ばれます。研究が深まるのは良いことではありますが、結果として博士号を持っている人間なんてのは偏屈なオタクばっかり、という印象を持たれることになります。私は違いますよ(必死で否定しておきます)、ええ。

こんなエル・システマですので、卒業生は様々な分野に巣立って行くそうです。

また、エル・システマでは教師はもちろんいますが、お互いに教えあうことを重視してきました。また「先生たちが競い合ったり、優秀な生徒を囲い込んだりすることがないように気を配ってきた」そうです。その結果、「教師は人間として成長します。そして、生徒も上手になる」んだそうです。教師に期待される役割は「CATS」(Ccitizen:市民)、Aartist:芸術家)、Tteacher:先生)、Sscholar:学者))で表されるそうです。高い専門性を備えながら教える技術を持ち、よき市民であること、でしょうか。私は違いますよ、そんなに完璧じゃないもん、どう考えても。

また、ドゥダメルは「僕らは楽しむことをけっしておろそかにしない」と繰り返し語っているそうです。エル・システマでは間違っても厳しい叱責に耐え、涙をこらえて必死で練習する、なんてことはないのでしょう。日本の音楽教育(ばかりではなく、スポーツとか受験とか……)ではあまり聞いたことがない言葉ですね。

とにかく示唆に富んだすばらしい一冊でした。ぜひご一読を。

   

ドゥダメルが若手天才ピアニストのユジャ・ワンと共演したライブ録音盤をご紹介しておきましょう。オーケストラはシモン・ボリバル・シンフォニー・オーケストラ・オブ・ベネズエラ。ライブ録音盤は最近のクラシックでは珍しいと思います。

ラフマニノフ / ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第2番 ユジャ・ワン、ドゥダメル&シモン・ボリバル響  

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大島 真寿美ピエタ』ポプラ社

 

 “赤毛の司祭” として知られるアントニオ・ヴィヴァルディ(16781741)はヴェネツィアのピエタ慈善院Ospedale della Pietà、本書では簡単にピエタ。救貧院、孤児院、あるいは赤ちゃんポストです)の司祭で晩年までヴァイオリンなどを教えていました(17031740)。エル・システマの昔版でしょうか。

ヴィヴァルディが活躍したころのヴェネツィア共和国は辛うじて命脈を保っていましたが、塩野七生さんの『海の都の物語』で描かれるところのヴェネツィアの栄光には陰りが見えるころ、です。そんなこんなは本書にも描かれています。

本書ではそのヴィヴァルディが死ぬところから物語が始まります。生前のヴィヴァルディを知る女たちが……という物語ですが、ストーリーを解説するのはやめておきましょう。でも、私は一晩で読了してしまいました。読んで面白いことは間違いありません。それに、涙なくしては読めないラストが待っていますよ。

本書でも晩年のヴィヴァルディは時代遅れの作曲家になった、と書かれていますが、西洋音楽史の上でもこの時代は激動の時代であったのです。ヴィヴァルディも分類されているバロック期はバッハの死んだ1750年に終わったとされ、モーツァルトやハイドンが分類されるクラシック(古典)期はベートーヴェンがエロイカを作曲したあたり(1810年ごろ)で終わり、その後にロマン派の音楽が20世紀初頭まで続き、その後は現代音楽になります。平たく言っちゃうと、私たちがクラシック音楽とか言って聴いている音楽ってのはこの200年ほどの間(1700年代から1900年ごろ、代表的なロマン派音楽に限ればたったの100年間!)の、しかも西ヨーロッパで流行した音楽、ってことになります。

こんな時代ですから、芸術家ってよりは流行のミュージシャンであった当時の作曲家のはやり廃りは結構激しかったのでしょう。当時の音楽家は実際に演奏会を開くか、楽譜を売るか、良家のお嬢さんに音楽を教えるか、宗教家になるか、宮廷音楽家になるかしないと食っていけなかったそうです。あとは大道芸人ですか。現代のポピュラー音楽のミュージシャンたちには大金持ちがいっぱいいますが、昔はそんなのいなかったんですよ。著作権料なんてシステムもなかったし。いつの時代も音楽家ってのは大変なんだって知り合いの指揮者が言ってました。

なんたって本屋大賞第3位。読んで面白いことは間違いありません。ぜひご一読を。

 

 

小宮 正安音楽史 影の仕掛け人』春秋社

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音楽史の主役は何と言っても作曲家たちです。録音媒体が発達していなかった時代においては、音楽の演奏というのは一回限りのものでした。歴史に自分の音楽を残そうと思ったら楽譜として残す以外に方法はありませんでした。ここらへんに興味のある方は過去にご紹介したパウエルさんの本とかボールさんの本をご覧ください。

ま、しかし、音楽史に名を残すような天才作曲家ってのは、何かしらへんな人たちばっかりだったわけです。何たって、天才ですからね。曲を作るのは上手でも、売り込みをかけてお金を出しともらうとか、舞台とか演奏会の企画をプロデュースして実際に人を動かすとか、楽団員たちの福利厚生の面倒も見る、なんてことにはとんと疎い場合もままあるわけです。本書はそんなプロデューサー、マネージャー、あるいはパトロンたちにスポットライトを当てた作品です。

文学作品の場合、活版印刷が発明されて以降、出版社という仕組みが比較的良く整っていた事と、何といっても作品作りが作者一人で完結する場合がほとんどですので、一時期盛んにもてはやされた作家が時代の変遷とともに忘れ去られてしまう事例などが後の時代からでも比較的検証しやすいと思われますが、音楽の場合、文字通り忘れ去られてしまった音楽家なんてたくさんいるんじゃないですかね。演奏家なんて、影も形も残ってない場合がほとんどなんじゃないですか。名が残っているのは少数の幸運だった人たち。

本書の登場人物たちも教科書的な音楽史にはあまり登場しない方々でしょう。でも、あらためてその人生を追ってみると、音楽を愛するとっても魅力的な人たちであることが分かります。

今度CDを聴くときに本書の登場人物のエピソードを思い出しながら聴いてみると、また新たな魅力が見つかるかもしれません。面白い一冊でした。

 

 

中川 右介国家と音楽家』七つ森書館

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今月ご紹介した本でもご紹介したとおり、音楽家の地位というのはここ数世紀の間で大きく変わりました。今月ご紹介した中にはほとんど登場しなかった民間の音楽家たち(ミンネジンガー、トルバトゥール、ジョングルールやミンストレルなんて呼ばれていたいわゆる吟遊詩人たち)は、大道芸人の一種として扱われていたようです。でも、今ではポピュラー音楽のミュージシャンたちの中にも大いに政治的な主張を展開している方々もいらっしゃいます。同じようなことはクラシック音楽界でも起こっています。と言うより、20世紀になり、音楽の持つ力を政治家や国家が意識するようになり、大いに利用しようとした(今でも)と言ったほうが正しいのかもしれません。本書はそんな20世紀の音楽家たちの物語です。

「国家と音楽家―――本来ならば対峙するものではない。だが、二十世紀という「戦争と革命の世紀」は多くの音楽家を国家と対峙せざるを得ない局面に追い込んだ」

「あるものは妥協した。あるものは屈服した。あるものは対立を避けて国外へ出た。闘い抜いた人もいるし、死の一歩手前にあった人もいれば、故国喪失者になった者もいる」

私たちは皆が幸せに生きられるように頑張ってきたつもりなんですが、結果は違ったみたいですね。

本書には“愛国者”であるがゆえに亡命したもの、“愛国者”であるがゆえに不本意ながらも母国に戻ったものが出てきます。どちらかが偽“愛国者”だったのでしょうか。私は、そのどちらもが本当の“愛国者”だったのだと思います。日本でも昨今“愛国”が問題になっています。亡命したもの、故国に戻ったもの、そのどちらも許容できるだけの度量が今声高に“愛国”を叫ぶ者たちにあるでしょうか。狭量な“愛国”は願い下げにしたいものですね。

ところで、本書に取り上げられている音楽家たちは、ほとんどが演奏家です。18世紀19世紀の音楽家として名前が残っているのはほとんどが作曲者であったのに対して、20世紀の音楽家として名前が残っているのは演奏家たちであるのは大変面白い現象であると思います。もちろん現在まで名前が残っている作曲家たちはほとんど全て優れた演奏家ではありましたが、録音技術のない時代、後代まで残るのは楽譜だけであり、従って名前が残る音楽家と言えば作曲家ばかりだったわけです。しかし、録音技術、あるいは映画、ラジオ、テレビといったメディアを通じて演奏会に来れない(来ない)人たちにも音楽を届けられるようになると様相が一変してしまったようです。ま、そんなこんなで現代音楽ってのは一部のごく少数のマニア向けになってしまったんでしょうねえ。現代音楽の作曲家なんて、名前を全く知らないってことはなくても、一般的じゃないですよねえ。逆に、大道芸人とみなされていた世俗音楽を奏でる音楽家(要するにポピュラー音楽のミュージシャンってことです)の方がはるかに名前が知られていますよね。

もっとも、いまではクラシック音楽の父と呼ばれているバッハの時代、バッハの給料よりイタリアから呼んできた歌手とかのギャラの方がはるかに高かったって話もあります。今も昔も舶来もんには弱かったんですね。

ということで本書に取り上げられているのは全員いわゆるクラシック音楽の関係者たちです。クラシック音楽好きの人にとっては懐かしい巨匠たちが、LPのライナーノーツの開設とは趣の異なった視点から描かれています。クラシック愛好家には楽しめる一冊だと思います。ぜひご一読を。

 

 

20144

鳩山 由紀夫、孫崎 享、植草 一秀「対米従属」という宿痾』飛鳥新社

 

現在、安倍政権の下でTPP加盟、原発の再稼働、消費増税、沖縄オスプレイ配備などが実現しています。これらは、201212月の総選挙ではあまり争点とはなりませんでした。しかし、本当に私たちが求めていたものだったのでしょうか。きちんとした議論をすることなく、なんとなーく流されちゃっただけなんじゃないでしょうか。

戦後一貫して日本政府は国民を見ないでどこか別の方を向いて政治を行って来たのか。それは、「日本は戦争に負けた」からだ、そして、その事実を今でも直視せず、粉飾しようとしているからだ、と鳩山さんは指摘しています。

ところで、鳩山元首相はOR(オペレーションズ・リサーチ)で博士号をとられたはずです。ORってのはランチェスター理論(拙論をご覧ください)などから発達、第二次世界大戦中に連合軍側が磨きをかけた理論です。ORとは、複雑なシステムにおける意思決定を容易にするシステムであると言えると思います。卑近な例では、配車問題(どのような経路を辿れば宅配便の車を最も効率的に動かせるか)などの問題で使われます。毎日届け先は変わるし、配る荷物だって違います。それに、行ってみたら不在だった、なんてことだってあります。刻々と変わる状況を分析して最適な経路をその都度指示しなくてはなりません。また、ORで特徴的なのは最適化と銘打っていますが、その経路が事後的に最適であったかどうかまでは保証していません。ある特定の集配先と特定の荷物の最適経路を、あらゆる可能性を考えて指示する、なんてことは現在の強力なコンピュータを使っても不可能でしょうし、費用対効果から考えれば無意味です。そうではなく、少なくともベターな解をいかに早く見つけるかの方が理にかなっています。そのような解法であることから、戦後は経営学など、問題は複雑で理論的な正解があるかどうかわからない場合などに応用されてきたわけです。

鳩山さんはスタンフォード大学でORの博士号を取得されています。私は鳩山さんの政治手法からOR的な匂いがプンプンするように思いますが、そのような指摘は日本のマスメディアから聞いたことはありませんねえ。どうなんでしょうか。

ORの考え方を現実の政治に当てはめれば、鳩山さんが実際に行った(行おうとした)政策の裏にある意図も分かりやすいのではないでしょうか。鳩山さん流に論理的に考えれば、日本がいつまでも米国の占領下にあるかのように基地が置かれているのはおかしい、沖縄に基地が集中しているのもおかしい、何とかしなくては、となるのではないでしょうか。戦争に負けたことすらまともに認めない面々にとっては、そんなこと考えることすら汚らわしいのでしょうが。もちろんジャイアン米国も植民地日本が勝手なことを許すわけもありませんが。

Wikipediaによれば、「日本においても、第二次世界大戦時に数学統計学の専門家を集めた同様の組織が存在した。後藤正夫によれば、内閣に戦力計算室が設置され、ニューギニアの戦いにおいての戦力見積もり、部隊配置を研究している。しかし、内閣総理大臣、東条英機が視察を行った際、その日を以って廃止された」そうです。何事も“精神一到何事か成らざらん”で片づけちゃいそうな東条英機ですからね、数学者の言うことなんか聞くわけないですよね。

大変情けないことですが、本書を読んで感じたのは、今現在世界で政治を牛耳っている人たちのメンタリティーってのは、いじめの構造そのままだということです。仲間じゃない奴には分け前はやらない、言うことを聞かない奴はシカトするか、言葉による暴力か、直接的な暴力をふるって言うことを聞かせる。日本も一皮むけばいじめの文化を持っていると思っていましたが、米国だって同じだったみたいですね。

抑圧的な政府にとって最も好ましくないのは、ものを考える国民なのではないでしょうか。好ましいのは政府の言うことに無批判で従う国民。政府に反対するなんてもってのほか、そんなのは非国民。非国民は国民ではないのだから、どうなっても知ったことじゃない。

そんな日本になってしまわないように、私たちは私に残された最後の武器、知性を持って戦おうではありませんか。人間は考える葦なんです。考えなくなったらただの雑草、除草剤をまかれてこの世から消えてなくなっちゃいますよ。ぜひご一読を。

 

 

前泊 博盛本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』創元社

 

前泊さんは沖縄県出身で、現在は沖縄国際大学教授で、以前は琉球新報論説委員長も務めたジャーナリストでした。

日米地位協定(正式名称は日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定、英文正式名称はAgreement under Article VI of the Treaty of Mutual Cooperation and Security between Japan and the United States of America, Regarding Facilities and Areas and the Status of United States Armed Forces in Japan)は1960年に締結されています。内容は、平たく言ってしまうと宗主国米国は植民地日本で何をやっても良いんだ、という協定です。ですから、時の野田首相が「〔オスプレイの〕配備自体はアメリカ政府の基本方針で、同盟関係にあるとはいえ、〔日本側から〕どうしろ、こうしとろいう話ではない」、日本には米国にあれこれ言う権利はないんだという認識は全く以て正しいということになります。米国は契約社会ですからね、ここらへんは抜け目なく対策が施してあるわけです。“ほら、あんたんとこの政府がちゃんと合意してるんですよ、下々のものがガタガタ言うんじゃないよ”って言えるようにね。ジョン・フォスター・ダレスもこの協定の目的は「われわれが望む数の兵力を、〔日本国内の〕望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保すること」(get the right to station as many troops in Japan as we want where we want and for as long as we want)だって言っているそうです。日本の基地を利用する権利ではなく、どこでも米国の好きなところに基地を置いて構わない、って権利なんです。日本は米国からは同盟国だとも独立国だとも見なされていない、単なる植民地だか占領地だとしか思われていないってことです。

現在TPPに関する協議が行われています。TPPに関する最大の問題は、この日米地位協定とダブるのではないでしょうか。TPPとはまさに米国の米国による米国のための通商協定、ブロック経済なのです。いくら“協議する”なんて書いてあったも、米国には協議なんてする気はさらさらないのです。日本が黙った言うことを聞かされるだけ。米国は自国のためになることでなければ、日本のためには箸一本、いやナイフだかフォークだかか、だって動かしてはくれません。

とてもジャイアン米国にはかなわない、と思ったのですが、本書には果敢に米国と条件闘争を繰り広げ、地位協定のような不平等条約を改定させたドイツ、イラクやフィリピンの例が挙げられています。日本では、日米安保に関する問題は“タブー”になってしまっており、まともな議論さえ行われてきませんでした。それだけではなく、日本国民を守るはずの日本国政府が先頭に立って米国の提灯持ちだか太鼓持ちだかの役割を果してしまっているように見えます。これで本当に良いのでしょうか。

現実を目をふさぐことなくしっかりと直視し、しっかりと考えようではありませんか。ぜひご一読を。

 

 

長島 昭久「活米」という流儀』講談社

 

長島さんは慶応義塾大学大学院法学研究科修士、ジョンズ・ポプキンス大学高等国際問題研究大学院修士を取得ののち、2003年に民主党から出馬し当選した現職の代議士でもあります。お天気キャスターの石原義純さんとは幼稚舎からのお友達だとか。当然石原慎太郎・伸晃親子とも親しい関係のようです。

長島さんは、自身をリアリストであるとしています。敗戦後、占領を受け入れその後講和条約を結び再び独立を果たしました日本ですが、それは「残念ながら、日本人が今日選択しうるのは、完全なる全面的自由独立か、不完全なるそれか、ではなくて、不完全なるそれか、或いは占領継続の下における隷属か、びいずれかである」と喝破した小泉信三の言葉を長島さんは引用しています。これが「日本的リアリズム」の原点なのだそうです。

ところで、別のところで長島さんは、日本でリアリストというと、ネオコンと混同されて困る、というようなことを述べています。しかし、ネオコンの面々が嫌われたのは、力による支配、みたいな極めてイデオロギー的、かつそのためには何をしても良いんだという暴力的な側面が剥き出されたためだったと思うんですがどうでしょうか。

私はリアリズムを否定しません。太平洋戦争中の大日本帝国の指導者たちのような極端な精神主義などのばかばかしい思い込みは、正にリアリズムが旨とする現実をきちんと把握する「政治の慎慮」を欠いていたといえるでしょう。ただ、私はただ単にリアリストであれば良いのだとは思いません。きちんと現実を見据えた施策の向こう側に、自身が目指す理想というか目的、目標がなくてはいけないのではないでしょうか。

本書の第4章で長島さんも「もう一つ重要なポイントは、自らの意志と国家として目指す目標を再認識することです」と書いているぐらいですから、日本が国家としてどのような未来を目指すのかを描かなくてはいけない、ということは認識しているのだと思います。が、本書を読んでも長島さんがどのような国を、社会を作ろうとしているのかは今一つはっきりしません。本書にはこのような国家を目指すべきだ、という議論は確かになされています。ただ、そこで展開されている議論は、リアリズムを前提とした地政学的分析とそこから導かれる政治的選択として良く描かれているとは思いますが、その社会で私たち国民は幸せになれるの、という疑問にはちっとも答えてくれていません。

確かに長島さんは、本書に盛り込まれた豊富なデータとその分析を見れば、良く勉強もされていることは分かります。が、政治家として、その向こう側、日本をどのような国にしたいのか、が本書を読んでもいま一つつまびらかにはなりません。今月の書評で取り上げた鳩山由紀夫さん(    )が、良くも悪くもひとつの理想を掲げ、その理想に一歩でも近づくためにオペレーションズ・リサーチという正にリアリズム的手法を用いているのとは対照的な気がしますがいかがでしょうか。

観念的な保守派が勢いづいている昨今、長島さんのような現実を現実としてしっかりとらえるリアリスト(長島さんは自虐史観も自慢史観も乗り越えなくてはいけないと言っています)の政治家は貴重な存在でしょう。だからこそ、長島さんには単なるリアリストを超えたヴィジョンを持った政治家になっていただきたいと思います。ま、私ごときが偉そうに言えた義理ではないですけどね。

 

 

ニーアル・ファーガソン 櫻井祐子訳『劣化国家』東洋経済

 

ほんの20年ほど前、フランシス・フクヤマは『歴史の終わり』において西洋の自由民主主義の勝利を高らかに歌い上げましたが、今では国家民主主義国である中国がGNP世界第2位になり、先進国である米国、西欧、日本などは軒並み経済的停滞に見舞われ、アップアップしています。

ファーガソンさんは、これは「国家」というシステムの劣化に原因があるのだ、としています。ファーガソンさんは「国家」という制度には4つのブラックボックスがあるとしています。それは、「民主主義」、「資本主義」、「法の支配」、「市民社会」というものです。これらが相まって「国家」という機能を発揮させているのです。確かに、思い当たるはありますよね。これらのブラックボックスは、当初はそれなりの機能を果たしていたのでしょうが、年月の経過とともに当初の目的を離れ、自己増殖を目的とするようになる、なんてのは私も拙論でも採り上げたところです。

このような悪循環に陥らないようにするにはどうすれば良いのか、というのが本書のテーマといえるでしょう。

例えば、「法の支配」は「法律家の支配」に変わってしまっていると指摘されています。まあ、米国を念頭に置けばそういうことになるでしょう。では、日本の場合はどうでしょうか。法律家の数が少なすぎる、なんて指摘されたくらいですから、法律家の支配とは言えないでしょう。日本ではそれに代わって官僚が支配しています。ですから、日本と米国では事情が違う、とも言えます。でも、その結果はと言えば、似たようなもんでしょう。表面的な「法の支配」は保たれていますが、法の精神は顧みられることがありません。

では、このようなことは歴史上初めて起こった事態なのでしょうか。残念ながら、私はそうは思いません。現在までの歴史の中で、革命によって滅びた国とか政府はいくつもあるでしょう。個別の事情はあるでしょうが、そこには共通するものがあります。例えばフランス革命を起こされたブルボン朝のフランス、ロシア革命を起こされたロマノフ朝のロシア、共産革命を起こされた清朝の中国。いずれも支配する側が腐敗・堕落し、人民によって容易く蹴倒されてしまいました。大体において、軍隊などを握っているのは政府ですから、よほど無能な政権でなければ、簡単に倒されるようなことはあり得ません。反乱なんぞは簡単に鎮圧されちゃいます。それなのに革命が起こっちゃった、ってことは、アホな政治家と間抜けな役人ばかりだった、ってことでしょう。「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」って言ったのは19世紀のイギリスの政治家だそうですし、日本じゃ「奢れる平家は久しからず」が同じような意味でしょうか。今も昔も変わらぬ真実のようですね。

 

 

20143

 水島 朝穂戦争とたたかう』岩波現代文庫

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本書は戦後世代である水島さんが「過酷なフィリピン戦線から奇跡的に生還し、戦後は日本国憲法の「平和的生存権」実現のために生きたくぼ久田栄正」さんの戦争体験を徹底的な資料探求を基にインタビューした記録です。1987年に出版されたものが、2013年岩波現代文庫に改めて収録されたものです。

フィリピン戦線がいかに苛酷であったかは、同戦線における日本軍の死者数(死傷者ではありません)が「陸海軍合わせて498600名(815日以降の戦没者12000名をふくむ)」に達しており、「いわゆる『損耗率』―――人間を機械か物みたいにみるこの表現は嫌いなのですが―――という点からみれば、比島(フィリピン)方面作戦の全参加兵力が630967名(陸軍503606名、海軍127361名)ですから、それは79にも達します」という久田さんの発言からもうかがえます。

装備が貧弱であった中国軍相手には善戦した日本軍も、圧倒的な物量を誇る米軍には通用せず、「私の体験したルソン戦場は、まさに熱い「死の壁」(そこから逃げだせば敵前逃亡罪、抗命罪で、日本軍によって殺される)によって囲われた「屠殺場」だった」のです。「現地作戦指導部(山下奉文大将および参謀たち)は、天皇に忠実なこと下士官のごとく、幾十万の将兵の声明よりも天皇の命令を重んじて、下級将兵の餓死と病死に目をつぶっていた」のです。名称の誉れ高い山下大将ではありますが、捕虜収容所で「われわれのやせ衰え、骨と皮だけの体とは対照的で、丸々と太って、出腹の堂々たる体格をしていた」そうです。

捕虜収容所に収容された高級将校たちは、何よりも日本兵の復讐を恐れていたそうです。何しろ、「旭兵団の高級主計の兒玉實少佐は自分の当番兵に食糧を運ばせて自分だけ食べ、この当番兵を餓死」させたとか、「「所持品そのまま全員集合」の命令で点呼や柔軟体操をやらされている間に、隊長らが兵隊の所持品をあさり、米や食料を奪って部下をそのまま置き去りにして逃走した」とか、「吉原中尉はそこで、スペイン風の豪華な邸宅で昼間から幾皿の料理を食べて、ウイスキーをあおっている管理部長に会う。ベンゲット道で死闘が繰り広げられ、「斬込み」で多くの兵隊が死んでいるまさにその最中である。中尉は腹が立ってきて、「ぶった斬ってやろうか」と思った」とか、戦闘中の兵士を差し置いて軍高級幹部の敵前逃亡(「総軍司令部は、できるだけ敵襲のない安全な場所で、安んじて三軍を指揮しなければなりません」なんてうそぶいていたそうです)したとか、「行方不明の兵隊が帰ったら、すでに「戦死」の手続きをしてしまったから、「帳簿の整理上困る」ということで、この兵隊を射殺した隊長もいた」なんてエピソードが本書にも出てきますが、まあ、怨まれても当然かもしれませんね。その結果として「負傷した将校をタンカごと谷底へ突き落す当番兵」もいたなんて話も出てきます。

軍人同士でさえこんなとんでもない、人権無視どころではない処遇をしていたのですから、日本人でも非軍人や現地住民に対してどんな取扱、対処をしていたのか容易に想像がつきますよね。「まさに最低の軍隊」だったわけです。久田さんにとって戦争とは、「中国大陸では、日本軍という「殺戮・破壊集団」が中国民衆に対して、殺害、破壊、略奪をほしいままにした。そしてこれを、「大東亜新秩序建設」だとか「八紘一宇」など、中国民衆からすれば誠に勝手な理屈をつけて正当化していた」ものだったのです。

本書に「軍隊の内務班教育とは、それまでの知識や教養を「洗浄」して、なんでも同じ行動を機械的に行う人間に改造する場であったといえる」と書いてありますが、実はこれ、近代的な軍隊における教育目的である、平然として作戦目的(人殺し)を遂行する兵隊を育成するためには大変合理的な教育であったのかもしれません。ここらへんは、本書評でもご紹介したデーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学に詳しく書かれております。久田さんは、当時の内務教育は「戦時に役に立たない。もっと兵隊が自主的に行動できるようにするべきだ」なんて試験の答案も書いたそうですが、兵隊の兵器化は洋の東西を問わず追及されたようです。戦争の遂行なんてものを合理的に考えると、誠に非人間的な結論に至るようです。ま、日本軍の場合、ちゃんと考えてやっていたかどうかは怪しいもんですが。

私は前々から日本の軍隊にはロジスティックスの軽視、狂信的な精神主義、頑迷固陋な官僚主義、極端な教条主義、上の者は責任を取らない、希望的観測のみを信じ客観的な(不利な)情報は無視する、など、現在の日本社会あるいは企業にも通ずる病弊が端的に表れていると思っていました。ただし、このような病弊が日本特有のものであるかどうかというと、そうではないと思っています。これらの特徴は洋の東西を問わず、景気の悪い企業とか、負けそうな軍隊とか、革命を起こされちゃうような腐敗した政権などに共通してみられるものなのです。

問題はこんな組織は腐っている、と思っても簡単には逃げ出せないことです。これはコンプライアンス違反を見つけた場合でも同じ。大声で外に向かって叫んじゃったりすると、あとでとんでもないしっぺ返しを食ったりします。じゃあ、どうすればよいのか。残念ながら私も正しい方策を見つけていません。でも、悪いことは悪い、と認め、一歩、いや半歩でも改善しないことには前に進めません。どうすればよいか、皆で考えようではありませんか。

多くを考えさせられた一冊でした。ぜひご一読を。

 

 

半藤 一利日本型リーダーはなぜ失敗するのか』文藝春秋

 

「国会はゴタゴタするだけで、決めるべきことが決まらない。ときには「決まる政治をやった」などと傲語する場合もありますが、そのときは民意を全く無視している」

「今の日本にこれというリーダーがいないのは、日本人そのものが劣化しているからだと思います。国民のレベルにふさわしいリーダーしか持てない、というのが歴史の原則であるからです」いや、手厳しい。

半藤さんは日本の歴史には二つの大きな転換点があったと指摘しています。それは、「戦国時代」と「明治維新」です。そして、現在の混乱は戦国時代型であると喝破しています。

戦国武将たちもどのように戦争を戦うかにつて大いに学んだそうです。その時教科書にしたのが『孫子』とか『六韜・三略』といった中国は春秋時代の文献です。成立したのは何と紀元前500年ごろとか。今から2500年も前に中国人は戦略とか戦争におけるリーダーとはどうあるべきか、なんてことを考えていたんですねえ。

日本の軍隊にはロジスティックスの軽視、狂信的な精神主義、頑迷固陋な官僚主義、極端な教条主義、上の者は責任を取らない、希望的観測のみを信じ客観的な(不利な)情報は無視する、などは本書にも随所に出てきます。ハルゼイは「日本人というやつは一回うまくいくと、かならずおなじことを繰り返す。そしてまた日本人はひと戦終わるとすぐ引き揚げて、戦火を徹底的に拡大することはないから、たとえ少しぐらい艦が沈んでも、あわてる必要はない。最後には必ず勝てる」と言っていたそうです。癪に触るぐらい正鵠を射ているとは思いますが、日本人だって「最後には」とは思っていたんです。ついぞ実現することはありませんでしたけど。

ただし、前書でも書いたとおり、これは何も日本人にだけ見られる病理ではありません。アメリカだって、ベトナム戦争の泥沼にはまったとき、イラク攻撃にのめりこんだとき、やはり同じような力学が働いていたはずです。アメリカ合衆国が滅びていないのは、大日本帝国とは逆に攻めた相手が小さかったからにすぎません。

エピソードとしては類書にすでに紹介されているものが多く含まれていますが、長年文藝春秋社で編集者を務めてこられた半藤さんですので、人づてに聞いたとか参考文献に記載されていた、というのではなく、当事者に直接面会して得た感触が多く掲載されているのも本書の特徴だと思います。

「国家が危機に直面したとき、その瞬間に、機器の大きさと真の意味を知ることは容易ではないのです。しかも、人間には「損失」「不確実」「危険」を何とか避けようとする本能というか心理があるといいます。ですから、この三つとは直面したくない、考えまいとするのが人の常です。そこでいま大事なのは、この三つから逃げ出そうせず、次なる危機に備え、起きた場合にはそれを乗り切るだけの研究と才覚と覚悟とをきちんと身につけておくことです」今一度歴史を紐解き、経験から学ぼうではありませんか。ぜひご一読を。

 

 

半藤 一利・保坂 正康そして、メディアは日本を戦争に導いた』東洋経済新報社

 

歴史探偵の半藤さんとノンフィクション作家の保坂さんが先の大戦時にジャーナリズムがどのように戦争に関わったのかを説き起こしてゆきます。ま、そもそもジャーナリズムなんてものが歴史的に見て独立至高のものであった、なんて時代は洋の東西を問わずほとんどなくて、そんなのは単なるデマかタテマエであった時代の方が多かったようですので、日本だけが悪かったとか遅れていた、というわけではなさそうです。とは言え、戦後一時的に日本人も自由を謳歌していましたが、いま再び何やらきな臭いにおいが漂ってきています。ジャーナリズムがどうあるべきか、なんて考える上で、歴史を振り返ることは大変重要なことのように思えます。

半藤さんは昭和史を振り返り、日本至上主義を成立させる過程として、「教育と言論の国家統制、二番目が情報の国家統制、三番目が弾圧の徹底化」「そして、四番目に来るのが、テロの発動」があるとしています。うーん、半分くらいはもうできちゃってるような気がしますねえ。

言論や情報が国家によって統制されてしまったらジャーナリズムなど成り立ちません。が、新聞や雑誌、テレビやラジオ、出版社が成り立たないかというと、実はそうではありません。昭和初期におけるここら辺の実態については(もちろん当時テレビはありませんが)本書にも詳しく書かれていますので是非お読みいただきたいと思います。昨今の秘密保護法に関する議論などを見ていても、マスコミ界での議論が盛り上がらないのはこの辺が影響している……、というのは考えすぎでしょうか。

本書でも「考えることの放棄からファシズムにつながっていく」と書かれています。是非皆様にも本書をご一読いただき、ご自身で考えていただきたいと思います。

 

 

佐藤 智恵世界最高MBAの授業』東洋経済新報社

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今月は戦争にかかわる本を多く紹介してきましたが、最後にMBA関係の本をご紹介しましょう。

本書では13校のビジネススクールが、実際にそこで学んだ日本人の目を通して描かれています。全員がビジネススクールで学んだことを有意義に生かしてキャリアを切り開いているエリートばかりですので、私なぞがご紹介するのはいささか気がひけますね。ま、素人の感想だと思ってお読みください。

現在世界的な経営大学院で教えていることは「ハードスキルと呼ばれる実務」、「ソフトスキルといわれる人を導くために必要なスキル」、そして「実務」の三つだそうです。グローバルリーダーを育成するためのプログラムですので、ものすごく“上から目線”を感じ先ずねえ。

戦争は科学技術の発展に深く関わってきましたが、実は社会科学の発展にも大きく関わってきました。第二次世界大戦の代表的産物としては、コンピュータ、ゲームの理論、OR(オペレーションズ・リサーチ)なんてのが挙げられるのではないでしょうか。経営学的な観点から挙げるとすれば、リーダーシップの研究(戦争に勝つためにはどのような将軍が必要か)、また人材活用の技術(いかにして兵士の戦闘意欲を引き出すか)などが挙げられると思います。現在ビジネス・スクールで教えているマネジメントの技法などは戦争という実験の場(日本の占領なんてのも良い実験の場であったのかもしれません)を通して磨き上げられてきた、と言えるでしょう。

エンロン事件をきっかけに倫理についても教えるようになりました(ハーバードビジネススクールでもサンデル教授の授業が始まったそうです実際に起きた事例を取り上げて議論するそうですが、ある学生が「たとえクビになっても上司の命令にはしたがわない、と主張するのは簡単だと思う。でも、実際にクビになったことのない人間には、この選択の本当の重みはわからない。倫理的に正しいことがまかりとおるほど、世の中は単純ではない」と発言したそうです。私も同様の経験をしたのでわかります。でも、そういう経験をしたからこそ、そのような場合にどうすればよかったのか、をもう一度吟味することが必要なのではないでしょうか。私も公表はしていませんが、後になって考えてみればああすればよかった、こんなこともできたんじゃないか、ということをペーパーにまとめたことがあります。クビになった直後とか係争中では冷静に分析なんてできませんからね。でも、私の結論は、同じような場面に遭遇したら同じことをする、というものでした。ただし、後から考えれば、このような人や部署にアプローチしておけばよかったかも、など色々な改善ポイントあったことにも気付かされました。

ところで、私がこの問題を会社で提起したとき、面と向かってなぜこのこと(契約違反)を続けてはいけないんだとか、そんなことをしたら(当該違反サービスを止める)客が減るじゃないかと文句をつけて来た、規範意識が極めて低い人間がいた(上司を含め)のには驚きました。もしかしたら、驚いた私がナイーブだったのかもしれませんが。私は結局なんだかんだでクビになっちゃったわけですが、まあ、良かったんじゃないですかね。不法行為を行うことによってしか顧客をつなぎとめられないんじゃ、お先が知れてますからね。そう思って自分の行動を正当化しました、と。

本書に収録されているのはごく最近ビジネススクールに通った方々の事例ですので、これからMBAで学ぼう、と思っていらっしゃる方には大いに参考になるものと思います。自分が求める方向性に新たな気づきがあるかもしれませんよ。

 

 

20142

真山 仁グリード 上』講談社

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真山さんは大学を卒業後長らく新聞記者、フリーライターとして活躍された後、2004年『ハゲタカで作家デビューされました。後にドラマ化されるましたので、映像でご覧になった方も多いものと思います。その真山さんの最新作です。

この真山さん、あるインタビューで「サラリーマンが国際社会を生き抜くために必要なのは、<ビジネスは道徳ではない>ことを肝に銘じること。ビジネスは金儲けで、目的に達するお金を儲けられた人が成功、それだけのリターンを得られなかった人が負けです。法律のフェアさは必要ですが、善悪を挟む必要はありません。善悪という概念を持ち込むと、最初から交渉に負けることが前提になる。日本人はビジネスを道徳で語るから負けるのです」と語っています。昨今はビジネス・スクールでも倫理を教えるようになっていることは本書評でもご紹介してきたところではあります。が、現実の世界での欧米ビジネスマン、あるいはヘッジ・ファンドなんぞで働いている方々のがめついさまってのは、私のような草食系日本人には想像もつかない、正に肉食系の迫力、というか本書の題名にもなっている貪欲さ(グリード、Greed)を感じます。いやあ、ああいう人たちと仕事するのは本当に大変。

真山さんは気鋭の経済小説家ではありますが、経歴からも金融商品、デリバティブ商品の専門家というわけではなさそうです。むしろ私のほうがこの分野では専門家に近いと思います。そのせいか、金融商品などのトレーディングの説明で、いまひとつしっくりいかないものを感じました。間違っているわけではないのですが、現場でトレーディングしている人間にとっては違和感のある説明をしている個所がいくつか目についてしまいました。

ただし、それが小説の魅力を損なっているかというと逆で、一般の方々には読みやすく、面白いエンターテイメント作品に仕上がっていると思います。小説は教科書じゃないんですからね。面白く読みながら知らない世界の知識を得られる、私の好きな蘊蓄小説になっていると思います。一気に読了しました。

日本人がアメリカ相手に大暴れ。どうです、読んでみたくなったでしょう。

 

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若杉 冽原発ホワイトアウト』講談社

 

現役のキャリア官僚が書いた告発ノベルとして話題になりました。若杉さんのメッセージは明快です。このままでは「原発はまた、必ず爆発する」

「原子力規制庁のなかには、政治の圧力に負けず、活断層上の原発は廃炉にすべきだと思っている課長補佐がいる。資源エネルギー庁のなかには、電力料金の査定では個々の調達価格の短歌にまで切り込んで、電力会社の連とを極小化すべきと思っている企画官がいる。電力会社の中にも、自由化した環境の下で低廉で質の高い電力を供給し、競争条件下でも打ち勝つ「普通の会社」にしたいと思っている社員がいる。マスコミのなかにも、スポンサーの圧力に負けずに公正中立な報道をしたいと思っているディレクターがいる……」にも関わらず、そんなことは絶対に実現しません。こうしたどちらかといえば若年層の上に、局長や次長、社長だ編成局長だという年代も上の人間がのさばっているからです。

社会保障の改革が進まないのだって既得権を盾に団塊の世代とか何とかがのさばっていて、1ミリたりとも改革が進むのを許さないから、なんじゃないですかね。なんたって彼らはもらい得の世代、若い人たちは高負担低リターンの世代。

ところで、本書は現在進行形の事件をベースにしていますので、読後感が非常によろしくないのが難点ですね。小説として良くないと言っているのではありません。小説としてはとても良くできていると思います。そうではなく、現在の日本は本書が示唆している泥沼のような救いのない世界へと突き進んでいるのではないか、と暗然たる気持ちになるからです。

とはいえ、そのような現実を見据え、私たちとしては何ができるかを考えなくてはならないのではないでしょう。今からでも遅くはない、と思いたいところです。

ところで、特定機密保護法は無理やり可決されました。若杉さんは大丈夫なんでしょうか。

 

 

アンドレアス・ロイズ 田口美和訳『悪魔の取引』阪急コミュニケーションズ

 

著者のロイズさんは金融業界において公認会計士、ゴールドマン・サックスの証券アナリストなどで活躍されたそうですが、出身校のリーズ大学とケンブリッジ大学で英文学、英語学を専攻していたといういささか変わった経歴の持ち主です。現在は金融・投資トレーニング会社「Learnflow」を経営されているそうです。

本書はアンドレアス・ロイズという著者と同じ名前で同じ経歴を持つ人物が巨額な国際的詐欺事件に巻き込まれるという体で描かれる金融界を舞台にしたミステリーです。ロイズさん自身の経験を生かしたと思われる金融界の内幕のあれこれは、私自身の経験からしてもうまく描かれていますし、ファクトとフィクションがシームレスに紡がれています。実に面白い。

ということで、本書は金融、それも結構ディープな世界について、ミステリーを読んでいるうちに詳しくなるように解説されています。また、各所に“case study”という金融関係の小話というかゴシップが挿入されているのですが、これが結構面白かったですねえ。多分、退屈な講義の箸休めとして実際に使われているのでしょうが、普通の新聞には書かれていないようなディテールが満載でした。いやあ、世の中には悪い人がいるもんですねえ。

 

 

稲田 将人戦略参謀』ダイヤモンド社

戦略参謀 経営プロフェッショナルの教科書

戦略参謀 経営プロフェッショナルの教科書
価格:1,680円(税込、送料別)

“マッキンゼーの実践派”が満を持して放つ企業改革ノベルだそうですので、読んでみました。

稲田さんは実際にマッキンゼーにおいて幾多の大手企業の企業改革を成功裏に手掛けられた方だそうです。まあ、コンサルタントなんて方々は若くして企業の経営者などと対峙して、“あなたはこうすべきです”なんて偉そうに言う立場ですので、虚勢でも何でもいいから勢いがある人が多いような気がします。私なんぞは宮仕えが長くて、揉み手をしながら“社長、さすがですね”なんて言うしか能がなかったので、どうもこの手の威勢の良いバリバリMBAなんて方々は苦手ですねえ。新興宗教の教祖様を思い出しちゃいます。

本書は一応小説のような体裁をとっていますが、要所々々に解説が挿まれています。ただし、小説のような体裁をとっていることからも分かるとおり、非常に高度な理論を取り扱っているわけではありません。“もしドラの世界観でしょうか。

ところで、経営学には正解がないといわれます。というか、ひとつの正解がいつでもどこでも通用するわけではなく、現場の数だけ正解がある、と言ったほうがよいかもしれません。ただ、目指すところはわりと共通していますので、そのようなエッセンスをとりだしたのが経営学ともいえます。ただし、エッセンスだけを取り出して教えちゃうと講義がすぐ終わっちゃいますからね、時間をかけてそのエッセンスに気付かせるカリキュラムを色々工夫して作り、高い金をふんだくるわけです。手を替え品を替えひとつのネタでなるべく長く商売を続けるなんてのは商売の基本だな。

じゃ、そのエッセンスってのは何なのか、って言うと、“当たり前のことをきちんとやる”ってことに尽きるんじゃないでしょうか。あ、これ言っちゃっていいのかなあ、私だって経営学をかじった人間ですからねえ。ま、それはともかく、今までうまくいっていたのにうまくいかなくなった、なんて場合、やはり己の置かれている状況を冷静に省みなくてはいけないようです。

こんな場合、以前ご紹介した西條さんの構造構成主義の分析手法が役に立つんじゃないでしょうか。構造構成主義の原理は西條さんの著作を読んでいただきたいと思いますが、簡単に言ってしまうと、何をするか、なんてことを決めるときに重要なのは、目的と状況があって手段が決まる、ということなのだそうです。そして、“目的”と“状況”と“手段”のそれぞれが相互作用をしているのです。目的は変わらなくても状況が変われば手段は変わる、取れる手段がひとつしかなく、状況が変わらないのであれば、目的を替えるしかない、などなど。

とはいえ、そんな分析ができるのは冷静に己を省みられる場合だけ。人間も企業も反省が大事なようです。ね、当たり前の結論でしょ。

 

 

20141

原作:ダンテ、訳構成:谷口江里也ドレの神曲』宝島社

 

本書評で何度もご紹介したドレのシリーズです。今回はダンテの『神曲』。ダンテの『神曲』はルネサンスを喚起したともいわれるエポック・メイキングな作品で、世界史の教科書にだって登場する超有名な作品です。でも、読んだことないんじゃないですか、ということで、ドレのビジュアル版で楽しむことにいたしましょう。

まず、原作者のダンテですが、1265年、フィレンツェで金融業を営む小貴族の家庭に生まれたそうです。文学作品の中で本人が語っていること程度しか論拠がないのではっきりとはしませんが、ラテン語、修辞学その他の教育をきちんと(当時としては高度な教育でしょう)を受けたものと思われます。成長の過程でベアトリーチェ(神曲にも登場します)との出会いと別れ、成人後は政治抗争の結果としてフィレンツェからの追放(1301年、追放後の放浪期間中に神曲は書かれました)などがあり、1321年ラヴェンナで客死しました。ま、地獄も煉獄も天国も経験した波乱万丈の人生ですね。で、この人生そのものが『神曲』のモチーフになっています。

ところで、本書の解説によると、ダンテは世界で初めて地獄や天国はどんなところなのか(文字で)描きだした人間なのだそうです。してみると、その世界をビジュアルに再現して見せるドレの試みは非常に論理にかなったことであるといえるでしょう。そしてそこには、われわれ日本人ですら地獄や天国としてイメージしているあれやこれやがビジュアライズされています。地獄や天国のイメージは洋の東西を問わないのでしょうか、それとも私たち(私だけ?)のイメージに西洋的なものが刷り込まれてしまっているのでしょうか、あるいは文化の東西交流というものは非常に深いところにまで及んでいるのでしょうか。

この『神曲』ですが、日本人である私たちが思い浮かべるような物語ではなく、三行詩の連続として書かれています。本書でも、そのイメージを生かす工夫が随所にちりばめられています。ドレの挿絵と共に楽しんでいただけるのではないでしょうか。

本書にダンテの嘆きの言葉として「戦乱に明け暮れるイタリアよ、かの地にがいなかったとは言わせぬ。フィレンツェお前もだ。朝な夕なに法を作る。掟で平和が守れるか、正義正義と騒ぎたて、さばき、追い出し、うまくいかねば新たな法だ。わがままな病人と同じことだ。痛い苦しいと寝返りを打ち、それをベッドのせいにする。なおすべきはお前の体だ!」人間、まるっきり進歩していませんね。

 

 

原作:ジョン・ミルトン、翻案:谷口江里也『ドレの失楽園』宝島社

 

続いてはミルトンの『失楽園』です。ミルトンもダンテと同じくルネサンス期の作家・詩人ですが、ダンテからは400年近く後の人間です。

ミルトンは清教徒革命の時代に革命側の人間として活躍しましたが、その後過労により失明、そして反革命によって革命派は権力の座から追われるなど、栄華盛衰を経験しているところはダンテの生涯とも共通するものがあります。また、ケンブリッジ大学クライストカレッジで学士号を取得していますので、当時としては高い教育を受けていることも共通しています。

『失楽園』の物語は蛇に唆されたアダムとイヴが、神の言いつけを破って「禁断の実」を食べ、エデンの園から追放されるという聖書は創世記でおなじみの物語が下敷きとなっています。ですが、主人公はアダムとイヴではなく、同じく神に逆らって地獄に落とされた堕天使ルシファー(本書では美貌神ルチフェル)です。地獄に落とされたルシファーは大魔神デビルとなって甦り、再び神(本書ではオウエイ)に戦いを挑みます。それにしても、天使のくせしてなんで神に逆らっちゃったの、ということがダンテと同じく叙事詩の形式で描かれています。

ところで、ダンテの『神曲』では「訳構成」をしたことになっていた谷口さんが、本書では「翻案」をしたことになっています。ここら辺の事情は谷口さんの書かれた「あとがき」を読んでいただきたいと思いますが、簡単に言ってしまえば翻訳というよりは谷口さんが新しい解釈と創意工夫を凝らした舞台とか劇、あるいは映画として再構成してみました、ということなのでしょう。でも、私は本書を読んで意外にも感動してしまいました。ぜひご一読を。

 

 

阿刀田 高源氏物語を知っていますか』新潮社

 

阿刀田さんの「知っていますか」シリーズ、今回は源氏物語。源氏物語ってものすごく高名ですし、教科書なんかにも良く取り上げられていますので、部分的に読んだことがある方がほとんどだと思います。が、全部読んだ、ってのは谷崎純一郎や瀬戸内寂聴の現代語訳(その他円地文子、田辺聖子、橋本治などなど)を読んだ方か、大学で源氏物語を専攻した、なんて方ぐらいしかいないんじゃないですか。長いし登場人物の行動はいまいち意味不明(だって当時と現在の常識が違いすぎるんだもんね)だし、肝心のエロイ場面はよく分かんないし。源氏物語の中で重要な意味を持っているはずの和歌の意味だってよくよく解説読まなきゃ分かんないですからねえ。本書では阿刀田さんが代わりに読んでくれて、要領よく解説までしてくれます。至れり尽くせり。

それにしても光源氏ってやつはいけすかない野郎ですねえ。「深い教養や嗜みの良さ」を備え、人相見に聞けば「この若君は国の第一人者として天皇の位にふさわしい相をお持ち」だ、なんて言われます。踊りも歌謡管弦も、さらには絵まで名人。しかもすごいイケメンで粉をかけた女はイチコロ。“MMK”(もてて、もてて、困る)だと。あっちでもこっちでもお手付き。この野郎、調子こいてるんじゃねえぞ。ま、しかし、こんな若者が順調に出世して帝になり、徳をもって世を治めました、なんてんじゃ小説にはなりませんからね。いろいろあるわけです。

でも、源氏物語というのは世界初の近代小説だ、なんて言われてもいるんです。確かに、いわゆる神話だ何だはそれまでにもあったかもしれませんが、現実のバックグラウンドで架空の主人公が活躍する、なんていう今では普通の小説の設定を備えた物語(要するに小説)ってのは珍しいかもしれませんね。阿刀田さんも「小説の揺籃期にいきなり近代文学のモチーフと構造を備えた大作」と最大限の評価をしています。

源氏物語には歌あり踊りあり大恋愛あり悲恋も涙もあり、ときには笑いもあり、ミステリーやホラーだって入っています。無いのはアクションぐらいでしょうか。日本が誇る大河小説の大傑作源氏物語全五十四帖、を阿刀田さんの解説でお手軽に味わえます。いやあ、面白かった。ぜひご一読を。

 

 

城 一夫常識として知っておきたい「美」の概念60』パイ インターナショナル

 

今月ご紹介している本とはいささか趣が違いますが、やはり“常識として知っときたい”洋の東西の「美」の概念を分かりやすく解説をしている本として本書をご紹介しましょう。

洋の東西、ということではありますが、誌面の制限もあるのでしょう、西洋編としてはアルカイックからポストモダンまでの46の概念を、日本編として花鳥風月から萌え(!!!)までの14の概念を紹介しています。古今東西のあらゆる「美」の概念、というわけではありませんが、これぐらい知っていればまあ充分なんではないの、あとはご自由に好きなものをどうぞ、という趣向でしょうか。

西洋編と日本編の間に本書の内容をコンパクトにまとめた年表が載っていますが、これだけを見ていても結構面白いと思います。願わくば、ヨーロッパと日本以外の地域、具体的にはイスラームと中国(あとはアメリカ大陸やですか)の歴史・芸術年表も載せていただきたかったですね。肌の色は多少違うにせよ同じ人類という種が居住しているってことは物理的に人間が移住して行った、ってことですもんね。移住できた、ってことは、その後も何らかの交流があった、と考える方が自然なんではないでしょうか。同じ種の動物が考えることなんてそんなに違うわけではありませんので、あっちの人間はこんなことをやっている、なんて聞いたら、すぐに「俺もやってみよ」って思うだろうし、そう思えばできちゃいます。かくして人間、あっちでもこっちでも似たようなことをやってたんじゃないですか。そんなことが分かるのが年表です。

非常に多くの図版を掲載してありますので、場合によっては図版だけをぱらぱらとめくっていく、などという楽しみ方もできるかもしれません。手元に置いておけば、芸術関係の簡単な辞書として使えるかもしれません。図版本なのでちょっとお高いですが、手元に置いて損はない一冊だと思います。ぜひご一読を。

 

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